新境地の疑念
気分が高揚し過ぎているティナと、落ち着いてはいるものの初めて訪れた甘いひと時を少しでも長く味わいたいジン。二人の身体はそのまま永遠に離れることがないようにも思われたが、それは突如として終焉を迎えてしまう。
我に返ったティナが一気に顔を赤くすると、ジンに背中を向ける形で慌てて後ろに飛びのいた。
「ごっ、ごごごごめん!」
「あっ、いや……」
正直ずっとそのままでも良かったジンは非常に残念そうな表情だ。しかし最近の流れだと「変態」だの「気持ち悪い」だのと言われてしまうので、その気持ちを言葉に出すようなことはしなかった。
「…………」
「…………」
二人の間には恥ずかしいような気まずいような、けれどとても嬉しくて温かくてふわふわするような。そんな不思議な空気が流れている。
その時顔をあげたティナが、地面に落ちている何かに気が付いた。
「ぴーちゃん?」
いつもの肩乗りサイズに戻ったフェニックスはまるで死んでいるかのように、翼を広げたまま白目をむいて横たわっている。ティナが近づいて指でつついてみるも反応はない。
それに気付いて歩み寄って来たジンが、フェニックスを指でつまみあげながら呆れ顔になってつぶやく。
「何やってんだこいつ」
『それは……恋人たちの理想郷……』
「ぴくぴくしてるし生きてはいるみたいだな」
フェニックスは先程目の前で繰り広げられた、過度に甘味成分を凝縮させた光景に耐え切れず失神してしまったのである。
途中までは巨大化したり叫んだりして気を紛らわすことで何とか意識を保っていたが、あと一歩のところで限界を迎えてしまったらしい。現在、彼の意識は恋人たちの理想郷なるところにあるようだ。
とはいえ、そんなフェニックスのおかげでようやく落ち着いて来たジンはその場に座り込むと、会議の時から抱いていたある懸念を口にした。
「なあ、ティナ」
「ん?」
「エリスのことなんだけど」
「そうなんだよね……」
ティナも同じことを心配していたのか、ジンの言葉の途中でその意を捉えたように返事をする。
魔王討伐の為にミツメを発ってから現時点で一日が経過しているし、これから休養を挟んで天界へ行き、アカシックレコードを破壊して戻って来るには最低でも更に一日はかかるだろう。
そうなると、エリスを必要以上に心配させてしまう可能性がある。他の城関係者はどうでもいいというかそもそも心配するかどうかすら怪しいが、とにかくエリスに連絡くらいはしてやりたいと言うのが二人の考えだ。
「ソフィア様は、今回のことは下界のやつらには知らせるなって言ってたよな」
「うん。でも……」
俯きがちに目を伏せたティナに、ジンは笑顔で声をかける。
「とりあえず一旦寝て、後で相談してみようぜ」
「そうだね」
そうして二人はそれぞれの部屋に戻り、眠りについた。
数時間後。目を覚まして魔王城での朝風呂を堪能した二人は、ソフィアが使っている部屋を訪れた。扉を叩いて「どうぞ」という返事を確認したティナが中に入って行くと、ジンもそれに続く。
ソフィアはテーブルに据えられた椅子に腰かけていて、二人の来訪に頬を緩めながら口を開いた。
「こんにちは。ジン君、ティナちゃん。何かお困りごとですか?」
一見して慈愛に溢れる女神にしか見えないソフィアだが、実はこの時点ですでに風呂上がりのティナに心を奪われていた。
(こっ、これが風呂上がりの美少女。ほのかに上気する頬、ただよう甘美な石鹸の香り……素晴らしい)
「困りごとと言いますか、相談事があるんです。今お時間よろしいですか?」
「はい。永遠に大丈夫です」
おずおずと尋ねるティナに、ソフィアは屈託のない笑みを浮かべてそう答える。
「永遠に? えっとあの、ソフィア様は昨日他の人たちにこのことを教えてはいけない……って仰ってましたよね? でも、どうしても教えてあげたい子がいるんです。その子は私たちにとっても大切な存在で、今もきっと私たちのことを心配してるんです。ですからその子にだけでも、教えてあげちゃだめですか?」
必死に相談しようとするティナは、ソフィアに対して上目遣いでお願いごとをしてしまっていることに気付いていない。そして風呂上りという要素が加わったせいもあり、その威力は倍増されていた。
「う、うう。だめですよティナちゃん、そんな……そんなことしたって、いつも私が簡単にいうことを聞くなんて、あるわけないんですからね」
「へ?」
そっぽを向いて横目で自分の方を見ながら、頬を朱に染めつつも拗ねたように唇を尖らせるソフィアに戸惑いつつも、ティナは追い打ちをかけるように更に一歩前に出て顔を近付け、手まで握りながら懇願する。
「お願いしますソフィア様。私に出来ることなら何でもしますから」
「いいでぶはっ!」
「ソフィア様!?」
私に出来ることなら何でもする――――。
風呂上りと上目遣いと。本人も与り知らぬうちに発動したティナの必殺コンボをくらったソフィアは、鼻血を盛大に噴き出しながらその場に倒れてしまった。
以前グランドコーストにてソフィアの似たような姿を見たことのあるジンは何が起きたのかを察し、呆れ顔になる。
「あ~……ティナ、気にすんな。言葉尻が切れてはいたけど、ソフィア様はいいって言ってくれたみたいだし」
「そ、そうなのかな。あっそれより治療しなきゃ!」
慌てて回復魔法の使える者を探しに行こうとするティナの肩をジンが掴む。
「待て待てティナ。そこまでする必要ないって。とりあえず血だけ拭いてベッドに寝かせたら、さっさとキースに声をかけてミツメ王城に連れていってもらおうぜ」
「たしかにすごく幸せそうな顔してるけど……じゃあ、そうしよっか」
ジンの提案通り、二人はソフィアの身体についた血をざっと拭ってからベッドに横たわらせておいた。
安らぎに満ちた笑顔を浮かべたソフィアの寝姿はさながら、全てをやり遂げてこの上ない達成感を得たまま往生を遂げた一人の戦士のようだ。
一仕事を終えた二人は女神の部屋を後にし、急ぎでキースの使っている部屋へと向かう。
ところだったのだが、部屋を出て数歩分駆けた時点で背後から声をかけられた。
「話は聞かせてもらった」
まだソフィア様以外には話してないのに、と二人の心の声が一致する。振り向くとそこにはやはりと言うべきか、金髪あご髭大男が立っていた。
忌々し気に眉をひそめながらジンが悪態をつく。
「何でこんなところにいるんだよ」
「そんなことはどうでもいいじゃないか。それより急ぎなのだろう? このお兄ちゃん史上最高のお兄ちゃんの力が必要なので、これから探しに行くところだったのではないのか?」
口の端を吊り上げて下卑た笑顔を作るキースに、ジンはうめき声をあげることしか出来ない。
「ぐっ……」
悔しいが事実であった。もしこれからエリスに会いに行くのなら、フェニックスを使うのはなるべく避けた方がいいからだ。
ソフィアの言う通り、まだアカシックレコードの及ぼす力が持続している世界のまま「魔王は実は敵ではありませんでした。和解しました」などと民衆に発表すれば、混乱が起きることはまず間違いない。
アカシックレコードを破壊するまで、勇者パーティーは魔王を討ち果たすべく魔王城へと向かったまま、まだ帰って来ないという状況であるべきであって、堂々と人目につく方法でエリスに会いに行けば、まず「魔王を倒したのか」という質問を受けることは避けられないだろう。そうなれば嘘をつくのが下手なジンとティナのもと、ソフィアの懸念が現実のものになってしまうことは容易に想像がつく。
背に腹は代えられない。今一度この男を「お兄ちゃん」と呼ばなれければならないのか――――諦観の念と共に口を開こうとしたのを、ティナの言葉が遮った。
「そうなんです! お兄さん、私たちをエリスちゃんのところまで連れていってくださいっ!」
「何っ!? 私はお前のお義兄さんではない!」
ティナからお兄さんと呼ばれたキースは、自分の中で新しい何かが芽生えそうな感覚に戸惑いつつも、反射的にそれに抗った。その行動が「ジンに嫌われないようにあえて仲良くしよう作戦」の逆をいってしまう態度にも関わらずだ。
お義兄さん……何とも新鮮な響きだ。たしかにジンとティナが結婚すれば、自分はそういう立場にはなる。とはいえ、それでティナを可愛がるかどうかというのは別の話だ。
自分がジンを可愛がっているのはジンだからであって、弟だからではない。同様にティナを義理の妹だからという理由だけで可愛がる気は毛頭なかった。
だが、実際にお義兄さんと呼ばれた時のこの気持ちはなんだ? 私は、この感情に正直になるべきではないのか?
困惑するキースに、ティナは更にたたみかけていく。
「知ってます! だから私が言っても聞いてもらえないかもしれないですけど……お願いします!」
「くっ、仕方のないやつだ。準備はもういいのか?」
「あっ、ちょっと待っててください! 急いで行ってきます!」
そう言ってティナは自分の部屋がある方向へと駆けていく。
ティナの頼みを冷や汗をにじませながら受け入れたキースを、ジンはぽかんと口を開けたまま見つめるしかなかった。




