唐突な姉のお話
唐突だが、俺には五つ離れた〝柏木星〟という姉貴がいる。一言で表せと言うのなら〝変人〟という言葉がしっくりくる。鮪のように常に動いていないと死んでしまうような変人だ。小さい頃から無駄に元気で五月蠅くて、面倒くさかった。でもそれが姉貴の良さだったのだと気づいた頃には、もう姉貴は俺の隣にはいなかった。忘れもしない五年前の春、入社式から帰ると机に桜の便箋が置いてあった。〝凛空も大丈夫そうだからちょっと世界で働いてくるよん。大家さんには迷惑かけないように。姉より〟腹の立つ文字でそう書いてあった。正直な感想としては馬鹿なのではと思った。否、馬鹿なのだ姉貴は。この文章が何よりの証拠である。
一人になった薄暗い部屋を見渡す。姉貴がいた頃の騒々しさも、狭かった部屋もそこには無かった。ようやくゆっくりできそうな気がした。しかし胸の中には何か思っていることとは違った感情があった。寂しさなのだろうか。寂しいと思ってしまっては何かに負けたような気がする。何も考えずに布団にもぐってさっさと寝ることにした。不気味なぐらいに静かな部屋では、思ったよりも眠れなかった。
あの日から五年が経って、外は雪が降っている。そして無理に慣れようとしていた部屋の中にも小さな白が目立つようになった。小雪を拾ってから一週間。何事もなくゆったりとした正月を送っていた。年が明けてテレビの向こうでは謹賀新年だとか何とか楽しそうだ。そんな人たちを横目にしながら俺と小雪は遊んでいる。最近の小雪は寝る時間が少し短くなり、俺と一緒に遊んでいる。こんな日々がずっと続いて欲しいなと思うのは自然なことだと思う。だがしかし、俺が甘かった。一週間続いただけで奇跡に近かったという事を、俺はこの後身をもって知ることになる。姉貴からの電話。これが俺と小雪の〝正月〟を破壊する。
「あ、凛空?今から私そっちに帰るからよろしく」
####
十二月三十日アメリカ
世間が年越しに向けて着々と準備している中、私は何もすることなくフラフラと歩いている。空を見ればまるで、私の心を映し出しているかのような曇り空だった。かわいいかわいい弟を一人日本に残してもう五年。正直とても辛い。一日顔を見ないだけでも辛いのに、五年も会っていない。辛すぎて発狂しちゃいそうだ。それでも帰れない理由がある。世界的ファッションデザイナーになってがっぽがっぽ稼ぐのだ。そして少しでも楽させてあげたい。
なんて勢い良く飛び出したものの、最初の一年は右も左も分からなかった。英語の日常会話は出来る。しかし本場の英語は日本で習ったものよりもスピードも速く聞き取れない。言葉のマシンガンが私のライフゲージを削っていった。何回も帰ろうと思った。だけどその度にディスプレイの凛空が笑いかけてくれた。だから私は一生懸命頑張れた。英語も少しづつ耳を慣らしていった。三か月もあれば今まで習ったことを少しずつ発揮できるようになって、会話も徐々にできるようになった。それから、街中に貼ってある広告なんかには片っ端から応募していった。応募するだけでは生活できないから、アルバイトをしたり、自分で作った服を路上販売したりして何とか食いつないだ。そんな生活を二年間続けていると、ある日スーツを着た如何にも偉そうな人に声をかけられた。
『Excuse me? Did you make all?』
『Yes,I did. I've made these for five years.』
『Really? If you want,would you like to work in my company?』
『I'd love to work!!』
スーツを着た偉そうな人は本当に偉い人で、ある有名ブランドの社長さんだったのだ。名刺に書かれている会社名はテレビや街中でよく見るそれだった。マンションに帰る途中で何回も、これは都合の良い夢なんじゃないかと疑って、頬をつねったりした。。だけど私は確かに名刺を持っている。それが何よりの証拠だ。だけど信じられなかった。いきなり上手くいき過ぎて、逆に怖くなった。逃げるように布団を頭から被って、寝ることにした。翌朝起きても名刺は確かに在って、ようやく私は昨日のことを信じることが出来た。顔を洗ってから名刺に書いてある番号に電話をかけた。
それから三年間たくさんのデザインをした。そのうちの大半はボツになったりもしたけど、アイデアはたくさんあり困らなかった。一着売れるだけでお金が入ってきて嬉しかったけど、何より私のデザインを買ってくれたことが嬉しかった。今までは凛空といれば幸せだったけど、働き初めてようやく、私は腹の底から幸せだと言えるようになったのだと思う。
だけど最近は少しスランプ気味である。鉛筆を握っても、前のように紙に線が引けない。頭の中にはぼんやりとイメージがある。だが、形にできない。形にできないという事はクリエイターにとって、致命的な事である。交渉して少しだけ休暇を貰った。意外とあっさり貰えてしまった。あまりにもあっさり行き過ぎて、私はクビなのかなぁなんて思った。そもそも三年間しっかり出来たことが奇跡に近いのだ。これ以上望めば罰が当たってしまう。
休暇を貰ってから二日後の今日、フラフラと適当に歩いていたら会社から電話が来た。電話に出たのはなんとあの時の社長だった。これはいよいよクビかな。深呼吸して何を言われてもしっかり受け止めようと腹をくくった。そして私は衝撃的な一言を聞いたのだ。
「あぁもしもし、光君ですか?お久しぶりですね。聞けば最近スランプらしいじゃないですか?大丈夫です?」
「……社長一つ良いですか」
「はい?」
「あんた日本語話せるんかい!」
思わずそう言ってしまった。だって最初会った時バリッバリ英語しゃべってた人が急に日本語喋りだすんだよ?そりゃ突っ込んでしまうよ。仕方がない。内容としては日本支店が出来るから、そっちで働いてくれないかとのこと。自分の耳を疑った。しつこいくらい何回も確認して、私は五年前から疑い過ぎではないかとも思った。だけど確かに日本支店で働いてくれと言ってくれた。不意に頬が濡れて、空を見上げた。雨は降っていない。そう、私は泣いていたのだ。クビにならなかった安心感と、日本に帰れるという期待感が混ざって涙になったのだ。こんな顔見せたら凛空には何て言われるだろう。泣くなよって、馬鹿にされそう。日本支店で働くことは寧ろ有難い限りなので、こちらこそと、五年前声をかけられた時以上に力を込めてお願いした。
今はまだスランプから抜け出せていない。淡い期待なのかもしれないけど、日本に帰れば何か変わるかもしれない。早速私は帰国準備をするために意気揚々と引き返す。気がつけば厚い雲は姿を消し、太陽が照っていた。やっぱり私は晴れた空が好きだ。
社長の唐突な電話からさらに三日後、私は日本に着いた。久し振りの日本は何故だか、安心感があって心地いい。アメリカの空気とちょっと違った空気。これが私の母国なのだと実感できる。和やかな雰囲気と和気あいあいとした人々の会話は、正に日本の和の象徴なのだと思える。良い意味で全く変わってない。
さてさて、では最愛の弟に五年ぶりの連絡をしようじゃないか。驚くといいなぁ。いやきっと驚くよね。だって五年間も連絡してないんだもん。今まで見る事の無かった電話帳の一番上を押す。
「あ、凛空?今から私そっちに帰るからよろしく」