第一話『女の子の友情』
――私、見ちゃいました。
皆さん、こんにちは。
私の名前は、彼岸花幽子。職業はゴーストライターです。
春先の暖かな日差しに誘われ、今日も創作の題材を求め流浪の道行、もとい現実逃避の散歩に出かけていた時のお話になります。
大きな自然公園の一角、一つのベンチに私は腰を下ろしておりました。陽気はぽかぽかと心地よく、本当に創作の題材などどうでもいい気分に陥り、呆けていた時にそれは起こったのです。
――一つの怒気をはらんだ大きな声。
発生源はすぐ隣のベンチからでした。そこには少女が二人座っておりました。中学生ぐらいの年頃でしょうか。私の親戚の妹と同じ頃に見えます。制服も同じ物でした。
この二人、先ほどから傍目にじゃれ合いに近い程度の言い争いを続けていたのですが、何かのきっかけに少し箍が外れてしまったのでしょう。片方が明らかに必要以上に大きな声を出してしまいました。
その少女もすぐさまはっとし、それを後ろめたく感じた節はあるのですが、幸か不幸か周りには二人が気に留めるような人が全くいませんでした。そのため、白い目で見られることはなかったのですが、どうにも矛を収められなくなってしまったようです。
ついつい、二の矢を放ってしまいました。
それには相手の少女も不愉快だったことでしょう。売り言葉に買い言葉。お互いに歯止めが利かなくなり、言い争いが続き、程なく両者はベンチを立ち歩道を反対に歩いていきました。
呆気にとられていた私はその様子を終始眺めるにとどまり、結果仲裁も何もできませんでした。
互いが見ないように、見られないように零していた涙を唯一見てしまった私は、なんとも居た堪れない思いに胸を痛めました。
半時ほど過ぎ、十六時。彼岸花幽子は自然公園から歩いて十分弱の位置にある、月ヶ丘中学校の校門の横に立っていた。
見た目の年齢は十七歳。腰まで伸びる不思議と淡い黒髪は解れることなくさらりと流れ、右後ろの一房だけ三つ編みにしている所はなかなかに可愛らしい。春らしい薄桃色の和服を違和感なく着こなし、肩に掛ける葡萄酒色の薄手のショールが落ち着いた大人らしさを印象付けていた。
あどけない表情と合わさり、幽子はかなりの美少女だった。
――で、あるというのに。
「ねー、ねー。どこかで甘いもの食べていこうよー」
「また、それ? 太って泣いても知らないわよ」
通り過ぎる女子二人組。
「よしっ、それじゃあまた後でなー」
「おう帰ったら連絡するぜ」
「んじゃなー」
走り去る男子三人組。
と、このように下校する中学生が何組も何人も幽子の前を素通りしていく。誰一人として、幽子に気づく者はいなかった。
幽子にとってそれはまあいつものことなので、特に気にすることもなく立っていた。どちらかと言えば、そよ風が気持ちいいなー、と取り留めもないことを考えているくらいであった。
ところで、と改めるほどでもないが、幽子がこうして立っているのは待ち人がいるからである。いつもは幽子の散歩中に合流したり、幽子のアパートに待ち人が直接訪ねてきたりと、割方に適当である。今日はたまにある用事のために、こうして待ち合わせをしているのであるが、待ち人はなかなか現れなかった。委員会の仕事があると言っていたので半時ずらして来たのだが、まだ少々早かったらしい。
とはいえ、用事までまだまだ時間に余裕はある。ぼうっとする幽子の思考は、風が心地いなーとか、日差しが暖かいなーとか、そういったことばかりに埋め尽くされていた。
そんな調子で待つことしばし、誰も気づかない幽子に近づく一人の少女の姿があった。
「……あれ?」
少女は小首を傾げる。相手から認識されてもおかしくない距離まで近づいても、幽子が自分に気づいた様子がないからだ。
また、ぼうっとしているのかな、と少女は判断し、鞄の中からスマホを取り出した。少女はなぜかタッチパネルに触れることなく、そのまま耳に当てる。――そして、
「お姉ちゃん。お待たせ」
「わっ!?」
山の小川の様な涼やかな声を耳元で囁かれ、幽子の意識は急速に現実に引き戻された。
「あっ、君歌ちゃん。おかえりー」
君歌の姿を認めた幽子はゆっくりとした口調とともに微笑む。その様子に、君歌はなんとなくほっとしてしまう暖かさを感じた。
少女の名前は彼岸花君歌、名字から分かる通り幽子と君歌は親戚同士である。直接姉妹というわけではないのだが、君歌は幽子のことを姉として慕っており、幽子もまた君歌のことを妹として可愛がっていた。
幽子に似た色合いの黒髪は肩までの長さ、右目側の前髪をピンで留めている。髪質も似通っているため、血は遠いが姉妹に見える。今年中学三年生になり、ますます大人びた印象を幽子は受けていた。
「それじゃあ、行こっか。お姉ちゃん」
「そうですね。時間は大丈夫でしょうけど、そろそろ行きましょうか」
二人は連れ立って歩き始めた。
君歌から今日の学校での出来事の話を聴きながら、用事の目的地へと歩を進める中、君歌はずっとスマホを耳に当てていた。そして、不思議なことに幽子からも君歌からもそのことを気に留めている様子が見受けられない。
「それにしてもお姉ちゃん、その髪のハネ直す気ないの?」
「ふふっ。これくらいしか私はそれらしい個性がありませんから~」
学校の話があらかた出尽くしたのか君歌は話題を変える。幽子は不敵に微笑むが、君歌としてはやはり気になるのだろう。ハネと言っても一部だけ、数本が纏まって外向きにハネているだけである。基本的にストンと流れている中でハネているわけだから、目立つと言えば目立つのだがそれ自体はそこまで変ではない。そして君歌も、何もしっかりと櫛で梳いて欲しいと神経質になっているわけではない。
そう、そこが問題ではないのだ。
「だって髪の毛の先が燃えてるんだよ。気にならないの?」
「だってこれがなくなったら私、自分の正体に自信が持てなくなりますよ」
幽子のハネた髪の先には、青白い炎が灯っていた。別に光が強いわけではない。別に熱を発しているわけではない。ただ、幽子と君歌の身長差的に、ちょうど君歌の目の上辺りにふよふよと灯火が浮かんでいるので少々気になるのである。
だが、幽子の言い分も君歌は分からないわけではなかった。こうして横に並んで歩いていても普通の人と遜色ない。いや、むしろ自慢できる綺麗で可愛らしいお姉ちゃんであった。
しかし髪の毛に炎を灯して平然としていられる人間が普通であるわけがなかった。そして、君歌以外に認識されることがなかった事実も踏まえると、おのずとその正体は測られる。
「私、これでも一応。幽霊なんですから」
若干自信無さそうに言う幽子はその実、歴とした幽霊であった。霊体として完全に安定しており、頭のてっぺんから足の先までしっかりと元の姿を構築しており、君歌からは全く違和感なくその姿を認識できるため、生きている人間との差など髪の毛の灯火ぐらいだけだった。そのため、他の人には見えないものが見えているという認識はありつつも、あまり実感が湧かずにいた。
君歌のスマホもそういった理由があるからである。電話をしている振りでもしないと、独り言を喋り続ける怪しい少女に様変わりしてしまうからだ。
「うーん。もうちょっと背が伸びたら気にならなくなるかなぁ」
「私としては、妹に背を抜かれたら悲しくなるのですが。できたら、小さいまま大きくなって欲しいですね」
「……お姉ちゃん、言ってることめちゃくちゃだよ」
ひとしきり笑い合う二人。
「そういえば、お姉ちゃんは今日どうだったの? 何かいいネタ見つけられた?」
早くも再び話題が入れ替わる。今時の中学生、というよりも若い女の子の前向きな思考展開に、幽子は感心した。見習わないと、と何気にこちらも前向きな姿勢を見せていた。
「そうですねー。……あっ」
「どうしたの?」
公園で見かけた二人の少女を思い浮かべ、幽子は少々悲しげな表情を浮かべてしまった。その変化に気づいた君歌が不安そうに訊いてくる。妹に聞かせて面白い話とは到底思えないのだが、同じ中学校の生徒のようであるし、知り合いである可能性も否めない。何よりこのまま黙っておくと、君歌を余計不安がらせてしまう気がしたため話してみることにした。
「――ふむふむ、あの二人かなぁ?」
「えっ!? 本当に知り合いにいたの、それっぽい子たち?」
ざっと、あらましを説明したところ、早速心当たりがあったらしい。逆に幽子の方が驚いてしまう結果となった。
「うん、お姉ちゃんが聞いた名前もおんなじだし、クラスメイトの子たちで間違いないと思うよ」
「そうだったんだ。……なんとか仲裁してあげられればよかったのだけど」
君歌とも繋がりがある子たちだったこともあり、幽子は先ほど以上にケンカを止められなかったことを悔やんだ。
「し、仕方ないよ。お姉ちゃん幽霊なんだから。相手が気づいてくれなきゃ、仲裁出来るものも出来ないよ」
「……うん。ありがとう君歌ちゃん」
君歌の優しさが、嬉しかった。妹が優しい子に育ってくれていることも嬉しく感じた。
「それに、あの二人はたいていケンカしてて。それでもいっつも一緒に過ごしてるような仲良しさんたちだし。明日にはいつもみたくケロッとしてると思うよ」
「……うーん。そうですか?」
「そうそう。ほら喫茶店見えたよ。野竹さんもたぶんもう来てるだろうし、早く行こう」
「う、うん」
幽子の手を引き、早足で目的地に向かう君歌。その後ろで幽子はうーんと首を傾げていた。
丘の中腹にある喫茶『猫の小路』は、木造の暖かさとレトロな雰囲気が落ち着く店である。
幽子と君歌の二人が入店すると、すでに八割方席が埋まっていた。ここよりさらに丘の上にある高校もちょうど授業終わりのためやや混み合っているのである。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」
ふわっとした茶髪の、君歌よりやや年上のウエイトレスのお姉さんが、君歌の入店に気づきトテトテと近づいてきた。話し方とか雰囲気のぽわぽわした感じがお姉ちゃんに似ているなぁ、と君歌は好感を抱いている。
ところで、そのお姉ちゃんはというと、もう何度も来て見飽きているだろうに、ウエイトレスの黒を基調としたエプロンドレスに目を輝かせていた。
「すみません。待ち合わせなのですが……」
幽子のことは意識から外して、店内を見渡す。すると、
「おーい、君歌ちゃん。こっちだよ」
店の一角から声がかかる。目を向け、目的の人物を視認することが出来た。ウエイトレスのお姉さんにお辞儀して、幽子の手を強めに引っ張って、そちらに向かう。少しだけ幽子は残念そうにしていた。
「すみません、お待たせしてしまいましたか?」
「いや、気にすることないよ。私も今来たところだからね」
待ち合わせの時間にちょうどといったところだが、年上の人を待たせてしまったことに心苦しさを覚える君歌だった。待ち合わせの相手は、それこそまったく気にした様子などはなく、流石大人だなぁ、と君歌は感心していた。
待ち合わせの相手は野竹さんという、二〇代後半の女性である。長い髪を後ろでアップに纏め、メリハリのある肢体でパンツスーツを着こなし、ハツラツとして気配り上手な、ザ・大人の女性で憧れてしまう存在である。
「ほんとに、かっこいいお姉さんですよね~」
「それはそうだけど、一応お姉ちゃんの方が年上なんだよ?」
「ほら私、永遠の一七歳ですから」
「死んじゃってるからね」
野竹さんの前の席に座りながら、君歌と幽子はこそこそと話した。
「君歌ちゃんは、確かアッサムでよかったよね。それとも今日は別のにしてみる?」
「あ、はい。えと……」
二人の内緒話に気づいた様子もなく、野竹さんはウエイトレスに声をかける。君歌は少し慌ててメニューを開き、ウエイトレスに注文する。野竹さんも同じく注文し、二人の注文の品が来るまでの間、二、三分ほどの間それぞれの近況を話した。
「――さて、それではそろそろ打ち合わせを始めましょうか」
「はい、お姉ちゃん呼びますね」
頼んだ飲み物が届いたのを合図に、野竹さんは仕事モードに切り替える。君歌は手慣れた動作でスマホを操作する。
とはいえ、実際は操作している振りである。
「準備出来ました」
「いつもお世話になってます。今日はよろしくお願いします、幽子先生」
君歌が掲げるスマホの画面に向かって、野竹さんは深々と礼をする。そのスマホの画面には、
『いえ、こちらこそいつもお世話になっております。よろしくお願いします』
同様に礼をする幽子の姿があった。どうなっているかは、簡単な話である。幽子は君歌のスマホの中に入り込み、画面に自身の姿の像を結んでいるのである(髪に灯した鬼火は隠している)。霊として強い力を持つ幽子は物理干渉力が高く、こういったことを平然とこなせるのである。
頑張れば実体化も不可能ではないのだが、こちらの方法が肉体的に、ああいや、霊体的に楽だからということで、君歌の協力のもとテレビ電話という体裁で打ち合わせはこのスタイルを通している。ちなみに、テレビ電話の理由は恥ずかしがり屋ということにしている。
それでは、いったい何の打ち合わせかというと、
「幽子先生、先月号の連載の評判相変わらず良かったです」
『そうですかー。ありがとうございます』
「それと、新作『たられば日記』の重版が決まりましたよ」
『わぁ、ほんとですか。嬉しいです』
「それで、来月号の連載についてなのですが――」
『はい。そうですね、少し脇の人物に目を向けて世界観を固めたいと――』
そう、会話からも察せられる通り、幽子は作家業についていた。具体的に言えば小説家である。冒頭、幽子が言っていた『ゴーストライター』というのもこのことである。『幽霊の作家』というフレーズを幽子は気に入っていた。
さてさて、打ち合わせの内容にあまり面白い所はないため、その間に幽子について少しばかりの補足をしておく。
彼岸花幽子というのは正確には本名ではない。彼女の本名は彼岸花酉子、読みは同じだが漢字が一文字違う。
彼女が生まれたのは三〇〇年程も昔の酉年の春。江戸時代の武家の次女として生を受けたが、事故死。享年は一七だった。
前述の通り霊体として強い安定性を持っているため、死んでいるが最早不死の存在に近く、死んで三〇〇年経った今でも変わることなくその姿を維持するに至っている。
三〇〇年間のほほんと幽霊生活を送ってきた幽子であったが、十数年ほど前からついに暇を持て余すようになり(それでも、かなり今更な感は否めないが)、小説を書き始めることにした。
余談だが、ポルターガイストを使いこなせる幽子には、その応用で物を持つことや歩くなどといった行動を、本人自身がなんら違和感なく行える。元々物理現象に囚われない彼女が生前同様の行動を取るためには重力を疑似的に感じたり、物体からの反発を感じたり、と複雑な力の作用を理解しなくてはならない。そのため、原稿用紙に文章を書くといった細かい作業を霊体が直接筆を持って行うことは、実はとても高度な技術なのである。
そんな生活が続き、いくつか作品を仕上げるうちに、幽子は受賞を果たした。三〇〇年という途方もない時間に積み重ねてきた感性が一助となったのかもしれない。これを機に小説家になる決意をした幽子は、役所のネットワークに忍び込んで戸籍や住民票などを偽造し、改めて彼岸花幽子の名前を登録した。今の幽子というのはペンネームであり、そしてある意味で本名なのである。
「――それでは、連載の方は今の感じでお願いいたします」
『はい。分かりました』
「あっ、それと……」
『?』
野竹さんが珍しく言い淀むので、幽子と君歌は揃って首を傾げる。
『どうかしたのですか?』
「あ、いえ。ちょっと編集長からのお達しでして……」
一呼吸置くと、野竹さんは顔の前で手を合わせた。
「すみませんっ。ご無理でなかったら短編を一つ書き下ろして頂けないかと!」
『短編ですか?』
「はい。実は別誌で一作穴が開いたのですが、編集長が人気の高い幽子先生になんとか頼めないかと言い出しまして。お忙しいのは重々承知ですが、どうでしょうか?」
『あ――』
幽子が答えるよりも早く、
「あ、いえ、無理なら無理で大丈夫です。他を当たりますし、悪いのは編集長ですから。幽子先生と編集長なら秤にかけるまでもなく、私は幽子先生を取りますので」
『えっと、あの……』
「任せてください、断固戦いますよ私は」
『そ、そうじゃなくて、私は別に構わないですよ』
やっと言いたいことが言えた。本来なら『あっ、はい、いいですよ』と二つ返事だったのだが。
「えっ?」
『ですから、書きますよ。短編ですね』
「え、あ、はい。ジャンルはお任せで、頁数はいつも通りでお願いします」
『はい、分かりました』
画面内で、にこっと微笑む幽子を不思議そうに野竹さんは眺めた。
「あの、いいのですか。藪から棒な注文だというのに」
『構わないですよ。野竹さんには締切とかで、いつもご迷惑おかけしておりますし。たまには手伝わせてください』
「ありがとうございます!」
野竹さんは打ち合わせ開始時よりも深く礼をした。幽子はちょっと照れくさかった。
「あ、でも……」
またもや、申し訳なさそうな表情をする野竹さん。
『どうかしたのですか?』
「いえ、その締切のことなのですが。急な代原ですので今週中には頂かないといけないのですが、……大丈夫ですか?」
その言葉に、幽子の動きが凍る。
『今週中……』
「はい、今週中です……」
『…………』
「…………」
『……が、頑張ります』
「……お、お願いします」
深く頭を下げ合う二人。
「あはは……」
邪魔にならないよう沈黙を通していた君歌だったが、これにはついつい苦笑してしまった。
「やっ、おかえりー!」
夕食の食材や原稿用紙などの買い物を済ませた幽子と君歌の二人がアパートの敷地に入るなり、庭先から快活な声がかけられる。目を向けると声の主の少女が二人の元に、いや、この少女も幽子のことは視えないため正確には君歌の元に駆け寄ってきた。
「今日も幽子さんの所かい、君歌ちゃん?」
「ただいまです。いつもお世話になってます、大家さん」
エプロンを身に着け、竹箒片手に近寄ってきた少女は、何を隠そう幽子が部屋を借りているこのアパートの大家さんである。肩にかかる程度の短めな髪、吊り目がちのくりくりとした瞳、エネルギーに溢れた明るい人柄の人物だ。年齢は見た目二〇歳手前なのだが、正確には不明。木造二階建て、全部で六部屋あるこの『月見荘』の一〇一号室に在住しているのだが、昼間はどこかに出かけているようで、見た目通りなら学生のはずだが実際の所は何をしている人か想像が出来ない。
「君歌ちゃん、私も挨拶したいからスマホお願いできる?」
「あ、うん」
幽子の願いに小声で返答し、君歌は鞄からスマホを取り出し操作する。
『大家さんこんにちは。幽子です。いつもお世話になっております』
画面の中で幽子がお辞儀する。
「幽子さん、お久しぶりです。ご丁寧にありがとうございます。こちらこそ長く住んでいただいて嬉しいですよ」
大家さんはニッと笑みを浮かべる。
「君歌ちゃんもしっかり者ですし、中学生とは思えないです。出会った頃は小学生でしたし」
「あ、あはは……」
『自慢の妹ですからね』
「うぅ。……言い過ぎだってば」
二人に褒められ、君歌は照れてそっぽ向いてしまった。幽子も大家さんも優しい眼差しを向けていた。
過言と君歌は言うが、幽子はそうは思っていない。そもそも月見荘に部屋を借りることにしたのも、三年前に小説が受賞したのがきっかけである。住民票を手に入れるにしてもどこか特定の住所を確保したいと思ったからである(執筆のための作業場や資料置き場があると便利という面もある)。この時は流石に生きている人手が必要になり、当時まだ小学六年生だった君歌にスマホ片手に同行してもらったのである。
その頃から君歌はしっかりした子で、不動産屋の店員とも臆することなく対応していた。そうでなければ門前払いを食らってしまっていただろうから、本当に幽子は感謝していた。
その点では大家さんに対しても同じ気持ちだった。なにしろ部屋を借りようという本人がスマホを挟んでしか会話せず、しかもそれを持っているのは小学六年生の女の子である。馬鹿にしているのかと腹を立てられてもおかしくない状況だった。大家さんが大雑把な性格の人で良かったと、本当に思う幽子だった。
大雑把と言えば、幽子と君歌の二人は大家さんの本名すら知らずにいた。月見荘に下見に来た際の自己紹介ではただ一言「大家です」と、大家さんが名前を言い忘れてしまいそれ以来ずっと名前を訊けずにいる。こちら側に隠し事を多すぎるせいで、こんな簡単なことを訊くのも憚られてしまっていた。そのため本人の与り知らぬところで、大家さんは謎の人物にカテゴライズされているのであった。
しばらく待つと君歌も落ち着いたらしく、二人の方に振り向いた。その様子に大家さんはふと思い出し、幽子に話しかける。
「それにしても、恥ずかしがり屋も大変ですね。たまには会って話してみたいものですが」
『えっ……。えっと、それは』
「ああ、すみません無理言って。気にしないで下さい」
別の理由とは気づかないにしても、幽子が心底困った表情を浮かべたのを窺い、慌てて胸の前で両手を振る。
編集の野竹さんと同じく、大家さんにももう三年もお世話になっているわけだから、直接お礼を言いたい気持ちも幽子の中にはあるのだが、いかんせん手段がない。実体化は疲れるが確かに可能ではある。しかし保てて数分程度でしかなく、去り際を誤って捉まってしまうと相手の目の前で消えてしまうという文字通り心霊現象を起こしてしまうわけである。流石にそんな、場合によってはトラウマを残しかねない怖ろしいことは出来ずにいた。
「そういえば、仕事の調子はどうですか?」
大家さんは普段と変わらぬ調子でさらりと話題を変えた。いい意味でさばさばとして、二人は好感を持っている。
『そうですねー。何を以ていい調子とするかにもよりますが、滞りなく連載させていただいてますし、本も出させていただいてるので私としては恵まれてるように感じます』
「それは、いいことです」
「そして調子に乗って厄介事引き受けたんだよね」
『あうっ』
君歌に打ち合わせの時のことを言われ、耳の痛い幽子だった。
「うん? 何かあったのですか?」
『いえ、今週中に短編を一つ書き上げなくてはならなくなりまして。私が安請け合いしたのが悪いのですが』
「そうなんですか。大変そうですね」
「あんまり心配している風に見えないですよ、大家さん」
君歌の言葉の通り、少しうれしげな様子の大家さん。
「あっ、大変なのにすみません。でも私も幽子さんの小説は好きだから、つい」
大家さんはちょっと申し訳なさそうに手を合わせる。でも、表情はやっぱり嬉しそうな印象の方が強かった。
『いいえ。そう言っていただけて私も嬉しいです。頑張りますね』
画面の奥で幽子は可愛らしく握り拳を作る。その様子は君歌と大家さんの顔をほころばせた。
「さて。それじゃあ、そろそろ夕飯の時間ですし帰りましょうか」
『そうですね』
「はい」
夕日もそろそろ完全に沈みそう。話を切り上げ、三人は建物の方へと足を向けた。
月見荘二〇三号室が幽子の間借りしている部屋である。2DKの間取りで、玄関のすぐそばにダイニングキッチン、その奥に和室が二部屋並んでいる。一番奥の和室を資料置き場兼寝室として(生身より無理が利くのは確かだが、それでも精神の休息はあった方が良い)、台所に近い部屋をリビング兼仕事部屋として幽子は使っている。
帰宅後、幽子は窓側の壁際に設えられた机の前に背筋を伸ばして正座し、件の短編の構想を練るためにメモ代わりのコピー用紙に万年筆を走らせていた。幾つも浮かぶ案を一つずつ書き出していき、それらを丸で囲ったりバツをつけたりしていたのだが、最終的には気に入らなかったのか紙全体に乱雑に万年筆を動かしぐちゃぐちゃにしてしまった。
「むぅ……」
先ほどまでの行儀の良さはどこへやら、猫背姿勢で顔を机に突っ伏してしまった。こういう時幽霊とは便利なもので、流石に万年筆は気分の問題でどかしたが、インクの乾いていない紙の上にも問題なく突っ伏すことが出来る。これが生身なら顔中真っ黒になってしまっていただろうし、高価な和服が台無しになってしまう所である。
やる気の失せてしまった幽子は、顔を横に動かし台所の方へと目を向ける。二つの部屋を分ける磨りガラスを張った引き戸は、今は完全に開け放たれているためそちらの様子がよく見える。
台所には君歌が買ってきた食材を元に夕食の支度をしていた。食事を必要としない幽子であったが、意識を集中させると美味しそうな匂いを感じることが出来た。少しだけ君歌のことを羨ましく思いながらも、妹が料理の腕をめきめきと上げていることは純粋に喜ばしかった。
「本当に、姉上にそっくりですね……」
君歌の後姿を眺めながら幽子は呟いた。幽子には年の近い姉がおり、君歌はその二〇世代近く経た子孫なのである。恋愛をするより以前に命を落としてしまった幽子に子などいるわけもなく、唯一の姉妹である姉の直系の血筋を見守ることにしたのである(ちなみに姉は寿命の全うとともに成仏している)。とは言え、実際していることと言えば数年に一度お盆にお墓を訪れ、墓石の上に正座して一族の健やかな顔を確認することくらいであった。
そうして三〇〇年見てきた中で、君歌から姉に似た印象を一番受けた。
「もう八年にもなるんですね……」
今でも鮮明に思い出せる。
それは君歌が小学一年生のお盆だった。五、六年振りにお墓に参った幽子が待っていると、両親に連れられて君歌がお参りにやって来た。以前見た時にはまだ赤ん坊だったので、大きくなったなー、と感慨に耽っていたところ何やら視線を感じた。気になって視線を向けると、首を傾げてこちらを見上げる君歌と目が合ってしまった。まさかと思いつつも動けずにいる幽子を眺める君歌はこくんと首を傾げ、今度は両親に目を向け、着物姿の少女が墓石の上で正座しているというこの異常事態に全く気付いた様子がないことを察し、またこくんと可愛らしく首を傾げていた。
両親が水を汲みに行ったり、寺務所に箒を借りに行ったりして一人になったのを見計らい、君歌は落ち着き払った色を湛えた瞳で幽子を見上げ、その小さな口を開いた。
『おねえちゃん、だぁれ?』
『えと、ゆうれいです』
「そういえば、昔から聡い子でしたね、君歌ちゃんは」
「うん? お姉ちゃん、何か言った?」
懐かしむ幽子の声が届いたようで、君歌は菜箸片手に振り向いた。内容までは聞こえてなかったようで首を傾げる君歌は、しっかり成長してもあの頃のままに可愛く、幽子は微笑ましく思った。
「なんか良く分かんないけど、まあいいや。夕ご飯もうあとは盛り付けだけだからちょっと待ってね」
幽子の表情の意味が分からず不思議がる君歌だが、すぐに切り替え準備に戻る。幽子は返事をし、作業机の上の物を適当に纏めると、部屋の中心に置かれた丸いちゃぶ台に座を移した。その間も君歌はテキパキと動いていた。以前手伝おうかと尋ねた所、これは私がするべきことだからダメ、と一刀両断されてしまい以来任せきりである。
準備が済むと、君歌は幽子の向かいに幽子同様に正座し、そして――、
「それでは手を合わせて、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」
「………………」
ちゃぶ台の上には一人分の夕ご飯が並べられている。今夜の献立は主菜にから揚げ、それに数種類の野菜のサラダと合わせ味噌のお味噌汁添えられ、更に箸が立てられたご飯である。それらはすべて幽子の目の前に置かれており、君歌は目を閉じ真面目な声音で念仏を唱えていた。
これはいつもの光景である。しかしいつもの光景であるがゆえに、幽子はどういう反応をすれば良いのか分からないでいる。君歌が幽子のことを思い、それを形に表すためにしてくれているというのは当然幽子も百も承知だ。けれど、いくら幽霊とはいえお互い認識できている状況下で、目の前で拝まれているのはどうにも落ち着かない気分であった。
ちなみに幽子が料理の手伝いをさせてもらえないのも、このことが原因である。君歌がわざわざ幽子の家で夕食を作る最大の理由が供養のためであり、それを相手に手伝わせるなど言語道断だと君歌は考えている。根っからの真面目な性分だ。
「――よしっ」
ひとしきり拝み終えた君歌は、目を開け合掌の姿勢を崩す。
「……終わった?」
「うん」
幽子はおずおずと問いかけ、君歌は元気よく返事した。その様子にも、幽子は微妙な表情を浮かべるしかなかった。
「それじゃあ、いただきます」
幽子の表情を気にも留めず(と言うよりも、以前からこういった表情を浮かべるのだが理由が良く分からないため気にしなくなった)、君歌は手を合わせる。
「……はい、よく噛んで食べてくださいね」
「はーい」
素直に返事する君歌は、箸を動かし始める。幽子はそれを優しい眼差しで見つめていた。
君歌の夕食は先ほど幽子にお供えした料理一式である。しっかりとお供えして拝むくせに、勿体ないからときっちり完食する。作法としては間違っているのだが、幽子も君歌も気にしていないためにこの習慣が出来上がっている。
――それにしても、ちゃっかりとしたところは姉上にそっくりですね。
ふと、幽子は思った。
「そういえば今日、お母さんから手紙が来たんだ」
食事を進める中、ふいに君歌がぽそっと呟いた。
「あら、なんて書いてあったのですか?」
「元気? とか。お金足りている? とか。あと、来月には帰るんだって。お父さんの方は分かんないみたいだけど」
「そうですか。二人ともお忙しいみたいですからね。でも。お母さんだけでも帰って来られるのは嬉しいですね」
「……うん」
少し恥ずかしげに、でも嬉しそうに君歌は頷いた。大人びているとはいえ、まだまだ甘えたい盛りの女の子なのだ。君歌の表情に、幽子も嬉しくなって微笑みを浮かべる。
君歌の両親は共働きであり、その上家にほとんど帰れないほどに多忙で世界中を飛び回っている。君歌が夕ご飯を幽子の部屋で摂るようになったのも、それが一番の理由であった。いくらしっかりしていても、広いリビングで一人だけで摂る食事は寂しいものだ。
「と、ところで、お姉ちゃんは小説の内容が決まったの?」
にこにことした幽子の視線に、だんだん恥ずかしくなってきた君歌は、少しだけ強引に話題を変えた。それに気づきながらも、幽子は触れることはなく話に乗っかった。
「う~ん。それがあまり順調とは言えませんね~……」
後方の机から一枚のメモ書きを手に取り、困ったように頬を掻く。
「そうなんだ……。見てもいい」
「いいですよー。はい」
「ありがと」
幽子からメモを受け取り、ざっと眺めた君歌は苦笑を浮かべた。
「うわっ、すっごくぐちゃぐちゃ」
「あははー……」
紙全体に乱雑に動かされた筆跡は、書いた文字を見えなくするほどの密度はなく、見づらいがなんと書いてあるか程度は読み取ることが出来た。救いなのはアイデアを掘り出すために、文章ではなく単語を羅列していることだった。
「ん? ……これ」
適当に読み飛ばしていると、数あるアイデアのまとまりの内、その一つに目が留まる。
「お姉ちゃん、やっぱりお昼にケンカしてた子たちのこと、気になってるの?」
「うん、そうかも」
頭に浮かんだ事柄を関係性が乏しかろうがとにかく書き並べてゆき、それらを組み合わせてストーリーを構築する。それが幽子のアイデアの掘り出し方だった。そのため、別にネタにする気が合ったわけでもなかったが、昼間のケンカはとても強く印象に残っていたようで、結果としてそれがメモに表れたのだった。
「う~ん。正直な所、あの二人なら大丈夫だと思うんだけどなぁ。日常茶飯事過ぎて」
「君歌ちゃんのことを信用していないわけではないのだけど……。ただ、どうにも頭から離れてくれないの」
物悲しげに幽子は溜め息を吐いた。君歌はそんな優しい姉のことが好きで、どうにか不安を解消させてあげられないかと思案する。
「だったらお姉ちゃん、明日学校に来る?」
「え?」
君歌の提案に幽子は顔を上げる。
「実際にその二人の様子を確認できたら、お姉ちゃんも安心するでしょ?」
「それはそうだけど、……いいの?」
「他の人には見えないわけだし、別に構わないよ」
遠慮が見える幽子に、あっさりとした返答の君歌だった。幽子としては、他の人に怪しまれないかどうかということよりも、中学校という君歌のコミュニティに幽子がずかずか入り込んでいいものかという懸念を感じていたため、少々拍子抜けだった。少し考え、やはり昼間の二人の様子を確認したい気持ちの方が上回っていたため、素直に君歌の好意に甘えることとした。
「それでは、明日お邪魔させてもらいますね。君歌ちゃん、よろしくお願いします」
「うん、任せておいて。…………それで、その」
「どうしました?」
もじもじと気恥ずかしげな様子で、君歌は語尾を濁す。直前まではきはきと話していたので、幽子も不思議がる。首を傾げてしばらく待つと、君歌は決心して上目遣いに口を開く。
「明日学校に行くんだったらね。……今日、うちに泊まらない?」
少し不安で、でも期待に満ちた瞳の君歌だった。
――ちょっと、寂しがりやなところも姉上にそっくりですね。
とはいえ、それも仕方のないことだった。両親のいない広い家に一人でいるのは、中学生の君歌には寂しいに違いない。それでも普段は強がって幽子の部屋で夕食を済ませても、家には一人で帰る君歌であったが、今日はちょっと甘えたい気分だったようだ。もしかしたら母親からの手紙で人恋しくなったのかもしれない。
微笑む幽子の返答は考えるまでもなかった。
「ええ、いいですよ」
「ほんと!」
「はい、片付けたら一緒に帰りましょうね」
「うん」
満面の笑みを浮かべた君歌は、大急ぎで夕食の残りの片付けに取りかかった。微笑ましさに目を細めながら、幽子は君歌の目を見ていた。嬉しさのあまり爛々と輝いていた。
――姉上に一番似ているのは、瞳ですね。感情がよく表れてます。
少しだけ、懐かしさに浸りながら、幽子はメモの紙とともに机の上を簡単に整理した。
「もくもくもくもく――、んっ、んぐ!? けほっ、けほっ」
「ちゃんとゆっくり食べてくださいね、君歌ちゃん」
「は、はーい」
珍しく喉を詰まらせる君歌を幽子は窘める。素直に食べる速度を抑えつつ、それでもそわそわしている君歌に、幽子は呆れつつも笑みを浮かべた。
「…………これは、たしかに」
翌日、幽子と一緒に登校した君歌は何の気なしに教室の扉を開け、そして室内に立ち込める暗雲を感じとると、眉をひそめてそう呟いた。教室を支配する不穏な空気の発生源は簡単に見つけられた。窓際前から三番目とその反対、廊下側前から三番目の席に座る少女二人である。よりによって空気を悪くする原因が両端にいるうえ、たまに互いに視線を飛ばして牽制し合っているため、教室は非常に居心地が悪くなっていた。
「あっ、君歌ちゃん。あの子たちです。私が昨日目撃したのは」
「やっぱり。しかもお姉ちゃんが心配した通りだよ。まさかこんなに拗れてるとは」
二人をよく知る君歌からすれば、異常事態と言っても差し支えがなかった。二人とは中学に入ってからずっとクラスが同じだったが、こんな光景は見たことがない。普段見るのは、じゃれ合いと呼んで相違ないケンカばかりである。
「あ、彼岸花さん。今来たところ?」
「えっ、あ、うん」
入り口で立ち尽くしていた君歌に、同じように近くに立っていた同級生の女の子が声をかけてきた。その子だけでなく、クラスメイトのほとんどが君歌と同じく立ち尽くしている。特に席が真ん中辺りの生徒は座るに座れない状況で、教壇側か教室の後ろ側かに避難していた。真面目な性格からか、君歌はクラスの委員長を務めることが多く、今年度も例に漏れずにその役目に就いていた。元々頼りになる存在とクラスメイトから認知されているため、助けを求めに来たのだろう。
「理由が良く分かんないんだけどね。なんかいつもとケンカの様子が違うみたいなの。どうしたらいいのかな?」
「そうね……」
幽子とクラスメイトが不安げに見つめる中、君歌は思案する。始業まではあと二〇分ほど。先生が来さえすればこの剣呑な空気も流石に引っ込むだろうが、それでは全面的な解決にはならない。休み時間にまた空気が悪くなるだけである。――となれば、
「二人を仲直りさせる以外に方法はないよね」
「……どうするの?」
「とりあえず、ケンカの原因を二人に訊いてみるよ。それくらいしか突破口はないし」
「……大丈夫?」
クラスメイトは未だ不安そうだったが、それ以外に取るべき手段はなかった。クラスメイトに軽く手を振り、まずは入り口に近い廊下側の席に座る女の子に君歌は近づいて行く。その様子に気づくと、クラスメイト一同は固唾を呑んで君歌に注目した。
「うぅ、やっぱり昨日の内にどうにかして仲裁に入っておくべきでした……」
机が邪魔なので君歌の隣にふよふよ浮かんで並ぶ幽子が泣き言を漏らす。
「お姉ちゃんのせいじゃないってば。それを言ったら私も昨日のうちに電話でもしておけば拗れ具合も少しは和らげられたのかもしれないんだから」
君歌は小さな声で慰める。
「それを言ったら、君歌ちゃんもだけど。ありがとう」
「うん」
特段誰が悪いというわけではないのだ。あの二人も、昨日はたまたま噛み合わず仲違いしただけに違いない。きっと大した理由ではないはずだ。二人は前向きな心持ちで一人目の少女に声をかけた。
昼休憩になっても、教室の空気はどんよりと沈んでいた。
クラスメイトの殆どがこの空気に耐え切れず、教室の外でお昼を摂っていた。今君歌と幽子の他に教室内にいるのは件の二人と若干名のクラスメイトだけである。普段昼食を共にするクラスメイトが教室から逃げ出しているため、君歌は真ん中一番後ろの自分の席で、見た目上は一人でお弁当を食べていた。
「……どうしたらいいのかな、この空気」
「……難しいですね」
君歌と幽子は教室の左右に陣取る二人の少女を交互に眺めながら溜め息を吐いた。朝、二人から訊いた事情を思い起こすと、その気持ちも一層高まってしまう。
廊下側の少女、活発な印象を持つ藺草優衣の言い分。
「穂ちゃんは、いっつもいっつも私に勉強しろ勉強しろって五月蠅いんだけどさ。そのくせ自分は運動できないことを思いっきり棚に上げてるんだよ。運動不足だと病気になりやすいから人が心配して言ってあげてるのに、全然言うこと聞いてくれないんだもん。そりゃ、腹立つでしょ!」
窓側の少女、物腰の柔らかい浜菱穂の言い分。
「優衣のペースで運動してたら、そっちの方が体壊します。体育の授業はちゃんと受けてるし、そもそも優衣の歩くスピードに追い付くだけで十分運動になってます。何もしていないのは優衣の方ですよ。いっつも宿題は私に頼り切っているんだから、全然勉強してないんです!」
――本当に、くだらない理由でケンカしていた。
状況を整理すると、余計に悲しくなってきて、二人は肩を落とした。
「お姉ちゃん、これどうしたら仲直りできるのかなぁ?」
「君歌ちゃんが二人は仲良しと言っていた意味が良く分かりました。どっちも相手を思っての発言がケンカの発端のようですね」
ケンカの内容は幽子と君歌が期待した通り、全然込み入った理由ではなかったのだ。しかし、二人のどちらかが、と言うよりもどちらも悪いわけではないために、仲直りのきっかけを探すのは困難に思えた。そして名案が浮かばぬうちにこうして昼休みになってしまったのである。
「お互い素直になれれば、あっさり解決しそうな気はするんだけどね」
「うーん、それなら二人っきりになれるのが望ましいですねー」
幽子があごに指を当てて思案していると、
「あっ、藺草さんがどっか行っちゃうよ」
優衣が教室から出て行ってしまった。君歌は焦るが、その様子を冷静に眺めながら考えを続けていた幽子は、ぽんっと手を打った。
「いいことを思いつきましたよ、君歌ちゃん」
「えっ、何々?」
表情を一転明るくする君歌に、まるでいたずらを思いついた子供の表情を浮かべる幽子はひそひそと耳を打つ。
「いぃぃやあああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
「えっ、優衣!? って、後ろのそれなんなの!?」
「わかんなああぁぁぁいぃぃぃやああぁぁ!?」
「ちょっと、こっち来ないでよおおぉぉぉぉぉ!?」
「たーすーけーてーーーーーー!?」
空中を浮遊する黒板消しやら、黒板用の大きい三角定規やら、サッカーボールやら、カラーコーンやら、タヌキの焼き物やら、その他いろいろに追っかけられ、優衣は誘導されるかのように穂のいる場所まで逃げてきたのだった。優衣も穂も訳が分からず混乱し、ケンカしていることも忘れてしまっていた。
「と、とにかくこの中に逃げるわよ!」
「う、うん!」
穂の誘導で、二人は何故か扉の開いていた体育用具倉庫に飛び込むと、急いで扉を閉めた。どんっ、どんっ、と外から何度か叩く音が聞こえたがそれもすぐに止んで静かになった。しかし、
「あれ、開かない……」
「えっ、嘘!?」
今度は閉じ込められてしまった。二人は青ざめた顔を見合わせ、諦めたようにマットの上に腰を下ろした。
「もう、いったいどうなってるんだよぉ……」
「知らないわよ。まったく、昔から優衣はトラブルばっかり起こすんだから」
穂は呆れたように溜め息を吐いた。そんな穂に、優衣は頬を膨らませた。
「なんだよ。そんなに私のことが迷惑なら、はっきりそう言えばいいじゃない」
「えっ? 別に迷惑だなんて思ってないわよ」
「へっ?」
優衣は目を丸くする。ころころ変わる表情を面白く思いながら、穂は少しだけ素直になる。
「優衣が引っ張ってくれるから私は色んなことが出来るわけだし、なんて言うか、感謝してるのよ」
「穂ちゃん……」
穂は照れて頬を掻いていた。
「私もね。……おっちょこちょいだから、いつも穂ちゃんが助けてくれるから何とかなってるんだよ。だから、その、……ありがと」
「優衣……」
優衣の方も照れた様子で、髪を弄っていた。互いに赤くなった顔を見合わせ、同時に口を開く。
『昨日はごめんなさい!』
「穂ちゃんが私のこと心配してくれてるのは分かってるの。それなのに、大きい声出しちゃって、本当にごめんね」
「私の方こそ、優衣がうんざりしているのは分かってたのに言い過ぎたわ。ごめんなさい」
「えへへ」
「ふふ」
お互いに、どうしてあんなにいがみ合ってしまったのか分からないほどに、素直な気持ちで笑い合った。
「お姉ちゃんの作戦、上手くいったみたいだね」
「ええ、ここまで思い通りの展開になってくれるとは思いませんでしたけど。仲直りできて本当に良かったです」
優衣と穂の様子を倉庫の小窓からこっそり覗う影が二つ(一つ?)、幽子と君歌は事の顛末に満足がいき笑みを浮かべた。
優衣と穂が体育用具倉庫に閉じ込められたのは、当然ながら偶然ではない。まず幽子が職員室でくすねて来た鍵を使って倉庫の扉を開けておく。それから優衣を探しだし、ポルターガイストで怖がらせて倉庫まで誘導する。君歌は、教室に残っていた穂を倉庫の前まで誘い出し、その場を離れる。あとは優衣と合流するのを待ち、閉じ込め、話し合ってもらおうという作戦だったが、予想以上に上手くいき何よりだった。
「それにしても、そのタヌキの焼き物はどこから持って来たの……?」
眼下に纏めて置かれているポルターガイストで使用した物の一つを半眼に眺めながら、君歌は呟く。
「えーと。どこでしたっけ?」
「ちゃんと戻しといてね、お姉ちゃん……」
首を傾げる幽子に、君歌は溜め息を吐く。
「それでは、そろそろ下りますね」
「う、うん。この高さは流石にちょっと怖いね」
倉庫の小窓は天井寄りにある。一と半階くらいの高さの建物であるため、中の様子を覗くために君歌は幽子に抱えてもらって、二メートルの高さまで浮かんでいた。足元が覚束ないためにとても怖い。
「それにしても、この光景誰かに見られたら、君歌ちゃんが空を飛んでいるように見えますね」
「うわぁ、なんかそう思われるのって微妙に嫌だなぁ」
君歌は苦笑を浮かべた。幽子もあははと苦笑しながら、君歌の体を安全に下ろすために力の制御に集中しようとしたところで、
「――私、穂ちゃんが一緒じゃないとダメみたい」
『……はい?』
中から聞こえてきた声に、二人は耳を疑う。浮遊を続けて、再び小窓から顔を覗かせる。心なしか、いや明らかに、優衣と穂の頬が先ほどよりも赤く染まっていた。
――えっ、何この雰囲気?
幽子と君歌の困惑などお構いなしに話は続いていく。
「穂ちゃんのこと、なんて言うか、その。……好き、みたい」
「えっ……」
――何言い出しちゃってるの、この子―!?
「ご、ごめん。あはは、いきなり何言ってるんだろう。迷惑、だよね?」
「……う、ううん。私だって、その。優衣のこと、す、好きよ」
――あなたまで何言い出しちゃってるのー!?
「穂ちゃん……」
「優衣……」
二人は手のひらを合わせ、互いの指を絡ませ合うと、気恥ずかしげに笑みを浮かべた。そして、徐々に顔が近づいていき――、
「お、お姉ちゃん、どうして私の視界を手で覆うの?」
「ダメです。君歌ちゃんには早すぎます!」
幽子は大慌てで君歌の視界を遮る。そしてこれ以上見せないためにも大急ぎで地上に下り立った。
「と、とにかく君歌ちゃんは二人を倉庫から助け出してください。ノックは必ずしてくださいね」
「よ、良く分かんないけど。分かった」
首を傾げながら素直に扉に向かって歩く君歌の後ろで、幽子はこっそりと息を吐いた。
「この前の短編、反響良かったですよ! 流石は幽子先生です。それにしてもこの度は無茶な注文を引き受けて頂いてありがとうございました」
「いえ、ご期待に添えて何よりです」
前回の打ち合わせから二週間後、前回と同じく打ち合わせのために喫茶『猫の小路』に幽子と君歌、そして野竹さんの三人が集まっていた。もちろん君歌が持つスマホの中に幽子が入る打ち合わせスタイルに変わりはない。
「ケンカした二人の女の子の物語。些細な擦れ違い、仲直りするまでの心の機微、細かい心理描写がとても心に響きました。やっぱり女の子の友情はいいものですね」
「……そ、そうですね」
手放しに称賛する野竹さんに、幽子の返事は滑らかではなかった。
「……お姉ちゃん。もしかしてこの話って、あの二人がモデルなの?」
「う、うん。実はね……」
「ん? どうかしましたか、お二人とも?」
『い、いえ。何でもないです』
「そうですか」
二人のひそひそ話に首を傾げる野竹さんだった。
そう、今回の幽子の短編小説は優衣と穂の二人がモデルだった。あのケンカ騒動は幽子の創作意欲を強く掻き立てることになり、結果として一日で書き上げることが出来たほどである。流石に小説の中では百合展開にまで話の手を伸ばすことは出来なかったが、幽子としては題材にしたことも、百合方面を書かなかったことも、いろいろ含めてこれでよかったのかどうか微妙な気分なのであった。
「まあ、私もあれで良かったのかどうか微妙な心持ちなんだけどね……」
君歌もまたぼやいていた。あの日以来幽子は学校について行っていないため、君歌の言葉の意味が分からなかった。それに気づいた君歌は、コーヒーカップを傾ける野竹さんに気づかれないように、そっと呟く。
「あの二人ね、ケンカはしなくなったんだけど、前以上にいちゃついててね。空気は明るいんだけど、今度は明るすぎてすっごく教室の居心地が悪いんだよ……」
「あー、なるほど」
「まるで付き合い始めたカップルみたいで、正直暑苦しいんだよね」
「あ、あはは。そうなんだー」
まるでも何も、疑いようもなく付き合い始めたカップルなのだが、決定的な瞬間を君歌は見ていなかったためそんなこと思いもしなかった。幽子は乾いた笑いを浮かべて、何気なさを装い話題を逸らす。
「それで、野竹さん、今日は何の打ち合わせをしますか?」
スマホの中で手を合わせながら幽子は首を傾げる。直近に締切が迫っている作品はなかったはずだから、わざわざ来てもらうほどのことはないと思っていたからだ。
「いえ、幽子先生の場合、連載作品が多いですから。口頭だけだとどうにも伝わらない部分や食い違いが出て来てしまう可能性がありますからね。……まあ、今も電話越しと言えなくない状況ですが」
「……申し訳ないです」
幽子が頭を下げると、野竹さんは慌ててかぶりを振り、
「す、すみません。そういうつもりで言ったわけでは。それに、君歌ちゃんもいるから資料を使っての打ち合わせも出来ますし。お気になさらないでください」
「……はい。すみません、ありがとうございます」
幽子の表情が晴れたのを確認し、野竹さんはほっと胸を撫で下ろした。
「君歌ちゃんも、いつもありがとう」
「お姉ちゃん。……うん!」
君歌にもお礼を言うと、嬉しそうに微笑んでくれた。
「それでは、打ち合わせを始めますね」
「はい」
野竹さんが仕切って、打ち合わせが始まった。とはいえ、幽子の思っていた通り打ち合わせ自体はほんの十分ほどで済んでしまった。
「はい。大丈夫そうですね、この調子でよろしくお願いします。……それで、ええっと……」
幽子と君歌が拍子抜けしていると、先々週に引き続き野竹さんが言い辛そうに語尾を濁していた。なんとなく予想をつけながらも、幽子と君歌は揃って首を傾げた。
「すみません。また編集長が無茶なことを。今回の短編が好評だったから、この際幽子先生のページを確保しようと言い出したんです」
『またですか!?』
幽子と君歌が口を揃えてつっこむと、野竹さんは恐縮してしまった。しかし、編集長に対する怒りがふつふつとわいているようで、
「今回ばかりは幽子先生にお訊ねする前に流石に怒りました。幽子先生がいったい何本の連載を抱えてると思っているんだと! それなのに後から後から短編がどうのだと、本当にどういうつもりなんですか!」
勢いで捲し立てる。
『…………』
「ふう。すみません、取り乱してしまって」
熱くなったことに気づくと、深呼吸し、クールダウンする野竹さん。あまり感情的な野竹さんを目にすることがなかった幽子と君歌は目を丸くしていた。どうも野竹さんと編集長は相性が悪いらしい。野竹さんは几帳面で、編集長は奔放な人ですものねー、そのことを思うと幽子は納得した。
「とりあえずは言っておきましたが、私の一存で幽子先生の仕事を奪うわけにはいかないので保留にはさせて頂きました」
「あっ、はい」
若干気持ちが追いつかない幽子は生返事しか出来なかった。野竹さんは手帳を開き、説明を続ける。
「内容は今回と同じくジャンル不問の短編です。頁数も同じです。雑誌は季刊誌ですし、ここ一年の幽子先生の執筆スピードならそこまで負担にはならないと思いますが。いかがなされますか?」
言い終わると、野竹さんが申し訳なさそうにスマホの中の幽子を覗き込む。しかし、幽子の返答は軽かった。
「分かりました。お受けします」
「えっ、いいんですか?」
先々週に引き続きあっさりと了承する幽子に、野竹さんは驚き訊き返す。
「はい。私の作品を評価してくださってのお話ですし。それに――」
幽子はやんわりと微笑む。
「野竹さんがしっかりと私のスケジュールやペース配分に気を遣って頂いて、問題ないと判断なされたお話ですから。根本的に無理なお話なら私に話が来る前に、野竹さんが止めているでしょう?」
「…………」
無類の信頼を向けられ、野竹さんは息を飲んだ。珍しく照れたようで唇をもごもごする。意外な様子を可愛らしく思い、自分よりも年下だったことを久し振りに思い出した。
「で、では。よろしくお願いいたします」
「はい」
普段と違う表情を見せてしまったことにも恥ずかしさを感じ、深くお辞儀してうやむやにした。幽子もそれについては何も言わず、お辞儀を返す。二人が頭を上げるまでの間、君歌だけがこっそりと楽しそうに笑みを浮かべていた。
「それにしても、幽子先生は本当にすごいですね。これだけ色々書いていても全くネタ切れになりませんし」
打ち合わせが終わると、君歌と野竹さんの飲み物が空になるまで、しばしの女子会が始まる。女子会と言っても単なる雑談だが、女子会と言った方が聞こえは良い。
「えへへー。年の功ですかね」
褒められて、ついつい照れる幽子であったが、それは失言だった。野竹さんが首を捻る。
「えっ、幽子先生は私よりも年下ですよね?」
「そ、そうだよ。もう、変な冗談言わないでよ、お姉ちゃん」
「あ、あはは、ごめんなさい。ちょっと調子に乗りました」
「ですよね。びっくりしました」
『あは、あはははは……』
実は三〇〇年分の話のストックがありますなんて、とてもじゃないけど言えない。幽子の見た目で今の話を野竹さんが信じるわけはないものの、幽子と君歌は冷や汗を流していた。そんな二人の腹の中は露知らず、野竹さんが話題を振る。
「後学のためにお聞きしたいのですが、ネタ出しのために何かコツとかありますか?」
「そうですねー」
野竹さんの問いに、幽子は上の方に視線をやって思案する。悩むかと思ったが、少し考えるとあっさりと思いつくものだった。
「やっぱり、趣味の散歩ですね。色んなものが見れますよ」
実質三〇〇年散歩を続けているようなものなので、幽子の言葉には重みがあった。
「なるほど」
野竹さんは素直に感心し、
「また、変なもの見ないでよね……」
君歌は苦笑を浮かべながら、溜め息を吐く。
――幽霊道とは、散歩することと見つけたり。
そんなことをこっそり思いながら、幽子は二人に微笑みを返した。
読んでいただきありがとうございます。
宜しければ評価やコメント頂けると嬉しく思います。