14.
帝国機関ロイヤルクラウンは、無数の朱の魔術師たちが引き起こした事態を、ただ静観していた。
失われた帝国は、依然、失われた帝国のままである。
――人であることを諦めた癖に何が命よ、とあの人工の記述天使は吐き捨てた。
そしてその通り、七王はすべて、人であることを諦め、植物人間となって夢を見続けて提供する帝国機関となっている。
「ある日、太陽がなくなった帝国は、その住民全てを終わらぬ夢の中に引きずり込みましたとさ」――と誰かが唄った。
そして夢の中に引きずり込まれた住民たちは、やがて、『失われた帝国』という共通の幻想をみることになる。
彼らが見る夢は、太陽の夢。
神の遺児にして太陽の子ジャハーンは、帝国が誇る、最強のファンタズマである。
「――帝国は二つある。地上の【太陽の帝国】と、地下に沈む【失われた帝国】」
砂の下の真実を呟いた橙の魔術師ジャハーンは、その阿修羅の形相をさらに深くして叫ぶ。
「私は、帝国のすべてを背負っている。――私が負けるわけにはいかんのだ!」
ぼぅ、と恐ろしい音が鳴ったかと思うと、暴れまわる六本の腕が、一人一人、朱の魔術師たちをひねりつぶし、焼き尽くし、そして簡単に殺していく。
まるで蜘蛛のようだ、と俺は思った。
蜘蛛の子を散らすように逃げる、帝国館に集まった普通の人々たち。
大蜘蛛のようになって暴れまわる、帝国最強の一角、橙の魔術師。
サンスクリット語で記述された数多の特殊な呪文が蜘蛛の巣のように広がっていることもあってか、中々趣味の悪い光景だ、と思ったりもする。
――力こそ正義。
サンスクリット語で書かれたその言葉に、朱の魔術師は真の極彩色を見た。本物の色で記述された魔術は、本物の魔術になる。
そしてその魔術は世界でたった、八色のみしか存在してはならない。
今でこそ赤色の極彩色のみ封印されているものの、その極彩色は世界を塗りつぶすアストラルの光であると言われている。
魔術の根源が人の心ならば、極彩色は唯一無二の概念である。
それは世界に振り落ちた八つの本物。そしてこれこそが、極彩色の魔術師にのみ許された、世界言語のミームである。
「橙の極彩色は、力」
ジャハーンの言葉に呼応して、空間が橙色の炎に揺らめく。
それは、世界の中心にいる人間だけが話せる言葉の響き。その言葉が中心となって世界を揺らしていることが誰の目にも明らかであった。
――橙の極彩色。
それは、溢れんばかりの力の概念。
「権力、武力、暴力、膂力――この世の、ありとあらゆる『強い』と感じる概念が、私を強化する」
概念魔法【太陽の帝国】を発動し、蓮の花の上に結跏趺坐という座法で佇まうジャハーンは、そのまま周囲を踊る橙色の聖者たちに彩られる。
人差し指、親指をくっつけるその独特のしぐさは、いかにも説法印を作っている仏のような姿にも見えた。
ジャハーンの周囲を聖者は踊る。
概念魔術で作り出された橙の聖者たちは、象のような頭であったり、螺髪を結わえた頭であったり、白毫を付けた頭であったり、まさしく菩薩顔であったりと、非常に特徴的な外見をしていた。
橙の世界は【太陽の帝国】の世界。太陽の帝国は、栄華を極め、力によって飾られた、煌びやかな大魔法である。
ジャハーンは橙の聖者に問いかける。
聖者たちはそれに踊って答える。
「札束は!」
『強い!』
「――札束パンチ!」
ごぅ、と恐ろしい音が鳴った。
魔術的な『力』に札束パンチが意味装飾され、朱の魔術師を恐ろしい速度で吹き飛ばす。
その間わずか一秒足らず。
圧倒的なまでに肥大化した、強力という概念で強力になった腕の一本にとって、人一人を殴り飛ばすことなどたやすいことなのである。
「権力は!」
『強い!』
「――権力パンチ!」
ジャハーンが問い、聖者が答える。
僅かそれだけで成立する、戦慄を覚えるまでの極大魔術。
吹き飛ばされる朱の魔術師は、サンスクリット語の「帝国次期皇帝」「極彩色魔術師の一人」「世界最強の格闘家」「全世界長者番付ランキング第四位」「帝国議会議員」「魔術協会アカデミア名誉教授」「政府公認アニメ主役」「抱かれたい男ランキング第一位」などのおびただしい数のミームに溺れていた。
強い。
強い。
強い。
強いから強いというトートロジー。
強さこそ強さ。力こそパワー。それは単純で、論理としても酷く脆弱で、それでありながら――誰が見ても一瞬で理解できてしまうほどの原理である。
強さを断定しながら、強さを増幅させる、「強さ」の世界の付属品である踊る聖者たちは――概念魔法【太陽の帝国】の機関、帝国機関の一部である。
「筋肉は!」
『強い!』
「――筋肉パンチ!」
ごぅ、と恐ろしい音を立てて唸るこぶしを、ようやく今度に、俺たち朱の魔術師軍団が受け止めようとする。
それは、一対多を選んだ俺の、俺たちの団結と意地である。
「させるか――ッ!」
「筋肉がいくら強くても!」
「反発係数が低い多重結界を施せばいずれは!」
「運動エネルギーは部分的に熱エネルギーなどに変換されて、散逸する!」
十人ほどの俺たちで作ったマナマテリアルの防御結界。
その強度は、腐っても極彩色に一度届いた人間の結界術である。
筋肉などに負けるはずがなかった。
「――弟子よ、筋肉は全てのソリューションだ」
『強い!』
「強い言葉だろう?」
『強い!』
――そう、筋肉に負けるはずが、なかったのだ。
それが今、極彩色の燐光に包まれて強化され、そのまま、原理を無視して突き進んでいる。
理論と理屈を根底から覆して、ただ単純に力だけが正義となって全てを押し切っている。
そして呪術戦の末路として、結界は木っ端みじんに吹き飛ばされ――筋肉に負けるはずがないものが、筋肉に負けていた。
「分かったか? 弟子よ。これを見てもなお、数で勝てると言えるのかね?」
『強い!』
太陽王のこぶしが燃える。
全ての人の希望の光が、圧倒的なミームをもって目の前の障害を薙ぎ払う。十人集まった俺たちは、あっという間に十人ほど消えてなくなってしまったのだった。
力こそ正義――と橙の極彩色が爆ぜた。
「私は橙の魔術師ジャハーン。太陽のジャハーンである――!」
『強い!』
蓮の花にて胡坐をかくジャハーンは、その尊い手の構えも相まって、美しい太陽神の化身のようにも見えた。
「札束は!」
『強い!』
「――札束パンチ!」
文字通り、圧倒的な火力を叩きつけるジャハーンの攻撃。
それは、強いものが強いという当たり前の呪術。
状況は互角。
極彩色の魔術を解放し、圧倒的な強者として君臨する橙の魔術師を中心に、それを無数に湧き出る俺が食い止めているという構図である。
(――そうだ、最悪勝たなくてもいい。フリッカを連れ出すことに成功すればいいんだ)
さっきから心のどこかに引っかかっていた、オートランの最適解が今になって表示される。
それは提案にして妙案。
シミュレーションに従うのであれば、極彩色を封印されている俺と極彩色という切り札を持つジャハーンとのこのままの戦いは、圧倒的に不利なのである。
そう、兵法的にも、論理的にもこの場面は逃走の一択なのである。
俺は、逃げてもいいのだ。
「――」
気が付けば、歌姫NAVIは俺への攻撃をやめていた。表情は欠落し、情報処理プロセッサがむき出しになった状態で、困惑と思考停止を繰り返しているようにも見えた。
気が付けば、フリッカは、両手を合わせて祈るようなしぐさで何かを唱え続けていた。言葉に呼応して、フリッカの羽が光っている。それは何故か、彼女が何かに干渉している証拠のようにも見えた。
気が付けば、他の魔術師たちも、俺への攻撃をやめて、ただその場に立っていた。今を好機とみて攻めようという気概は感じらない。巻き込まれないように防御を優先しながら、俺が逃げないように牽制に動いている気配があった。
それでもシミュレーションは、他の魔術師が逃走するのを妨害したとしても、逃走の方が利があると判定している。
逃げる方が合理的。
逃げたらダメ、だなんていうのは合理的な判断ができていないやつが陥る罠なのである。
「――逃げられない、だろう?」
「……そうだぜ」
『強い!』
それでも、それでもなお、俺には逃げないという選択肢しかなかった。
鬱陶しい聖者を殴り飛ばしたくなったが、逃げられないことに変わりはない。
逃げたら、バーチャルファイターが逃げたことになってしまう。
バーチャルファイターは確かに負けたかもしれないけど、でも、今まで一度も、逃げたことはなかったのだ。
こうなれば自棄だ、と俺は思った。
「――しかも俺は、お前と一騎打ちで勝てそうな気さえしている」
「……ほう? それは強いな」
『強い!』
強い、と聖者たちは踊る。
その中央で、ジャハーンが薄く笑んでいる。
俺は、数の利をあえて捨てていた。
冷静に考えるなら、数の利はとても大きなアドバンテージであり、手放す意味は一切ないはずである。
何とならば、このまま数で押し切ってしまえば、勝負も案外五分五分のところまで戦えたはずであろうし、そうでなくても最悪普通にフリッカを連れて逃げ出すことが可能だった。
しかし、ここにきて一騎打ちの申し出。
これはあまりにも――有り得ないはずの展開である。
(フリッカが何かを唱えている。ならば俺は、最大の時間稼ぎを行うまで)
行動理念はぶれていない。科学に背任しているわけでもない。
シミュレーション結果を受け止め、俺は合理的に、こっちの線を有力視したまでなのである。
逃走ではなく、時間稼ぎ。
すなわち、フリッカを信じるということ。
そしてもう一つ――すこしだけ欲張りな発言を許してもらえるならば。
(極彩色なしで、極彩色にどこまで食らいつけるのか――それを今から見せつけてやろうとも)
太陽王として宣名を果たしたジャハーンに対し、俺は、無謀にも、勝ちを拾いに行こうとさえしていた。
「――ブラーヴォ!!」
煙の魔術師、こと『偉大なる父』は、濃密なマナの煙を吸って、力を蓄えていた。
この世界には、煙に巻く、という言葉がある。
死の運命、孫娘の運命――グランド・パードレが幾度となく、アカシアの光の記述から煙に巻き続けてきた歴史である。
光を当て続けると色素が分解される油絵具において、光にさらして時間を経過させても、絵の具が透き通らずに奥が見通せない色がある――それが煙である。
そして『永遠の絵画ギャラリー』を欺き続けている彼は、出来ればここで、科学に死んでもらわなくてはならないと直感していた。
「全く、お前はただのボンクラでよかったのだ。なまじ有能であるから、お前の娘が暴走するのだ」
朱の魔術師から、極彩色を奪ってなお、これである。
正確には、赤の極彩色を奪ったわけではなく、「アカデミアから追放された」「赤の号を剥奪された」という認知を世間にばらまいただけだが、結局大差ない。
重要なのは、朱の魔術師の生き方そのものが、赤の魔術だということなのであった。
「――だから、もう一度、徹底的に衰退してもらわなくてはならんのだ。許せ」
グランド・パードレが取り出したのは、銀の弾丸。
そこには、失墜した双子と、失墜した恋愛のミームを殺すものが記述されている。