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Out of Love?






『くる、すさん。…来栖さ、…ッン』

 甘ったれた子供みたいな言い方で来栖を呼ばわる女は、するりと彼の背中に腕を回した。

 どこもかしこも汗で湿ってしっとりとしている。

 彼女の口から漏れる声まで熱を孕んでいて、それは、ずくりと来栖を刺激した。

 

 しかし、二人でベッドのシーツを散々乱した翌朝。


 来栖の隣は空っぽで、ベッドサイドには裸のままの万札がぽつりと置かれていた。

 まだろくに目も覚めていなかった来栖は、呆然としたまま無意識に彼女がいた痕跡を探そうと、ひとまずぐるりと部屋を見回した。



* * *



 今日は社食でメシを食う気分にはなれず、近くの定食屋に入ったら、そこに同期の姿を見つけた。


 大きな口を開けて白身フライをぱくついていた女が、むぐ、と食べかけのフライを飲み込んだ。

「……来栖さん」

 今日はお昼、ここなんですか。と彼女は、もう来栖を見ずにそう言った。

「……他の人たちは新しくできたイタリアン食べに行くんだって出てったけど、あんたはこんなとこにひとりで来てんのか」

「たまたまです。書類片づけてたら遅くなっちゃったんで。…その、私が他の子とうまくやっていけてないみたいな言い方やめてください」

 今日の日替わり、生姜焼きですよ、とコップの水を口に運びながら、女は何でもないように言った。以前一緒に食べた時ちらりと口にしただけなのに、来栖の好物を覚えていた女に軽く驚く。


 俺と寝たことはろくに覚えてもないくせにな。


 そう思うとなんだかおかしくて軽くふきだしてしまった。

 来栖の笑い声を耳聡く聞きつけた女は、あからさまに眉をしかめたが、てきぱきと箸を動かし続けていた。

「そういえば、最近『みはま』来ませんね。大丈夫ですか」

「……あんたこそ、『みはま』ばっかり行ってて大丈夫なのか」

「……大丈夫も何も、平日は大して飲んでないですよ」


 暗に心配していると言いたかったのだろうが、何故だか一向に会話が色っぽい方向へ行きそうにない。

 人がいいのか損な性質なのか、仕事ができる割になぜか何かと苦労性なこの女、吾妻紗江と来栖は何故か馬が合わなかった。

そのくせある日を境に、同じ小料理屋『みはま』に行きつけるようになるまでになってしまった。


 恋人かと問われればもちろん違うし、友人というほどの交流もなく、しかし1回寝ておいてただの同僚と言えるのか甚だ疑問だという――来栖にとってはよく分からないことばかりなのが、この女との仲だった。


 以前からなぜか来栖に対してはつんけんした態度で、他の女が時折するように媚を売れとまでは言わないが、そこは社会人なんだからお互いうまく合わせるってことを考えろよ、と苛立たしく思っていた。

 それに対抗するかのように自分の態度まで悪くなったのは、さすがに大人げないと思っているが、なぜだか吾妻相手だと改善できそうにない。


 来栖より先に来ていた吾妻の方が当然のことながら食べ終わるのが早く、ごちそうさまでした、と手を合わせるとあっさりと店を後にした。


 休み時間の間に私用の携帯もチェックしておこうと無造作に開くと、ランプが点滅して、メールを受信したことを知らせていた。


 Name:吾妻

 Title:non title

 お疲れ様です

 『みはま』のおかみさんが最近顔見てないって心配してましたよ

 明日にでも顔見せてきたらどうですか


 メールを受信したのは定食屋に入る前の時刻だった。

「なにが『そう言えば』だよ…」

 なんでもないようなふりして言ってみせたくせに、やっぱり吾妻だって気にしていたんじゃないか。

 『明日にでも見せてきたらどうですか』って、中途半端につっけんどんっていうか……。


 まさか吾妻が自分のことを心配するようになるとは思わなかった、と思いながら、来栖は日替わり定食の味噌汁をかきこんだ。



* * *



「いらっしゃいませ…あら、来栖さん」

 ひとり手酌で熱燗を楽しんでいるらしい吾妻には声をかけず、来栖はやや苦みの混じった笑みを店の女将に返した。吾妻のひとつ隣の席に腰を下ろす。

「……ごぶさたしてます」

「今日はどうしますか」

「とりあえず、厚揚げ豆腐と大根のサラダ」

 割烹着を着た女将が何も言わずともお猪口を出してくれた。コトリと音を立ててカウンターに置かれる。

 無言でちらりとお猪口に目をやった吾妻が酌をしてくれた。

「どうも」

「いえ」

 週末の夜のせいか、いつもより店の中は賑わっていて、女将も来栖たちに構いっぱなしというわけにはいかないらしい。

 せわしげに動き回っている。

 カウンターの中にいた中年の男が料理を出してくれる。女将と違って少し無口なこの男は、女将の旦那らしい。以前、吾妻が「堺さん」と呼んでいるのを聞いてからは、来栖もほんの時たまちょっとした会話をすることがあった。

 吾妻に話したら、「来栖さんこそいつも仏頂面で、大して人と話なんかしないじゃないですか。似たようなものですよ」と笑われたが。

 あの女はこちらが気を悪くすると承知した上でこんなようなことを言ってくるからタチが悪い。

 ひと段落した女将が戻ってくる。


「それにしても、来栖さん、お身体は大丈夫なんですか。吾妻さんからずいぶんお忙しいようだと伺いましたよ」

 非難の意を込めてじろりと吾妻を見やると、

「来栖さんはこの間のコンペで案が採用されてからプロジェクトのチーフになったから忙しいんですよ。私は幸いボツになったのでそこまで忙しくありませんけど」

「いちいち厭味ったらしいな。そんなことまでべらべら話す必要ないだろうが」

 ぼそぼそと言い合う来栖と吾妻の様子に、女将がくすりと笑った。

 思わず顔を上げると、旦那まで少し表情を緩めて二人を見ている。


「犬も食わないって言うのはこのことですかね……来栖さんもあまり恋人を心配させるようなことしちゃあだめですよ」


 …………。


『…………恋人?』


 来栖は思わず吾妻と顔を見合わせた。

 確かに、会社近くにある全国チェーンの居酒屋は顔見知りが多いからと、この小料理屋に初めて来たのは二人でだったが、それからは特に連れだって食事に来たことなどない。

 わざとらしく逃げ回ってすべてなかったことにしようとする吾妻の態度が無性に苛立たしく、無理矢理ひっつかまえて私用の連作先を押しつけてはいたものの、恋人同士のようなやりとりは皆無だ。


「私と来栖さんは恋人同士じゃありませんよ。…ですよね?」

「ああ」

 これに驚いたのはカウンターの中の二人の方だ。女将に至っては「まあ」と目を丸くして口に手を当てている。

「会社の同期です」

「あ、まぐろの漬け丼ひとつ。…あんたはもうメシ食ったのか」

「いえ、まだです。……じゃあ豚と野菜の黒酢あんかけにごはんとお味噌汁つけてもらえますか」

 かしこまりました、と言った女将の顔がなんだか呆れたような表情だったのは、見なかったことにした。



* * *



 特に待っていたというわけではない。

 しかし、食べ終えてちょうど会計を終えて外に出る頃になると、吾妻と一緒になった。

 街灯に照らされた夜道。微妙な距離を保ったまま、スーツ姿の男と女が無言で駅へ向かって歩いてゆく。


「来栖さん」

「なんだ」

「……来栖さんは、彼女作らないんですか」

 怪訝な顔をして彼女の顔を見下ろすと、彼女はうつむいてパンプスの爪先を眺めていた。

「私には『こんな歳になって、結婚どころか恋人もいないのか』って言ってたじゃないですか。自分こそ彼女の一人や二人作ったらどうなんですか」

 彼女はあれ以来、来栖と居る時は酒を控えているようだし、実際はそんなにアルコールに弱いわけじゃないから、この言葉も酔いが言わせているわけじゃないのだろう。


 彼女と寝るもっとずっと前。

 横にぐっすりと眠った彼女をのせて、深夜の高速を走ったことがあった。

 あの時はてっきり眠ったから気づいていないと思っていたが、この口ぶりでは来栖が何をしたか気づいていたらしい。


「……起きてたのか」

「しばらくは夢かと思ってました。……あまりに来栖さんらしくなくて」

「そりゃあ、らしくないことして悪かったな」


 改札を通り抜ける。ホームへ向かおうとする来栖の上着を、女が軽く引いた。

「来栖さん」

「なんだ」

「今晩、泊まりに行ってもいいですか」

「…………は?」


 来栖が珍しく驚きに目を瞬かせているのに、吾妻はなんでもないような調子で続けた。

「前からずっと思ってたんですけど、やっぱり来栖さんだけが覚えてるのって気まずいでしょう。私、何か失礼なことを言ったみたいだし」


 だから、今度はちゃんとやってみませんか。

 私と、寝ましょう。


 来栖は何も言わなかった。

 ただ、その日の晩、吾妻はいつもとは反対へ向かう電車に来栖と並んで揺られていた。



* * *



『来栖さん、セックスしましょう』



 あの晩も女は似たようなことを言った。


 あんたが気持ち悪い、吐きそうだ、とか言うから仕方なく近くのラブホに入ったんだろうが。

そんな来栖の台詞などほとんど聞いていないような顔で、

『私、酔うとほんっとしたくなるんですよね。来栖さんは、そういうことありません?

 …あー、でも男の人は飲みすぎるとたたないって言いますもんねー。だったら無理かー』

 酔いのまわった吾妻はえげつないことをさらりと言ってのけた。

 女だらけの社内は噂がまわるのも早い。そんな中、浮いた話一つなかった吾妻がそんなこと言うのは意外で、だから印象に残っていたのだろう。


「あんた、実はすごい欲求不満とかじゃないのか」

「……なんなんですか、こんな時に。いきなり」


 まあ、それはそうだ、と思いながら、ちょうど半分ほどボタンを外した女のトップスの隙間からするりと掌を滑り込ませた。

 熱のこもったため息が女の口から洩れる。女の吐息がちょうど来栖の耳元をくすぐった。

「酔うとセックスしたくなるんだろ?」

 酒で普段、鬱屈していたものが出るんじゃないのか。

 そう皮肉ってやると、彼女は目を丸くした。

 ああ、俺にそんなこと言った記憶もないな、この様子じゃ。

 来栖はそんな思いを込めて、くつくつと笑った。

 みるみるうちに腕の中にいた女の顔は不機嫌になっていき、ごつ、と来栖の胸元に額をぶつけてきた。

「私、そんなことまで来栖さんに言ったんですか?」

 覗き込んでみると、眉を八の字にして、絵に描いたような情けない顔をしている。

「あー…、もう」

 吾妻が腹いせのように、がぶり、と来栖の肩口に噛みついた。

 まったく、この女は……自業自得のくせに。

 空いた片手でぐしゃりと吾妻の頭をかきまわしてやる。

 女の頭は思ったより小ぶりで、これからのことを思ってか、頭のよさそうな額はほんのりと熱を持っていた。




 結論だけ言えば。

 素面の吾妻も酔った吾妻も、抱くのに、そう大した差はなかった。


 時折びっくりするぐらい奔放なところも、

 今そんなこと言うなよ!と言わずにはおれないぐらい厭味ったらしい台詞をふとした拍子に吐くところも、

 来栖さん、来栖さん、と甘さを含んだ掠れた声で名前を呼び、腕を回してしがみついてくるところも。


 ただひとつ違ったのは、朝目が覚めた後も来栖の隣に吾妻が眠っていたことだった。




「布団から来栖さんのにおい、しますね。当たり前だけど」

 寝乱れた髪に手をつっこんでばさばさしながら、目を覚まして起き上がろうとする吾妻が言った。

 その行動に、仮に自分が恋人だったら百年の恋も冷めるな、と呆れた。

「来栖さんって、煙草吸うんですか」

「今は吸ってない。社会人になってから止めた」

 来栖は大学生になって一人暮らしを始めて以来、ずっと同じ部屋に住んでいる。

 社員寮に入るより自分の部屋から通勤するほうがよっぽどいいという立地の会社に就職できたのは本当に偶然だが、幸運だった。

 最初に多少無理をしても暮らしやすい部屋を探したおかげで、不満は特にない。

 学生時代は周りがみんな吸っていたせいか、自分もなんとなく喫煙するようになってしまった。

 なにより手持無沙汰な時に煙草があるとちょうどよかった。


 ふと気づく。

 そう言えば、社会人になってからというもの、女を部屋の中に入れたのは初めてかもしれない。

 もともと来栖はめったに人を家に招くようなことをしない。

 吾妻の他には、酔っ払った男の同僚を仕方なくうちに泊めてやったくらいだ。

 来栖の勤める会社は化粧品メーカーなだけあって、男性社員が少ない。その分、結束が固くなるのも道理だった。


 シャワー借りますね。そう言って吾妻は昨日初めて使ったばかりの浴室へ、勝手知ったる様子で向かっていく。

 もはや、来栖相手に遠慮などというものは捨て去ったらしい。


 太すぎず細すぎず、といった様子の吾妻の白い脚――今まで気づかなかったが実は絶妙な曲線を描いている――が、ぺたぺたと音を立てながらフローリングの床を動くのを、ぼんやりと眺めていた。

 ずっとやめていたくせに、何故だか今、無性に一服したくなった。

 乱れたシーツの上で膝を立て、ベッドヘッドに背中を預ける。


 吾妻の言う通りにしてみたものの、結局自分たちの関係がはっきりしないのは相変わらずじゃないか、と思わないでもなかったが、ブラインドの隙間から差し込む朝日に、そんな台詞は飲み込んだ。


 手を伸ばす。

 カシャンと軽快な音を立ててブラインドが上がる。

 来栖は目を細め、軽く伸びをする。ベッドの隣は、まだ、あたたかい。

 なんだかなあ。くしゃり、と寝癖のついた頭を枕に押し付ける。


 その時ちょうど浴室から、シャワーの音が聞こえだした。




  -THE END-


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