End of Love? 6
最初は唇の柔らかさを確かめるような、蜜柑の房を口の中でもてあそぶような、そんな口づけだった。
まったくなんだってこんなとこでこんな女とキスしているのか自分自身不思議で仕方ないのだが、来栖の意思に反して彼の手は髪の毛に覆われた彼女のうなじをなぞり、そしてきれいに並ぶ背骨の凹凸に指を添わせていた。
吾妻の手が硬い髪質の来栖の髪の毛を撫でる。そのまま吾妻の首筋に鼻を埋めると、少し前、「みはま」に通い、二人で酒を飲み、そのまま同じベッドで朝を迎えた日々の記憶がぶわっとものすごい勢いで蘇ってきた。本当に急に。
「みはま」で飲んだ後、お互いアルコールの匂いがするままキスをしていた。一気に胸をせりあがってきた諸々の感情に驚く。
唇を食むのには気が済んだらしい吾妻がするりと舌を入れてきたのはその直後だった。うなじから指通りのいい髪の毛の感触を味わい、吾妻の後頭部に手を添える。相変わらず、形の良い小さな頭蓋骨をしている、と思うが来栖が吾妻にそれを伝えたことはない。変人扱いされることは分かりきっているので。
吐く息もシャツ越しに伝わる体温も熱がこもっているくせにやけにひんやりしている吾妻の指先が、来栖の耳の形を確かめるように触れる。さんざん髪の毛ぼさぼさにしやがってと思うが、文句を言うには口づけを中断しなければならないのでやめた。その指先の冷たさに驚いてびくりとすると、喉の奥で吾妻が笑う気配がした。
こういうところがいちいちむかつく女だ。
「そんなんで大丈夫なんですか」
唇は触れたままぼそっと吾妻が言った。
「私のことばっかり考えながらあの人と結婚なんてできるんですか?来栖さん」
笑える。
「そっちこそ。そんなんで新しい男とやっていけるのか」
じっと吾妻が来栖を見つめてきた。意志の強そうな瞳から、吾妻の考えを読み取ることはできない。
「いい加減諦めた方がいいと思いませんか」
何の事だか分からず怪訝な顔をした来栖に吾妻が続ける。
「石頭な来栖さんとうまくやっていけるのは私ぐらいなものですよ、実際」
「……吾妻」
「……なんですか」
「結婚するか」
「……はぁっ?」
飲み会を抜け出したトイレの中。狭苦しい個室で、お互い酔っ払い。それぞれに別に恋人を持っている。
そんな状況で吐くような台詞ではない。
「そんな風に泣いてすがってこられたらな」
「何言ってるんですか、泣いてないし、すがってなんかいませんよ…」
吾妻が目を見開く。うるんだその瞳は少しでも油断したら、ぼろぼろと一気に涙腺が緩んで涙がこぼれてしまいそうだ。さっきまで欲情に駆られて動いていたはずの来栖の手が、今はゆっくりと吾妻の背中をさすっている。この女のちょっとしたことに苛立ち、心が波立つくせに、隣にいて一番落ち着くのもまたこの女だという事を本当に奇妙に思う。
「結婚すれば俺はいちいちあんたのことにわずらわされなくて済むし、あんたも余計なことを考えずに済む」
「なんて理由で、そしてなんて場所でプロポーズするんですか、ほんとに……」
文句ばかり言うくせに背中に腕をまわして、その腕に吾妻がぎゅっと力を入れた。そんなことしたら背広が皺になるだろうが、と思ったがやはりこれも言わないでおく。
「来栖さん」
「なんだ」
「さっさとあの人と別れてくださいよ」
「あんたこそあのへらへらした男をはやくどうにかしろ」
「なんで知ってるんですか」
「言うか、馬鹿」
「来栖さん」
「だから、なんなんだ」
「今気づいたんですけど、好きです」
「遅い」
「来栖さんが突飛すぎるんですよ」
外から気忙しいノックの音。
抱き着いてきた吾妻の髪からかぎ慣れたシャンプーと汗のにおいが香って、くらくらした。
『あれー、すいませーん。誰か入ってますー?』
さて、ここからどうやって出ようか。
***
「開発の来栖さんって本当いいよねー」
ランチタイム。
低カロリーで栄養バランスがいいと女性社員に評判の社員食堂。若い女性社員がせっかく頼んだ和風定食もそっちのけでハイテンションに話し続けている。6人掛けのテーブルには3人が席についている。端2人分に座る若い女性社員は話に花が咲いているようだ。ひとつ席を空けて1人で座る女性社員はもくもくと食堂で一番ボリュームのある梅おろしチキン定食を食べている。
「午前中、経費の精算に来た時初めて見たんだけど、ほんと聞いてた通りのかっこよさだった!」
「いいなー、この間CSに来てたらしいんだけど私たまたま席外しててみれなかったー」
「はー…彼女とかいるのかなーやっぱいるよねー…」
「でも、昔上司の娘との縁談の話が出たけど結局断ったらしいよー、もったいないよねー。独身主義かなんか?」
「さあ?同期の開発の子にセッティングお願いしようかな、親睦会っていう体で!」
きゃいきゃいと話し続ける2人の元にまた1人やってくる。昼食時の社員食堂は盛況で、あっという間に空席は埋まってしまうのだ。
「ごめん、ここいい?」
「あ、先輩!お疲れ様でーす。どうぞどうぞ」
にっこり笑う2人。2人の先輩社員だったらしく、2人とも会釈をする。
「なんかえらく盛り上がってたみたいだけどどうしたの?」
「いやー、今日開発の来栖さんが来たんでかっこよかったねーって話してました!」
「うまいこと一緒に飲み会とかできないかなーと思って」
「へーえ」
その間も1人、梅おろしチキン定食を食べていた女性社員が食事を終えたらしい。すべて平らげ、きれいになった皿をトレーの上でてきぱきと重ねて立ち上がる。椅子を引く音に3人が目をやり、そのうち1人がぎょっとした顔をする。
「吾妻さん!お疲れ様です」
「あぁ、なんか久々だね。先々月に飲みに行ったぶりくらい?」
「はい!またワインがおいしいお店見つけたんで、行きましょうよ!今週末くらいにでも」
「いいね、前送別会してくれたとこもワインおいしかったし期待してる。後で場所とかメールして」
「はい!」
「じゃあ、また」
ひらりと手を振って、そのままさっさと食器を返却しにいってしまう。
「はぁ…」
「開発の方ですか?」
「あんたたち誰の前で来栖さんの話とかしてんのー」
無駄に焦ったじゃん!と膨れる先輩社員に、
「ええー?」
2人が訳が分からない、といった様子で顔を見合わせる。
「あの人、ブランドの吾妻さんだよ。前、開発にいた」
「はー…そうなんですか。えーっと、それで?」
「だからー!吾妻さんの前で来栖さんと一緒に飲み会したいとか言ったらだめじゃん!」
「えー?!なんでですか?!もしかして付き合ってるんですか?!」
動揺を隠せない2人に、先輩社員の方が呆れる。
「付き合ってるも何も、吾妻さんの旦那さんが来栖さんだよ」
「えぇええー!」
「っていうか苗字違うじゃないですか!しかも結婚してるなんて一言も聞いたことないですよー!」
「仕事に不便だっていうんで、結婚後も苗字変えてないんだって。うわー…二人とも知らなかったのかー…」
それはご愁傷様、と失笑される。
「あー…なんか食欲なくなったー」
「私もー…」
「まあまあ。吾妻さんくらいにならないとあんなかっこいい人と付き合えないよ」
「はああぁああー……」
にぎやかだった2人は一転して、意気消沈してまだ手つかずのおかずも残っているトレーをもって返却口へ、とぼとぼと歩いて行った。
***
「あー…美味しい」
来栖秘蔵の焼酎をあっさり見つけ出して、あろうことか水割りにして半分以上飲んでしまったのは先に帰宅した吾妻である。
「あんたは……」
「意地悪く自分ひとりでしまっておくからですよ」
「しかも水割りなんかにするな、もったいない。ロックで飲めロックで」
「怒るのはそこですか」
とはいえ、来栖の方にも吾妻のとっておき森伊蔵を勝手に飲んでしまった前科があるのでそう強くは追及できない。
「おかえりなさい」
「……ただいま」
グラスを置いて、吾妻が立ち上がる。来栖の首元に指をひっかけ、ネクタイを緩めた。
唇がそっと触れるだけのキスをする。
「そういえば、今度飲み会あったらどういう人がくるのか教えてくださいね」
「あ?…ああ」
くしゃりと自然に頭の上に乗ってきた大きな掌に「まあ、でも余計な心配か」と思わないでもなかった。
「あんたもよそで飲むときは連絡しろよ」
「はいはい」
「二回も言うな」
「はいはいはいはい」
「……」
着替えにいった来栖の背中を見送って、もう1人分のグラスを用意するために吾妻は立ち上がった。
-The End-