12.
「――ブラーヴォ!!」
観客の中から最も大きな声がした。手を叩くのは荘厳の雰囲気をかもし出す老人だった。スタンディングオベーションをもって、盛大な拍手を送っていた。
何に対して感動していたのか。それは知る由もない。
ただこの男、グランド・パードレは、偉大なる父として、目の前の『偉大なる父』に拍手を送る義務があった。全くもって素晴らしかった。サザンマフィアの矜持として嘘は吐かない、それだけだ。
本当に尊敬できるものには惜しみない賛辞を。La Cosa Unioneの首領は、観客の中で最も大きく拍手をした。
『超凄かった、あれは迫力がやばかった』
ネット上の書き込みはどこかしら熱気を帯びていた。目の前で戦いを見守っていた人々は、その息を呑むような迫力と感動を言葉に書き起こそうとしていた。
非難をする人間も、擁護をする人間も、格闘の瞬間だけは目を離さずに見守っていた。フリッカとかいう可愛い女の子が涙ながらに語った『パパ』への愛が、それに答えようとする必死な『バーチャルファイター』の痛ましいまでの死闘ぶりが、観客の心を打った。
血反吐を吐き、それでも挫けず闘うコロシアムファイター、未だかつてそのような壮絶な戦いを見せたファイターはコロシアムに存在しなかった。
観客は久しぶりに心の底から応援したくなるような、タフで挫けない英雄的ファイターを目の当たりにし、彼に共感し、応援した。
『何だよ、結局やらせかよ』『はいはい感動感動』『でもすげえパフォーマンス、俺は普通に見てて胸が熱くなったわ』『エピソード監督の狙い通りの宣伝だったな』『やるじゃん』『家族愛全面的に押しすぎてキモイ、バトルは悪くない』『何かなあ、あのフリッカって女の子の演出が狙いすぎであざとい』『これ見てファンになったわ』『お涙頂戴は無理』
結局、ネットの書き込みはさまざま勝手な方向に発散し、思い思いを書き連ねられるだけだったが、共通部分として、『バーチャルファイターは凄い戦いを見せた』という部分だけは残った。
「――何だって!?」
観客の関係者席から、事の顛末を見守っていた『金の天秤』の幹部は驚いていた。あのコングロマリッド企業、セラノ・コンツェルンの技術の最先端、強襲用機動兵器サイボーグ『サイボーグ・パワード』が負けることなど、万に一つ有り得なかった。
理論上どんな人間より速い運動パフォーマンス、どんな人間より硬い外装フォルム、どんな人間より正確な戦闘学習知脳。どの要素においても、かのサイボーグが敗北することはない。
目の前の光景は、その逆だ。
『サイボーグ・パワード』は中枢制御機器が修復不能なレベルで破壊され、緊急措置として自己修復ナノマシンを走らせてゆっくり体内を修復している最中だ。その間こちら側の端末に信号で「緊急:非常用復旧システムによる修復中」と連絡を送っているのみだ。
つまり、生身の人間に、戦闘続行不可能になるまで破壊されたというわけだ。
「あり得ない、そんな馬鹿な……」
「すみませんが」
呆然としている幹部の肩に、後ろから手がかかった。
振り返ると、スーツ状の機動服を着込んだ黒服集団がずらりとそこに立っていた。
「公安サイバー四課の執務官エスリンです。貴方には複数の罪状がかかっております。ここに身柄の確保を宣言します」
「な、な」
『金の天秤』幹部は、目の前の機動隊を見て、逃げ場がないことを悟った。遠くに逃げることも抵抗することも不可能、恐らく近いうちに彼は牢屋に入れられてしまうだろう。
彼は、目の前で真っ直ぐ直立する女を呪った。エスリンという名前はしばらくして、記憶から嘘のように消え去った。
「うふふ、物語は予定通りの進捗ですね、アル君」
教団の白い記録天使は静かに微笑んだ。彼女の手元にある生命の書には、永遠の絵画ギャラリーが収められており、現実が寸分の狂いもないことを証明していた。今日の出来事は全て絵画ギャラリーをなぞった予定調和の一つ。観客らは一つの英雄譚を目の当たりにし、世界にまた一人、新しい主人公『異邦人の英雄』が誕生した。それは生命の書で示されていた確定した未来の一つだった。
ただひとつ、記録天使が気がかりだったのは『揺らぎ』の影。絵画ギャラリーのどこを見てもそのような存在は目に見えないというのに、しかし確実にその場に存在する『揺らぎ』。この不穏因子を放置すると、絵画ギャラリーによからぬ影響がでることを、記録天使は直感で悟った。
『揺らぎ』は始末せねばならない。
「もう少し頑張ってね、アル君。異世界から来たアル君は、もっとアストラル体をこの世の中に馴染ませなきゃいけないの。だってアル君は、マレビトなんですもの」
アストラルの見えない光を用いて、複雑な記号を生命の書に書き込む記録天使。その意味は複雑で凡人には読み解くことも出来ない。記録天使のみが分かるアストラルの呪文。
記録天使は独立した時間軸を持っている。それは時系列という世界の外側にいる超越的な存在であることを意味していた。しかし未来や過去に自由に行き来できるわけではなく、その独立時間はあくまで、同じ時間に複数同時に存在できる、という特殊な遍在性でしかない。
記録天使はそれゆえに記録天使なのだ、世界を複数の視点から同時記録するための特殊装置。絶対的な第三の観察者、ともいう。
「アル君の周りにいる『揺らぎ』を始末して、アル君はもう一人の自分を乗り越えて、天使と婚約の儀を交わして、そしてようやくなの。……ね、アル君」
白い髪、白い肌、白い瞳。全く生命性を感じない人工美を湛えて、記録天使は優しく微笑んだ。
慈愛の微笑み、あるいは慕情の微笑みとも言うべきミステリアスで両義的な非対称の笑みを浮かべて、彼女はひっそり恋をするように呟いた。
「貴方の人生に幸多からんことを」
死なないで。
パパ、死なないで。
愛してる、大好き、フリッカはパパが大好き。
死なないで。ねえ、起きてよ。
無意味に羅列される文字列。血を失った脳は、動作しないハードウェアである。例えニューロンネットワークで結合されたシナプスノードでさえも、情報処理にはエネルギーが不可欠だ。では情報を保持するためには何が必要か。絶え間ない酸素と栄養の供給である。
故に、その二つを失った脳では、意味の解釈が出来ない。記憶を読み起こすことも不可能だし、同様に思考をつづけることも不可能なのだ。
では脳死か。それもまた違う。認知バイアスを考えるといい。『揺りかごの庭』は異世界だ。それは存在を信じるから存在する、という奇妙な規則によって成り立つ世界だ。それはつまり、思考の存在、魂の存在、想念の存在を肯定し信じ続けることが可能ならば、死は不可逆的ではないということになる。
では死とは。
この世界において死は、それでもなお決定的な要因だ。個人の存在を圧倒的に終わらせてしまう。死は状態である。存在を終わらせる状態なのだ。世界に開いた存在的実在、実在論により肯定される自らは、死という状態に置かれたとき、世界に開いた存在ではなくなりつつなるわけだ。存在が徐々に終わっていき、ついに世界にとって閉じた存在になるとき、個人の存在は終わって消える。存在しなくなる。
死とは、そのプロセスであり、つまりは時間経過であるとも言えた。
一方で死は、不可逆的で決定的であるとも言える。何故なら、死は決定的に個人を終わらせてしまうもの、という認知があるからである。それは現象学では当然の解釈だった。死に対する答えは、いつの時代をさかのぼっても、どの文献を参照しても、必ずこう書かれている。「死とは生きることの終わりである」と。
死に対する芸術的表現、人文的考察は、色んな観点があって面白い。死は色んな解釈があるのだ、と人々に教えてくれる。しかしその解釈全てにおいて、共通することは、死は終わりのメタファーなのである。
そう、その死という言葉には、終わりという意味が決定的に含まれている。そしてそれは、揺ぎない事実として存在している。
死なないで。
パパ、起きて、フリッカはパパが大好きよ。
俺は、必然性の高い未来として、自分が死ぬことを知っていた。それは否定もしなかった。だから俺は断固この状態をはっきり理解していた。これは死である、と。
「だがこうも考えられる。死は個人を終わらせるものではないし、終わり、という表現には複数の解釈が存在することもまた事実」
「パパ!? パパああああっ!!」
「俺は個人の状態として、死を、生命活動が終了することという共通認識を利用した。だがここがミソだ。生命活動が終了するということと、存在が消滅することはイコールではない。つまり、俺は時間をかけて、生命活動を復旧させることで、死んで生き返ることに成功することを確信していた」
「パパああああ! いぎでるううう!」
俺はフリッカに思いっきり抱き締められていた。その周囲を極彩色の魔術師ども(白の魔術師のみここには居なかった)が取り囲んでいた。
俺は内心で、ざまあみろと勝利の快哉を上げていた。
【い、生きておったか!! おお、おお!】
「ふ、そうでなくては困る、この私バトルマスターの弟子ならば死の試練も乗り越えてみせねばなるまい」
「フン、心配して損したわい。ワシは信じておったぞ、こんの馬鹿もんめ」
「……はっはっは、拙者、泣いて心配したでござるよ、本当に馬鹿弟子にござるな!」
「あああ! 良かった! ボクの調合したエリクサーが効果を発揮したんだ! あああ、良かった……!」
「あああ、アンタ! 生きてる! もう! 今度死んだら殺すから! 死んだらだめよこのおバカ!!」
色んな魔術師どもが口々に何かを言っている。
死んだらだめだぞ、生きてて良かった、そんなメッセージばっかりだ。
心配はありがたい、一緒に喜んでくれて俺も嬉しい、だが少々訂正しなくてはならない部分が一つだけある。
俺は事実を突きつけた。
「生きてはいないぞ」
「え」
「俺は消えていない、存在しているだけ。今から俺は生き返る。それだけの話だ」
俺の脳内ダッシュボード右下に表示されている人体図は「エラー」を表示している。当然だ、俺は既に死んでいるのだから。
「生きて、いない? パパ、え」
「ああ」
俺はもう少しだけ自分のこれからの予定を修正することにした。
俺は浮気しない、俺は人殺ししない、俺は二重人格にならない。
あと追加で、生き返る。
でも不謹慎ながらこうも思ってしまうのだ。俺死んだ状態をキープしたら、銃殺される未来が来ても死なないんじゃね? と。