9.
周囲は突然現れたバーチャルファイターにどよめいていた。誰も朱の魔術師がバーチャルファイターだとは思っていなかったのだろう。何故奴が変身できるのか、という奇異の視線を俺は感じ取った。
俺にもはっきり分かる。全く俺に認知バイアスがかかってこないのだ。無敵のヒーローというファンタズマを身に纏うことで認知バイアスによって身体能力が強化される、それこそがバーチャルファイターの強さの真髄であったはずなのに、これではもはや光る着ぐるみを着て戦うのと変わらない。
もしこれが青の魔術師の計画通りだというのなら、全くアッパレだと言うしかなかった。
「パパやめて! 敵いっこないわ! 魔術師の号が剥奪されて弱体化して、一対一ですら勝てっこないのに、ここにいる他の七人の極彩色――黒の魔術師を抜いて六人だとしても、歌姫NAVIを合わせて七対一の戦いなのよ!」
フリッカの必死の叫びが聞こえてくる。
全くその通りだと俺は思った。敵いっこない、それは論理的に考えて明らかなのだ。
それに、フリッカとしてはそもそもこの場で俺に戦って欲しくないに違いない。帝国に媚びを売って庇護を請い、俺を保護して貰う予定だったはずなのだから。
だが俺はそんなの真っ平ご免だった。
「悪いなフリッカ、そいつは嫌だ」
「どうして!?」
「フリッカが幸せじゃないからさ」
「な――」
だが、そんな未来、フリッカが幸せである訳がない。証拠はない。けどそんな予感がしている。俺はこういうときの予感だけは人一倍鋭いのだ。
「フリッカ。お前は結婚したくて結婚しようと決めたんじゃない、俺を助けたくて結婚しようと決めたんだ。それはつまり、結婚したくないけど仕方がなくそれを選んだってことだ。――そんなの幸せじゃないに決まってる」
「でもっ!」
「俺は朱の魔術師、フリッカのパパさ。――要は俺が死ななけりゃいいんだろ?」
頑固なる最愛の娘に語りかけながら、俺は一歩前に出る。それは正真正銘の一本の構え。
「結婚したくないって思っている娘がいるんだ。でも弱みに付け込まれてノーと言えなくて苦しんでいるんだ。――そうだとしたら、弱みを見逃して下さいって頼み込むのはおかしいだろ。弱みに付け込んできた奴をぶん殴るのがパパのお仕事だろ」
俺ははっきり断じた。
ここで娘を差し出して庇護を請うのは簡単な話だ。きっとそれが俺の生存戦略としては最適解なのだろう。
だが個の保存欲求という生物学上の本能と同じように、種の保存欲求もまた本能として存在する。
そして、俺は間違いなくパパだ。
だからこそ俺は戦うのだ。
クロオビ・スピリットを滾らせて臨戦態勢を整える。敵を真っ向から睨み、その一挙一動を予測する。今戦うべきは極彩色の魔術師たちだ。つまり世界最強の魔術師たちである。
要するに、無敵のパパにやっつけられてしまう有象無象でしかない。有象無象にしてみせる。
「――言うではないか、我が弟子よ」
ここでようやく、橙の魔術師ジャハーンが口を挟んだ。花婿衣装に身を包んでいた彼は、物分かりの悪い子供を諭すような表情で俺に語りかけている。
「だが許せ、仕方ないことなのだ。このままではお前とフリッカを殺すか、フリッカを我らが帝国史の実現器にするかの二択しかなかったのだ」
一瞬、単語がうまく理解できなくて、脳が痺れたような気がした。「苦肉の決断だ」と苦々しい表情で語る橙の魔術師の言葉に実感がわいてこない。
実現器。
何だそれ。
「ふざけるな。――今、何て言った」
実現器ってつまりなんだ。花嫁ですらないのか。
「帝国史の実現器だ。――二人を失いたくはない、ならばこちらを選ぶのがいい。お前はそのまま生きられる、そしてフリッカとて制約付きだが生きられるし、死ぬより遥かにいい」
何だよそれ。
花嫁にしてあげられないのかよ。
「ふざけるな」
静かな怒声。思ったより俺の声は平静を保っていた。
それは全てを自動制御アプリケーション【オートラン】に任せているからだろうか。
そうでなければ俺は、一体どうなっていたか。
「今、怒りで人が殺せるなら、真っ先にお前を殺していたとも」
「そうか。――だが、愛弟子と健気な少女という二人を殺すのは本意じゃない。察せ。これは仕方がない提案だ」
「何が提案だ!? 何が二択だ!?」
そうでなければ、俺は。
「何でフリッカが死ぬかフリッカが人柱になるかの二択しかないんだてめえら! 何でフリッカのことをそっとしておいてやれないんだてめえら! その二択しかない、じゃないだろうが! てめえらの都合でその二択に絞らせただけだろうが!」
「……。あまり我が侭を言うな」
俺は。
「我が侭はお前らの方だ! 何でフリッカをそっとしておいてやれない! フリッカの何が悪い!」
「存在だ。それは危険すぎる」
「おうそうかい。存在。――俺も今悪いもの見つけちまったぜ。帝国だ。存在そのものが悪い。それは危険すぎる」
「悪いが弟子よ、言葉尻を捕らえて同じ論理で揶揄しているのかもしらんが、私は言葉遊びに興じるつもりはない」
「奇遇だな」
俺は、心臓が熱いと思っていた。鼓動がやけに耳に響いて、まるで血が煮えているかのような錯覚を受けた。
全部嘘だ。心臓は熱くないし血は煮えていない。脳内ARを覗く限り俺は丸っきり正常で、これは全て俺の気のせいだ。
そうだ、気持ちのせいだ、胸糞悪いほどに感情のせいだ、これほど怒りを覚えたことは前にも後にもない。
脳内ARの知らせる「俺は正常である」というバイオグラフが心強かった、何故ならこの怒りは全く正しいものだと言われた気がしたから。
吐き捨てる。
「俺もお遊びには付き合ってられないんでね」
「――そうではないのだ。お前とフリッカはこの世の不和を招く」
「誰にだって存在する権利はあるさ。俺らの存在で揺らぐような世の中の方が間違っている」
確信を持って俺は言い返した。
存在する権利は誰にだってあるはずだ。たとえ俺とフリッカのようにポンコツな二人であったとしても、他人に迷惑をかけることもなく存在するだけならば、その権利を剥奪される謂われはどこにもない。
暴論だ。
たとえその理由がとても崇高なもの――世界の不和を防ぐためという理由だとしても、それはきっと馬鹿げている。
何故世界は俺たちをそっとしておいてくれないのか。
何故俺たちを巡って不和が起きてしまうのか。
そんな理由で人の娘を願望器にしようだなんて、到底許せない。
「違う、世界がそっとしておくそっとしておかないの話ではない。お前たちの存在が危険すぎるのだ。――赤子に手榴弾を与えるようなものだ。それも、複数の赤子の真ん中にちょうど取り合いになる位置に」
「取り合わなきゃいいって言ってるだろうが」
「もっといい喩えがある。何でも願いが叶う魔法のランプだ。他の奴らに取られたら何をされるか分からない。だからこそ先手を取って取るしかないのだ」
「それでもだ。取り合わなきゃいいって言ってるだろうが!」
「もし、魔法のランプ本人が世界を変えようとしていたらどうだ?」
「魔法のランプにも世界を変える権利はある」
「話にならんな」
交渉決裂。
この結論は既に知っていた。
相手に譲る気がないのはありありと伝わってきたし、俺もまた譲るつもりはさらさらなかった。というよりももはや、この結論は既に決定事項であった。
何故ならば、俺は。
「魔法のランプの話、良いこと教えてやるよお前ら」
「……何だ」
「お前ら赤子をまとめて抑えつけられるほどぶっちぎりに魔法のランプが強けりゃ問題ないんだぜ」
「ここにいる全員の極彩色の魔術師を敵に回してもかね」
「余裕だな」
何故ならば、俺は怒っている。
「娘を幸せにできないやつに、娘は渡せない。――世界がどうとかごちゃごちゃ適当なことを述べてたが、とどのつまり話はシンプル、その一点のみだ」
世界なんか、所詮は熱力学的に可逆な作り直せる程度の存在だ。フリッカと比べようもない。
「お前らまとめてかかってこいよ。人間誰でもパパになったら世界一強くなるってことを教えてやるよ」
戦いの火蓋は切って落とされる。
「――大和新陰流・七の太刀」
一閃。肩がやけに熱かった。「猪の構え、萩の札、蓮の文月」と歌うように言葉を紡ぐ紫の魔術師ツキヒメがいつの間にか傍にいて、俺は右腕と泣き別れになっていた。
防壁魔術は悉く破壊されていた。俺やオートランが知覚できないほど素早い攻撃に備え、常時展開型防壁魔術が張られていたはずなのに、ただ一刀を以てして斬り伏せられたということらしい。
恐ろしく速い。ツキヒメの恐ろしさはその速さにある。世界最速の極彩色ツキヒメは、開始早々俺の右腕を切り裂いていた。
だがここまでは予測通り。四肢のどれかを失うことは既に分かっていた。だからこそ事前に仕込んだ罠がここで効果を発揮する。
右腕のチタン-カーボン骨格に刻み込んでいたプリセット指令が発動。指令は「握り潰せ」。右肩から切り離され制御信号を失った右腕は、プリセット指令に従ってツキヒメの利き手を握りつぶしていた。
両者痛み分け。右腕を失った俺と利き手を握り潰されたツキヒメ。
だが俺の方が有利だ。アストラル体を展延させてマナマテリアルを付与、即興で右腕を制作する。
これで右腕は復活した。
絶好の隙。ツキヒメはというと、俺の切り離された右腕の手のひらから飛び出たチタン-カーボン製の銛によって、太ももを貫かれていた。
自動制御アプリケーション【オートラン】に思考をアウトソーシングしている俺に迷いは一切ない。胸部を掌底で叩いて「Ippon!」。
蜃気楼を叩いた。手応えはない。代わりに俺は脇腹に刀を一本生やしていた。
無茶苦茶な女だ、あの刹那の時間で蜃気楼と身代わりしてIpponコールから逃げ切り、俺に反撃の一太刀まで浴びせるのだから。
世界最速の極彩色の実力に、俺は戦慄を覚えざるを得なかった。
「全ての物は拙者より遅い。……そう教えなかったでござるか?」
いつの間にかツキヒメが背中に回っており、俺の側頭部を蹴飛ばしていた。世界が回り、駒のように吹き飛ばされる俺。
「パパっ!?」とフリッカの甲高い悲鳴が耳に痛い。
頭が削れたかと思った。否、実際に削れていた。脳内ARが緊急アラートを発して「側頭部に深刻なダメージ」とメッセージを表示している。
壁に叩きつけられる。側頭蹴りで人を吹き飛ばすってどんだけだよ、と思いながら俺は立ち上がる。
マナマテリアルを補填して頭蓋骨と脳を補修。大丈夫。オートランが俺を寸分違わず治してくれる。今の俺は差し詰め魔術的ゾンビだ。脳ぐらいバックアップで幾らでも復活できる。
「――行くよ、マーナガルム」
今度は頭を食べられた。気付けば俺は狼の群れに襲われている。何故、という疑問はすぐに解消された。俺が叩きつけられた壁の後ろに潜んでいたのだ。
体が千々に食いちぎられていくのを知覚する。痛覚マスキングがなければ痛みで絶叫するところだっただろう。チタン-カーボン骨格からかなりの肉を食い剥がれてしまった。
好都合。俺の体にはアルコールが仕込まれている。
そう、あの時たらふく食べて飲んでいた理由はこれだ。俺の体内のナノマシンにアルコールを吸収させるのが狙いだったのだ。
瞬時に酔っ払うことはないだろうが、これでマーナガルムたちはしばらくの間弱体化するはずだ。
ぼろぼろの体になりながら狼の群から脱出する。最早フォトニックマナマテリアルの大半を食べられたせいで、俺の見た目はバーチャルファイターというよりは、自己修復するゾンビ人間の方が近かった。
フリッカを見た。泣きそうな顔で俺を眺めている。何て顔してるんだよ。パパなら無事だとも。
「森羅万象、生命の樹ユグドラシルよ。私は第七セフィラのネツァク。――命に楔打て」
その時、緑の魔術師ナジャが唱えた。複数を表す三、遍く四方を表す四を合わせ、七は全てを意味する。
俺の命に楔が打たれた。俺のアストラル体に大いなる呪いが刺さったことを痛感する。ガンド魔術。自らの精神体を発射して相手の精神に直接攻撃する呪いだ。
ガンドの意味は「杖」と「狼」。最悪なことに全て揃っている。世界樹ユグドラシルのトネリコの木の枝はドルイド・シャーマンの杖の材料であり、マーナガルムは威名を誇る狼。
「世界樹」と「狼」のミームを引用し、北欧神話のコンテクストを色強く練り込まれたガンド魔術は、俺に致命的な一撃を与えていた。
吐血。俺は今、概念的に呪い殺されつつあった。
これが正真正銘のフィンの一撃か。かつてこれほどに強力なガンド魔術を浴びたことはない。
「ごめんね、遍く幻想譚の幻想生物は北欧神話をベースにしているから、ドルイド・シャーマンにとっては相性がかなり良いんだ」
血が止まらない。口から零れ出す血は終わる気配を全く見せず、むしろその量を増しているようにすら思われた。
「ねえ、嘘、やめて、パパ」という震えた声が聞こえた気がした。何でそんなにぐしゃぐしゃな顔してるんだよ、と俺は思った。
即座に増血魔術を展開して応急処置を施す。
何、またしても痛み分けに終わっただけだ。血の止まらない俺と、マーナガルムという切り札をしばらく酔わされたナジャ、というだけ。まだ十分に戦える。
「芸術独奏曲、青のプレリュード」
ピアノの音が鳴ったかと思うと、世界は青に包まれた。可視化された音符が跳ねて、クリアブルーが徐々に周りを浸食する。
その瞬間、全ての色が意味を失い、真の極彩色へと変化した。
ミームは圧倒的なミームの前に瓦解する。たとえ頑強という概念にコーティングされたチタン-カーボン骨格であっても、そのミームを剥がされてしまえばただの剛体に成り下がる。
悲しみの音符が、俺の体を押し流した。音符に接触したチタン-カーボン骨格が酸化して硬度を失い脆く崩れていく。全く意味不明だ。これだから芸術は、始末に負えない。
音楽魔術ならば対処は簡単。俺は早速この空間を固定化して、部屋の壁を改造した。音を全く吸収せず反射するように仕向けるのだ。これにてこの空間の音波は全て固定端反射するようになり、音と音が干渉するようになった。
反射波の干渉。波の干渉は定常波を生み出し、波に節と腹を作る。節のフィールドでは波は死ぬ。故に、定常波成分は完全に無視できるのだ。
これで安全領域を確保した俺は、続いて走り抜けて――。
「無粋ね、アンタ。――芸術独奏曲、青のカプリッチョ」
音が完全に乱れた。演算補助アプリ【Ph.D.Engine】による位相解析が間に合っていない。その瞬間俺は悟った。奇想曲によって不規則的に周波数を変えているのだと。
俺は驚愕した。周波数を変えると言うことはつまりドレミの音階を変えることと同義だ。それでいて音楽性を失わないだなどと、馬鹿げている。舌を巻くほどの才能だ。
音楽の洪水が俺を襲った。マナマテリアルが分解されてマナへと転化される。脳を一部失ったことでサイケデリックな幻覚が俺を苛む。
否、これは青の魔術師の精神攻撃か。見分けが付かない。
しかし音楽攻撃ならば周波数の意味を殺せば問題ない。ローパスフィルタデバイスを耳にとりつけて、遮断周波数を設定。音楽の周波数のほとんどを減衰させて精神攻撃を防ぐ。
同時に俺自身からも逆位相音楽を発生させる。俺のアストラル体を振動させるのだ。解析が追いつかないため当然、完全な逆位相音楽にはならないが、それでも音楽性ミームはかなりの部分を殺すことに成功している。
これで、相手の音楽魔術の影響を七割ほど減衰させることが可能となった。
裏を返せば、それでもなお三割ほどの音楽が俺のミームを分解していた。治癒魔法や防壁魔法が五秒も経たずにどんどん解けていくのを、俺は歯がゆい気持ちで耐え忍んだ。
「はあ、小賢しいわね。でも、完全には打ち消せないでしょ? その自己修復能力さえ封じ込めてしまえば、アンタに勝ち目はないのよ」
青の魔術師カークウッドは、余裕そうな表情でこちらを見下ろしていた。
勝ち目はない。その断定に無性に腹が立つ。それは間違っていると思い知らせたくなる。だが、そのための力が足りていないこともまた事実。
「もう、もうやめて、パパ!」とフリッカが訴えているのがわかった。だがその叫びは音楽で打ち消されていて、俺には彼女の口の動きしか見えなかった。