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騒乱の日々も終わり ③

 シェリーがついにマクシミリアンに会いに行くと言うので、ネージュは一人で帰宅の途についた。どうやら一人で会うべきだと考えているらしく、付いて行こうかと申し出たのを断られてしまったのだ。

 大丈夫かなと気を揉みつつ一人で夕飯を頂戴する。カーティスは仕事が忙しいようでまだ帰ってきていない。

 供されたものを全て平らげて食堂を出たところで、ブランドンと行き合うことになった。


「レニエ様。お食事はお口に合いましたか?」

「はい、凄く美味しかったです! こちらで頂いたもの全部、どれも本当に美味しかったですよ」

「それは料理長が喜びます。後で伝えさせていただきましょう」


 寮の修繕が終わったということで、ネージュは明日の朝にこの屋敷をお暇することにした。

 既に使用人たちには挨拶をしてある。彼らは一様に残念がっていたが、またお戻りになる日を楽しみにしていますと言って笑ってくれた。


「ブランドンさんには本当にお世話になってしまいました。ずっと気にかけて下さって、本当にありがとうございます」

「おや、何をおしゃいます。あなた様は当家の奥方様になられるお方でございますれば」


 いつかのようにブランドンが笑う。ただしその台詞の内容には馴染みがないネージュは、さっと頬に紅を差してしまった。

 ブランドンはその過剰な反応に言及することなく、笑みを深めて首を傾げるに留めてくれた。




 ネージュは借りていた客間の中を念入りに確認していた。忘れ物でもあれば迷惑をかけてしまうので気をつけなければならない。

 浴室、ドレッサー、クローゼット。一つ一つチェックを終えてようやくデスクへと到達する。持ち込んだペンと紙の束があったので、それも鞄の中に収めた。

 そうして最後に一番上の引き出しを開けると、例の金魚の飴がちょこんと収まっている。


「……ふふ。やっぱり、食べられないなあ」


 カーティスとの関係が変わった今でも宝物であることに変わりはない。割れたり曲がったりしては大変なので、何かに包んで鞄に入れなければ。

 大事に手に取った時、扉が音を鳴らして来客を告げた。

 ブランドンだろうか。ネージュは特に何も考えずに扉を開けてしまったのだが、そこには予想外の人物が立っていた。


「ただいま、ネージュ」


 カーティスは騎士服姿のままだった。ブランドンに渡したのか外套こそ着ていないものの、どう見ても今帰ってきたばかりという風体だ。

 驚いたのと心臓が主張を始めたのとで、ネージュはいつものごとく顔を赤くしてしまった。しかしどう挨拶を返すべきなのかは幸いにも身に染み付いていたらしい。


「お、かえりなさい……?」


 なんとかそれだけを呟くとカーティスは溶けるような笑みを浮かべた。

 疲れているだろうに様子を見に来てくれたのだろうか。ネージュは胸が痛くなって、とても落ち着かない気持ちになった。


「一人で夕食を取らせてすまなかったね」

「とんでもありません。今日のお食事も大変美味しかったです」


 そんなことを気にするこの方こそ、夕飯はもう食べたのだろうか。

 問いかけようとしたところ、カーティスの視線が手元に注がれている気がしてふと視線を落とす。そこに金魚の飴を握り込んだ己の手を発見して、ネージュは心の中で天を仰いだ。

 またやってしまった。飴を後生大事に抱えているだなんて、きっと子供っぽいと思われたに違いない。


「いえあのこれは……!」

「ああいや、飴が苦手なら無理をすることはないよ。むしろもっと良いものをプレゼントしたいな」


 カーティスが鷹揚に微笑んでそんなことを言い出したので、ネージュは更に慌ててしまった。彼は普通ならがっかりするような誤解をしたというのに、何故そうもあっさりと笑ってくれるのだろうか。


「そうではないんです! これは宝物ですから、食べないことにしましたのでっ!」


 子供染みていると思われようと、悲しい誤解をされるよりは余程いい。これをもらった時にどれほど嬉しかったか、伝えることなど到底できない程なのだから。


「……まったく。どうしてそんなに可愛いことばかり言うのかな」


 長い足で一歩を踏み出したカーティスは、そのままネージュを腕の中に閉じ込めてしまった。

 彼の背後から扉が閉まる音を聞いたネージュは、いつのまにか部屋の中に二人きりになったことを遅ればせながら悟る。


「閣下……!?」

「おや? 呼び方、戻してしまったのかい」


 柔らかな低音がつむじをくすぐった。咎めるような言葉に反比例するように、溶けそうなほどに甘い声。


「……カーティス、さん」

「ああ。ネージュ」


 背中に回されていた手のひらの片方が頭の後ろに移動して、そっと髪を梳き始めた。

 心臓は相変わらず痛いほどに鼓動していたが、緊張と恥ずかしさと幸せは、それぞれ同じだけ大きかった。

 手にしていた金魚はちょうど頬のすぐ隣にいるようで、視界の端にキラキラと輝いている。その紅色に背を押されるようにして、ネージュは強張る体から少しずつ力を抜いていった。

 カーティスは腕の中の体が少しだけ身を預けてきたことをどう思ったのだろうか。

 ごく小さなため息に切なさが混じっているような気がした。その意味を確かめる前に、彼はネージュを抱きしめたまま後ろに体を傾がせて、扉に背を預けるようにした。


「本当に寮に戻ってしまうんだね。寂しくなるな」


 微かな間の後に話し始めたのは、部屋の様子を見てのことだったのだろう。

 彼の声が僅かに沈んだように聞こえたのはネージュの勘違いだったのかもしれない。なぜなら髪を梳く手つきは壊れ物に触るように優しいままなのだから。


「本当はここにいてほしい。けど、帰ってきてくれるんだろう?」

「は、はい……」

「うん、今はその約束だけで十分だ。私は君の考えを尊重したい。ゆっくりとでも私と共にいる時間に慣れてくれたなら、とても嬉しい」


 ああ、やっぱり。彼はこの戸惑いをわかっていたのだ。

 カーティスはネージュにとってずっと尊敬する騎士団長閣下だった。恋人同士になったからと言ってすぐに気安い態度を取ろうとは思えなかったし、そもそもこの幸せ自体に実感が湧かないときている。

 こんなにも不甲斐ないところを見透かしておいて、カーティスはただ頭を撫でて許してくれるのだ。一体どれほど甘やかせば気がすむのだろうか。


「……はい。カーティスさん」


 名前を呼んだら頭上の空気が少しだけ揺れた。それがカーティスが幸せそうに微笑んだゆえのことだとは、この時のネージュが気付けるはずもなかった。


「気が向いたら夕飯を食べにおいで。いつでも構わないから」


 カーティスが明るく言う。だからネージュも悪戯っぽく笑って小首を傾げた。


「そんなことをおっしゃると、本当に毎日来てしまいますよ?」

「もちろん大歓迎だ」


 するとあっさりと肯定され、ネージュは声に出して笑ってしまった。カーティスの冗談は優しくて好きだなと思う。


「冗談ではないのだけど……あとは、そうだな。休日には一緒に出かけようか」

「そ、それって……! デート、ですか?」

「世間一般にはそう言われているね。引き継ぎで忙しいかな?」

「いいえ、休日に出るほどでは。あの、楽しみにしています……」


 抱きしめられたまま話をしていると少しずつ彼の体温に慣れてくる。胸は高鳴って仕方がないのに、同時に安堵を感じるのだから不思議だった。

 ふと気付いたネージュが、ところで夕飯は食べたのかと言い出すまで、静かに交わされる会話はしばらくの間続いた。

 今がどれほど幸せか伝わればいいのにと、お互いに同じ想いを抱きながら。


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