End of Love? 4
吾妻が商品企画部からブランド戦略部の社内公募に応募した。数か月前に全社に公募の通知がきて、それから間もなく吾妻が携えてきた企画は来栖でさえも驚くほどの出来だった。十中八九、吾妻は異動になるだろう。それだけの実績を吾妻が積んできたことは知っているし、認めてもいる。しかし、来栖は胸の内に巣食う苦々しい思いをどうすることもできずにいた。なぜそんな思いを抱えるかについてはもう考えないことにしていた。
「お久しぶりですね」
女将の言う通り、みはまに足を運ぶのは久しぶりのことだった。急な用事で今日の約束に間に合いそうにない、と婚約者から電話がかかってきたのはさっきのことだった。そのために空けていた時間はぽっかりと空き、だからといって部下や同僚と飲みに行く気にもならない。では、一人でどこに行くかと言えば、来栖はこの店以上に居心地のいい店は知らないのだった。吾妻のことだから、もうこの店に足を運んではいないだろうという、変な安心感もあった。
「ご無沙汰していました、……すみません」
「なんで謝られるんですか、こちらのほうが申し訳なくなりますよ」
女将はそう言って笑った。
「最近は、お連れの方もあまりお見かけしませんね」
「……あっちはあっちで忙しいようです」
お通しのこんにゃくとおかかを煮たものをつつきながら、来栖はうつむく。つい数週間前に婚約者に言われたことを思い出していた。
「幹彦さんは、私に何か直してほしい点とか、ありませんか?」
「…え?」
休日、少し離れたアウトレットモールに行くのに車を出し、昼食を食べ、また少し買い物をして、帰路につこうか、という頃だった。
「…いいえ、父が強引に幹彦さんにお話をしただろうな、ということは薄々分かっていたんです」
「別に強引というほどではなかったが」
「そうですか…」
何が言いたいのか。隙のない彼女の唯一の欠点がこの曖昧さだ、と来栖は感じていた。そして、それさえも相手を気遣う故のものであり、責めようがないことも来栖は分かっていた。
「私、よく思うんです。幹彦さんは私よりもっと好きな方がいらしたんじゃないかなって」
来栖もいい歳だ。今まで恋人がいなかったと思っているわけはないだろうが、そんなことをなぜ今更言い出すのだろうか。そんな来栖の小さな不満を読み取ったように、
「幹彦さんほどの方が今まで誰ともお付き合いしていなかったなんて考えているわけじゃないんです。幹彦さんが私のことを全く顧みない、という気もありません。ただ…いえ、なんでもありません」
そこまで喋っておいて、何もないわけないのだろうが、追及しても無駄だろう。その日、帰りの車中はしんとしていた。その時になって初めて、来栖は吾妻といた時には沈黙を意識しなくなっていたなんてことに気付いたのだった。そして、婚約者がすすんでいつも雰囲気を和ませようとしていてくれたことにも。
「そうなんですか…皆さん、お忙しいんですねぇ」
忙しくないよりはいいかもしれませんわね、と女将はまた笑って、奥のほうへ引っ込んでいった。
この店で、吾妻と並んで酒を飲んでいた時のことが、遠い昔のことのようにも、つい最近のことのようにも思える。とっくに処分されていると思っていたボトルが未だにあったので出してもらう。
今まで物を食べながら飲む、ということがあまりできなかった来栖だが、そんなんじゃ胃を悪くしますよ!といって無理矢理つまみを食べるように言ってきたのも吾妻だった。
『私、よく思うんです。幹彦さんは私よりもっと好きな方がいらしたんじゃないかなって』
婚約者にそう言わせてしまったのは自分だということくらい分かりきっていた。
ここへ来ると、馬鹿みたいに昔のことばかり思い出す。吾妻のことを。
今や婚約者がいる身のくせに最低なことだとは思うが、最後に吾妻と共にした夜のことはまだよく覚えている。
来栖に対しては、身体の関係を持って以来いつだって吾妻は性に対して開けっぴろげだった。そのくせ、あの日に限っては駄々っ子みたいな顔ばかりしていた。
あんな淫らな子供などいるはずはないのだが。今までそんなこと言ったことなかったくせに『もうやだ、だめ』とぐずった。
あんな風に時間をかけてじっくりと吾妻と抱き合ったのは最初で最後かもしれない。後ろから、滑らかな吾妻の背中を眺めていると、その汗ばむ皮膚の下の並びの良い背骨の一つ一つまでが愛おしくなった。
愛おしかった?
誰が、誰をだ?
酔いのせいか、当時の記憶が薄れてきたのか。兎も角、これ以上考えてはいけない。
来栖は酒をあおった。
止める者もなく、食べ物を進める者もいない今の来栖は、吾妻と関係を持つ以前のようなペースで杯を空けていく。
やっぱり来るべきじゃなかったかもしれない、と思ったが、結局その日家路についたのは夜が更けに更けたころだった。
-to be continued-