End of Love? 3
昨日も夜は遅かったはずなのに、朝9時にセットした携帯のアラームよりも目覚めはずっと早かった。まだ寝たままの隣に気を遣いながら、そっとベッドから降りる。土曜日の朝独特の奇妙な解放感と気怠さが辺りに満ち満ちているように感じた。板張りの床はひんやりとしている。素足のまま歩くときのぺたりぺたりした感触。
昨夜帰りに買ってきたミネラルウォーターのボトルを冷蔵庫から取り出し、のどを潤す。寝室から聞こえてくる寝息のような、どちらかといえばいびきに近いような音を聞きながら、紗江は最後に来栖がここへ来たのはいつだったろうか、と考えていた。
『話がある』
その時は今更何を改まって言うのか、と思った。来栖の表情が険しいのはいつものことだったし、アルコールも少し入っていたしで、紗江は最初大して気にしていなかったのだ。
『見合いをすることになった』
前置きやら、婉曲にやら、そういったことが来栖にできないのは分かっていたが、あまりにも唐突でさすがの紗江もしばらく口がふさがらなかった。
『……あ?』
『お前には報告しておいたほうがいいんじゃないかと思っただけだ。その間抜け面をどうにかしろ』
そんなことをこんなところでいうあんたもあんただろうが、という言葉を紗江は辛うじて飲み込んだ。今この瞬間、紗江の部屋の紗江のベッドで横になっているくせに。
ほんのわずかの時間に色々なことが頭をぐるぐる廻って、結局、
『あー…よく分かんないけど、つまり、とりあえず今日まではセックスしていいってこと?』
来栖の深い深いため息と、ぐしゃぐしゃにかきまわした頭がぼさぼさになっていたことだけはしっかりと覚えている。頭のどこかが妙に冷めていた。仰向けになっていた体をごろりと来栖のほうに倒す。自分から腕を伸ばし、来栖を抱きしめた。大きなぬいぐるみのようにされるがままになっていた来栖だったが、やがて、するりと腰に腕を回し、優しく背中を撫でてくる。
「紗江」
空になったグラスを持ったまま座り込んでいた紗江に、ぎょっとした顔で翔太が声をかけた。
「お前、どうしたの。そんなとこで」
上半身は裸のまま、翔太も一緒にしゃがみこんでくる。
「具合でも悪い?」
「…ううん、寝起きでぼーっとしてただけ」
「そ?」
ぽんぽん、と頭を撫でられて、紗江は『よくない傾向だ』と思った。
最近、事あるごとに来栖のことを思い出す。そういえばあの時こうしていた、こんなことをしていた時もあった、云々。本当によくない。
『ほらほら、今日は休みなんだからゆっくりしよーぜ』とかなんとか言いながら、翔太にベッドへ追い立てられた。抱き枕みたいに紗江を抱き寄せて、しばらくすると規則的な寝息をたて始めた。そこまでガタイがいいわけでもないくせに、がっちりホールドされていて、ここから抜け出ることはできそうにない。眠気も覚めてしまったしで、否応なく先ほどまでの物思いに舞い戻ってしまう。
来栖との最後のセックスはいつもよりずっとずっと穏やかで、本当に嫌だった。
自分が来栖の恋人になったような気にさせられるから。ゆっくりゆっくり高められていって、来栖自身のことは二の次のような抱かれ方だった。腰を動かしながら、抱えた太ももをそっと撫でられた。嫌らしさなんてまったくない、みたいな触り方で。紗江がぐずる度に、『ん?』と言いながらも奥をえぐられた。小さな口づけを数えきれないくらい落とされながら、頭を撫でられた。汗ばんで額に張り付いた前髪をそっとかきあげられた。今まで来栖にそんな風に抱かれたことなんかなかった。
『ちょっと…もう、ほんとに、…無理…』
『らしくないな』
らしくないのはどっちだ。言葉を返す間もなくそのまま紗江の背中に来栖がのしかかった。身体を支える紗江の手の上に来栖の武骨な手が重ねられた。
まだ覚えている。
あの時、どんなふうにキスをして、どんな順番で愛撫されて、どんなふうに昇りつめたか。
全部、ぜんぶ、覚えている。
そんな来栖が嫌で嫌で、でももっと嫌なのはそれに悦んでいた自分自身の身体と心だ。
うまい酒と肴、時々の嫌味と気楽なセックス。来栖との関係はこれに尽きた。馬鹿みたいかもしれないけど、来栖のことをどんなふうに思ってるかなんて考えたこともないし、考えてはいけないのだと思っている。
翔太とこういう風になってからというもの、紗江がみはまに行くことも滅多になくなっていた。
***
初めて相手の女性を見たのは、プロジェクトの打ち上げをやった時のことだった。いつもだったら渋々ながら二次会にも顔を出すくせに、そんな来栖がそそくさと一次会が終わると同時に姿を消そうとしていたのだった。もちろん目ざとい女性社員たちがそれを見逃すはずもなく、ぶーぶー言われていた気がする。なんだかその辺のことはよく覚えていない。
後輩が言っていたのはこの女性か、と思った。
暑苦しい季節だというのに、その女性はシフォンのブラウスとかっちりとした生地のスカート姿で、汗ひとつかいていなかった。紗江は汗ばんでうなじに張り付いた髪の毛を払いながらじっと彼女を見つめていた。彼女は、今日は飲み会帰りだと聞いたので車で迎えに来たというようなことを言った。いいとこのお嬢さんぽいわりに流行りのかわいいコンパクトカーに乗っていて、自分で買ったのか、えらいなあーだとかどうでもいい感想を持ったことは覚えている。来栖は会釈をして、さっと車の助手席に乗り込んでしまった。店を出てからというもの、終始言葉少なだった。女性はぺこりぺこりと同僚に頭を下げていて、最後に紗江の視線にも気付いたのか、深々と礼をしてその場を後にしたのだった。
勝ち目なんかあるわけない、と思って、その直後になんの勝ち負けだ、と思う。
非の打ちどころのないような女性だった。まさか婚約者が紗江と寝ていたなんてことは知らないにしても、最後まで礼儀正しかった。
なんだ。別に来栖は来栖で順調のようだ。
私だって別に順調だ。何もかも。
問題なんて一切ありはしない。
こつんと縁石を蹴とばしたパンプスの先は、塗装が薄くなり剥げかけていた。
-to be continued-