4.
「くそっ! まだまだ!」
「もう一回だ! バーチャルファイター!」
(凝りねえなコイツらも)
今日も俺はバーチャルファイターとしてストリートファイトに取り組んでいた。
内心そろそろルーチンワークに慣れてきて飽きてきたころ、俺はもう既にオートランの最適化作業を六回は終了させていた。毎日のようにストリートファイト。最初の頃こそは自分に賭けて儲けていたが、今はもう賭けで儲けることが出来なくなった。俺の負けに賭ける人がいないのだ。
なので俺はもう、観客の皆様からお捻りを貰って生活している。小銭や安い札が投げ込まれる。それをフリッカがせっせと拾い集める。
フリッカの手錠? もう外したが、その代わりフリッカの行動パターンも俺がオートランで指定しているので、小銭を拾うこと以外の行動は殆ど許されていない。取りあえず彼女は現在、便利な小銭拾いの女の子だ。ちなみに設定では『バーチャルファイター・アキラの娘』ということになっている。
俺はフリッカの言葉を思い出していた。バーチャルファイターとしての認知バイアス。
確かに、魔力の充実を感じるのだ。
俺が『バーチャルファイター』として名声を手に入れて以来、俺がバーチャルファイターとして振る舞うと、魔力の恩恵を受ける。認識の恩恵を受けるようになったのだ。
バーチャルファイターは突然消える、バーチャルファイターは鋭いパンチを繰り出す、バーチャルファイターは何度殴られても立ち上がる。だから俺は突然消えるほどに素早く、鋭いパンチを打てるほどに腕が強く、何度殴られても立ち上がれるほどにタフになった。
俺は『バーチャルファイター』になっていることを感じ取った。俺は今はヒーローだ。アカイアキラだ。日頃は抜けたところがあるけど、家族の愛を胸に抱えて社会の悪を薙ぎ倒すストリートファイターだ。
『フリッカ』
『何パパ?』
『ヒーローって言うけど、むしろこれってただの格闘ジャンキーだと思うんだが』
『気にしない気にしない!』
ネット連動型のコンテンツ。俺は今ヒーローショーをしている気分になっている。スラムも徐々に活気づいているようで、俺は今やスポンサー持ちの身分になった。
俺は無職じゃなくなった。俺は今やスラム近くで違法ぎりぎりのグレーな商売をして、酒や鶏肉を売っている企業『La Cosa Unione』と提携している。そのスポンサーは結構羽振りが良く、俺の個人情報を特に詳しく探ってはこない。きつい契約魔法を縛ってくるかと思ったがそうでもなく俺程度の技術で契約書をちょろまかせた。
要は俺にとって最高に都合がいい状況だ。
「くそ! もう一回行くぞ!」
いま俺が戦っている、諦めのわるいこの冒険者もこっちのサクラである。
彼は設定では『新米ファイターノボル』。元々は悪役であり、社会に蔓延る怪人軍団「ジャッカーズ」の新米下っ端だったが、『バーチャルファイター』と何度も戦うにつれて改心、悪役を捨てて今は主人公に弟子入りしている熱い男である。
今俺は『新米ファイターノボル』に稽古を付けている、という設定で何度も彼をボコしているのだ。
そろそろ敵役が登場するはずだ。今回の敵役は確か『マッドバイソンだよ!』と思い出す前にフリッカが教えてくれた。マッドバイソン、激怒している牛の怪人。もうそろそろでステージに出てきてもいい時間だ。打ち合わせでは確かノボル君をあと一回倒したらやってくるはずだ。
突如。シャクハチ・バンブーフルートが鳴り響いた。
朧月夜メロディー。辺りに暗雲が立ち込め、月光が雲から薄暗く差してきた。今はまだ十分昼だというのに、辺りは神秘めいて夜深いウシミツ・アワーを様相していた。
これは間違いない。マッドバイソンだ。「誰だ!」とノボル君が鋭い声をあげる。ありがとう茶番劇。音楽の演出も、それとなく緊張感のあるものに変わる。スポットライトが観客の周りをぐるぐると回り、そのままステージから少しはなれた所へと向かっていく。
そうだ、あの屋台だ。屋台の上に彼がスタンバイしているのだ。腕を組みながら不敵なポーズで仁王立ちをして、こっちに向かって飛び込んでくるのだ。
見間違えもしない、あの紫の衣装。口元を紫のケープで覆い、髪を後ろで結わえて紫の頭巾と飾りで頭蓋を守っている。その鋭く爛々とした瞳は、暗殺者のそれを思わせる。
服装はどうだ、胸元をサラシで捲いてそれの上から鎖帷子を着込んでいるのにも関わらず、女性的な括れと曲線美を表している。スリットの鋭く入ったスカートからは、サンクチュアリ・ナマアシが覗いており、ワイヤータイツの防御性とエロティシズムの両立を思わせ、正にナデシコ・ビューティフルである。
ああ間違いもしない、彼女はマッドバイソン――。
(じゃねえーーっ!?)
『!! え、嘘、え、早過ぎる……』
嘘、はこっちの台詞だ。アイエエエッ!? ニンジャナンデだ。はっきり言うと目の前の女は、世を忍ぶアッパレ・クノイチだ。
早い話が彼女は『紫の魔術師』ツキヒメ。極彩色魔術師の一頂点、紫の号を持つ大魔術師。世界で八人しかいない極彩色を許されておきながら、暗殺術のエキスパートで、スイーパー(掃除人)としても優秀、諜報工作員としても優秀。魔道流月詠派のミコ・ソーサレス。世界でも唯一の免許皆伝のグレート・ニンジャにしてアッパレ・クノイチ。
俺は固まっていた。何故彼女ツキヒメがここに。脳内に警鐘が走る。しかし体が強張ってすぐには動かない。どうすればいいか。一旦感情制御を立ちあげてパニックシンドロームを消化させる。トラブルシューティングに約〇.五秒、遅い、遅すぎる、命に関わるコンマ五秒だ。
「お、お前は誰だ! 出たな怪人! この俺ファイターノボルが退治してくれる!」
新米ノボル君も必死にアドリブを効かせてくれる。何とかこのステージ事故、普通の一連の演出ということで丸く収めたいところ。観客全員は、これを演出だと思ってくれている。ありがたい。感情制御もオールグリーンを示している。今の内にスイーパーに連絡して、彼女を片付けて貰わないと――。
「一つ、人の世の生き血を啜り」
突如彼女はステージのほうに躍り出た。その軽やかで残像さえ残さない足運びは、正に忍術めいており。
「二つ、不埒な悪行三昧」
ファイターノボル君を一撃で仕留めるアッパレ・クノイチ。飛びかかるノボル君の腕を払いのけ、顔面を裏拳で叩き喉にエルボー鳩尾にキック、クナイを四本それぞれ肩と膝に突き立ててノボル君の関節を制する。
「三つ、醜い浮世の鬼を」
スイーパーたちが駆けつける。しかし彼女はいとも簡単にスイーパーを無力化する。足払い顎撃ち掌底、回し蹴り、背負い投げ、空中前転からの踵落とし。これほど鮮やかなジウ=ジツを俺は他にみたことがない。彼女こそマスター・タツジン。
「退治進ぜよう、ヤマト・ツキヒメ」
ステージが戦慄した。
嘘ではない。殺気と死の匂いに空気が一瞬で変わったのだ。
彼女は激昂している。社会の悪を憎む本物。彼女こそがニンジャ。世の悪を影で抹殺する、現代社会の恐怖の代名詞。大和月姫。
『フリッカ、逃げろ』
『だめ、パパ、逃げて』
『いいか、ここから先は呪術と格闘の飽和戦になる。身を守れないなら死ぬ』
『だめ! パパ逃げて! 逃げて!!』
俺は覚悟した。極彩色の魔術師が戦うと、それは一種の代理戦争なのだ。国家と国家の戦い。
「いざ、参る!」
「キャスト・オン!!」
サイバー化されたマナマテリアルがファイバーを構成し俺の体を包む、刹那目の前の空間が弾け、紫の死線が接近する。キリングフィールドが冗談じゃない速度で迫っており、二人を分け隔てる物はもう、置き去りにされた常識しかない。
「臨・兵・闘・者・皆・陳・裂・在・前! 九字護法! オン キリキリ ハラハラ フダラン バッソワカ オン バサラ トシャカク!」
「cast(Full_Buttle_Orchestra); cast(Clock_Up); shift(MIMO_ptfm);」
Battle_Orchestraのバフ魔術が俺を底上げしClock_Upの魔術がセパレートコアのMagi_Processing_Unit(MPU)のクロック周期を早める。Multi_In_Multi_Out_Platformにシフトさせ魔術投影器Magi_Casterを多入力多出力に変える。
ほぼ同時に、ツキヒメは既に九字護法に身を包み、KANJIキャラクター九字呪文を体に捲きつけ、全属性魔術耐性と肉体強化を同時に済ませていた。
能力底上げは魔術戦闘の基本、すでに両者は必殺の準備に入っている。
拳一閃。
俺の右ストレート。あえなく、合計二回の手甲の払い退けで上へ横へ流される。
俺のがら空きの胸部へ彼女の戦慄するようなマッハパンチが差し込まれた。深い。確実に俺の心臓は刺し貫かれた。
否、幻想だ、俺の心臓は健在だ。だが間違いなくあのツキヒメの正拳は、まともに食らっていたら俺の命を終わらせていただろう。仮想の世界では、あっという間に俺は死んでいた。
何が俺を助けたか。
魔法障壁に食い止められた拳。プリセットカウンター魔術Counter_Impulseが紫の魔術師の手の中を走り、はっきり彼女を痺れさせた。俺の隠し切り札その一。胸にヒットした紫の魔術師の拳は、正確にはヒットするすんでのところで俺の魔術障壁に疎外された。そこを狙って、紫の魔術師の腕に走る強烈なカウンター魔術。相手を痺れさせるスタンの一撃だ。
勝った。いや。
俺は即座に彼女の太股を蹴り後方に大きく飛び退いた。目の前を走る太刀一閃。
オダブツだ、このまま後ろに飛び退かなかったら、頭をばっくり行かれていただろう。アイツ、Counter_Impulseを喰らっても即座に立ち直ったというのか。俺は驚愕していた。彼女は口布の奥で不敵に笑んでいる、気がした。
「お主、出来るでござるな」
「cast(Luminous_Dancer.apm); cast(Auto_Run.apm, auto_style); auto_style = style('Jiu_Jitsu', '-append');」
紫の魔術師ツキヒメは夜に溶けた。本当に溶けたのだ。気配は掻き失せ姿も見えず、ただそこにあるのは死を思わせる静けさのみ。胸をきりきり駆け上がる焦燥。今か、数瞬後か、はっきり分からないが死の気配が俺を苛む。
彼女はいつもこうだ、不定形だ。分からないのだ。東洋太古めいたオリエントシャーマニズムの妖しさが、彼女に対する知覚全てを狂わせるのだ。ノスタルジック民族的、ジャポニズム的な白と闇のコントラスト、彼女は明鏡止水だ。全てを映し返す鏡にして、遥かに静かな水面なのだ。
水面が揺れた。
常時展開型魔法障壁に重ね、緊急展開型魔法障壁をキャスト。同時に信じがたい衝撃が走る。彼女の日本刀が魔法障壁を六回も叩いたのだった。叩いたというよりは半分貫通したという表現のほうが正しい。彼女のムラマサ・ブレードは物質透過の魔術。斬るという概念の塊。俺の絶対障壁の概念とぶつかりコンフリクトを起こして衝撃を起こしたのだ。そして、六回通り抜けた。俺は本来なら六回死んだのだ。それを緊急展開型魔術障壁が辛うじて防いだのだ。
全く出鱈目だった。
宗教や神話カルチャーの何が性質が悪いかというと、こういう物理的に不可能なことを当然として起こしてくることがいけない。何が物質透過だ。ボースアインシュタイン凝縮でも起こしているのか。じゃあニホントー・ブレードとかやらはゼリー状物質ではないか。これだから不条理のミスティックシャーマンは苦手だ――。
「Ippon!」
俺は叫ぶ。バーチャルファイターが相手を一撃ノックアウトに導く華麗な技を決めるとき、毎回「Ippon!」コールが入る。俺の正拳はツキヒメの鳩尾をクリーンヒットしていた。クリーンヒットさせたのだ。Ippon!コールの魔術的意味は現実を解釈させなおす、紫の魔術師ツキヒメがIppon!取られたかのように。
実に理不尽、正に魔術的。ツキヒメは吹き飛んだ。壁に体をしたたかに打ち付けた。構図は固まった。俺が勝者で彼女が敗者――。
『パパ危ない!!』
フリッカの悲鳴が脳裏に響いた。
「一本返しにござる」
俺の影に彼女はいた。現れた。反則のワープだった。瞬時に俺は、蹴飛ばして左肘をぶちかました。弾かれた。洒落にならない速度のニーバット裏拳払いのけが有機的に俺の攻撃を弾いた。一歩詰め寄られて俺は、世界が回った。
背負い投げ。本物の一本だ。「ぐっ」と思わず声が出る。
背中が砕けるかと思った。
呼吸すらままならない。強すぎる衝撃は手足の指先を痺れさせた。脳が鮮烈な一撃でくらくらする。俺は地に伏せていた。ツキヒメの背負い投げは、下手すりゃ殺人の威力があった。
景色が衝撃で一瞬グレーアウトする中、俺の視覚が戻らぬままに、俺は即座に跳ね起きた。
「なっ!?」と叫ぶツキヒメ。【オートラン】はツキヒメに強烈なアッパーカットを食らわしていた。俺の手足はマリオネットのように動いた。彼女を吹き飛ばした実感があった。
「お、お主……」
何がなんだか分からない、という口調だ。俺は精一杯強がって答えた。
「ブラジリアン・ジウ=ジツはボクシングと相性がいい。これは俺の経験則」
appendモードでジウ=ジツstyleを取り組んだだけで、ボクシングはもとよりプリセットされている。バーチャルファイターは試合毎に最適化される。学習知能の戦闘補助だ。Auto_Runはただキャストするだけじゃなく、学習知能なのだ。DeepLearningを応用し深層レイヤでパラメタを評価することで自動学習するのだ。
それゆえに鮮やかなジウ=ジツwithボクシング。このような不意打ちだってお手のもの。代償らしい代償は、まあ体を無理矢理動かされてる分俺が痛いってだけ。超痛い。今更ようやく視界がうっすら戻ってきたって感じ。やべえ、ツキヒメの一本背負い超痛え。
ツキヒメは動揺しているようにみえた。いや、肩を怒らせているのか。一層瞳の鋭さが増した、気がした。
「何が……」
「?」
「何が、ジウ=ジツでござるかーっ!!!」
突如彼女は変貌した。
やたらめったの我武者羅の乱舞。避けるのも受け流すのも【オートラン】。一部受けきれず打撃を受けて、ひるみそうになるほど痛む。同時に【オートラン】は相手の隙を見つけて自動的に殴打しツキヒメをぼこす、ぼこす、ぼこす。俺の意思を離れて体が動いている分、俺はとんでもなく痛い。
「ブラジリアンって何でござるか! ブラジル!? 柔術でござるよ! ブラジル関係ないでござるよ! 柔術は日本でござる!」
「おま、ちょ、落ち着け、こら! グレイシー柔術に何か文句でもあるのか?」
まず日本もブラジルも存在しない。この世界『揺りかごの庭』ではとても大きな揺りかごが存在しているが、そこには日本やブラジルのような地球は存在しない。彼女の発言はその意味で非常に危うい。メタリアリティだ。彼女のジャポニズム・アイデンティティは世界の異なるメタコンテクストを引用することでの呪術なのだ。
ツキヒメは知っている。日本とブラジルを。地球のコンテクストを。そして同時に、日ノ本の国も赤い木の国ブラジルも両方ともこの『揺りかごの庭』に存在しないことを。
「それにボクシング! 柔術にボクシングは美学に反するでござる! 打撃技を使いたいなら古流柔術らしく! せめて空手で戦うでござる! 魔術も使用するとかインチキにござる!」
「うるせえ、バーリトゥードに美学もルールもあるか」
暴れる彼女をいなす俺。そろそろ打撃も蹴りも単調になってきたというか感情的でワンパターンになってきたというか。【オートラン】が完璧に全てを受け流し始めて、ようやく戦闘に対して適応制御が可能になってきたようである。
「最後に! 柔術、でござるっ! 何がジウ=ジツ、でござるかっ! ジウって! ジツって! 何でござるかーっ!」
「発音上の問題だよ、ジュージュツって何だよ! モンゴロイドの発音の複雑怪奇は効率が悪いんだっつーの」
ツキヒメは魂から叫んでいた。心の底からのシャウトだ。余程内心で怒っていたのだろう。ジウ=ジツという発音方法にお冠のようだ。別に問題ないと思ってしまうのは俺が効率論者だからだろうか。別に馬鹿にしているつもりはないのだが。
そんなこんなのうちに。
ついにツキヒメを捕らえる。学習が追いついた。【オートラン】は既に敵の単純な運動を解析し終え、脅威レベルが低下しいつでも必殺技に移行出来ることをダッシュボードで知らせていた。レベルが追いついた、という意味の捕らえた、だけではなく、物理的にもツキヒメを捕らえた。ブラジリアン柔術はむしろ打撃技に乏しい分、掴みと寝技にアドバンテージがある。故に、背負い投げはコピー可能な習得可能技術の一つでしかない。
「捕まえた」
「なっ」
腰からばねのように力を乗せて一気呵成、体の軸点を基点にツキヒメを背負い込み、遠心力ごと投げる。嘘みたいに力の抵抗もなく、しかし地面に叩きつけるすんでのところで手に真っ直ぐかかる負荷は間違いなく背負い投げ。
インパクト。ツキヒメをはっきり捕らえきった。この一撃はまごう事なきクリーンヒット。ツキヒメを地面に思いっきり殴りつけ、彼女の「かはっ」という声を聞いて、俺は実感した。
これぞ一本。
地に伏せたままのツキヒメは苦しげだった。だが何かを感じ入るようでもあった。一瞬彼女は遠い目をしていた。何かを思い返すようであった。しみじみとした口調で彼女は呟いた。
「……これは、一本でござるな」
「ああ」
「一本取られたでござる」
なあ、と彼女はゆっくり立ち上がった。
「弟子に一本取られるとは、拙者もまだまだでござる。そう思うであろう? 朱の魔術師殿よ」
「気付いていたか」
怒っていたかと思いきや。ツキヒメは俺の正体に気が付いていたようだった。怒りに我を忘れてがむしゃらな攻撃を仕掛けていただけではないのだろう。いや、超単純でがむしゃらな攻撃だったので案外怒りで我を忘れていたのかも。まあいい、どっちにせよ彼女は気付いたのだ。電子光で包まれた謎の半透明ファイターが俺だと。
ツキヒメは汚れた体を叩き払って、土ぼこりを落としていた。
「自動学習は本気で卑怯でござるよ」
「そうか」
「一回試しに投げられて分かったでござる、拙者の動きを殆ど同じレベルで再現できているでござる」
「試しに投げられたのかよ、本気を出せば投げられなかったとでも」
「もちろん、回避する手立ては幾らでもあったでござる」
ツキヒメはやれやれ、と言わんばかりの表情であった。いや、表情は口布のため見えない。だがきっとそんな表情を作っているのだろう。元々極彩色の魔術師として同僚をやってきているのだ、それぐらいは分かる。
流石にアッパレ・クノイチ、幾らでも抜け出せたのだ。忍術、という便利な魔術がある。その原理は複雑怪奇、アニマの力だとか寄り代の霊格だとか言われているが知らない、とにかく忍術は膨大豊富で不可思議で、彼女ツキヒメは今の背負い投げぐらい抜け出せる忍術を擁していた、というだけだ。
その上で投げられたのは意味があるのだろう。
ツキヒメはそのまま何かを認めたように何度か頷いていた。
「お主はもう、立派な黒帯でござる」
「そうか」
「もう満足でござるよ」
そのまま背を向けて立ち去ろうとする。あっさりした幕引きだ。いきなり現れて殺しに来たかと思うと、またいきなり立ち去る。何だこれは。
「ちょ、待てよ」
「いや、十分でござる」
「いやそういう意味じゃなくて、まず何で俺を襲った」
「ジウ=ジツ。ネット小説でみたでござる。それを見た瞬間、お主かどうか確かめねばと思ったでござる」
「ああ、なるほどな」
ちら、とフリッカの方をみた。彼女は信じられないような表情で青褪めていた。何があったのだろうか、まあいい。
そういえば。フリッカが上げていたネット小説に「ジウ=ジツ」の表記があったのを思い出す。柔術。知っている人間ならば真っ先に反応するだろう特別なターム。柔術という言語と概念は、この世界に存在しなかった。ツキヒメと俺だけが知っている単語のはずだ。地球からの転生者しか知らないはずなのだから。
その単語がネット小説で出てきたら、それは確認しないといけない。新たな転生者がやってきたのかも、という予想も出来る。或いは俺が転生者だとばれた、とか、俺がうっかり地球のことを話してしまった、とか。色んな予想は付くが、どれも確実に良い物ではない。
だからツキヒメは来たのだ。
納得する俺を他所に、「それと」と言いながら振り向くツキヒメ。
「悪どい商法ならば天誅を下す、拙者のポリシーでござる。今回は事情あってゆえと目を瞑るが、次は許さんでござる」
「……はい」
気付いていたみたいだ、俺がマフィアとつながりがあることを。ツキヒメはアッパレ・ニンジャ。この世の裁けぬ悪を裁く恐怖の代名詞。世の悪に憑き纏うもの、憑き姫。俺が天誅されてサヨナラ!される可能性も十分あったわけだ。
見逃してくれて本当に助かる。
「では達者で」
「ああ」
立ち去り際、彼女の呟きが聞こえた。
「本当に、強くなった」
強くなったのは、ルミナスダンサーの視覚エフェクトと『バーチャルファイター』の強さへの認知バイアスのおかげだ。俺自身の力ではなく、オートランナーの力だ。俺は特に何もしていない。
そう言う間もなく、彼女は辻風の如く消えていた。あっさりした退場だった。やはり世界唯一のニンジャ、俺が追いかけることも声をかけることもあたわず、彼女はもうそこに存在しなかった。
残された俺は呆然としていた。観客も呆然としていた。俺は『バーチャルファイター』として取り繕うことも忘れて、彼女を見送っていた。
俺は黒帯を認められた。その事実を噛み締めていた。クロオビ・ファイター。電子ドラッグを着纏ったサイケデリックなクロオビ・ファイター。俺は決心した。『バーチャルファイター』を最強のファイターにしようと。
フリッカの顔の青褪めについて、俺はその日聞くことはなかった。