10.
状況ははっきり劣勢であった。
だが不思議と絶望の気持ちは沸き上がってこない。
サイボーグ化された肉体をボロボロにされて、治癒魔術を妨害されながらも、俺はまだまだ戦えることを確信していた。
俺にはまだ、魔術アプリケーションがある。
現代魔術と現代科学の知識がある。
そして、無敵のファンタズマがある。
笑いそうになっている膝を奮い立たせ、一呼吸入れて再び挑む。
狙うは橙の魔術師ジャハーンただ一人。
彼にさえ勝てば、バーチャルファイターは俺一人ということになる。
そうなれば俺は、この状況を打破することが可能となる、はずだ。
「まだだ、ジャハーン!」
一気呵成、跳躍して橙の魔術師の懐に潜り込む。
接近戦なら向こうに一日の長があるだろう。しかし接近戦を挑めば他の魔術師からの妨害が入りにくいのも事実。
一対多に追い込まれたときの対処法は、一対一で挑むことにある。
これはランチェスターの理論でも示唆された揺るぎない事実だ。
「ほう?」と不適に笑う顔を正面に捉える。
早速、格闘術の師との高速戦闘と洒落込もうと思った矢先。
「――あれあれ? 学習能力がないでありますね。これだから人間はエラーを起こすのでありますよ」
ぞっとする声がした。その速度は時速300km/h。
歌姫NAVIに間違いない。
来たる衝撃に備えて、多重に防壁を緊急展開した。
果たしてその目論みは失敗した。
防壁が何故か粉微塵に粉砕されていた。時速300km/hより速い世界最速の一撃が、防壁を丸裸にし尽くしていたのだから。
それはつまり、爆走ミニスカポリス・歌姫NAVIの接近を許すことになる。
「――ダイブ」
瞬間、俺のアストラル体に大規模な呪術クラッキングが仕掛けられた。
攻勢防壁が恐ろしい速度で無力化され、俺の精神に夥しい数のマルウェア、スパイウェアが放出される。
サイバーテロ。
かつての俺が得意としていた、ウィザード級アストラルクラック技術の一つ。
サイバー四課はアストラルクラックの専門家の集まりである。
その中でも俺は、魔術師と呼ばれるまでの地位に君臨していた。
だからだろう――自分を圧倒的に上回るような奴のクラック攻撃を受けたことなど今までなかったのである。
不正なアクセスを切断しようとして、ライセンスの粗方が剥奪されたことを知る。
アクセスの切断までもが許可されなくなった。
刹那、俺は敗北を悟った。
「ふうん? フリッカフリッカって馬鹿みたいに写真データが残っているでありますね。そんなのにアストラル体のリソースを食っているから、いざというときに演算に回せないんでありますよ」
データが消却されていくのが分かった。
「止めろ!」と咄嗟に叫ぶが意味はなかった。
【オートラン】が消えていく。
【Ph.D.Engine】が消えていく。
【アミューズ・メンタル】が消えていく。
【ダッシュボード】が消えていく。
【ルミナスダンサー】が消えていく。
【どこでもメモリアル】が消えていく。
その他、俺が試行錯誤的に作り上げてきたアプリケーションが消えていった。
歌姫NAVIのアストラル攻撃は憎らしいほど的確で、――それはつまり、俺のアプリケーションを短時間で効果的に破壊し尽くすことを成し遂げたということだった。
アストラル攻撃は精神攻撃である。
その改鼠はただデータを細切れにする範疇には留まらない
即ち、俺の記憶の破壊。
アルフレート・ユーラーが消えていく。
赤ん坊の頃の記憶。魂を産めない母から懺悔されたトラウマ。祖父の試すような瞳。煙の中の記憶。泣きじゃくる幼馴染み。生死の狭間での出会い。おもちゃの結婚指輪。妹の絵本。学生時代。優秀な同級生。本物の極彩色の才能。図書館での議論。決別。極彩色の老人との出会い。アストラル通信の設立の手伝い。魔術師への抜擢。ホムンクルスの同僚との友情。極彩色の老人の孫娘への家庭教師。学術的研究への邁進。出世。少女の学長との議論。準教授への就任。研究のブレイクスルー。世界的アストラルネットワークの設立。ネットワークエンジニアリングと仮想世界のデザイン。基礎魔術と世界言語の解明。魔術行使プラットフォームのフリーウェア化と魔術革命。偉大なる極彩色への抜擢。新時代の幕開け。
全てが消えていく。砕けて元も分からないほどに混ざり、そして指の間から滑り落ちる砂のように形を失って溶けていく。
アカイアキラが消えていく。
脳疾患を抱えた赤ん坊。人工知能による補完。義体化社会で初めての脳のサイボーグ化。不完全な人格。知能の限界。心の限界。完全への執着。サイバネティクスへの憧れ。自分の命の価値の希薄化。交換可能な人格。交換可能な外見。形而下での自己の概念の喪失。劣等感。万能感。憧れ。代償行為。自己満足。
背景が消えていく。感情が消えていく。心が消えていく。思いが消えていく。己を纏っていた個が消えていく。
「止めろ!」
叫ぶ。
歌姫NAVIにカウンタークラックを仕掛けて、pocket sniffを実行。
ただの足掻きだ。嫌がらせ程度にしかなってないだろう。
しかし、歌姫NAVIは念のためアクセスを遮断したようであった。
「もう、お終いでありますね」
距離をとりながらも歌姫NAVIは、それこそ歌うように宣告を下した。
「――お前には何も残ってないであります」
「介錯してやろうかの、朱の魔術師」
黄金の鎧が目の前に屹立した。
その声には、優しさと哀れみの響きが少しだけ含まれていたが、それよりも大部分に冷酷さが滲み出ていた。
即ち、要らないものを棄てよう、という響きだ。
それは実に合理的かつ科学的な判断であると言えた。
「お前はもう勝てんわい。ワシがお前を終わらせてやろう」
「ふ、ざけんな……!」
ごぼり、と血が吹き出る。
オートランがなくなって、いよいよ治癒魔術が維持できなくなり、緑の魔術師の呪いが厳しくなってきた。
ガンドの呪いが、命へ致命的に楔打っている。
血が止まらないというのは、単純に脅威だ。
「ミームを分解されて脆弱化したとは言え、お主のチタン―カーボン骨格はシンプルに頑強じゃ。――故に、打ち砕かせて頂こうかの」
「や、め」
「デルニエ、パワードスーツ形態じゃ」
言うなり黄金の魔術師は、空間から突如表れたゼリーに身を包んで、『All Right, My Master』という機械の音声に応じていた。
ゼリーからは強い魔力を感じる。
あれは間違いなく、マナマテリアルであろう。
ゼリーが硬質化してパワードスーツになった。
関節駆動型の油圧式マスターシステムを搭載した、身体能力補助サイボーグの完成。
演算モジュールが黄金の魔術師ジョゼットの脳と連結されており、自分の体のごとく操れるということが見ただけで分かってしまった。
「さあ、覚悟せい」
「ッ!」
危機を察知して後ろに飛び退く。
だが遅い。
掌底を腹部に感じたとき、俺は懐かしい恐怖を思い起こしていた。
それは、サイボーグ・パワードのIppon!の予兆。
俺の腹部の骨を砕き、内蔵をへし潰した悪夢の一撃。
鳥肌が立つ。
死を覚悟する。
オートランの感情制御と痛覚マスキングがないことが、俺を心細く、孤独にしていた。
「パイル――」
油圧ピストンが後ろに下がって、威力を溜めていることが分かってしまった。
「や、やめ……くれ……」と弱音が思わず漏れたとき、俺は自分が弱いことを自覚した。
死ぬのだ、と訳もなく確信した。恐怖が遅れて俺を支配した。
「――バンッカァァァァアアアアッ!!」
鈍撃。
激痛。
息を全て吐き出す衝撃。
ひしゃげた音がした。吐き気がした。
血の味がせり上がった。
俺は、痛みに叫びを上げていた。
痛みは心を折る。
俺は今や、それを味わいつつあった。
だが、それでも俺は立ち上がっていた。
涙を流しながら、「はぁあ……、はぁっ……はっ……」と荒い息を上げながら、口から情けない呻きをぅぅぅぅと細く漏らしながら。
しかし、俺はそれでも尚、立ち上がっていた。
「……もう、やめるでござる」
「そうだよ。諦めて、ねえ」
「……アンタ、正気?」
「あはっ、馬鹿でありますか?」
「……見上げた根性じゃ」
と敵が口々に言うのを、俺はどうとも思わなかった。
恐ろしく痛かった。
呻き声が止まない。涙が止まらない。
生き永らえることが辛い。
それでも、どうしても俺は負けるわけにはいかなかった。
「――アル君、どうしても、ですか」
白の天使は悲しそうな顔をしていた。その顔付きがあまりにも痛ましそうで、白の魔術師としての任務と個人の感情の間で揺れ動いているようにさえ見えた。
俺は、返事などする余裕がなかった。
足を引きずるようにして、橙の魔術師へと近付く。
僅かでも俺は足掻いていた。
でなくては、この心は嘘になる。
折れてしまう。諦めてしまう。それだけは、耐え難い。
だがもはや、もう根元から折れてしまいそうだった。時間が経てば終わってしまうだろう。痛みがおぞましい。絶望が恐ろしい。
もう無理だという諦めが心を磨り潰していく。
死にたくないという叫びが俺の心を木霊する。
それで、どうして俺は立っているのだか、最早分かったものではない。
「はぁっ……は、っ……ぁ、が、……」
情けないと思いながら、俺は逃げるように足掻いていた。
何故だか分からないが、俺はそれが出来ると思っていた。
何故ならば、フリッカが。
あの、可愛い俺の、フリッカが――。
「ごめんなさい、アル君。――聖典:旧約聖書『創世記』 第一章 三節 【神は言われた。「光あれ」】」
光が俺を包み込んだ。
アストラル体が分解されていくのを知覚した。
俺の命が直接的に削られていく恐ろしい感覚が、体全身に走り回った。
やめろ、と俺は絶叫していた。
命がどんどんと終わっていくのを感じていた。
突然、俺は、何故生きているのかが分かった。
サイボーグの肉体は破壊し尽くされた。魂はガンド魔術に呪い尽くされていた。
それでも俺は命にしがみ付いていた。
俺のアストラル体が、命を繋ぎ止めようとしている。
心が、信念が、願いが、想いが、俺の終わりかけの命を息吹かせようとしている。
それは、俺の破壊され尽くした記憶と想いの残滓だ。
失われたはずの方向性が、奇跡的に俺を生き延ばしている。
愛だ、と俺は思った。
俺は何故か、そんなことを直感して、ようやく思い当たってしまっていた。
今さら気付いてしまった。
失われつつあって、今さらになって、俺はその事を思い知らされていた。
愛だ。
俺は、誰かに、生きて欲しいと愛されている。
俺の分解された記憶と感情には、愛が満たされていた。
意思と願いには、誰かの愛があった。
願いが本当になるこの世界で、俺は誰かに願われて生きていた。
俺は、悟ってしまった。
俺のこの命は、あの、小さくて目が離せない、幼い天使に愛されているのだと。
フリッカは物語に命を吹き込んでいた。
全てのことを克明に記述していた。
そしてきっとそれは、全てを失って情報の破片にされつつあった俺を、それでもなお生きていて欲しいと包み込むような優しい愛であった。
アストラルの光が、徐々に分解されていた。
永遠の絵画ギャラリーを包むアストラルの光が、俺から徐々に剥がされているのだった。
絆が蝕まれていく。
愛が剥ぎ取られていく。
フリッカが、俺の命に込めた祈りと願いの残滓が、徐々に俺の手元から離れていく。
「――とても、強い祈りです」
見れば、白の魔術師の方が涙を流していて、目の前にいる俺の有様に呆然としているような、そんな様子でさえあった。
うわごとのような呟きが、そのまま続きを紡ぐ。
「願いが本当になるこの世界で、アル君は、これほどに愛されているのだと思うと、私は――」
続きは、もはや聞こえない。
「弟子よ。――もう、諦めろ」
「……」
今の俺は、まさしく満身創痍といって差し支えなかった。
フリッカの絶叫が耳に遠い。
無理言うなよ。
この状況で逃げるのは、流石に無理だ。
「お前はもう死に体だ。もはや何もできまい。大人しく諦めて、……そうだな、封印されるがいい」
「……」
「さもなくば、帝国の七王はお前を危険分子と見なし処分するだろう。――お前は強い。知識も卓越している。それこそ、魔術師の号を協会から剥奪されておきながら、極彩色の六名に特位魔術師一名を相手にして、これほどまで大立ち回りを演じられる奴を私は知らない」
「……」
「正直、二人以上の極彩色を相手取っておきながら、何故生きていられるのかを疑うレベルだ」
「……」
返事をする気力も残されていない。
無言で睨み返すのみ。
そのことに橙色の魔術師は疑問を覚えたのだろう。「どうした、弟子よ。何を企んでいる」と急に真面目な表情になって俺を真っ直ぐ見つめ返してきている。
「お前が、何の策も講じずここまでやってくるはずがない」
「……」
ごぼり、と血を吐く。
押し潰された腹部を抱えながら歩く。
さながら、俺はゾンビだろう。
「……お前、まさか聞こえていないのか?」
聞こえているさ、と返事も出来そうになかった。
きっと音を識別できるか疑わしいほどに、俺は痛ましく惨たらしい外見をしているのだろう。
そういえば、側頭部が砕かれているのだったか。
腕も片方失っているし、肉は疎らに食い剥がれているし、鳩尾はもう中身がないのではと見紛うぐらいに押し潰されている。
「仕方ない、直ぐにでも封印を施して楽にしてやろう。そうすればお前の痛みも幾分かは――」
と橙の魔術師が構えるのと同時に、俺は「ĵeto」と呟いた。
魔力の奔流。
力の暴走。
噴燃しては膨圧する、生命と精神のマナ。
燃やす代価は、俺の残り少ない命そのものであった。
「! 貴様、ついに命に手をつけたか!」
「……こうでもしないと、お前らの中心にもぐりこむことが出来ないからなッ!」
ありったけの気力を振り絞って叫んだ。
解放するのは魔力だけではない。ポテンシャルエネルギーを熱量に換算し、質量を昇華させ、俺は瞬く間に白熱して光を迸らせていた。
魔術師たち全員がそれだけで悟っていた。
「拙い、自爆でござるか!?」「逃げ場を確保しろ!」「いかん、空間が固定化されとる!」「そんな!? アタシの音魔術を阻害するためじゃなくてこの布石だったっていうの!?」「落ち着いて下さい! 法術で結界を張ります!」と急に冷静さを失ってうろたえる面々。
俺は、ざまあみろとばかりにほくそ笑んでやった。
「命は物語、ミームの結晶だ。とくと味わえよ、三流どもめ」
「貴様! 娘を巻き込んでもいいというのか!?」
「有りえないな。この攻撃はフリッカには効かないさ。命の光の奔流だからな」
フリッカが何かを叫んでいた。
そうかい。悪いな。
愛してるぜ。
またいつか、今度、必ず会おう。
今度はもっと格好良いパパになってやるからさ。
「――あばよ」
俺は世界と別れを告げた。
途端、白い激流が衝撃波となってあたりを吹き飛ばし、周囲を飲み込み、灼熱と轟響を叩きつけて、好き放題に破壊し尽くしていた。