思い出は夏のいたずら
彼女と過ごす最後の夏。正確には彼女がカナダへ留学する前の、高校最後の夏休み。
ぼくたちは去年訪れた海岸へ遠出する事になった。夏休みといえど特別どこか行きたいところがある訳でもなく、なにより人混みの苦手なぼくは、むしろどこへも出掛けたくなかったくらいだった。
それでも、最愛の彼女からのお願いを無下に出来ず、海へは近寄らないし入らない、という事で譲歩してここまで来た。
去年も彼女が突然言い出した小旅行だった。だけど大きく違うのは、去年は九月も終わりの頃だった事。七月の海は彼女の白い肌を焦がすというのに、彼女ときたら日焼け止めクリームも塗らずにパフスリーブのブラウスから細長い腕を曝している。
「さっきのコンビニで買えばよかったのに、ぼくがうたた寝してるうちに飲み物しか買ってこないなんて……。そんなに焼けたいのか?」
「違うわ。焼けたら焼けたでいいのよ。あなたこそ不健康な顔色しているのだから、少し焼けた方がちょうどいいのではなくて?」
「焼けたくはないけど、不健康だなんて言われるくらいならちょっとくらい焼けてもいいかもな……」
苦笑いしながら窓の外を見る。彼女の走らせる車は、どうも安全運転過ぎて逆に怖い。かといってそこを指摘すれば、負けず嫌いの彼女の事だからムキになってスピードを出し兼ねない。ぼくから言わせればどちらにしても取り立ての免許で出掛けること自体が恐怖の始まりだけど……。
せっかくの小遣いも、レンタカー代でほぼ半額飛んでしまったし……。思い出作りなら他の安上がりなところでもよかったじゃないか、とは口にしないでおこう。
「蒼、もうすぐ着くからもう寝ないでね?」
「寝ないよ。茜にばっか運転させてるんだし。起きたら天国でした、ってオチはごめんだしな」
「あら、私と一緒に天国へ行けるのが嬉しくないとでも言いたいのかしら」
「……はいはい。運よく一緒に死ねたらだけどね。どっちかが生き残るんならごめんだよ」
なんともまぁ縁起でもない冗談を平気で話すのだろう、ぼくたちは。だけどそれもお互いを信頼しているからこそのブラックジョークだという事は、三年以上も付き合っていれば暗黙の了解。
欠伸を噛み殺しながら運転席の彼女の横顔越しに見える海を眺めた。真夏の太陽に照らされてキラキラと輝いている。眩しくて目を細めていると、信号に差し掛かってスピードを緩めた彼女がちらりと目をよこしてきた。
「逆だったわね」
「何が?」
「覚えていないの? 去年、帰る時に話したじゃない。『今度はあなたの運転する車で行きたい』って」
「あー、でもそれはまさか今回の話しだって訳じゃなかったろ。一月生まれのぼくが免許取れるのは半年も先なんだし。ご所望なら取れたあとでまたいつか連れてきてあげるけど?」
「ふふっ」
彼女は一つ笑っただけだった。どういう意味だよ、と表情を窺う。だけど彼女の目はすでに青信号に向いていた。
二十分程前に買ってきてくれたミネラルウォーターもすでに温くなっている。ぼくがそれを手に取ると、ボトルはぺこんと音を立てた。彼女のストレートティーも陽を受けてホットティーになっているんじゃなかろうか。ボトルホルダーの中でゆらゆらと揺れている。
「あれ……? もしかして、つぶれた?」
キツネに摘ままれたようだった。ぼくの視界ではお目当ての建物が跡形もなく消えていたのだ。遠くからなので文字までは読めないが、赤い看板が更地の真ん中にぽつんと立てられているだけだった。
「あの民宿、かなり年季入っていたものね……。去年も飛び込みで泊まれたから予約入れなかったけれど、空室確認の問い合わせくらいした方がよかったわ……」
「……ね。まさか廃業してるとは思わなかったし。どうする? 海へ行く前に宿探しする? どこもいっぱいだったらそれこそ車中泊か日帰りかだし」
「そうね。私は運転しながら探してみるから、あなたはスマホで周辺のお宿探してみてくれる?」
「オッケー。……それにしてもツイてないなぁ」
思い出の宿の廃業に後ろ髪引かれつつ、ぼくは足元のリュックからスマホを取り出した。時刻は八時。日照りが容赦ないわけだ。車内ですら腕がジリジリしている。
「高いな……。やっぱりシーズンだから値段だけでも調べる気が失せる。空室マーク付いてるホテルはどこも一泊一万以上だよ。ぼくたちの予算じゃ泊まれない」
「そうね。出せても一万二千ってとこかしら。素泊まりでいいのだから、一か所くらいあるでしょう?」
「一万二千かぁ……」
唸りながら検索を続ける。海が近付くにつれて潮の香りが鼻をかすめた。一度どこか日陰で休憩しながら探そうかと提案しようとしたけれど、彼女の事だからきっと走らせ続けるだろうと思って言葉を飲み込んだ。
「あそこは?」
ハンドル片手に彼女が指差した先には、今となっては珍しい立て看板が電柱に括りつけられていた。それは少し異様な光景で、海辺のリゾート地というより住宅地の端くれのようだった。
白い立て看板には墨字で『民博、有ります』と達筆で書かれていた。それはまるでお通夜の道しるべを連想させる。ぞわりと鳥肌が立ったぼくが彼女に視線を送ると、彼女もまたこちらをちらりと一瞬だけ見た。
「不気味じゃない? わくわくするわね」
「悪趣味だな。さっきのブラックジョークの通りになるかもだぞ?」
「あら、私はそれでもいいわよ? あなたとなら天国でも地獄でも」
「はいはい。茜に任せるよ。どうせぼくの意見なんか聞かないんだろうし」
「ふふっ、失礼ね」
と言いつつ怒るわけでもなくご機嫌な様子の彼女。看板にある矢印の通りにウィンカーを出して民泊とやらを探し出した。
徐々に細い路地に差し掛かってくる。民泊というくらいだから家主の空き部屋を改装したものか何かなのだろう。ぼくの頭には古くて不気味な武家屋敷しか浮かばなかった。
「あれね。思ったより綺麗そうだけど」
先程と同じ字体で『民泊、有ります』と書かれた看板が門に立てかけられている。確かに、確かに間違いはなさそうだし想像よりもはるかに綺麗なのだけど……。
「ほんとにここ、泊まれんの?」
遠くで見ても近くで見ても、どう見ても小さな空き家。部屋を持て余した屋敷を想像していたものだから、一家四人が慎ましく住んでいそうな小ぶりさに不安が過ぎる。本当に泊まる部屋があるのか、と。
「いらっしゃい。お二人?」
ドキリとして声のする方に振り返ると、そこには背の低いお婆さんが立っていた。古ぼけたねずみ色の着物に白髪、どう考えてもオカルトちっくな出で立ち。思わず半歩後ずさってしまった。
「えぇ。お部屋、空いてますか?」
「空いてますとも。お嬢さん方になら喜んでお貸ししますよ。さぁどうぞ、案内しましょう」
「ありがとうございます。蒼、行きましょう」
彼女は平然としている。小さな一軒家にも不気味なお婆さんにも動揺していない。むしろ彼女が慌てている姿の方がレアではあるが、ここまでけろりとされると正気を疑いたくもなる。
お婆さんの説明のまま、彼女は庭とも呼べない雑草だらけのスペースに車を停めた。彼女がチャラチャラとキーをかけている間、お婆さんは玄関の前でじっとぼくを見つめていた。ぼくは視線を感じつつも怖くて目を合わせられず、気付いていないふりをしてただ建物を見上げていた。
「新しい家ではありませんが、ほとんど使っていなかったものでしてね。掃除はマメにやっておりますし、水もガスも問題なく通っておりますよ。シーツは後程お持ちしますのでお待ちください」
「ありがとうございます。私たちは一休みしたら海の近くへ出掛けますので急ぎません。夜までにいただければ結構です」
「そうですか。わたくしははす向かいのボロ屋におりますんで、何かありましたらなんなりと……」
そう言ってお婆さんはぼくたちを小さな家の中に案内した。掃除は行き届いていると言っていたけど、家の中は蒸し風呂のように暑かった。窓は雨戸が閉まっているらしく照明のスイッチも手探りで探し当てるしかなかった。
「なんだ……。思ったより綺麗だな……」
思わず呟いた。灯りを点けるとオレンジ色の照明が柔らかく部屋中を包んだ。右奥にはキッチンが、左側にはバスルームらしき扉が、そして正面には小ぶりな四人掛けテーブルの置いてあるリビングがある。ざっと見る限り家電製品は旧式の物が目立つけれど、ここまで掃除が行き届いているのだから使えなくはないのだろう。
背後では彼女がお婆さんと玄関で何か話している。ぼくはさっそく一つ一つ雨戸をと窓を開けて回った。
「蒼」
バタンという音と共に彼女の呼ぶ声がした。振り返るとお婆さんの姿はもうなかった。彼女は肩にかけていた荷物をリビングの隅に置くと一息入れてから話し始めた。
「お二階に寝室があるんですって。着替えは上に置いてくる?」
「いや、まだいいよ。茜は少し休みな。換気ついでにぼくが持っていくから。……それより、宿代は? 金額も聞かずに決めちゃってさぁ」
「一泊三千円、ですって……。なんだか申し訳なくなる安価よね。二泊するなら五千円でいいと言われたけれど……」
「な、なんだよその安さ……。それじゃあまるで……」
いわく付き、って言われてるようなもんじゃないか……。
「誰も住んでいないのがもったいないくらいね。民泊と言わず借家か売りに出すかしたらいいのに」
「借り手も買い手もいないから民泊にしてるんだろ。それか手放したくない理由でもあるのか。民泊ってそんなもんなんじゃないのか? 第一おかしいだろ、作りは新築ではなさそうだけどほとんど使用感がない。なのに誰も住んでないってどういう事だよ。それに、その安すぎる宿泊料、変なもんでも出るか事件現場でもない限り破格過ぎる」
「ふふっ、期待してもきっと何も出ないわよ。もっとも、私は見えないものを感じているけれどね」
「えー……」
蒸し風呂のようだった部屋に、全開にした窓から生暖かい風が入ってくる。鳥肌の立った二の腕を摩りながらクーラーのリモコンを手に取ると、彼女はくすくす笑って椅子に腰掛けた。からかっているのだろうけど、この状況じゃシャレにならないくらい真実味があるので気味が悪くなる。
「蒼、はす向かいのお家へ行ってお宿代払ってきてくれる? 領収書はいらないと言ったのだけれど、お婆さんが『書いてくるからお代はその時でいいですよ』と受け取ってもらえなかったのよ。せっかくだから二泊していく? 二泊しても予算よりずいぶん安いし」
「えー、ぼくが行くのー? ……分かったよ。だけど二泊は出来ないよ。レンタカーは明日の夜八時までしか借りてないんだから」
「そうだったわね。ざーんねん」
彼女は全く残念そうな素振りも見せず、楽しそうにバッグから荷物を取り出して整理をし始めた。飲みかけのアイスティーを冷蔵庫にしまう横顔には笑みさえこぼれている。浮かないのはぼくだけらしい。彼女のテンションを半分分けて欲しいくらいだ。
しぶしぶ玄関を出ると頂点に差し掛かった太陽が容赦なく照り付けていた。ぼくらは海に入りに来たわけではないのに、なぜこんな暑い時に来てしまったのか……。大きなため息をついて財布をポケットにしまう。さっさとクーラーの効いた部屋に戻りたい、そればかりを考えながらはす向かいの家を訪ねた。
「ごめんください……。宿泊料をお支払いにきたのですが……」
お婆さんの言う通り、正直ボロ屋以外のなにものでもなかった。今時インターホンすらないとは初体験。恐る恐る開いた玄関の引き戸がガラガラと重苦しい音を立てた。
「お泊りの方でしたか。わざわざすみませんね」
お線香の煙のようなくすぶった匂いがする。すっと開いた襖の向こうからお婆さんが顔を覗かせた。見慣れたせいなのか構えていたせいなのか、先程までの不気味さは全く感じられなかった。
「いえ。当てにしていた民宿が廃業していて困っていたところだったので助かりました。これ、一泊二人分で……六千円で大丈夫でしたか?」
「えぇ、ちょうどいただきます。領収書、少しお待ちくださいね……」
「いえ、特に必要ないんで。では、失礼します」
彼女の家さえもほとんど行く機会などなかったぼくは、人様のお宅に上がるというだけで手に汗をかいていた。軽く会釈をして玄関の戸に手をかけると、お婆さんは領収書の束から一枚ぴりぴりと切り離して再び問い掛けてきた。いらないのに……そう思いながらも戸に掛けた手を放した。
「宛名は?」
「あぁ……えっと、ナルミで。成長のセイに海、で成海です」
「成海……様ですね……」
ぼくが黙っていると、お婆さんは不慣れな手つきで宛名を入れ、「お待たせしました」と差し出してきた。コンビニのレシートすらも断るので領収書なんて多分初めて手に取ったかもしれない。ぼくはもう一度軽く会釈をしてそれを受け取った。
「つかぬ事をお尋ねしますが、お嬢さん、お歳は?」
「え……じゅ、十七ですけど……。あ、でも連れは十八です。……なにか……?」
「そう、ですか……。いえね、いなくなった娘のお友達にあまりにも似ていたものですから……」
「いなく、なった……?」
お婆さんは小さく頷いて悲しげに微笑んだ。初めて見る笑顔だったのに、それはとても切ない笑顔で胸がぎゅっとなった。
黙ったままのお婆さんを放って失礼するわけにもいかず、ぼくは何て言ったらいいのか分からなくてそっと視線を逸らした。
「娘とは高校時代からの親友でしてね、我が家にもよく遊びに来ていました」
徐に口を開いたかと思うと、下駄箱の上に飾ってある花瓶の後ろから写真立てを一つ取り出した。娘さんだろうか、写真には花嫁さんが一人写っている。綺麗な人だった。とても幸せそうに微笑んでいる写真なのに、なぜ花瓶の影に隠していたのだろうか。いなくなってしまった娘さんを思い出すのが辛い、そういう事だろうか。
「幸せなんて親が押し付けるものではなかったのかもしれませんね。三十路を過ぎても嫁にいかない娘の事が心配で……お見合いなんかさせなきゃよかったんです……」
「……でも、この写真は幸せそうですけど……」
「親思いの子だったんですよ。主人を早くに亡くして女手一つで育てたものですから、『お母さんは何も心配しなくていいよ』と逞しい言葉さえ恥ずかしげもなく言える子だったんです。もっとも、最終的には大きな心配を一つ置いて出ていってしまいましたがね……」
ぼくの手の中ではさっき貰ったばかりの領収書が湿ってふにゃふにゃになっていた。お婆さんの辛い身の上話をこのまま聞いてあげた方がいいのか分からない。こんな時、彼女ならどうするだろうか……。
「孫も産まれる予定だったんですよ……。無事に産まれていれば、もう五歳だろうか……。最初はマタニティーブルーってやつでふさぎ込んでるのかと思ってたんですがね。どうして気付いてやれなかったんだって、ずいぶん自分を責めましたよ、母親なのに、ってね……」
「ぼくの……うちの母親は弱い人でしたから、母親だからって完璧でなければならないってのは違うと自分は……思います。完璧じゃない母親だってたくさんいるはずです」
「……」
「偉そうに言ってすみません……」
シンと静まった玄関に、遠くから雨戸を開ける音が響いた。彼女が二階の換気をしているのかもしれない。少し話し込んでしまったから心配させてしまっただろうか。ぼくは思い切って立ち去る事にし、深々とお辞儀をしてお婆さんの家を後にした。
外は相変わらず日差しが厳しかった。薄暗い玄関にいたからだろうか、目の前がチカチカする。ぼくは少し瞼を閉じてから今夜の宿を見上げた。
雨戸の音はやっぱり彼女だった。小さなベランダから海の方を覗いている。あそこから見えるのだろうか。目を輝かせて少女のような笑みを浮かべている。
「あなたと……成海さんと言ったかしら。成海さんとあの方も親友なんですか?」
いつの間に背後にいたのか、振り返るとお婆さんも彼女を見上げていた。ぎょっとしたぼくが思わず首を竦めると、お婆さんはスッと何かをこちらへ差し出してきた。
「ま、まぁ……そんなとこです。大事な……存在というか……」
言ってるそばから顔が火照っていく。自分で口にしたくせに、暑さではない汗も額に滲んできた。ぼくはそれが恥ずかしくて、手首でグイッと拭いながら顔を叛けた。
「思うように生きたらいいですよ。一度限りの人生だもの。親や世間体を気にしていたら、きっと大人になってひどく後悔をしてしまう。彼女、大切になさい……」
お婆さんはそう言ってぼくの手に一枚の紙を握らせた。そしてそのまま黙って家の中へ消えていった。何が何だか分からず手の中の紙を開こうとすると、遠くでぼくを呼ぶ彼女の声が聴こえた。
「蒼」
「……うん。今帰る」
帰ろう、彼女のもとへ。ぼくは後悔したくないから、彼女の側を離れない。
今夜は、この夏は、ずっと、これからもきっと……。
「遅かったわね。世間話でもしていたの?」
「……まぁ、そんなとこかな」
「ふふっ、いわくつきの理由でも聞いていたんじゃないでしょうね?」
「まさか」
いわくつきなんかじゃないよ。ここは娘さんの帰る家だから。
握らされた紙は四つ折りに畳まれた手紙だった。何の絵柄も模様もない殺風景な便箋に、お世辞にも綺麗とは言えない文字でこう書かれていた。
『トロントの一月は思ったより寒いよ。部屋探しにだいぶ時間かかっちゃったけど、月末にはそっちに迎えに行くから。日本も相当寒いだろうから、お腹冷やさないように暖かくして待っててね。ここならきっとお腹の子も喜んでくれると思う。私も頑張って働くから、愛情たっぷりに一緒に育てていこう。子育てに関しては私が先輩なんだから安心してね。日本に帰ったらまた連絡するよ。愛してる。すみれより』
ぼくはやっぱり、母さん似らしい……。
「蒼?」
「ん? あぁ、そろそろ海辺へ行ってみようか。茜にとって留学前の最後の夏だから、うんと味わっておかないとね」
「ふふっ、大げさよ。カナダにだって海はあるんだもの、あっちで一緒に暮らしたら嫌という程連れて行ってあげるわ」
きっと母さんもこんな風に、二度目の結婚をしたんだろう……。
今度こそ幸せになっていてね、母さん。