味処「みはま」
味処『みはま』はこぢんまりとした小料理屋である。
店の外観は、今の主人が先代から継いだ時に女将の意見で古びた店舗を改装したため、小洒落たモダンな雰囲気を漂わせている。そのためか、カウンターや座敷にはスーツ姿の男たちにまぎれてちらほら女性の姿も見える。とはいえ、いつも満員御礼大盛況というわけにはいかない。特に週末でもない平日の夜なんかは。
女将は週に一度は店に訪れる有り難い馴染み客に、お茶漬けを出しているところだった。しめの一杯である。
ほかほかと湯気をあげる茶碗を、ひとりは無愛想な顔で、もうひとりはこころもち頬を緩めて眺めている。
来るたびに犬も食わない痴話げんかを繰り広げるこの男女だが、一度そのことを口にしたら二人ともぽかんとした顔をしていた。その時の二人の顔を思い出すと、女将は今でも笑いがこみあげてくる。
そんな女将の心中など素知らぬ顔で、男は黙々と茶漬けを口に運び、女から「もっとこう『今日はお疲れ様』とかなんかないんですか、来栖さんは。気遣いとか、そうゆうのお母さんのおなかの中においてきたんじゃないですか」とかなんとかぶちぶち言われている。
「うるさい。俺は味わって食べてるんだ。横でいちいち、ぶつぶつ言うな。鬱陶しい」
男のばさりと切って捨てるような台詞に女は盛大に顔をしかめて見せ、もそもそと茶碗に口をつけて一気にかきこむ。いつみても礼儀作法はさておき、ひどくおいしそうに食すお客さんだ、と女将は(そして女将の旦那である店の主人も)つねづね感心していたが、もちろん女はそんなこと知らない。
こうして、別々の時間にやってきて、ばらばらに会計を済ませ、二人の男女は並んで出てゆく。
なかなか不器用な二人だと、その背丈の合わない二つの背中を見るたび、女将は微笑ましい気分になる。まるで、できの悪い、けれどもとても愛しい子どもを見ているような。
それから数週間後、ずいぶんと間をあけて常連の男の方がひとりで店へやって来た。金曜の夜のことだ。当然のことながら客席はわりとにぎやかだ。
その前日に女の方は顔を見せていたから、今日訪れる可能性は低かったが、二人とも示し合わせて『みはま』へ来ているわけではないらしく、珍しいことではなかった。
男がしばらく『みはま』へ足を運ばなかったのは、女の客がぽつりぽつりと漏らしたところによれば、仕事が立て込んでいたかららしい。
男性というものは、何か不都合が生じた場合、大方、仕事が忙しくなったからだと相場が決まっている。と珍しく皮肉げに愚痴を漏らしたのも同じ女だった。
目の下にうっすらと浮かぶ隈、心なしか下がり気味の肩、席に腰を下ろした途端思わずといった様子で漏れたため息。精悍な顔立ちとはいえ、その顔に浮かぶ色濃い疲れの色は隠せていなかった。
男はキープしていたボトルを頼む。これを男が飲むときはてっとりばやく酔って眠りたい時だろう、となんとなく女将は察している。
そこでようやく女から頼まれたことを思い出し、女将はまっさらな割烹着で濡れた手を軽く拭った。
「どうぞ」
ことりと置かれた茶碗をたっぷり数秒は凝視して、男は連れと喋るときとは全く違う口調で、
「俺は頼んでいませんが……」
「私の故郷は南の方でしてね」
半分以上残っていた焼酎のボトルをほとんど空にしておきながら、普段とほぼ変わりない顔色で男は女将の様子をうかがっていた。
「こっちに移って私が幼いころに、父親がこの店を開いたんですが、『みはま』というのは故郷の『美しい浜』から名付けたんですよ。海沿いの町だったんです」
男の伏せられた睫毛が湯気でけぶって見える。
「小さい頃はよくサバのお茶漬けを食べたものですよ」
「はあ……」
「先日お客様に同郷の方がいらして、懐かしいですねと話していたんです。幸い魚市場から鮮度のいいサバを仕入れることができましたし」
「……そういえば、サバのお茶漬けなんて初めて食べるような気がします」
「是非どうぞ。お代はもう頂いてますから」
そこで男は、はっとして顔を上げた。
「お代……?」
女将はにっこりと笑う。
「はい、お客様からは『自分のことは伏せておいてください』と言われたので、内緒にしておいてくださいね」
そう言って、小さな子供にするように口元で人差し指を立てて見せた。
「来栖さんがキープしていたボトルを1本空けたら、これを出してあげてください、っておっしゃってましたよ」
ふわりと香る刺身醤油の匂い。上にのせられたわさびとしょうががわずかに色合いを添えている。
「あのお節介が……」
その時、カランカランと入口のベルが控えめに来客を告げた。
「こんばんは」
女が、今日はひとつ間をあけた席ではなく、男のすぐ隣に腰を下ろした。一度帰宅したのか、ジーンズにシャツというラフな格好である。
「あ、来栖さん。いいもの食べてますね」
そう言って茶碗を覗き込む女の顔には何の意図も浮かんでいなかった。男が事情を知らなかったら、何も違和感をおぼえないような自然さだった。
「……そう言えば、うち今『森伊蔵』あるんですよ」
「……あ?」
「友人がこの間家で飲み会したときに持ってきてくれたんです、すごいですよね」
「……」
「もう今回はしょうがないです。私ははっきりいってこういうこというの嫌ですけど、来栖さんのプレゼンの方がよかったと思ってますよ。今でも。でもやっぱり出来レースとかそういうことってもうどうしようもないじゃないですか」
「…お前なら結果が分かり切ってるのに真面目にやるなんて馬鹿馬鹿しいとかなんとか言うかと思った」
「仕事って言うのはいつでも真面目にするべきものです。違いますか?」
「いや…、そうだな」
しばらく考え込むようにゆっくりと茶漬けを食べるのみに専念していた男だが、いきなり箸を置いてそっと女の耳元に口を寄せた。
「どこかの物好きな客がおごってくれたお茶漬けを食べたらお前の家にでも行って慰められてやるよ。それでいいんだろ?」
「…………来栖さんって本当に人の思いやりとか感じられないんですね」
男は会計を済ませ、女はそれに構わずさっさと先に店を出ていく。
今晩、この馴染み客たちの間に何があるのか、女将にはとうてい分かりえぬことだ。とはいえ、想像に難くなかったが。
ただ、数日後、やはり女より先に店に訪れた男に女将が囁いた関サバのゴマサバ茶漬けの値段には、さすがの男も軽く目をみはっていた。女将の老婆心による小さな気遣いは、30分ほどしてから現れた女を見る男の気まずそうな顔つきから言って、どうやら成功とは言えなかったようである。
相変わらず不器用な馴染み客二人は、今日も『みはま』で軟骨のから揚げをつついている。
-THE END-