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Fall in Love?



 目がしぱしぱする。

 何度か目をこすると、うっすらと手の甲にアイシャドウがうつっていて、昨日はメイクを落とさないまま眠りに落ちたのだと分かった。


「うっそでしょ……」


 紗江は裸のままくしゃくしゃになった布団に丸まった自分を見、紗江の隣で背を向けるようにして眠る男の広い背中を見、かけられた布団をめくって何度見ても下着をつけていないことを確認し、ようやく重たいため息をついた。

「あーあ……」

 見慣れない天井が、自分の部屋のそれではないことぐらいは、とっくに気づいている。

 紗江の穏やかならぬ胸中とは対照的に、隣の男は健やかな寝息を立てていた。

 紗江は昨夜の自分へ、思いを馳せた。




 紗江の勤めるメーカーの新たな顔となったメンズラインコスメのヒットを祝して、飲み会が行われたのはちょうど昨晩のことだった。と言っても課内だけの、内輪のものだったが、それでも例の発案者の来栖が主役とだけあってずいぶんな大所帯となった。

 ここぞとばかりに来栖に擦り寄る女性社員はもう珍しくもなんともないので、紗江は少し離れたところで飲んでいた。

 2軒目ではまだ足取りもしっかりしていたと思う。

 そもそも、紗江はそんなに酒に弱い方ではないのだ。

 ただ昨日は連日の睡眠不足で疲れがたまっていたことが災いしたのか、普段よりいくらか酔いが回るのが早かった。

 大学時代から社会人になった今まで、完全に潰れるほど飲んだ経験がほとんどなかったことも悪かった。

 気づけば裸で、それも男とラブホのベッドの上で、朝を迎えることとなる。


 紗江は隣で眠る男を起こさないように、慎重にベッドから降りた。

 床に落ちた服をうんざりしながら拾い上げ、バスルームへと向かう。

 今日が土曜でよかった…。紗江は災難の中から数少ない幸運を挙げて、胸を撫で下ろした。

 平日ならとっくに遅刻する時間帯だ。そもそも今いるラブホの場所はいったいどこなのか、会社から近いのか離れているのか、何もわからない。


 昔から、アルコールを飲むとセックスしたくなる。

 それが紗江だけのことなのか、他の人もそうなのか、紗江には分からない。

 ただ、潰れるたびにこんなことになるんじゃおちおち飲んでられない、と思う。

 紗江のあまり多くはない酒での失敗の結末は、大体今日と同じようなものだ。

 

 紗江は再びこぼしそうになったため息を今度は飲み込んで、ぎゅっと蛇口をひねった。

 熱いシャワーが素肌をうつ。

 

 ただ以前の時よりも厄介なのは、相手が顔見知りだということだ。

 こんなことが同僚の女性社員たちに知れたら一大事になることは間違いない。

 その時のことを想像して、ぶるりと背を震わせた。

 きゅ、と心中とかけ離れた軽やかな音を立てて蛇口が閉まり、シャワーは止まった。

 ぽたり、ぱたりと幾粒かの水滴が思い出したように落ちてくる。


 紗江は眠っている男、来栖が目覚める前にホテルを出ようとボディーソープに手を伸ばした。




 つい先日のコンペでは、いつかと同様に結局来栖の案が採用されて、紗江としてはもう来栖と張り合う気力も萎えていた。

 さすがにこの歳になってまで頑張りが必ず認められるとは思っていないが、それでも最近の自分はあんまりだと思う。

 土曜日の朝。人影のまばらな電車に揺られながら、紗江はふらりと揺らしたパンプスの先を見つめた。

 そもそも他に何人かは年頃の同じ男性社員が少ないながらもいただろうに、なぜ敢えて苦手というよりも、一方的に紗江が嫌っている来栖と寝たのだろうか、と紗江は昨晩の自分が不思議でたまらない。

 紗江の来栖に対する印象が悪いのは、ある種の“僻み”みたいなものだと自分でも分かっている。

 ただ分かっているからと言って、自分ではどうしようもないのだが。

 

 ベッドサイドに置き去りにしてきた諭吉。

 給料日前だけに、今になって後悔するぐらいには懐具合が厳しい。

 夕食の何日分かが侘しいものになり、来週買う予定だったワンピースが買えなくなるだろうが仕方ない。


 がたんがたんと程よい揺れに身をまかせながら、『そう言えば男の人と寝たのはずいぶん久しぶりだ』と、ふと紗江は思った。


* * *


 例えば。

 紗江は来栖に対して何を言うべきなのだろう、と思う。


 「この間はご迷惑をおかけしました」とでも?そんなこと、言えるわけない。

 そもそも何もしない方がいいんじゃないだろうかとさえ思う。

 今まで『酔ったのちの一晩限りの男』というのがいないわけではなかったが、ろくに互いの名前も知らないまま翌朝はあっさりと別れてしまうので、参考にはならない。

 結局、悶々としたまま数週間が過ぎた。

 来栖と目が合った瞬間かちあった視線をぱっと逸らしたり、挙句の果てには逃げるように去っていったりするのはさすがに我ながらやりすぎだと思う。しかし、どんな顔をすればいいのか分からずにそうしてしまうのだからしょうがない。

 来栖もさすがに社内の、どこに人がいるか分からないような場所で、あの晩のことを話すつもりはないのだろう。日に日に眉間の皺を深くしながらも、紗江に何か言ってくることはなかった。

 だから、来栖としてもあの時のことは酔った上でのこととして忘れてくれるのだと思っていた。


 つまり。

 紗江は完全に油断していたのだ。




「ちょっと待った…!」

 今にも閉まりそうなエレベーターに、来栖は無理矢理腕を突っ込んできた。

 ちょうどひとりでエレベーターに乗り込んでいた紗江は驚きながらも、慌てて扉を開けるボタンを叩く。

「何やってるんですか、来栖さん!危ないですよ…!」

「……」

 無言。

 

 あーもう、だからこの男は苦手だ。さすがに口には出せず、紗江は心の内で叫んだ。

 顔がよく仕事もできて、どうやら女にはよくモテるらしい。

 紗江だって前の二つまで否定する気はない。いくら紗江が偏見交じりの穿った評価をしようとも、来栖がえらく見栄えのいい顔立ちをしていることは否定できない。仕事に至っては幾度かコンペや企画会議で打ち負かされた紗江だからこそ、よくできるのは分かっている。

 でも。

 モテるんならそのソツのなさを自分にも披露してくれ、と切実に紗江は思う。

 以前、後輩の尻拭いのため、何を間違ったのか二人で深夜の高速を社用車で急ぐことになったときも、終始おもしろくなさそうな顔をしていたし。

 まあ、そりゃ面白い仕事ではなかったが。

 しかし、少しぐらい雰囲気をよくしようとか、そういう努力はしないのか。

 挙句の果てには「俺の名前知ってたのか」ときた。


 物思いにふけっていた紗江は、しばらく名前を呼ばれたことに気づかなかった。


「…ん。おい、吾妻あづまさん」

「……え?はい?」


 こんな男でも、自分のことを名字にさん付けで呼ぶのだな、と思うと、どうでもいいことだがなんだかおかしかった。

 しかし、そんなことは来栖のせいで一気に吹っ飛ぶ。


「今日はもう上がりだろ。それなら、今から夕飯食べないか」


 食べないか、と言葉の上では誘いの形でありながら、エレベーターに駆け込んだせいで少し息が荒れている来栖は『断ったらただじゃおかない』と無言の圧力をかけていた。

「……はい」

 他に何か答えようがあったのなら教えてほしい、と紗江は誰にともなく思った。




「食べられないものは?」

「…特にありません」


 だからと言って何も会社近くのよく行く居酒屋に黙って連れて行かれることはなかっただろうと数十分前の自分を叱りつけたかったが、賢明な紗江はうつむいて運ばれたばかりのウーロン茶を口に運んだ。

 来栖はちらりと紗江の持つウーロン茶のグラスに目をやって、自分のビールを一口飲んだ。

 そう簡単に潰れることはないのにわざわざウーロン茶にしたのは、あの晩の二の舞になるのを絶対に避けるためだったが、来栖の様子から見てそれは気づかれていると考えて間違いない。

 話があるから誘われたのだろうということは分かっている。


 それにしても自分で誘ったくせに来栖の仏頂面ときたら。

 紗江の憂鬱は一層増した。


「……それで?」

「…何ですか?」

「何か俺に言うことがあるんじゃないのか」

「……いえ、特には」

「……」

 沈黙。

 来栖のぴくりと跳ね上げられた片眉が、不満をあらわにしている。

 その険悪な雰囲気を傍若無人にたたっ切って、

「お待たせしましたー」

 大学生らしいはきはきしたバイト青年の声がした。

 失礼しまーす、と声をかけ料理をテーブルに置いていく青年の笑顔が、今の紗江にはなんだか痛い。

 バイト青年が忙しげな足音を立てて去っていく。

 座敷に通してもらったのも失敗だった、と紗江は思う。

 こうして何かの尋問のように顔を合わせられては話せるものも話せない。

 せめてカウンターにするんだった。

 これ以上沈黙には耐えきれずに(そして来栖の機嫌悪そうな表情にも耐えきれずに)、紗江は口を開いた。


「あー…あのー…、この間、ご一緒した時はご迷惑をおかけしたみたいで、なんかすみませんでした。ホテル代、あれで足りました?」

「あんった…なあ……」

 一気にビールを飲み干し、来栖ががんっと乱暴にグラスをテーブルの上に置いた。

「朝目が覚めたらあんたはいないし、裸の万札がぽんっと置いてあるし、書き置きも何もないし、次の週から俺の顔見ちゃ逃げ回るし…。言っとくけど、今のあんた、立派な『ヤリ逃げ』だぞ?」

 

 …ああ。

 紗江は嘆息する。

 あんな格好であんな場所にいたとはいえ、もしかしたら何もなかったのではないかと淡い期待を抱いていたのに。あー、まあ例えば、酔って来栖をホテルに連れ込んだものの、いたす前に紗江がつぶれて、呆れた来栖は何もせずに寝た、とか。かなり苦しいものがあるが。


 耐えきれずにテーブルに肘をついて頭を抱えた紗江は唸るように言葉を漏らした。

「じゃあ、私、ほんとに来栖さんと寝たんですね」

「……は?」

「すいません。覚えてないんです、何にも。来栖さんと寝たかどうかどころか、何軒目まで飲んでたのか、どうやってホテルまで行ったのか、そもそもなんで来栖さん誘ったのか、とかともかく全然覚えてないんです、そのへんのこと」

 いつも隙がないように見える来栖でもこのときばかりは絶句しているのが感じられて、紗江はもう突っ伏したくなった。


「嘘だろ…」

「すみません……」

「何も覚えてないのか」

「…はい」

「何も?……あんたが俺に何を言ったか、も?」

「……はい」


 自分は来栖にいったい何をぶちまけたのか。

 紗江はすう、と血の気が引いた思いがした。

 紗江が来栖に抱いている印象はろくなものじゃない。来栖に自分が何かを言ったのなら、十中八九暴言を吐いたと考えた方がいいだろう。


「あんた、ほんと……」

「…はい、すみません。今、猛省してます。以後、気をつけます。ここも私、払いますから」

 ようやく紗江が顔を上げると、じとりと来栖が睨んできた。

 だから、近くの店員を呼び止めて、1番高い刺身盛り合わせから順にすらすらとオーダーを追加した来栖に抵抗するすべなど、紗江にはなかった。




 当たり前のように押し付けてきた伝票を無言で受け取った。

 会計を済ませ外に出ると、先に出ていた来栖が紗江に何かを手渡してきた。

 名刺だ。

 来栖の少し後ろに並んで歩を進めながらも、名刺を眺める。当然だが、別にこれといって新しい情報はない。

「……何ですか?」

「…裏」

 言われたとおり裏返すと、クセのある右上がりの字で乱暴に携帯の番号らしき数字の羅列とメールアドレスが書き殴られていた。

「それ、私用の携帯だから」

「え、いや、これは…?」

 紗江は困惑していた。

 正直、話はこれで終わりだと思っていた。

 困る紗江の様子など知らないように来栖はすたすたと駅へ向かう。店からすぐ近くだ。

 ホームまで着いたときようやく来栖は紗江を見下ろして、

「家に着くころにはメールしろ。じゃないと今度こそ社内であんたを引っ張ってくぞ」

 どこへ?とかなぜ?とか、そもそもなんで全部命令形なんだとかは聞けなかった。とにかく紗江はうんうんと頷いておく。

 ホームに電車が滑りこんでくる。

 ぞろぞろと車内に吸い込まれていく人の波に乗ろうとして、一向に動かない来栖が気になり振り向いた。

「来栖さん?乗らないんですか」

 来栖はあっさり紗江が乗る上りの電車とは反対側の沿線の駅名を挙げ、自分の家はそこから歩いてすぐだと告げた。

 つまり、来栖の乗る電車は反対側のホームに来る。

 来栖はそれだけ言うと紗江の乗った電車が発つのも待たずに、くるりと背を向けると反対側のホームへ行くために階段を上りだしたのだった。




 それにしても妙なことになった。

 そんなことを思いながらそっと足元に目をやると、今日のパンプスは、あの日ラブホから逃げるように去り、早朝の電車でふらりふらりと揺らしたあのパンプスと同じものだった。

 試しにかかかとを軽く床に打ちつけてみると、コツンと小気味いい音がした。


 来栖の背中を思い出す。

 思っていたより滑らかな肌をしていた。隆起した肩甲骨が作る陰影。

 電車が動き出すよりも前にさっさと向けた背中。背広のダークグレー。

 もしかしなくてもさっき来栖が反対側のホームまでわざわざ来たのは、自分を見送るためだったのだろうと、紗江は今になってようやく気づいた。


 ともかく、紗江はとりあえず来栖の番号とアドレスを登録してしまうことにしようと、携帯を開いた。

 今頃は同じように電車に揺られているだろう来栖の顔がちらりと浮かんだ。




  -THE END-



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