13.
「歴史が混迷を極めている」
誰一人いない空間の中、不愉快そうに呟く一人の少年がいた。光の髪、光の体。アストラルの光によって構成された、全てが輝きの少年。その特殊な外見のためか、少年はどこか人間離れした雰囲気を纏っており――その有り様はどことなく、神のそれを思わせた。
「確定事項だ。どうあがいても朱はここで死ぬ。ここで死んでもらわないとならない」
少年の手元には、編纂を重ねられた一つの歴史書があった。然して分厚くはない、しかし世界の始まりから終わりまでのミームを記述した一つの歴史書。名をアカシック・レコード。この出来損ないの世界の全てを網羅した書物である。
書には過去と未来が記述されていた。さながら狂気の如く網羅された言葉、言葉、言葉。そこに列記されているのは、文字に出来る全てのものであった。
声の天使リピカは、文字にならないミームを語る語り手である。言理の妖精、言霊、声の天使――彼らを記述する言葉は数あるが、リピカが世界という物語を紡ぐ存在なのだという解釈も一応は成り立つ。
この少年は、リピカたちにその力を与えた気まぐれな存在であった。
「光あれ、色あれ、言葉あれ」
光が白なら言葉は黒。そして溢れる虹の極彩色。かくして世界は、意味に溢れている。
Ippon! が交差する。
一秒間を半分、半分、半分、……と気の遠くなるスケールでコマ割りして得られる刹那の時間が、バーチャルファイターである俺と、太陽の阿修羅王ヴィローチャナを象る橙の魔術師の時間であった。
殴る、受け止める、弾く、蹴る。
最適化されたジウ=ジツの応酬は、実に芸術的だ。お互いにどこを攻めるのかわかっていて、お互いが次の展開を読んでいて、そうやって相互にやり取りされる、一種の格闘術のバトンリレー。
それは例え、片方が六本の手を自在に操る阿修羅であったとしても同じことであった。
実際、かなり際どいバランスであった。
オートランによる近接格闘最適化、チタン-カーボン強化骨格、気功術強化、そしてアモルファス状液晶衝撃緩和剤のエレクトル・ルミネッセンスによるバーチャルファイターの鎧があって、この均衡はギリギリのところを保っていた。
何故なら相手は、バトルマスターの橙の魔術師である。
彼の格闘術は全てが完成されたもの。彼の格闘術が、いわゆるマスターなのである。
オートランの弾き出す人体工学に基づく最適解と、バトルマスターとしての役割ミームが誘導する肉体魔術が均衡を保つのは当然のこと。
そのうえでなお、数値的最適解は微差で劣る。微差で劣る以上は、小手先のテクニックで勝利するほかなかった。
「実に見事、このバトルマスターの名を冠する私とここまで張り合うとは、お前も立派になったものだ――」
「は、言ってろ。今更になって師匠面するんじゃないぜ――」
Ippon! が交差する。
やはり、弱くなりすぎていると俺は思った。
バーチャルファイターの無敵のファンタズマが弱体化しているのだ。
何故ならバーチャルファイターは、あのヒーローコロシアムでの生中継の一件で「フリッカの父親・アカイアキラ(という冴えない男)」だと認識されており、「朱の魔術師アルフレート・ユーラー」だとは認識されていない。
何故ならバーチャルファイターは、あの映画館でのアミィとの一件で「ジト顔ブラッド★ミルキーと名乗る謎のアイドルに負けた存在」と認識されており、「無敵で無敗」とは認識されていない。
何故ならバーチャルファイターは、ここ最近できた「バーチャルファイター・レオ」と呼ばれるクソコンテンツだと認識されており、フリッカの作り出した原作はあまり認識されていない。
結果、俺のIppon! は、フリッカが願うほどの本物のIppon! には遠く及ばず、クロオビ・スピリットの真骨頂を反映させているとは言い難いものになっていた。
「Ippon!」
「Ippon!」
Ippon! は格闘術である。
全ての格闘術は、バトルマスターがすでにマスターしている。
ゆえにIppon! は、バトルマスターの橙の魔術師が編み出した技である――。
そんなふざけたレトリックが、しかし成立してしまうのが極彩色の戦い。
俺の弱体化したIppon!と、奴が模倣するIppon! が相殺しあうのは、そういうことに他ならないのであった。
「なるほど、強いな、Ippon!は」
「お前が、その技を、使うんじゃねえ――!」
Ippon! が交差する。
片方は、幾万の視聴者が神と崇める朱の魔術師。
もう片方は、【太陽の帝国】に住む幾万の民が太陽王と崇める橙の魔術師。
力の差は歴然。
それが互角なのは、朱の魔術師の驚異的な立ち回りの上手さによるもの。
バーチャルファイターという作品コンテンツと、太陽の阿修羅王という力の化身。
それが真っ直ぐぶつかるとき、信仰の差や、認識の差が、その戦いの行く先を何となく予感させてしまう。
すなわち、所詮ただのヒーローが、太陽王に勝てるはずがないのだという幻想を――である。
「ふんっ!」
「が、は――!」
Ippon!が六つになった。
六本の腕は六道輪廻を表すもの、そして六つのチャクラを表すもの。
阿修羅の一撃は神をも凌駕する一撃――それが六倍になれば、並大抵の人間では捌き切ることなど不可能である。
何とかダメージを逃したが、それでも太陽を名乗る存在の一撃は極端に重たい。叩きつけられるミームの暴力が、こちらのアストラル体を焦げ付かせるほどに強力無比である。
そもそもが、太陽だ。
人間が容易に触れていいような存在ではない。
こうやって攻撃を受け止めている間にも、俺は圧倒的な熱量の意味性に焼き殺されそうになっていた。
「――させるかよ、Ippon!」
それでも太陽に挑む。
太陽に挑んでみた、というくだらない動画でNiceやふぁぼをもらいに行くのが俺の使命である。
俺が神と称えられる理由はそこにある。そうやって信仰力を獲得してきたのだ。
俺のIppon! が発動する。
渾身の一撃のIppon!は、一〇〇〇の俺がTweeterアンケートなどを実施して「股間にあたってほしい 78%」の投票結果を得た凶悪な一撃。その数万の願いの一撃は、過つことなく敵の急所へと誘導されていった。
「む――」
「な――?」
だが、炸裂してなお、ほぼ無傷。
相手がシリアスを演出するなら、こちらはコミカルで上回ってみせよう、よしんば有効打を決めてやろう――という打算の一撃は、あっさりいなされ、カウンターに俺の顎への強烈な蹴り一閃を返される結果に終わった。
(何も、なかっただと――?)
眩む脳は、疑問を呈しながらも最適演算を続ける。
脳みそを揺らすような強烈な蹴りを受けても、オートランとアストラル体がシミュレーションを継続し、戦闘を学習し、よりよいパフォーマンスを運用する。
その中で俺は、何もなかったことを考えざるを得なかった。
「――朱の魔術師よ。そろそろ決着だ」
その思考を遮るように。
「お前の魔力の源――マナを消すほうが早いようだ。そうだな、朱の魔術師よ。いや、The big moneyの残骸といったほうが適切か」
橙の魔術師は凄んで宣言した。
それはある意味、死刑宣告のような言葉の響きを含んでおり、いかにも意味深な言葉遣いでもあった。それは、The big moneyの暴き立て――つまり、俺の正体への言及でもある。俺は悟る。その言葉の意味を。
つまり橙の魔術師は、既に俺の秘密のうち一つに気づいているらしかった。
「……。俺の銀行口座が凍結したらしいな」
「ああ、そうだ。数日前、そのニュースが流れていたな。お前の娘から聞かなかったのか?」
「……。群知性は俺のサブアカウント集合体だ。それが、どうやら誰かに管轄が移ったみたいだな」
「……ああ、そうだ。朱の魔術師よ」
「俺の銀行口座――『サイバー四課』の活動資金口座の名義人は、いつのまにか俺の名前じゃなくて、歌姫NAVIになっていたよな?」
「……そうだ、朱の魔術師よ。The big moneyは、勝手に株取引などで儲けを出す、機械学習型の金融取引Navigateプログラムの一種でしかなかった。歌姫NAVIの管轄だ。そして――」
ざり、と橙の魔術師が歩く音がした。
「――つまりお前は、マナが歌姫NAVIと共有された状態の存在だ」
「! ――しまっ」
どっ、と音を残し、一瞬で橙の魔術師は少女を殴っていた。
それは、さっきまで俺自身が呪術的に拘束していた少女、【歌姫NAVIたんに脳みそ掻き回され隊】にずっと夢のクラッキング体験を提供し続けていたアイドル、歌姫NAVI。
殴打は続く。
『10,000,000 C!』『10,200,000 C!』『10,400,000 C!』『10,600,000 C!』と一撃ごとに表示される数字。
伴って減少する俺のマナ。
それは、ヒーローが少女をいたぶる地獄のような光景である。
「――やめろ!」
間に入って受け止めると、圧倒的な意味の熱量と、札束パンチの重みに、俺は思わず血を吐いた。
呆気ない、と思った。
受け止めて、受け流して、捌き切った俺は、あっけなく血を吐いて、気付けば右腕を失っていた。
俺は、なぜか歌姫NAVIを守っていた。守り切れると思っていたのに、なぜか上手く守り切れなかった。シミュレーション上ではきっちりと守れていたはずなのに――と俺は苦笑いするしかなかった。
殴打がやんで、俺の背後からは、歌姫NAVIが息を呑んでいるのが聞こえた。
何故俺が、わざわざ敵の歌姫NAVIを庇って、こんなにぼろきれのようになっているのだろうか、と俺は思った。
「――」
「――不可解だな、朱の魔術師よ」
どす、と刺さるような音がして、札束パンチが振舞われる。一撃を食らうたびに、俺のマナがごっそりと減る。
「――それは、歌姫NAVIはお前の敵だぞ」
「……。俺は、歌姫NAVIの親でもあるからな……」
「知ってたとも。だから狙ったのだ。お前は守らなくてはならない。歌姫NAVIが死ねば、お前の守りたいフリッカが生まれてこなくなる」
「……卑怯な手を使うようになったな、バトルマスターとやら」
「さらにお前は、『親が子を守るために負けられない』、というストーリーを利用している。バーチャルファイターのコンテンツでお前は戦っている。そのお前が、もう一人の娘といえる歌姫NAVIを見捨ててしまえば、それはそれでコンテンツ性が弱体化するのだ――」
「……卑怯な手を使うようになったな、と言っているんだ、バトルマスター!」
「笑止! 『親が子を守るため』などという安っぽい正義でテロ行為を正当化しようとするほうが、よほど卑怯であろうが!」
そして繰り出される札束パンチ。
右腕のない俺には、余りにも重たい一撃である。
「朱の魔術師! お前の切り札はあと幾つある! 群知性の正体も暴いた! 貴様のクローンも、今や他の極彩色魔術師を抑え込むのに手一杯! もはや貴様には奥の手はないと見た!」
灼熱の阿修羅が吠える。
否、そう宣言するしか向こうには手段がないはずである。
向こうはあくまで、黒以外の極彩色六名と歌姫NAVIの七名のみで、こちらはほぼ無数にどんどん湧き出てくるクローン軍団。
状況は依然として、圧倒的なまでにこちら、朱の魔術師側が有利である。
向こうは精々、そのクローニングのために必要なマナが、【群知性】名義の銀行口座から出ていることを発見して、そして歌姫NAVIを破壊すればいいと突き止めただけ。
このようにして、歌姫NAVIを護衛しながら戦えば、まだ朱の魔術師軍団が勝てるのである。
「手一杯? それはお前の方だろ、太陽王とやら?」
俺が駄目でも、第二、第三の俺が立ち向かう。
情けないことに、単体の俺では勝てないことがはっきりとわかってしまった今は、数で押すのが俺の最適な戦略であるとさえ考えられる。
太陽王と木っ端ヒーローじゃ、明らかに分が悪い。
だが、太陽王と一対一でいいところまで渡り合える人間が、無数に湧き出るという構図を作りあげることに成功した今ならば、その勝利も遠くない気がしている。
(でも、本当にこれでいいのか――?)
一つだけ、不安があるとすれば。
それはフリッカが作ってくれた、唯一無二の、世界最高のヒーローを、俺自身が台無しにしてしまうことである。
一対一で若干負けている状態で引き下がって、一対多で挑むということは、それはつまり一対一じゃ勝てないということを遠回しに認めてしまうことになる。
そのようなことを、俺は、認めてしまっていいのだろうか。
「――ようやく気付いたみたいね、アンタも。ずっと不自然に続いている、バーチャルファイターが貶められている展開に」
暗転。
それはいつか、どこかで足を運んだ映画館である。
どうってことない、300人ぐらいを収容できる程度の普通のスクリーン収容数。
それはかつて、妹のアミィと一緒に見に行った映画館である。
――深海の中を泳いでいるように、体が重く、息が苦しく、そして世界は、あまりにも本物の蒼に包まれている。
【結局、見たかった映画はもう始まっているしな】
「……すまんな」
【じゃあ今から始まる映画で席が空いているものを下さい、と言ったらこれだ。この何を勘違いしたのか分からない恋愛映画。カップルかよ】
「……まあ、デートだしな」
【は?】
「何でもねーよ」
映画のスクリーンに映っているのは、あの時のアミィと俺との会話。
確か、あの時俺は、悪夢を見て、三〇分ほど遅刻をして、見たかった映画に間に合わなかったから、予定とは違う映画をみることになったはずである。
――何故? という疑問が脳裏をよぎった。
俺は魔科学的なオカルトサイボーグで、どれだけ深い眠りでもオートランが叩き起こしてくれるはずである。悪夢による遅刻など、あり得ないのだ。
否、それよりももっと大きな疑問が俺の目の前にある。
「ここは、一体」
ここは、どこなのだろうか。
俺は、今さっき、橙の魔術師たちと戦っていたのではなかっただろうか。
そんな疑問は、次の瞬間、聞き覚えのある声のおかげで氷解した。
「蒼の極彩色。綺麗でしょ」
ネレイカ・カークウッドが妖艶にほほ笑んだ。
演出の魔法使いは、時に本当に世界を欺く。
彼女の極彩色は、『芸術の街』である。そしてこの、蒼に包まれた美しい世界はおそらく、彼女の極彩色の世界の内側なのであろう。
「今日はね、アンタの、罪深くて浮気っぽい極彩色を、終わらせるつもり」
――その三つのターニングポイントって何だ?
――パパが殺した人、パパと不倫した泥棒猫、パパのもう一つの人格。
台本の言葉が、スクリーンの中をぐるぐると泳いで消える。