表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/4

三味線とピアノ

時おり爽やかな風がヒューと吹き、のどかな田舎の風景があたりに広がる。田の畦に鬱蒼と草が生え荒れ放題となっていた。春めいたようで蛙がピョンと跳び跳ねてはポチャンと水面に飛込んでいた。まったりとした自然の中、喉かな田園であった。


その街から海辺も近くにあり寄せては返す波の音も聞こえている。江戸時代の末期まではこの辺りの見える範囲には塩田があちらこちらに見られたらしい。


夜や朝には海風と共にカモメや海ネコがやかましかった。


そんな自然の中にシャンシャンと合奏される三味線の()が聞こえてくる。かなり熱が入ったような音でありもう2時間余も続いていた。


海辺から田園からと遠くを見渡すと旧家の佇まいが見える。数人のご婦人達が集まっていらっしゃる様子が縁側越しに見えた。音の主は数人いる三味線であった。


近くに寄ると演奏している着物姿のご婦人方が一生懸命に三味線のお稽古に励んでいる姿が見える。のどかな田園風景にマッチした日本古来の伝統文化である三味線がそこにはあった。


朝からお昼になる時間。気品に溢れた三味線のお師匠さんが背をピンと伸ばし、いかつい怖い顔をして指導に当たっていた。目付きは鋭く少しのミスさえも見逃しはしないという雰囲気である。


お稽古に来ている5〜6人のお弟子さんは真剣な表情でバチを握りしめた。


師匠さんの厳しいお稽古は緊張感の中で正確な音をいつも響かせていく。充実した三味線の時間がそこにはあった。


お師匠さんとの合奏が終わる。三味線が鳴りやめば皆さん一様に笑みが溢れた。今日のお稽古はどうやらうまくいった様子である。お弟子さんの皆さんはやれやれうまく出来るようになったわと目の前にいるお師匠さんの顔を眺めた。


「はい皆さんご苦労さまでした。お時間がやってきたようです。今日も上手なお稽古が出来ましたわ。これも皆さんの熱心さのお陰でございます。お礼をいいます。ありがとうございました」

年配のお師匠さんは三味線を抱え軽く頭を下げる。


お弟子さんも、

「ありがとうございました」

と深々と頭をさげお稽古は終わる。田園の蛙たちもいつの間にか泣き声が止んでいた。カモメたちも姿が見えなくなっていた。


三味線は午前中で終わりお開き。お師匠さんはお弟子さん達を見送り稽古部屋の三味線を片づける。部屋の座布団をかたし掃除をする。てきぱきとこなし茶器から食卓から片づけた。

「朝のお稽古が済んでホッといたしますわ」

少し落ち着くかなと椅子にヘタッと座る。

「ふぅ早いものだわ。もうお昼だ」

朝の稽古はうまくいきお師匠さんは満足であった。

「今日はお昼過ぎから正之がお稽古に来るんだろうかね。毎週お稽古に来るように言いつけてあるんだけど。最近はトンと休みがちだからね。なんせ遊びたい盛りの年頃。遊んでいたいは山々だけどねぇ。なにも週一回ぐらいのお稽古ぐらいさぼることはないじゃないかい」

お師匠さんは孫の正之をピシャリと言い放す。


小学4年孫の正之である。三味線は祖母の師匠が正之の物心がつく頃から教授している。

「正之はセンスがあるからね。三味線の血は争えないね」

また幼稚園入学からは母親が息子にはピアノを習わせたいと思い近所のヤマハ音楽教室に通わせた。


嫁はピアノを習わせ、姑は三味線をやらせる。正之にしてみたら、

「いい迷惑だとなるんだけど」

最初の頃はどちらもあまり好きではない習い事であった。


正之は強制されての習い事ではあったが音楽的な才能があったらしく三味線もピアノも実力をつけていく。


特にピアノは課程の最優秀賞を獲得するまでになる。祖母が三味線師匠をやって絶対音感は遺伝的にいいものを持っているらしい。ピアノのバイエルンや課題曲などはいとも簡単に弾きこなしていくようだった。


しかし正之の母親がピアノを習わせたことは姑の立場の師匠は面白くはない。

「あまり表に出したくない話だよまったく。ピアノがいくらうまくたってだねアタシャね面白くもなんともありゃしないね」

お師匠さん唯一の弱点であるらしかった。


大正生まれのお師匠さん。1男3女をもうけた。娘達には三味線を仕込みそれぞれ大変に筋がよろしくてお師匠さんとなっていた。嫁先でも三味線を弾いていた。

「娘たちは優秀さ。なんせ私の血筋を受け継いでいるからねアッハハ。しかしねひとり息子の長男はありゃダメだね」

自慢の娘たちに対して長男は芳しくなかった。

「私の息子、正之の父親がまったくもって根気がなくてね。歯がゆいと思っていたんだよ。なんであんなつまらない男になったのかね。三味線も身につかない有り様だ。ほとほとガッカリしちまうよ」

長男にも同じように稽古をつけて三味線上達を期待したが。

「死んだじいさんはもっとシャキッとして立派な男さんだったんだけどさ。三味線もやれない、男っぷりもよろしくないとはね」

お師匠さんは息子にだけ三味線を教えられなかったことを悔いている。


ひとり息子、正之の父親は三味線に興味がないまま成長し法律を学び役人となった。

「法律を学んでも三味線は弾けはしないよ」


期待がかかるのは次の世代の孫達である。お師匠さんは三味線を孫にも教えてあげたいと思っていた。気がついたら総勢10人もいる孫であった。


しかし住んでるところがなんせ遠い。東京・仙台・北海道と遠方ばかりだった。

「そりゃね飛行機代を出してくれたらアタシャお稽古に行きたいね。三味もってどこへでも行きますよ。ああ可愛い孫たちがあたしの命の次に大切な三味線を覚えてくれるとならば行きたい。大好物のきつねうどんを一杯恵んでくれたら後は何もいらないアハハ」

きつねうどんと夏は素麺が大好きなお師匠さん。後は甘いもの、チョコレートが好物であった。

「一時期は三味線の大会の賞品が欲しいから頑張ったこともあってね」

チョコレートを山のように貰いたい大喜びをしたことがある。


お師匠さんは身近にいる内孫の正之に三味線をしっかりと身につけてもらいたいとそれはそれは熱心である。


三味線を教えるのならば正之の母親はどうであったか。


嫁と姑の立場であるが。

「正之の母親の?嫁かい。フン」

あまり深いことは聞かない方がよろしいようで。


お師匠さんは有名な三味線弾き。県の教育委員会に所属し日本伝統文化の催しなら大学から何から三味線ひと棹持って出かける。

「こんな年寄りになってもまだまだお声がかかり嬉しいね。天皇陛下さまの宴遊会に出させていただいた際にはしみじみと三味線をやっていてよかったなあと思いましたよ。有難いことです」


皇居で開催された宴遊会の演奏模様はテレビニュースや新聞で大々的に報じられた。お師匠さんの名を一躍全国に高める1場面となった。宴遊会が済んでホッとする間もなくお師匠さんに問題が巻き起こる。


「宴遊会に招かれて有名になってよかったんだがね。後からお弟子さんになりたいと希望者がわんさかいらっしゃって」

お弟子さん希望はテレビを見てわんさかと増えた。

「あんな凛々しい姿で三味線を弾くのは初めて見たわ。私も習いたい」

お弟子さんは大抵年輩のご婦人と相場が決まっていた。今回は若い女性が大半であった。三味線の習いとしては嬉しい限りである。女子高生や女子大生が黄色い声で入門の戸を叩いた。

「有難いね。若い世代が習いたいと言ってくれてさ」


しかしお師匠さんは全部断った。

「私のようなおばあさんではなく一番弟子の師匠さんや二番弟子の方を紹介してそちらでお習いください」

年齢も若い一番弟子や二番弟子なら面倒がちゃんと見れるとも思ったのである。


しかし希望者は満足しなかった。

「テレビで見たお師匠さんに習いたいの。あんなに凛としていらっしゃって格好いいんですもの。あのお師匠さまに習いたいし、あのように格好よく三味線を弾きたいなあ」

師匠に習うか弟子に習うかはかなりの違いがあるらしい。困ったのはお師匠さん。

「そう言われてもね。お弟子さんは今で手一杯だから。私は年寄りだから。そんな20人も30人もお弟子さんを取りお稽古はとてもとても。申し訳ありませんね」


お師匠さんから指名をされた第一番弟子は光栄に思って希望者を受ける。

「私の指導で入門から教えて差し上げますわ」

一番弟子さんは古くからの習いでありお師匠さんの三味線をそっくり受け継ぐ直伝の弟子ともいえた。


希望者は協会からの紹介で一番弟子のお師匠さんに習い始めた。女子大生が大半。

「でもこのお師匠さんはテレビで見た方と違っています。テレビのお師匠さんは背中がピンと伸びて凛々しい方。三味線が生き生きとして伸びやかな音色でしたもの」

希望者からはなんと不平である。弟子は弟子であると嫌われてしまい一番弟子の面目は丸潰れで面白くなかった。

「確かにお師匠さまから見たら私は見劣りをしています。でもね、初心ぐらい教えられないことはありません。私もこうして今では師匠の看板を背負い三味線の振興に携わる身でございます。ぜひ皆さん考え直して入門をされていただきたいですわ。よろしくお願い致します。私は一番弟子のプライドにかけましても」

一番弟子は私の三味線教室に入門してください。いくらでも希望されてお稽古にいらっしてくださいと低姿勢であった。


協会としてもお師匠さんもそのお弟子さんにしても教え方には大差はありませんと説明をした。だが希望者の反応はいかんせん鈍かった。


同じく二番弟子の方。こちらも、

「お師匠さんはそれはそれは立派な方でございます。でもねたくさんのお弟子さんを常に見ることには限界がございます。わかっていただけますかしら。その点、私ならば楽しく愉快に少人数教授でお教えいたしますわ。幼稚園からお年寄りまで自信を持って教えてまいりましたから。入門された当初は不馴れなこともたぶんにあります。その点私ならばちゃんと心得ておりますゆえ心配なさらないでください」

三番弟子とか四番弟子ともコメントを出す。

「私は私たちで懸命にやっているつもりです。習いたいと希望をされていらっしゃるならば来てください。お待ちしてますわ」


せっかく三味線入門をしたいと言われたのだからこのチャンスを逃す手はない。お師匠さんの所属する日本伝統文化協会も躍起になる。

「お師匠さんは何も一人だけとは限りません。日本各地にいらっしゃるお師匠さんは皆さん立派な方ばかりです。ぜひ入門をされ三味線や日本伝統文化を堪能してください」

声高に協会が珍しく訴えた。これが功を奏したか三味線の入門は若干は増したようであった。


この日本各地から大量の希望者があったことが発端となり、

「いかがでしょうか。教授をする我々の方から歩み寄りをしましょう」

日本各地にいるお師匠さんがたが集まり、初心・初級・中級とクラスわけを明確にいたしましょうとなった。

「三味線の腕が上がれば上がる程に上のクラスのお師匠さんに従事できる、教授を受けることができるシステムはいかがですか。教える方は楽なものだと思います」

協会にお弟子さんたちは集まりそれぞれの意見を言う。


何もわからない初心者の扱いのうまい師匠、さらにレベルアップをさせてやりたい上昇志向の師匠。


なんとか入門する希望者を離したくないと頑張っていた。


お師匠さんの皆さんは真剣な眼差しである。なにせ毎年三味線愛好家は数が減ってしまっている。

「教えられる立場なら好きなお師匠さんにつきたいですからね」

このことから正之の祖母を頂点とする師匠システムが出来上がっていく。


一番弟子、二番弟子と初心クラスを受けもち、

「楽しく三味線を弾きましょうをとにかく心がけて参ります。そんなに三味線は難しいものとはなりませんから」

協会に問い合わせをされた希望者に是非入門をと改めて問いかけた。


「なんとか矛先は収まったようだね。やれやれだわ」

お師匠さんは協会の椅子からよっこらしょと立ち上がる。自分の一言が思わぬ方向に進みハラハラしたというのが本音であった。

「私が三味線を盛り上げ、私が希望者をけちらかしてなんてね。冗談にも程があるわ。余計な一言だったね。以後気をつけていきますわ」

お師匠さんは盛んに頭をかいて謝っていた。


お師匠さんは三味線・琴・尺八と音楽振興会(日本伝統文化保存の会)の役員を務める理事である。


理事は県内各地にある三味線教室の師匠から選出をされ常時5人ほどの理事体制になっていた。年齢も加味されて理事は選出されていた。


理事の職は日本伝統文化の楽器の中から選ばれた。三味線・尺八・和太鼓・三河漫才など日本古来の伝統芸能の各分野から選出される。各理事の上にはさらに伝統芸能の会長と副会長職があった。


プライド高い旧制高等女学校出のおばあさんは5人の理事だけに飽きたらず、

「そりゃあね協会の会長になれたらね。会長に選出されたら嬉しいねぇ」

昨年の暮れあたりからは年齢も経歴も会長に相応しいのではと言われるようになる。


三味線の仲間うちからは会長職に立候補されてはいかがかと言われていた。


また臨県の三味線の理事会からも立候補されてはと推薦があった。


師匠自身も会長職には興味があり選挙には出たいは出たいのだが身近なところに火種ならぬ問題があった。

「同居している孫がね。ピアノのレッスンしていてはね」

まったくもって歯がゆいところだ。日本伝統文化の楽器ではないピアノを習っている孫。

「まっ、三味線振興の皆さんから推薦を貰いましたからには会長には立候補はしたいなと思っています」

お師匠さんはキリッとした顔になり、

「ひとつやってやりましょうか。なんとかピアノの孫は表に出さないように隠しておきましょう」

お師匠さんは真顔だった。

日本伝統文化協会ではっきりと出馬を宣言をした。お師匠さん着物までがピンと張り詰めたものとなる。


昼過ぎに小学の孫・正之は帰ってきた。気のせいかランドセルが重い。よたよたした足取りである。

「あーあっ。今から三味線のお稽古かあ。おばあちゃんがやらないとやかましいからやるけどさ。あんまり面白くないよ三味線は。まだピアノの方が僕は面白いや」

お師匠さんのお祖母さんが待つお稽古の部屋に孫の正之は行く。部屋の格納庫から自分の三味線をもってトボトボと廊下をいく。まったくつまらない雰囲気が背中から感じ取れる態度だった。


お稽古場に行くとお師匠さんのおばあさんがすでに座布団に座り待っていた。

「おや正之くん。久しぶりだね」

久しぶりもなにも三味線以外ではいつも顔を合わせている、祖母と孫。

「あんまりさぼってしまったから三味線を忘れたんじゃないかい。アタシャア正之の顔を忘れるところだったよ」

皮肉たっぷりなお師匠さんであった。正之ますます元気がなくなった。


お師匠さんの一言の皮肉を聞き流しペタンと座布団に孫の正之は座る。

「やれやれだなあ」

三味の音合わせをする。


シントンシャン♪


縁側の向こうはたんぼの蛙。シントンシャンに合わせてたんぼにポチャンポチャンと飛込んでいく。蛙たちは元気があるが正之はなかった。


憂鬱な稽古は始まった。


「正之ダメダメ。もっと肩の力を抜いてごらんよ。ほらっ軽くバチを合わせ振りなさい。ちから任せで弾くと糸が不必要に響いてしまう。ああ違う違う。そうじゃあないっ。ちゃんとおばあさんのやることを見てごらんよ。違っているよ」

午前中のご婦人のお弟子さんとはまったく様子が違う。かなり厳しく小言を言いまくる。


あれこれ言われた孫は、

「あまり面白くない」

と言わんばかり嫌だなあと顔に書いてある。

「つまらない。三味線なんて面白くない。ああ早く終わりにしたいなあ。テレビ見たいなあ」


お師匠さんの気の済むまで正之は三味線の演奏姿勢を直された。力を入れず楽な姿勢で三味線を弾くまで小言はチクチク続く。


嫌なお稽古も最後になるとあらあら不思議なことであった。シャミの音色が師匠と孫とピッタリ合うではないか。シャミを奏でながらお師匠さんは微笑む。

「やっぱり私の孫だけのことはあるね。上手に音色を出していける。そりゃあ孫は嫌がるのは態度でわかりますよ。三味線好きではないとね」

お師匠さんは満足であった。嫌がることもなんにしてもお師匠さんのアドバイスを素直に聞き入れたら正之は子供なりにでも課題を消化していく。


嫌々ながら。


顔にやりたくはないと書いてあったが素質があるから三味線は上達するようであった。

「さすがです。私の孫だねぇ」

遺伝された才能があるようだった。また細かいことを言えばきりがないが小学生の三味線としてはこの程度でも抜群の出来とお師匠さんには思えた。


お師匠さんとしてはミッチリお稽古を教えてやる。孫といっしょに三味線の演奏会に出たいと思い夢に見ていた。

「はい正之くんよくできました。終わりにしましょう。あまりさぼらないでちゃんとお稽古に来なさい」

お祖母さんはニコニコ顔だった。物心つく頃からの正之は誰がなんと言おうとも一番の可愛い弟子だから。


「フゥー終わりだあ」

正之は三味線を袋に入れ格納庫にしまう。恭しくお祖母さんに頭を下げる。祖母とは言えお師匠さんだから礼儀は心得ていた。また厳しく小言を言われるのが嫌なことが大である。

「おばあちゃんありがとうございました」

正之は嫌な三味線のお稽古が終わったと思い、さぁーと部屋を出て廊下を走り去る。

「よし遊ぶぞ」

居間のテレビに行く。慌てリモコンのスイッチをオンに。三味線を弾く姿は小学生は小学生だった。遊びたい盛りも正之だった。

「見たい番組があるんだ」

リモコンをもぞもぞやりながら夢中で画面をみやる。遅れておばあさんも居間にやってくる。

「テレビを見るくらいに三味線も熱心にやってくれたらねぇ」

お祖母さんちゃぶ台にあるお菓子をひとつパックとやり孫の頭をなでる。

「まあ君ジュース飲みますか。紅茶にしようか」正之はジュースをちょうだいと答えた。テレビに釘づけのまま。お師匠さんにしては可愛いことは可愛い孫である。

「はいはいジュースだね」

冷蔵庫からオレンジジュースを取りだし孫に与えた。

「おばあちゃんありがとう」

テレビだけ見ながらの孫であった。


お師匠さんは日本伝統文化協会の三味線振興会の理事会に出席する。

「間近に迫る日本伝統文化楽器の会長の立候補についてだが。三味線振興会からなんとか出したいと思う」

ほい来たかとお師匠さんは心そわそわとなる。

「ここしばらくは三味線から会長が出ていない。いやぁ、しばらくどころか30年ぐらいいないね。まったく淋しいもんだ。現在の5人の理事さんの中から選ぶとなると年齢的に言ったら」

三味線振興会は満場一致でお師匠さんを会長職選挙に推薦することに決めた。年齢も業績も問題はなかった。


もし日本伝統文化協会の会長になれば三味線関係からは約30年振りの会長選出となる。大変に名誉なことであった。

「ありがとうございます。私は微力ながらも頑張って参ります。推薦された限りは会長職に全力でなりたいと存じます」

ふかぶかと三味線理事会で皆の前に頭を下げた。さらには嬉しさから人知れず涙が出てしまうお師匠さんであった。

「いよいよ私も協会の会長さんになれる。日本伝統文化協会は偉大だからね。その会長は確にやりたい。なれるものならやってみたいさ。日本でも名誉ある職のひとつになる」

日本全国にある伝統文化は大抵が協会所属。その影響力もただならぬものがあった。

「特に前任の会長さん(お琴の師匠)がつまらない方だったからね」

前任者は約20年に渡り会長職を務めた。高齢を理由に今回は辞退をしていた。


日本伝統文化協会会長職の選挙期間は約2週間あまり。日本伝統文化や伝統楽器保存会(三味線琴尺八など)のメンバーから構成される選挙で会長は選出されるシステムだった。立候補者は締め切り日により確定をした。


三味線、長唄、和太鼓、琴。踊りや伝統工芸もメンバーには入ってはいた。しかし会長職は不文律ながら日本文化の継承にふさわしい人材を選ぶ傾向にあった。ゆえに突拍子もないような環境の者は敬遠をされてしまう。あくまでも日本伝統文化にふさわしい会長さんを選びたかった。本人の経歴や実績。家庭環境なども暗黙ながら加味をされていく。


お師匠さんの場合は実の娘3人が東京・札幌・仙台で三味線の師匠をされていることが高く評価されている。年齢的な面も申し分のないものでありまず当選は間違いないであろうと予想をされた。

「三味線関係から会長となりますと30年振りだから。待ちに待った会長さんとなります」

会長職選挙の立候補を公にしてからはお師匠さんは三味線のお稽古にも熱が入る。お弟子さんがたも自然とお師匠さんに肩入れをしてしまう。

「お師匠先生。頑張ってくださいね。私達もお稽古頑張って先生を応援致しますわ。会長さんに是非なってくださいね」

お師匠さんは嬉しさから、

「応援をありがとうありがとうございます。なんとか頑張って会長になります」

笑顔を振り撒いていた。


会長選挙キャンペーンは日本伝統文化と楽器保存会の皆さんの各教室を回って名前と今後の方針を伝えていく。


私が会長となれば何がしたい。どういう会を運営したいと訴えていく。地道な努力である。


ライバル候補のいる楽器の教室はダメではあるが三味線の教室を回りお祖母さんとしては、

「今のところはまずまずの手応えと言うところかな。しかし油断は禁物ですからね。開票される最後まで頑張ってまいりましょう」

最後まで気が抜けない接戦の会長選挙になっていく。


三味線のライバルは同じ年齢の長唄の師匠さんだと言われていた。


長唄のお師匠さんは温厚な人柄でお弟子さんに慕われて会長選挙に推薦をされていた。

「いやあ私の様なものが日本伝統文化楽器の会長選挙にとはおこがましいしだいですなあ、アハハ」

長唄お師匠さんはユーモアがあり人柄のよさがありと仁徳に満ち溢れていた。伝統楽器芸能の会員メンバー達は、

「三味線vs長唄の戦いとなるか。唄えば長唄、伴奏させれば三味線だが選挙はどうなるかな、ハハ」

長唄と三味線とはなんとなくのどかな会長選挙となった。当事者のお師匠さん同士は、

「長唄のお師匠さんもねかれこれ40年の付き合いかねぇ。長い付き合いになるね。同じ年だし。まさかこんな形で争うとは想像もしないものだけど」

会長選挙戦も終盤になりいよいよ選挙日が近くなる。


下場評の通り三味線vs長唄と二人のお師匠さんに候補が絞られてきた。


選挙の終盤も終盤一日前の日だった。三味線の理事会を含む各理事会の事務所に怪文書がファックスで送りつけられる。理事会の女子事務員がみたそれは、


「三味線のお孫さんピアノリサイタル優勝おめでとうございます」


差し出し名はなかった。


選挙に関係ある各理事会のファックスに同じ内容で流されていたのだが。

「三味線のお師匠さんは孫のピアノリサイタルにうつつを抜かしていてもいいのか」

と糾弾された文書だった。


この文書は会長選挙に多大な影響を与えていく。


日本伝統の中に文化楽器にピアノは入ってはいなかった。


ファックスを見たお祖母さんは真っ青になってしまった。日本伝統文化や日本古来の楽器とは受け入れられない世界があった。


三味線のお師匠さんは震える口で小さな小さな声で会長選挙辞退を告げた。

「すいません。私、会長選挙の立候補を。誠に勝手ながらご辞退申しあげたく思います」

お師匠さんは理事会員の皆さんにふかぶかとお辞儀をした。いたたまれずハンカチで目を押さえ席を立った。帰り道は涙にくれてあまり覚えていなかった。


翌日の会長選挙は予定通りに行われた。何事もなかったかのように普通に選挙はあった。各理事会も何も問題はないと判断をして選挙はスムーズに執り行われた。


開票の結果は。


前評判のように長唄のお師匠さんが大量得票で当選を果たす。長唄の理事会は大喜びであった。三味線が30年ぶりならば長唄は40年ぶりの会長選出であった。


新聞にはニコニコの長唄師匠が掲載されていた。長唄師匠の喜んでいる写真の中には師匠の孫の顔もあった。


その孫は大学生でバンドを組んでロックボーカリストを担当していた。長唄の師匠祖父の血筋を受け継ぐところか歌には定評があった。髪の毛は茶髪となる。


「私が会長になるとは信じられないこと。大変有難いですなあ」

長唄師匠は茶髪の孫の頭を撫で撫でしながらインタビューに答えたらしい。孫はバカ顔を丸出しにして、

「僕のおじいさん最高だあー。僕は、最高に嬉しい〜」

間の抜けた万歳を繰り返していた。


お師匠さんは意気消沈をして三味線のお稽古場からしばらくは外出をすることはなかった。家族の者は、

「あれ、おばあさん風邪でもひいたかな。部屋から出てこないな。お医者さんに診てもらわないと」

心配をした。朝のご飯は食べに来ないから正之は風邪薬を手渡していた。

「おばあちゃん大丈夫かい」

おばあさんとしては今は一番見たくない孫の顔であった。正之の顔をチラッと見たらどうしたことか布団の中に隠れてしまった。

「おばあちゃん、タヌキ寝入りしている」

孫の声が悲しくて涙が出てしまった。


「ああ、どうせ私はタヌキさ。なんとでも言うがいいさ」


三味線お師匠さんの孫は正之である。お師匠さんの長男のひとり息子。幼少からピアノを習っていた。


その正之のヤマハピアノコンクールが今から行われようとしている。このピアノコンクールはヤマハに就学する子供が対象であった。


ヤマハ音楽振興の功労者として西園寺の息子も特別に参加をしていた。西園寺の息子は正之と同じ小学4年である。名前からしてわかるように結構な家柄。家系は公爵にまで繋がる名門西園寺家だった。


父親は世界的に有名なピアニストで日本の音楽大学教授とドイツの音楽大学客員教授となっている。


父親はドイツ/ウィーンに音楽留学となった際には短期の予定で海外だと単身だった。


がドイツ長期音楽留学が決まる際には家族もついていくことになった。

「単身はなにかと不便になる。さらに息子は俺の後を継いでピアニストにさせるんだ。ピアノに関してはドイツもいいだろう」

と教授は息子を第一に考えて留学に連れていくことにした。


ピアノコンクールの今日。その留学先はドイツのバイエルンから西園寺教授は一時帰国をしていた。


世界的に名が知れた西園寺教授の出身音楽大学と友好を深めるYAMAHAにピアノ審査員と音楽振興を頼みとして参加を要請されたためだった。

「ヤマハ音楽コンクールは小学生の息子にもちょうどいい腕試しとなる。小学生ピアノ部門にノミネートさせておこう」

ヤマハのピアノ教室の子供とはかなりレベルが違うかなとも教授は思うが。

「決して息子に期待をしてはいけない。私の息子だからと多大な期待をしてはいけない。ヤマハはレベルが高いピアノ教育をしている。バイエルンだろうとなんであろうと油断はいけない」

西園寺の息子の実力からしたら子供だとか小学生だとか言うレベルではないはずだがと父親はあえて言いたかった。


ドイツはバイエルンから"将来の楽聖"はこうしてヤマハ東海地区という地方のささやかなピアノ部門に普通の小学生ピアニストとしてノミネートをされた。


ピアノの経歴から考えて格の違いを嫌と言うほど見せてつけてくれるはずである。バイエルンの楽聖は簡単に優勝を飾るはずと当日会場を埋めた観衆には期待された。耳の肥えた観客たちも、

「このコンクールは地方大会だからね。ヤマハの子供達とは桁違いのテクニックを西園寺さんの息子さんは持ち披露をするはず。断トツにうまいピアノで優勝をなさるさ」

桁違いのテクニックを想像されて優勝候補の一番手だった。


観客は一様に西園寺の息子だと多大な期待を寄せた。世界的に有名な男に近い将来になる器である。


しかし父親の西園寺教授はまったく異なる見方を小学生の息子にしていた。

「私の名前が息子についているから期待をされていくであろう。確かにある意味私の息子は最高のピアノを弾く。皆さんそう思ってもらい有難いところでしょうが。父親が有名ならば子供も有名になるんでしょうねアッハハ」

教授は顔をひきつらせて笑う。目は笑いはしなかった。


西園寺教授は留学先のバイエルンでは息子のピアノために音楽講師を雇う身分であった。この他人任せがアダとなり妙な癖が息子にはついてしまった。

「息子の欠点としては早弾き、強弱、間合いのまずさが第一に感じ取れる」

父親の西園寺教授には気に入らないピアノとなっていく。西園寺教授クラスになると絶対音階が嫌でも耳につき僅かなブレすらも不快なものと感じる。そのブレが自分の愛する息子のピアノから叩き出されたとすると。

「弱ったものだ。息子には妙な癖がついてしまった。姿勢を直す、運指を矯正するとかのレベルじゃない。根幹からの治療が必要なところである。いやはや厄介な話だ」

ピアノに限らず才能のある芸術家はいずれの日にか個性を発揮する。個性は基本的な演奏とは相入れるもの。いくら西園寺教授がただしなさい、直す道を見付けなさいと口で言っても体がそのようにはならない。

「それがよい方向に出れば私も目を瞑りたい」

教授は腕組みをして首を傾けた。どうにも納得がいかない様子であった。

「小学の息子には荒治療だがヤマハに出させてやろう。息子が嫌がればオジャンな話だが」

教授は悪い癖のついた息子のピアノを直させたい。そのためにヤマハピアノコンクールに出場をすることをあえて指図する。父親があれこれ言うよりは世間が審査が教えてやるほうがよいのではないかと考えた。


ヤマハ出場を息子に伝えたらば、息子はちょっと考えた。そんな庶民のピアノコンクールに出たところでなんになるのか。


「お父さんいいよ。僕ヤマハに出るよ。地方大会でもなんでもいいよ。ピアノコンクールに変わりはないから。出るからには優勝しなくちゃあね」

バイエルンにいる時から息子は楽しみにコンクールを待つことになった。


教授の一時帰国は音楽大の教授会とYAMAHA音楽振興会の理事継続のため。息子のピアノは関係はなかった。

「そうか出場するか。出るからにはアッハハ。優勝を飾りなさい。私の息子だからなアッハハ」

父親は息子にいつもの調子で伝えた。コンクール優勝は当たり前のことだと。


YAMAHAピアノコンクール少年の部の当日である。父親の西園寺教授は理事としてステージで挨拶をする。

「皆さんこんにちは」

ヤマハの聴衆はみんながみんな世界的有名なピアニスト西園寺教授を知ってる。物凄い拍手が巻き上がる。壇上の教授はにこりともせず、

「ピアノ演奏は音楽教育に大切である」

を淡々と強調した。冒頭の挨拶の最後は笑顔で、

「子供達のピアノを楽しみにしている。将来のピアニストに期待したい。この中からひとりでも多く世界的に有名なピアニストが輩出されることを」

と締めくくった。教授の退席にも大きな拍手であった。

「いやあ西園寺教授は立派だねぇ。今日は教授はピアノを弾くことはないかなあ。バイエルンのピアノが聴いてみたいね」

観客はざわめいていた。手元の大会プログラムには西園寺のピアノの項目は残念ながらなかった。


少年のピアノ部門は幼〜小4まで。子供の大半がYAMAHA音楽エレクトーン教室から入門をする。


教室で才能がある、またはピアノに進んでみたらいいじゃあないかの生徒のみをピックアップしていた。


子供の演奏を聴くことは西園寺教授にとっては実際に楽しみであった。将来のピアニストの熱演はともすると背筋がゾクゾクもするところである。


日本のピアノ教育はYAMAHAが他を寄せ付けない強みを持っている。その最前線にあるコンクールとしての自負もあった。

「ピアノという鍵盤楽器は若い時から鍛えれば鍛えるだけ確実に伸びる。そのためには優秀な指導を子供に施してやらなければならない。私の指導は間違ってはいない」

西園寺教授は著作の中に力説をしていた。


壇上の幕が開きコンクールは始まった。出演は幼稚園からであるからそれはそれは可愛いピアニストが勢揃いであった。


審査席の西園寺教授は時おり笑顔を見せながら豆ピアニストの力の入った演奏を聴いた。

「いやあ素晴らしいね。笑ってはいけないが。全く素晴らしい。A評価をバンバンあげたいね」

普段は厳しい指導で有名な西園寺教授が朗らかな笑顔を見せた。場内は、

「西園寺さんが笑っていなさるよ。珍しいね」


ドイツ留学の西園寺教授は審査員として席に座る。笑顔を見せたのは幼稚園ピアニストだけであったようだ。一度ヘッドホンを構えたら苦虫を噛み潰したような顔に戻っていた。

「厳選なる審査をしなくてはならないかね。いつもいつも笑っていては」

将来の優秀なピアニスト発掘の場として子供ひとりひとりのピアノに真剣に耳を傾けていく。


少年の部はどんどん進行した。


西園寺教授に将来を期待される子供のピアノは微笑ましく感じられ心地よい響きを残してくれた。

「地方大会だとか全国大会だとか。レベルはあまり違っていないなあ」

教授は子供たちのレベルの高さに驚く。


ピアノを弾く子供も世界で認められた西園寺教授に自分のピアノを認めてもらいたくてついつい力が入る。


観衆にいらっしゃる父兄の皆さんも、

「もしや世界の西園寺教授にうちの子供が認められたら。将来のピアニストは今から約束されたようなものだわ。頑張ってぼくちゃん」

と本気で思う。特別審査員の西園寺教授は、

「うーん今のところ思っていたよりレベルは高い。子供達の基礎がしっかりしているから大きくミスもない。ただね基本のとおりのピアノが面白いかと言われたら退屈なんだね。ややこしい言い方だが退屈を感じてしまいます。大幅なアレンジを加味してくれたらよいが」

少年の部の順は予定通りに進んでいく。順番は西園寺教授の息子のピアノとなる。


場内はざわめく。

「待ってました。西園寺教授の息子さんがお弾きになられるよ。ドイツのバイエルンのピアノだ。世界的なピアノを息子さんはお弾きになるだろう。楽しみだね。近いうちに大きなコンクールで優勝されるかもしれないよ。今からしっかり聴いておかないと」


西園寺教授の息子は舞台の袖からゆっくり登場した。小学4年にしては小柄かなと思えるが、

「あらまあ。顔つきなんか教授そっくりだね。さすがは親子さんだ」

似ているだけでまたまた拍手になる。


息子は礼儀正しく観客にお辞儀をする。会場の観衆からは凄い拍手が巻き起こった。

「さすがに息子さんは人気があるね。バイエルンにいなさるから日本とは異なった礼儀を持ち合わせているのかな。なにか雰囲気が違っているね」

観衆は王者の風格があるだとかリトル西園寺教授だとか勝手に話を広げていく。


出てきた少年は背筋がピンと伸びて姿勢がよかった。いかにもエリートピアニストという姿だった。


会場内のざわめきがやがて止まる。小さな楽聖の西園寺がピアノの前に座った。物凄い威圧感が場内を席巻をする。静寂だけがそこにあった。


天才ピアニストのしなやかな指が空を泳ぎ鍵盤に向かう。子供の細い腕と白いかわいい指がYAMAHA最高級グランドピアノの鍵盤に乗った瞬間だった。全ての観衆が聴衆に変わった。


審査席の西園寺教授は、

「今から始まる。ハハ父親だからな私は。緊張してしまう。我が息子は練習の通り弾くだろう。なんというか無難な演奏をやるだろう。そしてあの癖を引きずりながらもピアノを鍵盤を叩くだろう」

西園寺教授はちょっとヒソメがちな顔をした。


静寂の中からピアノは優しいノックターンを奏で始めた。ピアノの音色は素晴らしいものである。一瞬にして場内を西園寺の世界に引き込んでしまった。その音は心地よく響きわたり幻想的だった。


とてもではないが少年の演奏レベルではなかった。耳の超えた聴衆は一様に唸った。

「さすがは西園寺教授の息子さんだ。レベルが違う。引き込まれてしまう。魅力があるなあ、違う違う。ピアノが全く違う」

うっとりと聴衆は聞き惚れてしまう。会場は心地よい陶酔感に包まれた。

「違うなあ。いいピアノだ。魂が揺さぶられる気がする。名前の通った天才ピアニストだけのことはある。今日聴きに来てよかったよ。うっとりしてしまう。なんかトロけてしまうなあ」

満足をした聴衆たちである。小柄な天才ピアニストの奏でるピアノにうっとりしていく。


完璧な優雅な演奏は後半に入り最高の盛り上がりを向かえる。

「来たね、クライマックスだ。いいなあいいよ、さすがバイエルンのレベルの高いピアノだけあるや」


演奏はクライマックスに差し掛かり始めた。


「うん。な、なんだい」

会場の聴衆の様相が一変する。


スゥーといつの間にかピアノの音色に緊張感がなくなってしまった。


会場のうっとりとした雰囲気がトロケるようなメロディが。

「ちょっと、ちょっとおかしいなあ」

会場の空気の流れが乱れ始めた。

「どうしたのだ。ミストーンなのか。終盤に入ったら疲れたのか。覇気がない音が続く」

ざわざわと会場はする。聴衆はうっとり聴き惚れていたところからいきなり叩き起こされた錯覚に陥る。

「あれひょっとして息子さんはご自分で変調されたのか。アレンジされていたのかな」

と疑う聴衆もいた。


曲を長く弾いていると気を許してしまう癖が出てしまった。ところどころにダレたような音色を響かせてくる。変調ならば組曲の中でそれなりに聴かせてくれるのだがそれと違う。


弾いている本人はこの点に自覚がない。聴きにくいテンポの遅れであった。


ヘッドホンを耳にした審査員の西園寺教授は思わず目をつぶってしまった。

「あれをなんとか。あの癖をなんとかして」

父親としては恥ずかしい気持ちでいっぱいになる。

「なんとかして克服させてやりたい。私は音楽大の教授であるんだぞ。息子のピアノぐらい」

教授も頭ではわかってはいるが。

「まったく厄介なものを身につけたものだ。メトロノームを呑み込ませたいくらいだ」

西園寺教授は絶対音階を息子に植え付けたいと目をつむりながら考えた。



息子はピアノ演奏の後半を弾きおえた。クライマックスは散々な結果に終わった。


弾き終えてホッとした小学生がそこにあった。椅子から立ち上がる前にひとつ大きな深呼吸をした。審査の父親をチラッと眺め息子は照れた。

「よし完璧な出来だ」


西園寺の息子への拍手はまばらであった。


よかったと褒めた感じの拍手がある。


今一つだなあの拍手もある。


賛否の入り混じるところだった。

「結局はよかったのか、悪かったのか。我々にはさっぱりわからない」

場内のざわめきはしばらく収まらない。


審査員席の西園寺教授。息子に厳しい顔をして採点表にB評価を書いていく。それまでの子供の評価で初のB評価だった。


場内は西園寺教授の採点にさらにざわめいた。

「おい、なんだろうか。あのピアノでB評価かい。あれだけミストーンをしたんだぞ。ありゃあもっと低いはずだ。息子さんだからと高い評価の出し過ぎだぜ。ABCより低いはずだ。そうだなあD評価が妥当だ」

場所が場所だけに露骨なヤジなどはない。が明らかに聴衆は教授の評価には不満だった。まだまだざわめいている。


採点を提示した後で西園寺教授はヘッドホンを外す。タンブラーの水をグラスに注ぎグイッと飲み干す。緊張感から顔をハンカチで拭いた。冷や汗だか肝を冷やしたのかわからないが汗だくであった。

「息子はやるだけのことはやっている。これが低い評価だとは思わない」

教授は改めて自問する。


次に登場は最後の演技者になる正之だった。こちらも小さなピアニストである。正之は緊張しながら壇上にあがる。西園寺とはまた異なった雰囲気が感じられた。


会場には正之の母親がいた。自分の趣味から正之にピアノを習わせた母親。この舞台の息子の晴れ姿は感動であった。

「まあ君がコンクールに出場をするなんて。まったく信じられないわ」

母親は自分もピアノを習ってはいたがコンクールとは無縁であった。一度でいいからこのような会場ホールでピアノを弾くことが夢であった。


壇上の正之は会場が静かになるのを待つ。


観客は西園寺の息子の採点に不満を言う。ざわざわの余韻に浸るところで場内の雰囲気は収まりがなかなかつかない。


観客達の間の話は、

「西園寺ってあんなもんかな。ドイツのピアノはあんな程度のものか。落胆したよ。期待はずれだったなあ。バイエルンに留学していなくても関係ないな。日本にいてもよかったじゃあないか。なんか期待してがっかりだ」


正之はピアノの前に礼儀正しく座り観客のざわめきのなくなるのを待つ。


静かに瞳を閉じて精神集中をしていた。

「ざわざわしていても時間は迫っているから」

順番がきたからには演奏しなくてはならない。


観衆のざわめきの収まりを見計らい鍵盤に指を置く。


聴衆は徐々に黙る。


正之の得意とするノックターンから指を落としていく。


ざわめいていたのがようやく収まる。


出足は正之の思っていたよりスムーズだった。最高級ピアノがいいのか名古屋市公会堂の反響がよかったのか。正之の耳にはいつもより素晴らしい音色が届いた。

「今日は調子がいいや。気分が乗る」

わくわくしたらリズムに乗るのが子供心である。楽しみながら鍵盤を叩きまくる。


特別審査員の西園寺教授は思わず、

「うん。これはなかなかリズムがいい。基礎がしっかりしていると言うべき。ピアノの特性をうまくつかんで鍵盤を叩いている。練習でできる技じゃない。天性持ちあわせたものだろうな。独特のものが感じられる。躍動感がヒシヒシ感じられる」

西園寺教授はつい聴き惚れてしまう。聴衆も正之の落ち着いたピアノに聴き入っていく。


安定した音色からは心地よい気分で正之のピアノを楽しんでいける。気持ちがいい。清々しい演奏は心にジンと響き渡る。


演奏が終了したら西園寺教授は手を叩き喜んだ。

「素晴らしい。よかったよかった」

正之には迷わずA評価を与えた。

「A評価になにかプラスをつけたい。それくらいすばらしい演奏だった。これからあえて欠点を探すとすればもう少しメリハリをつけるのがいいかとも思える。が少年の演奏にそこまでは要求しないでおこう」

聴衆とともに思わず西園寺教授は拍手をまたしてしまう。会場の観衆は割れんばかりの拍手を正之に送った。


正之は立派にヤマハのトリを務めたようだった。


拍手の中から司会者がマイクを持ち現れる。

「皆さん長い間大変ご苦労さまでした。本日のビアノコンクール発表はこれで終了でございます。これより少しお時間をいただいて採点をしコンクール最終の発表といたします」

採点には時間がかかるからお待ちくださいと言われた。


ヤマハピアノ専属ピアニストが採点の間にデモンストレーションで演奏をすることになった。若い女性ピアニストが現れた。

「あれ?あの女性ピアニストはショパンコンクール(予選)に出た人じゃないか。音楽雑誌でひっきりなしにグラビアを飾っているよ」

世界的に名のあるピアニストが弾き始めた。観衆はCDやラジオでしか聞いたことのない世界のピアノを運よくも聴けて堪能した。


正之やその他の子供のピアノとはまったく違う音色。較べても較べられないハイレベルである。ショパンコンクールは優雅なピアノ。これだけ力量が違うと少年の正之のピアノはまだまだと言うところだった。


ピアニストが終演すると司会者が再び現れた。

「はい、ありがとうございました。素敵な演奏を堪能させていただきました。では皆さんお待ちかねのコンクールの発表を致します」

司会者は紙を見ながら幼稚園の部から順番に優勝者・2位・3位と読みあげていく。


幼稚園の部門は西園寺教授が大喜びであった。

「優勝も2位もみんな可愛いね。頑張ってもっともっとピアノを上達してね」

孫に接するおじいちゃんみたいな感じだった。


幼稚園の表彰は皆さん可愛いらしくて微笑ましい光景であった。一番喜びを表したのが審査の西園寺教授だったかもしれない。


少年の部が発表された。優勝は正之になった。会場にいた母親は、

「まあ嬉しい。まあ君がコンクールに優勝したなんて。どうしましょうかしら」

飛び上がらんばかりの喜びである。母親はこのまま正之が世界的に有名なピアニストになるのではないかと夢まで見てしまった。それほど嬉しい優勝であった。


西園寺の息子は正之の次になり準にとどまっていた。舞台に優勝の正之が呼ばれていた。


準優勝の西園寺の息子を含む入賞者が全員舞台に表彰のためにあがる。


しかし2位の成績は嫌だ。準優勝に不服だと西園寺の息子はムズがる。

「僕が2位なのか。えっ、準優勝だって。冗談じゃあない」

舞台の袖で顔を真っ赤にして頬をプックと膨らませた。自然と涙が流れてしまう。


息子は父親のいる審査席を鋭く睨みつけた。プライドが痛く傷ついたところである。


係員が舞台に上がりなさいと催促をした。


すると。


「ワアーン」

と泣きじゃくり舞台ではなく走って外に出て行ってしまった。


父親の西園寺教授は息子の身勝手な行動に弱ったなあとオドケタ顔を見せた。


審査員の西園寺教授(理事)は気を取り直してYAMAHAコンクール評価の総論をして挨拶を締め括る。

「皆さんしっかりした基礎を持っていらっしゃる。ついつい魅力あるピアノに聴き惚れてしまいました。すばらしいの一言です。特に幼稚園のピアニストには感動さえいたしました」

西園寺はユーモアたっぷりに挨拶をして締め括った。場内は拍手が起こりコンクールは無事に閉幕となる。


「やれやれやっと終わった。長い一日だった」

西園寺教授はやれやれだとホッとする。

「それはそうと我が息子はどこに行ってしまったかな。人前で泣きじゃくるなんてあまり見たことない。親として慰めてやらないと。まだ10歳の年齢なんだ。子供は子供だ。悔しいことも悲しいことも乗り越えねばならない」

教授は役員各位に息子を探しに生きますからと退座をする。


会場を出て西園寺教授は息子を探す。玄関口で警備係から、

「先生、先生」

と呼ばれる。

「お坊っちゃんはほらっ。あの鶴舞公園の向こうにいます。見えますか亀の池の前でじっとされていますよ。息子さんどうされたんですか?この玄関から飛び出して来てずっと泣いていましたね」

警備にありがとうを言い、言われた亀の池に行く。


そこには目を真っ赤に腫らした小学の息子がいた。じっと池を眺め泣いていた。


教授は息子の後ろ姿を見ても何も言わずに近くに行くだけだった。


池の畔に親子として佇む。涙の息子はチラッと横を見て、父親の来たことを理解する。袖でグイッと涙を拭いた。


父は回りを見渡し側にあるベンチに腰掛けた。

「泣きやめば連れて帰るだけだ。やれやれ」

安心をして腰掛けていた。

「うん。この袋はなんだ」

ベンチの前に亀の餌を見つける。餌はパンの切れ端だった。一袋を買う。泣いている息子にどうだと手渡す。

「…」

息子は黙って父親から亀の餌を受取る。


ごそごそと袋から餌のパン一切れを取り出した。


池にいる亀に向けポイッとひとつ投げてやる。餌を見つけた亀は器用にもパックと水中から首を出して飛びつき食べた。かなりユーモラスな亀だった。息子は少し微笑んだ。もう少しエイッと投げてやる。


にっこりした。


悔しい思いでわんわん泣いた息子。今の笑顔の息子。


教授にはなぜか頼もしく見えてきた。父親も餌を亀にやりながら自分が少年の時をすぅーっと思い出す。

「俺のガキの時代は音楽にもピアノにも興味がなかった。憧れていたのは野球。野球選手になりたかったなあ」

たまたま西園寺家に生まれたためにピアノをやらされた。物心のつく歳にはピアノの前に座っていたことを思い出す。

「まったくもってピアノは好きじゃあなかった。親父からの強制でピアノだった。ピアノを弾いていたらなにも親父は文句を言わなかった。父親はピアノの中にいたら機嫌がよかった。ただそれだけさ。だけど俺の息子はピアノの才能がないな。俺と一緒でさアッハハ」


池の亀が餌につれられてたくさん寄ってきた。息子は気に入った様子でパン切れをポイッ、ポイッと続けて与えた。亀が餌を食べる様子はユーモアがあり笑えた。息子は笑い硬い表情がほぐれてくる。

「パパ見て。ホラッ亀さんがあんな風に食べている。あれあの亀バカだなあ。ボサッとしているから違う亀さんに横取りされちゃうぞ。情けない亀もいるなあアッハハ」

息子は餌を一袋全部投げてやっておしまいになるとすっかり子供の顔だった。

「おっ済んだか。お父さんの餌もあるよ、これを与えたら、ホテルに帰えるよ」

息子は嬉しかった。ハイありがとうと餌袋を受け取る。

「明日はバイエルンに帰るよ。昼には飛行機だぞ。長いなあ」


父親は立ち上がり息子を促す。息子は赤い目を少し擦りながら父親を見上げた。泣いた顔は晴れやかなものになっていた。

「僕ね本当はピアノが好き。パパに褒めて貰うためにピアノはやらなくちゃあ。ドイツのバイエルンでもっともっと練習したい。もっと上手になって世界のピアニストになりたい。パパみたいな有名なピアニストになりたい。僕、頑張らないといけないね。泣いていちゃあいけない。泣いてばかりじゃあ世界一流にはなれない」

父親はニッコリ笑い手を出した。さあ帰るよと。


息子の手は小さかった。

「そらっ、ホテルに行くよ」

将来のピアニストはそっと出された父親の手をしっかりと握りしめ帰途についた。


帰る際に一度振り向き亀にさよならを言った。

「亀さんも頑張ってくれよ」


公会堂の警備が心配をして様子を見に来てくれた。

「ハハありがとう。無事息子を保護しましたよ」

父親は小さな息子の手をしっかり握りいつか世界をつかむであろうと期待をした。


警備員は盛んに首を捻った。


翌日の新聞に三面囲い込み記事があった。ヤマハ小学生ピアノ部門優勝の正之が小さく載っていた。正之の掲載された新聞はおばあさんの目にも触れる。来年還暦を迎えるおばあさんは、朝食の箸を止めることもなく、新聞記事を気にした。

「これは嬉しいことなんだ。(孫がピアノ優勝したことは)喜ばしいことなんだ」

日本伝統文化協会の会長選挙を棒に振った原因を正之にしてしまった。

「私が泣いていてはいけない。正之が頑張ってピアノで優勝をしたんじゃあないかい。喜ばしいんだよこれは。なんせ優勝したんだからね」

お祖母さんはひとり新聞記事を見てはポトリと涙を落とした。


サアッとハンケチで拭った。さらに一度シャキッとした顔になるとお師匠さんのそれになる。


悔し涙を拭い去るとシャキッとなる。三味線のお稽古を待つお弟子さんに満面の笑みを見せるために作り笑顔を見せた。


小学4年の正之はヤマハの東海地区コンクールの優勝ご褒美に全日本ピアノコンクール(少年部門)に駒を進めていた。


この全日本レベルでは残念ながら入賞にはいたらなかった。正之は母親に連れられ東京にいく。全日本レベルとの差はかなりあったことを思い知らされた結果となった。

「まあ君残念だったわね。もう少し練習して来年も来ましょうね。よく頑張ってくれました」

正之は正之で、

「また来たいな。今度こそ優勝してみたいよ。まっ、来年のことはわかんないけどさ」

母親に連れられせっかく東京に来たんだからと新宿を見ていく。


正之も母親も入賞を逃し特に悔しい素振りもなく淡々としたものだった。

「ママ、そう言えば西園寺くんコンクールに出場しなかったね。よっぽど地区大会の2位が悔しかったんだろうか。もし全日本に来ていたら僕みたいに落選したりしなかった。西園寺くんの方がうまいから」

母親は西園寺のことをすっかり忘れていた。ちょっと小耳に挟んだ話を思い出して、

「まあ君忘れてたけど西園寺くんね、お父さんの一時帰国について来ただけなんだって。今頃ドイツのバイエルンに戻っているわ。まあ君もピアノの勉強のためにヨーロッパに行けるかな。そうなったらママも連れて行って頂戴ね」

西園寺くんがヨーロッパに?ピアノの勉強で?正之はなんでわざわざ海外に出かける必要があるのかなとちょっぴり疑問に思った。


正之親子は東京を見学し新幹線で名古屋に帰省をする。自宅に帰ったらお祖母さんと父親が出迎えてくれた。

「正之結果は残念だったがよくやった。来年頑張るんだな。父さんは嬉しいよ」

祖母は祖母で不仲の嫁がそこにいるせいか玄関先でチラッと孫の姿を見るとそそくさと自室に引き込もってしまう。

「やれやれだね。孫は私の孫はピアノに夢中かい。要は洋楽器と言うやつだね。ピアノはありゃあ鍵盤楽器かな。いくらでも音階があって好きな()が楽々出せるんだね。鍵盤(キーボード)を押せばなんでもポンポン出せるんだね。苦労して三味の音を探すよりうんと楽に出せるね」

三味線は三本線ですべて自分の好きな音色を探して出さなければならない。弾きこなせるまでにかなり時間がかかるとお祖母さんは言いたかった。

「だからあたしゃあ頑張ってお師匠をやっているんさ。特に孫にゃあ三味線を期待をしていたんさね。ふぅなんとかならないかね」

と溜め息をつく。茶器を取りポットからお湯をつぎ急須に注ぐ。一息ついたら風呂にでも入ってもう寝ようかと考える。

「さあもうすることもないから。仏壇のおじいさんに会って寝ますか」

仏壇でお経をあげて寝支度を整えたら、

「母さん、あんなあ」

部屋に正之の父親、実の息子がやってきた。おばあさんを母さんと呼ぶ時は大抵つまらない用件だった。

「ばあさんばあさん。ちょっといいかい。話があるんだ」

息子がなにか用があると声を潜めて部屋に入ってきた。

「おやっ、お前かい?なんだいあらたまって。孫のピアノ残念会でもやるのかい」

ちょっとお祖母さんは皮肉を言ってしまう。息子は頭をかいて、

「そうだな。正之の残念会か。レストランぐらい連れて行くか。それはそうと実はね」

ヒソヒソと話かけてくる。

「母さん頼みがあるんだ」

息子は恭しき態度で母親に話を切り出す。

「折り入って頼みがあるんだ」

息子の内緒の話は独立開業だった。


役所務めからの独立は前々から考えていた。おばあさんもそのことはなんとなく気にしたところである。


が独立は今一つ踏ん切りがつかない話ばかりであった。

「今回はね、それとは違うんだ」

と息子は言い張る。ついては資金を作るために家を抵当に入れたいという話だった。

「お前ねぇ、いくつになってもだね」

母親はあきれ返る。息子は考えて考え抜いた結果なんだから大丈夫と一点張りだった。


あんまりしつこくあれこれ言うものだからお祖母さん最後には、

「もうよしておくれ。私はもう寝ます。もうややこしい話はやめておくれ」

イライラして話はこじれてしまい、

「もういいよ明日、明日にしましょう。さあもう部屋から出て行っておくれ」

息子はわかってくれるかい母さん頼むよ、頼む頼むとくどいくらい言ってやっと部屋を出ていく。

「まったく。あのバカ息子は。いくつになってもバカ息子はバカのままなんだから。あれは治りはしないもんだねまったく」

産んだ母親の顔が見てみたいと自問をした。

「いえ、私の顔を見ても別にねぇ」

その夜は寝付きが悪く深夜まで考えごとをする。


孫のせいで日本伝統文化協会の会長選挙はやめてしまった。自分の息子が家の権利書を出せだと言ってきた。

「先祖代々続く我が家を売るつもりなんだね、あのバカ息子は。まったく親の顔が見てみたい。って私のことかいな。嫁は関係ないか。まあいつもの嫁だけど関係ないか」

なんとなく嫁が悪いと思いたくなる。


一通り考えを巡らせ怒ったらうとうとし始めて眠りについた。


翌朝は早起きをする。まず庭にある盆栽に水をやる。死んだじいさんの形見だった。

「盆栽ぐらいあのバカ息子が面倒見たらいいんだよ、まったく」

朝ご飯ができるまでしばらく時間がある。三味線を出して簡単なバチを払い一日の調子を見ていく。

「今日もお弟子さんお稽古にいらっしゃるからね。お師匠さんの三味線が調子狂っていてはいけない。体調も整え万全にしておきたい」


天気が爽やかで機嫌がいいと長唄も出したりした。


しかし寝不足からか三味が今ひとつ乗ってこない。自分の思う音が出ないでいる。バチを盛んに払う。指運びを急ぐ。音は響きはしなかった。

「おやっどうしたもんか困ったもんだね」

三味線を止めた。ふぅっ、肩でため息をつく。

「正直なとこ三味線に集中できないね。原因はあのバカ息子。まったく」

この怒りの矛先に孫は無関係らしい。


三味線不調のまま朝食を済ませる。お師匠さんはお稽古に備えた。


不調ならばと三味線を弾く回数を減らし誤魔化してしまう。が弟子は気がつく。

「お師匠さん、どうかしましたか?あまり乗っていないようですが」

ちゃんとお弟子さんには最初に指摘された。

「三味線は正直なんだね。音色で私の心がわかってしまうね。皆さん申し訳ない」

お師匠は素直に調子が出ないことを認めた。お弟子さんたちは、

「会長選挙の辞退が一因ではないかと噂をしていたんですよ」

お弟子さん達もそれなりに気を使っていたらしい。

「ありがとう気を使ってもらって。いえね会長選挙は痛手だと言えば痛手なんですけどね」

お師匠さんは息子のことをお弟子さんに話すと考えた。


お弟子さんには法律・商法に詳しい旦那さんの奥さまもいらっしゃった。

「実はお恥ずかしい話なんです。私の息子がね、いえねバカな息子なんですが」

お師匠さんの話に経営コンサルタントの奥さまは、

「家の権利書を出せとは穏やかではありません。考えますわね。わかりましたわ。もしよろしければ宅の主人に相談されてはいかがでしょうか」

三味線のお稽古が雑談になり経営よろず相談に変わってしまった。お祖母さんはお弟子さんに話すことにより少し気が楽になっていた。


その夜は息子をつかまえて一緒に経営コンサルタントに行きましょと誘った。息子はちょっと躊躇したが、

「経営コンサルタントかい。いいよ行ってみるよ。それで気が済めばさ、後は俺のやりたいようにさせてもらうよ。どうせこの家は俺のものになるんだから」

最後の一言はお祖母さんもカチンと来た。


経営コンサルタントはお弟子さんの旦那さん。長年の付き合いの賜でお師匠さんに親身となり相談に応じてくれた。

「これはこれはお師匠さんいらっしゃい。いつも家内がお世話になります。ウチのが三味線を習いたいと言い出した時はどうなるかと思いましたが長く続くもんですなあ。感心しています」


それはそれはとお師匠さんは恐縮をする。

「早速話を聞きましょうか。こちらが息子さんでいらしゃいますか」

コンサルタントはノートパソコンを開示して話をどうぞと切り出した。


言われた息子は恭しく挨拶をし独立開業の夢をひとつひとつ丁寧に話をしていく。コンサルタントは話半分程度のことだった。

「はあはあ、なるほど。わかりましたアウトラインは。ではこちらから質問をさせてもらいます。商取引は海外貿易と言うわけですが」

息子のビジネスの仕組みは簡単だった。


東南アジア方面から安い商品を買い付けて利鞘をつけて日本で高く売る。


「まあ形の上では利益はちゃんと出るようです。

その買い付けの商品調達はどなたがやるんですか。

知人が現地人を雇い買い付けてくる。うーん、なんかわかりにくいシステムですね。仕入れ値の値段は現地人だけが知ってるだけみたいな感じですね。買い付け商品は日本で需要もあるんですか。リサーチは完全ですか。これからの新規開拓の話ならば将来はわからないと思いますよ。やってみなければわからないような話はやっても失敗します」


息子は冷や汗をかきながらひとつひとつに説明をしていく。息子の反論はコンサルタントにことごとく打ち砕かれてしまう。


コンサルタントの反応は?

「それはダメでしょう。単純に考えて商売にはなりませんよ。そりゃあ変な話だ。価格設定が今の段階で出来ないじゃあありませんか。いいですか現地人バイヤーの言い値は決して安いものではないはずです。もう一度計画書を練り直したほうがベターですね。お言葉を返すようですが海外ビジネスをやっていくスタンスより、悪にハメラレているなと実感します。恐らく絵に描いている利益が出る頃には現地人の姿はないでしょう。まあ利益など出ないみたいな気がするんですが」

息子はハンベソでコンサルタントの話を聞く。貿易の利鞘を素人が安易に稼げれるほど甘い世界ではなかったらしい。

「まあこれに懲りて独立なんとかは考え直したらいかがですか。私の見解判断はそうなります」

諦めろと言われて息子はうつ向き加減にそして黙ったままになる。


お祖母さんは長年息子を見ている。だから息子の様子が変だと察知する。


素直に敗北宣言をするには引っ掛かるものがあった。そこですかさず聞いた。

「もしかしてお前ね。もうすでに売買契約書や稟議書にサインをしてしまったのではないでしょうね」

息子は下を向いたままに

ガクッとうなだれた。


小さな声で、

「母さんお願いします。土地の権利書を渡してください。(涙を流し)お願いしますお母さん」


呆れた。すでに手遅れだったのだ。息子はサラリーマンの片手間で稼いでしまおうと先行投資をしてしまった。簡単に言えば先物取引に手を出したのだ。お祖母さんはなにも言えなかった。コンサルタントは手だてがありませんなとだけ言った。


それからである。自宅に借金の催促郵便が頻繁に送ってきた。最初のうちは嫁が対応して相手にしなかった。これがまずかった。借金返済を自宅にまで来る口実を与える結果になってしまった。借金取りが押し寄せた。

「もう、我慢出来ないわ」

あまりに煩いため警察に相談となった。

「まっ、待ってくれ。金を借りたのは俺だからさ。返す返さないは俺の裁量だ。警察だけは言わないで欲しい。どうか勘弁を」

と息子が嫁に謝っていく。

「後はあばあさんに頼むからさ、なっ、なっ気を沈めてくれないか」

息子は土下座して嫁に気を落ち着かせてくれと謝る。

「おやおや、嫁をなだめたね。お前の尻ぬぐいをさせておいて勝手なもんだね。次は私の番かい。嫌なこったねっ、と突っぱねたい」

歳を取っても母親は母親。

「バカな息子でもなんでも実の息子だからねぇ」

しかたないか、なんとかしてやらないと可哀想かと思ってきた。

「土地の権利書は渡せやしないが」

ある程度の金の工面ならばやってやれないこともない。

「明日に銀行と相談してみょう。打開策はあるかもしれないからね」


借金で八方塞がりの息子はその夜母親の元には姿は現わさなかった。


テーブルの上に置き手紙があった。


「ホトボリが覚めるまで姿を隠したい」


慌てた筆使いの置き手紙だった。


息子はこれを最後に蒸発してしまう。


父親がいなくなり正之は突然に母子家庭になってしまった。

「お父さんどこに雲隠れしたんだろうか」

母親とおばあさんは呆れた呆れたと諦めムードであった。


「あんなバカな息子なんざいらない。とっとと蒸発してくれてせいせいしたさ」

どこまで本気か。おばあさんは台所に行き塩を手にもちパラパラと玄関に撒いた。


数日後、夕飯を食べながら正之はふと箸をとめた。

「ねぇママ」

なにか思いついたように問掛けた。うん?なにかしらと母親は息子を見る。


同じ食卓にいる正之の母親と不仲の姑の祖母はなにも知りませんよとソッポを向く。

「あのね、YAMAHAのピアノコンクールで西園寺くんがいたでしょ。ほらっドイツに住んでいて一時帰国して帰ってしまったとかいう子。ママは覚えていないかな」

正之の親子の会話をちょっと聞耳立てたのが、なにも知りませんよの姿勢を示していたお祖母さんだった。

「西園寺だって。その名前はお公家さんのじゃあないかい」

おばあさんはよく知っていた。西園寺さんを知っていた。


正之の同学年がライバルならば西園寺の家と正之のおばあさんは浅からぬ間柄であった。

「正之、その西園寺さんってお公家さんの方かい」

事情をよく知らないお祖母さんに孫の正之は西園寺くんを説明をする。ドイツのバイエルンでピアノを習っている音楽大教授の息子さんと競いあったことを。

「そうかいそうかい、そんなことがあったのかい」

おばあさんは苦々しい。正之のピアノコンクール優勝と引き換えに日本伝統文化協会の会長選挙を辞退したことを思い出していく。あまりにも面白くない話だった。


「アタシャ今は後悔はしてはいません。(会長選挙は)ありゃあ夢の中の話だったと思ってますよ」

しみじみといい放った。まだまだ未練はあるところである。


さらには新会長さんになられた長唄のえ師匠さんがこれまた評判がよかった。

「次期会長選挙に出てもあの長唄師匠を負かせる自信はありませんね。同じ年齢だし、長年の付き合いもある」

もはや勝ち目はなかった。さらには、協会の5人いる理事の職も選挙の責任を取る理由で辞退した。

「役職はいずれは外されるものだから」


しかし協会や三味線の組合などからは、

「三味線の顔はお師匠さんです。せめて協会の理事だけは続けてもらいたい。お願い致します」


再三理事を続けるようにと言われた。

「しかしね。一旦辞めますと辞表を出したんだから」

おばあさんはプライドの問題ですと理事就任には消極的であった。


そこで協会は折衷案を出す。

「こうしましょう」


三味線組合からはお師匠さんと第一のお弟子さん(師匠格)を認めましょう。理事はお弟子さんが務め、お師匠さんは副理事に就任していただく。

「肩書きは副ではありますが。お師匠さん」

責務も対外的な行事も今までと同様に三味線の理事として務めてもらいたいとした。

「わかりました。副理事で結構でございます」


お師匠さんはつまらない顔であった。


正之の顔をじっくり見てつい思い出してしまう。

「なんせ、かわいい孫のことだから。過去は過去だ。すべて忘れましょう」

おはあさんにじろじろ見られた孫の正之。


「おばあさん、西園寺くん知ってるの」

なんせ小学生の孫は無邪気だった。言われたおばあさん。手短かにある饅頭をパクッと食べて気を紛らわせた。頭がカッカしていたから、

「甘くもない饅頭だね」

味もなにもわからなかった。がグイと飲んだお茶は苦かった。


西園寺公望から続く公家。西園寺家は元来は雅楽の琵琶を奏でる家柄だった。お師匠さんは日本伝統文化協会や楽器伝統の会合で西園寺公望の直系の子孫という方に名刺をいただいたことがある。

「確かその方は公望の孫か曾孫だったわね。ただね戦後のことさ。もうかなり昔の話だね。琵琶の演奏は噂には聞いてはいたよ」


元老院の西園寺公望は明治大正の天皇を補佐していた人物である。


後に首相になる西園寺に関して面白いエピソードが残っている。


明治天皇が、

「琵琶の家柄ならば西園寺の琵琶が聴いてみたいものだ。演奏をしてもらいたい」

と申された。この一言から宮内庁雅楽部と西園寺の琵琶との合奏が催された。


楽曲の家柄西園寺は琵琶が苦手で大変に苦労をされたと言われている。

「その琵琶の西園寺さんだろうね。子孫関係さんならピアノをやっていてもおかしくはないわね」

おばあさんは現在、琵琶の楽曲理事は誰かなっているかと思い出す。

「琵琶の理事さんは西園寺さんではないね。他人さんが就任していらっしゃる」


おばあさんから話を聞き正之は書斎に行く。


百科事典を開いてみた。西園寺を見たくなったのだ。パラパラ事典をめくってみた。

「西園寺くんはこんな家柄なのか」

事典の最後に西園寺教授が紹介されていた。

「教授は直系なんだ。わあっすごいや」

教授は男3人女2人の長男。全員が音楽関係で大成していた。ピアノ・バイオリン。ただ琵琶はいなかった。

「琵琶はダメなのか。天皇陛下の前でうまくできなかったからかな」

正之、ちょっと笑えた。

「西園寺くんは音楽の家系になるんだ。えっ総理大臣も出ているんかあ」

音楽だけなら正之だって三味線の家系である。おばあさんが言うには江戸の末期にはお城の三味線の師匠をしていたらしい。だから音楽に関してはひけを取らない。

「西園寺くんと充分に対等な勝負が出来る」

と正之は思った。

「西園寺くんはライバルなんかなあ」


それが問題であった。


西園寺教授がいるバイエルン地方は中心都市がミュンヘン。中世から栄える商都である。


中世の欧州においてはバイエルン・ウィーン・ボヘミアンの森が悠久たる音楽のイマジネーションを脈脈と伝えていく。言わば音楽の都であった。


その音楽文化を今に伝えているため世界中から音楽家が集まってくる。西園寺教授も音楽留学生のひとりとしてバイエルンでピアノを学んでいた。


今でこそ世界に名がある西園寺教授もバイエルンに来た当初はかなり苦労をされたらしい。


日本で音楽大学を終えてからの音楽留学。ピアノはピアノではあったが環境が違っていた。

「バイエルンも日本もピアノが同じだと思っていたが」

バイエルンのピアノは教授には大変弾きにくかった。

「なんど調律をしても思ったように反響をしてくれない。だがそれはピアノの性能のなさとは言われなかった。ピアノではなく私の力量のなさだと思われてしまった」

バイエルンに集まったピアノの俊英たちは、

「アジアの東洋人は自分のテクニックがないこてを楽器のピアノのせいにしている。ならばしっかり練習したらどうだ」

さんざんにコケにされた。特にアジアであることが気に入らないようであった。


日本の音楽大学を首席卒業の若き西園寺教授。ピアニストとしてのプライドはいたく傷がつく。キラキラと光輝くダイヤモンド。日本で生まれた原石をバイエルンで綺麗に研き輝かせたいと願っていたが。

「バイエルン留学で箔をつけるつもりがとんだことになっていた。傷ついてしまって落ち込んでしまう。大学の宿舎に帰り真っ先にやることはベッドに顔を埋めてオイオイ泣くことだった」

バイエルン留学は本末転倒であった。こんなことなら、こんな惨めならば日本に帰りたい。

「私はどうすることもできない留学の身。ピアノを新しい日本製に代えてくれとも言えない。ただ毎日大学にあるピアノの前に座るだけだった」

大学では世界から留学がいた。

「あのアジアはダメだな。文句ばかり並べている。おい聞いたか、日本の日本製ピアノでないと弾けないと言っているらしいぜ。だったらバイエルンから帰国しろっ」

この陰口はドイツ語として耳に入った。アジアは日本・韓国・中国・ベトナムが留学していた。大学の付属施設備え付けピアノに注文をつける留学生は日本人西園寺だけであった。

「まったく響かないピアノを私は叩き続ける。どこの製品であろうともピアノはピアノだ。アジアは文句しか言わないと言われたから悔しい。そこで身についたのが」

どんなピアノでも最高の音色を出すことに努力をするだった。


若き西園寺教授は意地になり毎日ピアノに向かいテクニックを身につけた。

「やればやれるものさ。ピアノの音色を高めていくのは容易なことさ。見ておれ私の才能を。誰もなにも文句のいいようのないピアノを弾いてみせる」

このあたりの頑張りに西園寺の家系に琵琶があり音楽の血筋が入っていることが見て取れる。


さらには決して諦めない。

「こと音楽ならば私は妥協はしない。他の分野ならいざ知らず音楽ならばだ。西園寺がピアノをやるからには世界のトップになってやる。私はピアノを弾くために生まれてきたのだ」


期待されてのバイエルンへの留学。瞬く間に西園寺の名とピアノは知れわたる。


そのピアノテクニックが評判があがっていく。


留学が終わる頃には大学にいる誰からも陰口や誹謗を受けることがなくなっていた。

「あのバイエルン初留学の思い出はだなあ」

留学最後に開催されたピアノコンクールに集約をされた。

「私は全神経をピアノに集中していた」

まさかまさかの審査員全員から満点採点をもぎ取ることができた。

「あのコンクール優勝は嬉しかった。アジアだから東洋だからの一言をぶっ飛ばした。西園寺のピアノの心地よさがあった。だから今の私がある。とにかく初のバイエルン留学は落ち込んでいたり、薔薇色に光り輝いたりと浮き沈みの激しいものだった」


このピアノコンクールは欧州の企業のスポンサーがつき優勝賞金が出た。

「もらった賞金と奨学金の残りで私は欧州諸国を回った。自分へのご褒美という意味でね」

西欧諸国から北欧と気ままに旅行を楽しんだ。行く先では音楽大学の招待を受けゲストピアニストとして演奏を披露することもあった。

「あれがバイエルンの優勝ピアニストなのか」

会場の聴衆の囁きは西園寺に心地よい優越感と陶酔感を与えてくれた。

「もはや私はピアノの楽聖の名を確実に手に入れていた。絶頂であった」

行く先行く先で演奏は拍手喝采である。

「その旅行先のロンドンで今の妻と出逢い結婚をする。翌年には待ちに待った息子が誕生をする。この時期に私はいよいよピアニストとしての確たる道を歩むことに決意をする。不安もあった。それよりもピアノを弾きたい、世界の皆さんに私の演奏を聴いてもらいたいという願望が大きかった。不安を見事に打ち消してくれたのはピアノへの情熱とその結果だ」

西園寺教授は若き日を思い出す。バイエルンでの留学の日々は青春のすべてであり誇りに思うことばかりであった。


ピアノの思い出の先には息子が見えた。

「私の辿ったピアノの道を」

教授は遠くを見つめた。かわいいかわいい息子がピアノに向かう真摯な姿を想像していく。

「我が息子はピアノの道を選んだ。父親の私と同じ道を歩むとね。父親の私が幼くして選んだ道を息子は選んでくれた」

教授自身、祖父からピアノを強制された幼い日々が痛みを伴い記憶に蘇る。

「私はピアノが嫌いだった」

なりたいのは野球選手。憧れていたのは投手だった。


小学生の同級は授業後、真っ黒になり白い球を追い掛けていた。

「私は父親から球技や体操を一切禁止されていた。指を傷つけてはいけない。ピアノを弾くために体力や筋肉はいらないと止められていた」

さらには半袖は禁止される。あくまでも腕や指を保護しなさいということだった。

「今を思うと」

ピアノにさえ向かいさえすれば何も文句を言わない父親の背中を思い出す。

「あれでよかったんだ。私は西園寺家の長男だ。音楽に携わり音楽で生きていく。ただそれだけの話なんだ。この家に生まれた宿命はちゃんと背負いましたからね」

教授は幼い日々、ピアノを父親からごり押しされたことを懐かしいと最近思い始めた。昨年の暮れに他界した父親を思い出す。

「そんなとてつもなく険しく厳しい道を」

自分の息子がまた同じ思いで歩んでいるんだろうなと想像をする。

「悩んでもらって結構。ピアニストになる道を選んでくれた息子に感謝する。私は息子には満足をしなくてはならない。もしも野球がやりたい、サッカーがとか言い出しても父親として私は反対をすることはできない。好きなことをさせてやりたいだけだ」


ドイツのバイエルン地方とはどんなところであろうか。


17世紀以前にはバイエルン地方のミュンヘンは何度となく外敵から侵略をされて常に領主の顔が変わっていた。1806年にバイエルン領が独立を果たしバイエルン王国が誕生をしたのを機会として首都ミュンヘンを制定をした。


1818年憲法制定。バイエルンの国として機能を果たすことになる。


バイエルン王国の王様は歴代芸術を奨励した。特にルートヴィヒ1世時代には町にレジデンツやケーニヒス広場、アルテ・ピナコークが作られた。これらを評してイーザル河畔のアテネと言われるくらいの芸術の都となった。


続くルートヴィヒ2世も芸術を庇護して音楽や工芸などに力を入れた。


首都ミュンヘンはどんな街か。


6〜7世紀イーザル川の畔に修道士たちが築いた集落から発展をしたが起源。テーゲルン湖修道僧による入植地だから『ミュンヘン(小僧)』と名づけた。街の紋章には可愛らしいガキんちょが描かれている。


1158年ハインリヒ獅子王がイーザル川の川の管理権を認められて橋と貨幣鋳造、市場を開く。


西園寺の息子はバイエルンの大学付属施設の音楽学校幼年の部に通っていた。


このドイツの学校は幼年から徹底して英才教育を施すことで有名であった。


日本の小学生からバイエルンに移り住んだ当初は西園寺の息子はかなり戸惑いがあった。

「パパに言ったんだけどね。学校にあるピアノが思うように響かないんだ」

息子はピアノの調律が悪いから音が鳴らないのではないか、古いから全体的に反響音が鈍いのかと思っていた。

「自宅のピアノはちゃんと響くのに」

自宅の演奏ではちゃんとした希望通りの音色を奏でてくれた。

「だから学校のピアノはついつい肩に力を入れてしまうんだ。鍵盤をグイッて抑えてしまう。教官はダメだよって言うんだけどさ」

息子はエヘヘと苦笑いをした。


歴史は繰り返すのであった。西園寺家は何代にも渡り繰り返すかもしれない。


バイエルン大学には幼年学校-中学校-高校と続き同じ敷地内で教育が受けられた。


学内の音楽ホールには誇らしげな一枚の楽聖の肖像画があった。


西園寺はいつも前を通るたびに、

「この肖像画は誰なんだろうか」

ホールの雛壇の上にある肖像画。

「バイエルンの校長先生かな」

疑問には思っていた。


肖像画はドイツの偉大な作曲家Ludwigvan Beethoven(1770-1827)52年の生涯であった。


ベートーベンはドイツはボンで生まれた。一家はもとはフランドル地方の出で祖父ルードウィの世代からフランドルからボンに移住する。


祖父はボンでケルン選帝侯の宮廷楽長を務めた。


父親ヨハンも宮廷楽団の歌手だったが残念ながらあまり楽才はなかったらしい。


父親は自分にはない楽才を息子ベートーベンに見抜き4歳から無理矢理にも音楽教育をさせる。


7歳でピアノリサイタルを開かせたほどである。


1781年(小5)で初等教育を辞めてクリスティアン=ゴットロープ=ネーフェに作曲を師事。1784年(中2年)には宮廷のオルガニストに就任をし年棒を支給された。


1785年(中3)ブロイニング家のピアノ教師になる。ここで未亡人ヘレーネ=フォン=ケーリヒに可愛がられ文学からラテン語、礼儀作法に至るまでさまざまに教えを受け、また、ボンの社交界に紹介をされた。


肖像画はベートーベンである。


が小学生の西園寺には、

「ドイツ語が読めやしないから」

なにやら苦虫を噛み潰しただけのわけのわからないドイツ人にしか見えなかった。

「誰かな。ちょっと怖い顔だからさ。おヒゲ描いちゃうかなアッハハ」


ヒゲは似合うかもしれない。


西園寺の通っているバイオリン音楽学校は地元バイエルンで有名。ドイツの音楽家の師弟で占められていた。幼年からピアノやバイオリンを習った子供たちばかりである。

「夏休み前にバイエルンに来たんだけど」

西園寺の息子は驚いたことがある。

「夏休みに子供たちが遊ぶことをしないんだ」


子供がワイワイと騒いで遊ぶことをしなかった。


「みんなこれから夏休みだよね。音楽学校の続きで夏休みもピアノを勉強しなさいではないよね」

家に帰りさっそく大学教授の父親に聞いてみる。

「バイエルンでも夏休みは間違いのないことだけど。みんなコンクールが間近に迫っているから熱が入るんだよ」


夏休みは欧州各地で子供のための音楽コンクールが開催された。これに出場をして腕を研きたい子供たちであった。ピアノやバイオリンの夏の甲子園大会開催である。

「せっかくの夏休みなのにつまらないじゃあないか。みんなは遊びたくないのかなあ。僕は遊ぶよ遊びたいんだから。プール行ってバシャバシャ泳ぎたいな。山で昆虫捕まえたりしたいな。パパについて欧州を旅行したい。やりたいことがいっぱいある」


西園寺は日本からバイエルンに来たばかりである。夏休みはピアノコンクール開催に参加はしなかった。そして迎えた新学期。


バイエルンの新入生西園寺は子供たちに自己紹介をして仲間入りをする。

「はじめまして。日本から来た西園寺と言います。楽器はピアノです。よろしくお願い致します」

ドイツ語も英語も喋れない西園寺。日本語で挨拶をして担任教師に通訳をしてもらう(ただしドイツ語→英語)

「あちゃあドイツ語も英語もチンプンカンプンだ。早目に言葉をマスターしないと大変だあ」


西園寺のクラスは少人数だった。バイエルンの学校全体は生徒数はかなりだったが、

「パパの言うには特待クラスだという話だよ。ピアノやバイオリンの優れた生徒だけが集められたらしいや」

西園寺のクラスは特1と呼ばれて一般生徒とは扱いもピアノやバイオリン教育も全て違っていた。


狭い教室に西園寺は新入生としていた。ぐるりとこれから同級となる生徒たちを眺めてみる。

「いろんな顔の子がいるなあ。このバイエルンは南ドイツ地方のミュンヘン。バイエルンの地元のドイツ人だけ通っているというわけではないのか」


担任に席を教えられ西園寺は同じ子供たちの中に入る。少人数クラスの仲間は世界各国から寄り集まり母国語が違っていた。


地元バイエルンの子供以外はどんな国がいたか。


・ルクセンブルク〔西欧〕


欧州のベネルクス3国(ベルギー/オランダ/ルクセンブルク公国)ルクセンブルクそのものも音楽は盛んである。日本からの音楽留学生もいる。


・ルーマニア〔東欧〕

・ブルガリア〔東欧〕

2007年に念願のEU諸国参加を果たした両国。


民族ではルーマニアはラテン系/ワラキア民族。ブルガリアは南スラブ系になるがかなり混血が進み多民族化している。日本人に似た顔つきもままある。


・トルコ〔小アジア〕

遊牧民のオスマン=トルコ族。中央アジアの発祥らしいからアジア的な面もある。


・アルメニア〔小アジア〕

旧ソ連のひとつ。コーカス3国のひとつ。(グルジア/アゼルバイジャン/アルメニア)


険しいコーカス山脈の南に位置をする。最近はダイヤモンド加工で名がよく聞かれる。


アジアからはベトナム・韓国・日本(西園寺)である。


留学の子供たち同士は英語で挨拶を交わす。わかればドイツ語で挨拶をしてくる。共通語は2か国語であった。

「英語とドイツ語を理解しなくてはならないか」


ドイツの初等教育は10歳ぐらいから英語やフランス語を学校で教え始める。だからバイエルンの子供は学校で覚えたばかりの英語やフランス語が使えることが楽しくてしかたがない。だから外国人の西園寺などは英語がわかるだろうと盛んに話かけてくることになった。


西園寺も片言英語ならとワンフレーズ返す。

「英語とドイツ語。パパが言っていたが言語なんて馴れてしまえば自然に覚えてしまうらしい。パパはかなり話せるからね。気長に言葉は覚えていこうか」

その点は楽天家な性格が幸いをする。


少人数クラスの中を見たら日本人に似た顔があった。

「あの子はひょっとして」

西園寺は机をかき分け歩み寄りをする。対した子供は身構えた。

「日本かな。こんにちは」

通じるかなと話かけてみた。


日本人に見えた同級生は日本語を言われた瞬間にムッとした。露骨に嫌な顔をして態度に現した。

「僕は日本人なんかじゃあない。いいなベトナムだ。アジアの恥さらしのジャパンなんかじゃあないぞ。間違えられて不愉快だ。謝れ」

同じアジア人だから似たような顔つきはある。さらに似たような性格である。

「なにを怒ったんだ」


ベトナムは東南アジアはインドシナ半島の東に位置する。ベトナムの歴史。


BC111年漢の武帝にアンナン(ベトナム)は征服され世界史に登場をする。


40年チュン=チャック(徴側ちょうそく)、チュン=ニ(徴弐ちょうに)の姉妹により一時独立を果たす。


1009〜1225年…李朝。リ=コン=ウアン(李公蘊りこううん)は首都をタンロン(ハノイ昇竜)に移しダイベト(大越だいえつ)を建国する。


1225〜1400年…陳朝(ちゃん)

1428〜1789年…藜朝(れー)


1789〜1802年西山朝(タイソン)タイソン(西山)3兄弟で全国制定する。


1802〜1945年阮朝(グエン)農民蜂起を指導する。グエン=フックアイン(阮福映げんふくえい)が国内統一しジャロン帝(嘉隆かりゅう)と称してユエ(順化)に阮朝(グエン)を開く。阮朝(グエン)はカンボジアを支配下に入れ隆盛を極めた。


この阮朝(グエン)はベトナム最後の王朝となった。国号を大越から越南(ベトナム)に改めた功績がある。


19世紀の中から侵入してきたフランスは南部を植民地に。1884年阮朝(グエン)をフランスの保護国とし1887年にはベトナム全部をフランス領インドシナに編入してしまう。


阮朝は自らの権力争いの際にフランスの後押しを求めてしまいフランスのベトナム進出を許してしまう。


1858年ダナン翌年サイゴンが占拠され1883年にはベトナム全土がフランス支配下となりフランス領インドシナ時代になる。


ただし阮朝は滅亡は免れた。政治権力のない形ばかりの王朝となり残る。


ベトナムは5民族王朝。


フランスからの独立を勝ち取りたい民族主義者による運動はホー=チ=ミン(胡志明こしめい)に指導された。


フランス滞在中にレーニン主義に傾倒したホーチミンは1930年共産主義運動に発展する。


1945年8月。革命によるバオ=ダイ(保大ほだい)帝の退位と9月2日の独立宣言によりベトナムは独立を果たしベトナム民主共和国となった。


1946年インドシナ戦争勃発。それに続くアメリカの介入によるベトナム戦争。


ホーチミンは常にベトナムの真の独立と自由のために戦い国民の精神的支えとなった。今でもベトナムの英雄ホーチミンである。


1976年ベトナム社会主義共和国成立。ベトナムの歴史である。


こじんまりとしたバイエルンのクラス。


日本からやって来た西園寺は国際的な社会問題や民族の違いなどをツブさに感じ取らなくてはならなかった。

「ベトナムか。日本と同じアジアだ。東南アジアの国だベトナムは。日本に嫌悪をしているのか。なぜかな」


怒ったベトナムの横でどうしたものかと立ち往生していたら後ろから声をかけてきた。

「おい新入りの日本人。お前は日本人だろ」(英語)


ジャパンとジャパニーズだけかろうじて聞き取れた西園寺。肩に手を触られたからクルリッと振り向いた。

「誰だ」

そこにはアジア人の顔で見るからに韓国人という風情での子供がいた。

「お前な、あのベトナムには近づくな。ロクなことがない。俺は同じアジアだからお前に忠告をしたんじゃあない。他の奴等もベトナムには迷惑しているんだ。悪いことは言わないあいつの近くに行くな。いいな」

韓国は忠告をしてくれた。危険人物はそっとしておけと。


西園寺はサッパリわけのわからぬまま授業に入る。


担任が率先をして生徒を振り分けた。

「ピアノはピアノ室に行きなさい。バイオリン・チェロなどは教室に残るように」

てきぱきと指示をした。


西園寺を含めピアノ科は過半数を占めた。ベトナムも韓国も担任の後をつきピアノ室に入っていく。西園寺も後に続く。

「よし今からが勝負だ。ピアノに座りさえすれば僕だって」

好きで得意なピアノである。

「やっとピアノだ。よーし他の子たちを出し抜いてやる。僕は天才ピアニストだと日本では言われているんだ。見てくれよ、レベルの違いを嫌と言うほど見せつけてやる」

西園寺は指をポキポキ鳴らした。


指導教官はひとりひとり自分の得意な楽曲を弾くように言う。ただ新入りの西園寺は実力がわからないからと教官の出した課題曲から選ぶことになる。

「課題はショパンとモーツアルトか。ショパンにするか」


演奏は始まり西園寺などのアジアは最後に弾くように言われた。

「このバイエルンの教師な、かなりアジアに偏見があるぜ。一番うまい奴から弾かせたらどうなんだ。まったくタラタラしたガキんちょみたいなピアノばかりだぜ」

悪態を作った韓国である。


しかし西園寺が聴く分には、

「タラタラなんかしてないよ。みんなうまいよ。ひょっとして僕が一番下手かもしれない」


一番手や二番手は西園寺が驚くピアノを弾く。

「ピアノはミスがなくそつなく聴かせているじゃあないか。狭い楽曲教室には心地好い雰囲気が漂い始めたぞ」

なぜかしら順番を待つ間に冷や汗が出てしまう。

「では次。アジアから行こうか。最初にはベトナムどうぞ。次にコリアだ」

教官から弾きなさいと言われベトナムはニッコリと笑う。

「この子はよほどピアノが好きなのか」

先程までのブッチョウ面はどこへやら消えた。そこに可愛いらしい小学生が笑顔でいた。


椅子にチョコンと座りピアノに向かう。選んだ楽曲は優しいセレナーデだった。


指が鍵盤に触れた。楽曲室内がピアノの音色に占拠されていく。

「うまい。物凄く上手だ」

西園寺は唸り拍手をしてやりたくなる。ただ教官はあまり満足はしていない。どこかここか不満がある様子である。

「次はコリア。最後にジャパンだ」

ベトナムが退座して韓国がドッカリと椅子に座る。こちらも自信たっぷりの身振り素振りである。

「こいつは、かなりの自信家だ。どんなピアノを披露するのか、じっくりと聴かせてもらうか」

選んだ楽曲はリストだった。技巧な曲を敢えて選んできた。鍵盤には畳み掛けるように前傾姿勢で構えた。いかようにもテクニックはあるぜと言わんばかりである。演奏が始められたら機関銃のごときである。少しでも気を抜けば敵にやられてしまいそうな雰囲気。

「口であれこれと言うだけのことはあるな。恐れ入ります。このクラスはレベルが高いや。ベトナムも何もかも僕よりも上である感じだな」

大口を叩くだけの力量はあった。

「最後にジャパン。これが済みましたら私の講評になります」

西園寺が教官に呼ばれる。少し緊張感があるかなとその時に指が震えた。

「大丈夫だ、大丈夫。僕はヘマはやりはしないから」

気が高ぶれば高ぶるほど緊張感が増す。


ゆっくりとピアノに対座をする。課題曲の譜面を開いて背筋を伸ばした。落ち着きを取り戻すことに賢明になる。

「深呼吸をやるぞ。それで落ち着いたらピアノは始める」


西園寺の小さな指が鍵盤に触れ小刻みに動き始めた。ショパンのワルツが奏でられていく。音色はどうにも心地好いとは言えなかった。

「あれ、どうかしたか」

西園寺は演奏しながら不安になる。


ピアノ科は全員がピアノ試技を終える。教官からの講評が淡々と読み上げられていく。最後に西園寺である。

「ジャパン。あなたは練習が不足しているように聞こえます。いきなりの課題曲で不満となるのかわかりませんがもう少し丁寧に弾きなさい。以上講評終わりです」


教官の講評は全員に向けてではあった。ただ一人として褒められた者はいなかった。かなりの辛口講評である。


練習不足と言われた西園寺は恥ずかしいと思った。備えつけのピアノがうまく反響しないからと自分の技量をごまかしていこうと思った矢先の話である。


他の子供たちは特別な悪びれることもなく淡々としていた。


教官の指導をさらに受けたいと2〜3の生徒は希望をしてそのまま音響室内に残った。


「おいジャパン。ダメだな、お前。ピアノが下手だ」

西園寺の前であれこれ文句を言うのはベトナムだった。


英語で話かけているから西園寺にはほとんど理解ができない。

「ベトナムの言っていることは。悔しいが英単語でポツポツちょっとわかる。早く言えば僕はピアノがへただと言いたいんだろ」

英語がわからずとも不遜な態度でわかってきた。


この初日の屈辱は西園寺をより一層ピアノに向かわせた。ベトナムや韓国というライバルの出現は幼心にメラメラとした火をつけてしまう。

「パパに頼んで家庭教師をつけてもらう。学校だけのピアノでは不足だ」

西園寺はライバルに勝つだけでは満足せずクラスで一番になりたいと考えた。


クラスのトップは西園寺が考えるほど柔なレベルではなかった。


ルクセンブルクとアルメニアは夏休み開催の欧州Jr.ピアノコンクールでそれぞれ異なる大会で優勝を飾っていた。


ルクセンブルクの父親は宮殿つきの楽隊。アルメニアは世界的に有名なプロピアニストである。


ルクセンブルク公国のお坊っちゃまは生まれた家系が公王の宮殿音楽執務を取り仕切る身分であった。ルクセンブルク唯一の音楽エリート一家であった。

「僕の一族はルクセンブルク公国やベルギーの宮殿に代々使える宮殿楽隊です。国王さまのために最高のピアノを弾いて差し上げたい。そのためにこの音楽の(やしろ)バイエルンで優秀な成績を収めピアニストにならなければならない。頑張ってどうしても首席卒業をしたい。出るピアノコンクールはすべて優勝を為し遂げる」

壮大な覚悟であった。ただでさえレベルの高いバイエルンで首席を狙いたいとは。

「僕が世界一流のピアニストになることを母国のアンリ公王は望んでいらっしゃる。我が国のアンリ公国王に幸多かれしことを」

ルクセンブルクは恭しく頭を下げた。目下バイエルンのクラスで成績はトップ。いかなるピアノ課題曲も優々と弾きこなした。天才ピアニストの冠は間違いのないところであった。


そのトップについで双壁となるのがアルメニア。この子供も優秀である。


小アジアに位置をするアルメニアからの豆ピアニストは才能に溢れていた。


アルメニアはどんな国か。


ロシア南にあるコーカサス山脈(露語はカフカス)。北がロシアで南にグルジア・アゼルバイジャン・アルメニアと仲良くコーカサス3国がある。


近年は北コーカサスのチェチェン共和国がなにかと新聞ニュースを賑やかにさせているのでダメージとして有名となっていた。


コーカサス諸国も1991年に旧ソ連の構成共和国15から独立を果たす。


独立はしたがロシアとの関係はまだまだ立ちきれず続ける。


その領地内に民族間の火種を多々燃やし続ける。

「アルメニアは平和な国です。異民族がいけないのです」

聖なる山アララトを神と崇めるアルメニア。決して交戦を望みはしない。


アルメニアのアララト山は旧約聖書にある『ノアの方舟』が大洪水の後に辿りついた地だと言われている。


ノアが大洪水から方舟に乗り生き延びた。その末裔がアルメニア人であるとさえ言い伝えていた。(アルメニア伝承)

「ノアの話はアルメニアのみんなが知ってる。だけど子孫だとか末裔になるかはどうかな。完全な神話の世界になるだろうしね。第一ノアその人はどこからきた人になるんだろうか。実在したのかな。分かんないね」


アルメニアは古代には小アジアに大帝国を築きあげて栄華を誇る。優秀な民族で高い文明も築きあげたと遺跡発掘からわかっている。


この小アジアのアルメニアにエピソードがある。


アルメニア大帝国の時代のこと。西アジアからセルジューク=トルコが勢力を伸ばしアルメニアを含むコーカサス諸国を脅かす存在となっていく。


その勢力はみるみるうちに拡大されついにアルメニア皇帝を捕まえて支配下に入れようかとまでなる。アルメニアの人民は、

「そんな野蛮なトルコなんかの属国になるくらいならアルメニア大帝国から亡命した方がましだ」

早め早めにアルメニア大帝国から逃げ出していく。アルメニアの離散である。


移住先としては今の欧州やアナトリア半島(トルコ)に。敵の手を免れて移住を果たす。賢いアルメニア人は移住をしてしまうとアルメニアであると決してボロは出さない。


世界史をみたら離散した後に小アジアのアルメニアには戻りはしなかった。


アナトリアの都市にあるアダナやタルススに命からがら逃げてきたアルメニア人が『キリキリア=アルメニア公国』を建国をする。


アルメニア大帝国が小アジアでセルジュークトルコ領地になってもキリキリアアルメニアは存在をした。これが第二のアルメニアとなる。キリキリアアルメニアの話はコーカサスのアルメニア人には自慢の建国となっている。


キリキリアがしっかりとした帝国にまで発展をしていたら世界史そのものも大きな転換期を迎えるであろうが。残念ながらキリキリアは内紛が堪えない公国のままであった。後に王国になる。


「アルメニア人は指揮者のカラヤンを生んだ民族と言われている。ゆえに音楽では優秀であると自負している。僕はバイエルンで優秀なアルメニア人として首席卒業をしていきたい。父親のように世界で活躍をするピアニストになるのが夢なんだ」

高らかに胸を張る。


夏休みには欧州Jr.コンクールで優勝をしたことがさらにピアノに自信をつけていた。


目下のところルクセンブルクとアルメニアがクラスの首席争いの真っ最中であった。

「ルクセンブルクがライバルになるのか。いやいやまだまだライバルはいくらでもいる」

クラスの全員見てもいつ誰がピアノがうまくなるかわからない」

常にライバル出現を警戒していた。

「首席卒業まで気を許してはいけない。僕はピアノでは負けたりはしないけどね」

今の段階ではルクセンブルクとアルメニアが傑出していた。


ルーマニアとブルガリアは欧州Jr.で準優勝である。準優勝は2位や3位ではあるが優勝と紙一重の僅差とも言われていた。


かなりこの二人はハイレベルのピアニストたちである。


なおこのルーマニアとブルガリアは国そのものが隣合わせでありなにかと競い合う間柄であった。


いい例が2005年にEU諸国入りを希望をしたルーマニアとブルガリアだった。なんと裁決で仲良く参加を却下されてしまう。


その落選のコメントに両国の外務大臣が、

「却下されたことは残念である。しかし2007年には参加をしたい。ライバルの隣の国には負けたくはない。我が国が先に参加をしたい」

ライバル心を剥き出しにした外務大臣の言葉だった。まるで両国でサッカーの国際試合をやっているのかと錯覚を覚えるような。


子供たちもそんな国の気概をツブさに感じ取り、

「ルーマニアには負けたくはない」

「ブルガリアなにするものぞ」

敵対心を丸出しにしてピアノに向かう。二人がピアノを弾き始めると音響室内の空気がピーンと張り詰める。


まわりの者も当然に知ってるから今にもバルカン半島戦争が始まるんじゃあないかと心配をした。


ベトナムと韓国はどうか。


国際的な経済指標に照らし合わせ今後伸びる諸国が5年前から期待されている。


BRICs…ブラジル/ロシア/インド/中国/(南アフリカ)


その次の成長株の期待諸国が『N11』である。


ゴールドマンサックス証券が発表した。


・バングラデシュ

・エジプト

・インドネシア

・イラン

韓国(コリア)

・メキシコ

・ナイジェリア

・パキスタン

・フィリピン

・トルコ

・ベトナム


トルコ・ベトナム・エジプトは経済成長が充分に軌道に乗っているという推測である。


イラン・メキシコ・フィリピンなど経済成長の低い国は若い世代の雇用を確実に確保しなければグローバル経済のお荷物になりかねない。かなり厳しい将来がそこにはある。


ベトナムは『N11』の中でも期待されている。


「アジアの虎」の可能性が大となる。国民の人口が若く教育水準も高いと言える。インテリが人材として豊富にあるため技術開発がしやすい。


労働賃金が安く労働者が勤勉となっている。政府は外資企業誘致に前向きになった。

「外資系からみたら安い賃金でベトナムの労働者を使ってもらいたい」

未来が楽しみなベトナムとなる。


同じ『N11』には韓国もノミネートをされていた。高度成長の著しい朝鮮半島の雄・韓国は、

「韓国の知名度をアップするには1988年ソウルオリンピックが最適。頑張って成功させたい」

オリンピック景気がソウルを中心にして沸き上がる。

「2002年日韓共同開催ワールドカップ。この国際的なイベントを成功させ景気のてこ入れにしたい。日本に追いつけを目指したい。ならば勢いよく追い越せ。朝鮮半島は日本列島より上になるチャンス到来だ」 

この勢いは今でもとどまることはなく、

「アジアのナンバー1を韓国だと認められたい。そんな後進国の代名詞の『N11』ぐらいで喜びを感じてなんかいない。もはや韓国がアジアの雄である」

G-7か8に日本を蹴落とし参加したい。いや最後尾のカナダと代わりたい。なんと鼻息が荒いことであろうか。


この荒い韓国の経済成長に面白くないのがベトナムである。

「我が国ベトナムは世界が認める経済成長を為し遂げるはず。そんな朝鮮半島や日本列島にばかり好きにやられていてはつまらない。アジアはベトナムが次世代に牛耳り国際的な舞台に立つのだ」

ベトナムの教育で教わったようである。


韓国は日本(西園寺)はなんとも思ってはいなかった。ベトナムが勝手に仮想敵だと思い込み反発を示していたのである。

「僕はアジアには負けたくない。韓国も日本も。さらには音楽のバイエルンにいる限りはこのクラスでトップ、欧州Jr.コンクールで優勝を飾り母国ベトナムに帰りたい」

夢は国際舞台でピアノを弾きベトナムを全世界に印象づけたいというものであった。


ならば西園寺はどうか。今のピアノで欧州Jr.コンクールに出場をしたら優勝できるであろうか。日本では全国Jr.コンクールを総なめにしていた実力である。


※正行に負けたのはヤマハコンクールという地方大会。レベルの高い全国Jr.ではない。


ピアノコンクールの流れはいずれも同じ。


第1予選-第2予選-本戦-ベスト8⇒4⇒優勝。


勝利者になるには長い道のりである。


秋が訪れバイエルンにも物悲しい季節がやってきた。街は落ち葉が風に舞い散り早め早めの冬仕度が必要なところであった。

「パパが言うには芸術の秋が来た。ピアノの音色が一年で最も素晴らしくなる季節の到来らしい」


バイエルンの学校は冬のJr.定期コンサートのために毎日ピアノの練習に余念がなかった。

「定期コンサートは僕ら生徒には成績発表の舞台となる。優勝者から一番二番と決めていくんだ。よし頑張っていくぞ。なんとかして一番になります」

西園寺は冷たい指に息を吐きかけピアノに向かう。毎日ピアノに向かいそれなりの成果をあげてはきた。

「コンクールの優勝がまだないんだ」

冬の定期コンクールコンサートでなんとかなりたいと思った。


寒い冬が近いと言うとルーマニアとブルガリアは俄然元気になっていく。

「お互いに高地に住んでる」

ルーマニアは寒さの厳しいワラキア。ブルガリアは海抜の高い高地にある。

「寒さに負けたりはしない。むしろ歓迎したい。空気が冷たくなり乾燥しているとピアノの音色がより反響をしてくれる。素晴らしい演奏になると思う。だから僕らは冬の演奏会が好きなんだ。二人して優勝を争いたい」

ルーマニアとブルガリア。普段は顔も見たくないと言う二人が寒さの点で不思議と意見が合った。

「そうかなあ。バルカン第1次〜第2次戦争以来の戦いをピアノでやろうぜといつも話しているんだけどさアッハハ」

ルーマニアもブルガリアもケラケラと笑っていた。


同じ学年。同じピアニスト。同じ東のヨーロッパ。共通するものはあった。


寒さに強い国は秋から冬にかけてのピアノ演奏がより楽しみとなった。


その逆もいた。東南アジアの諸国は一年中南国で寒さのある冬を体験しない。


ベトナムは嘆き呟いた。

「あ〜あっ。僕は寒さはダメだ。寒い期間だけでもベトナムに帰国したいくらいだ」

秋の訪れを感じるあたりからピアノの調子がどうも悪くなる。重ね着をして寒い寒いとブルブル震えていく。


「山にあるこのバイエルンは秋から冬、すぐに寒くなる。ピアノを叩く指がかじかんでいけない。嫌だなあ。寒い季節の冬は大嫌いなんだ」 

雪すら見たことのない南国ベトナム育ちであった。


昨冬はあまり寒いからとベソをかきながらベトナムに帰国をした。帰国をしたら宮中が温かく出迎えてくれた。息子の帰りを待つお妃さまは涙を流して喜んだ。

「祖国のためにピアノを」

その心を思うだけで胸が熱くなってしまう。お妃である前に小学生の母親である。

「その帰国のために秋から冬の定期コンサートには参加しない。だから学校の評点がガタって下がりました」


今年は寒さなんか我慢をして定期コンサートは参加をしたいと思う。


今年は帰国しないとメールをしたら宮廷からは、

「無理をせずにお帰りください。国民も王子のお帰りを待ち望みます。再度お考えください」

王子は宮廷に、

「冬に帰国しては世界的に有名なピアニストにはなれないから」

と返信をする。さらに書き込みをして、

「臣民には理解を求めておきたい。僕は世界を目指す。ベトナムも世界経済で躍進を願いたい」

宮廷の侍従たちからは、

「わかりました。国を挙げて王子を応援致します。わがベトナムに未来を。ベトナムの阮朝の王子には未来と栄冠あれ」


寒さに負けるなとベトナムの宮廷からは野菜や果物がドッサリと送られていた。

「国からのプレゼントだ。僕の大好きなものばかりある。嬉しいよ嬉しい。頑張って冬を越すぞ。そしてコンクールは優勝してみせる。祖国ベトナムのために。ホーチミン万歳。阮朝の未来に栄光あれ。ベトナムに栄誉を」

小学生ではあるが背筋をピンと伸ばし凛々しかった。貴族か王室かと想像された。


バイエルンの付属幼年学校にいた子供たちは大抵母親かもしくは家族と一緒にバイエルンに住んでる。このベトナムだけは侍従の者、お付きの者が世話をしていた。神々しくも貴賓に満ち溢れた姿であった。


「ベトナムは世界経済においてもトップレベルに届かせてみせる。そのために王子の僕が世界的に有名なピアニストになりベトナムの知名度を高めねばならぬ。これは王家に生まれた宿命なのだ」

握りこぶしをグイッと作る。その王子の顔には戦う男の歴史がなぜか感じ取られた。


悠久なるベトナム王家の直系の王子である。常時2〜3人が身の回りの世話をして王子を助けていた。


その侍従が秋のバイエルンの朝にこう申し出た。

「申し上げます王子さま。この寒さは侍従一同堪りませぬ。今まで感じたこともない辛さが冬にはやって参ります。早くベトナムへ帰りましょう。古都フエは温かいです。阮朝の故郷は最高でございます。お后さまも王子さまに早くお逢いしたいと常に申しております。侍従の皆はもうバイエルンの寒さには我慢できません。どうぞご命令下さい。航空チケットを手配致します。宜しいでございますね王子さま」

このベトナムは阮朝(グエン)の末裔であり子孫である。そのバイエルンに務める侍従は本国からの野菜や果物の件をまだ知らなかった。


王子はなるほどとしたり顔になる。

「確かに寒い。秋から冬に向かいバイエルンは底冷えがする。よいぞ侍従よ。ベトナムに帰りたまえ。飛行機の予約をしたければしたまえ」

王子に言われた侍従は喜んだ。

「王子さま。有り難きお言葉でございます。ならば早速明日にでも手配致します」

侍従としては王子も含め全員で帰国のつもりで話を聞いた。昨年と同じことだとして。

「王子さまの身支度を致します。身の回りのもの早めに片しておきます」

侍女が恭しく王子の着物から音楽の本類を旅行カバンにしまうつもりでやってきた。

「私も早くベトナムに帰りたいですわ」

王子は喜んだ侍女に自分は帰りはしないからなにもしないでくれと命令する。

「エッ、そんな」


そんなバカな。王子の身の回りの世話をするために南国ベトナムからバイエルンまで出向いているのに。


「王子さま。それは困ります。お妃さまにいかようにも説明しかねます。お願いですから一緒に帰りましょう」

侍女は泣きそうな顔をした。王子はケラケラと笑い、

「もうよい。冬を越すことに決めた。ベトナムに帰りたいのだな。よいぞ引き留めなどいたさぬ。代わりの侍従と侍女が来るだけの話だアッハハ」

呆気に取られた侍女を置いてピアノの部屋に行く。


秋から冬にかけての定期コンクールは間近に迫っていたのだ。少しの時間でもピアノを触っていたかった。

「このコンクールには全力を尽くしたい。ルクセンブルクやアルメニアのトップに追いつけ追い越せだ。ベトナムの名誉にかけても僕は負けてはいけない。王子たるもの負けてはいけない」

ベトナムの王子は瞳をキラキラさせてピアノの鍵盤を叩いた。


部屋の外には連絡を受けた侍従が困り顔で立っていた。

「おいどうするんだ。王子を置いて侍従たちが帰るわけにいかないだろうなあ」

ブルブル震えながら山間のバイエルンで越冬を決意しざるをえなかった。

「羽織るコートを買っておきましょう王子。侍従全員と王子の子供のやつをね」

そう決めてしまうとさっそくベトナムの宮中にメールを送る。

「王子のための野菜や果物は送られたとあるな」


越冬のためにお米と小麦を追加注文しておく。ベトナム牛や鶏肉の発注も忘れずにしておく。王子の大好物・春巻きを絶やさないように食材は確保しておく」


王子はベトナム産の食材以外一切口にはしなかった。

「はい私侍従がそのように努力をいたしております」

侍従は腕利きのベトナム料理のコックでもある。


侍従の作るベトナム料理と阮朝に伝わる宮廷料理はフランス料理のシェフと肩を並べる旨さがあった。王子はフランス料理や中華料理は食べたことないし食べたいとも思っていないが、

「侍従の料理が世界で一番だ。最も美味しい料理は侍従の作る料理である」

ベトナム料理と侍従を自慢していた。侍従はそんな一言が嬉しくてたまらなかった。

「王子さまには敵わないなあアッハハ」

侍従の実の息子も王子と同学年である。この時ばかりは父親が息子を見る視線となり目尻をさげた。

「私の料理を食べてピアノが上達してくれたら最高でございましょう」

ベトナムのピアノコンクールで最高得点を叩き出した王子のあの笑顔が思い出されていた。


日本の西園寺のライバルたちは、

・トップクラス

ルクセンブルク

アルメニア


・EU諸国のライバル

ルーマニア

ブルガリア


・アジア

ベトナム

韓国


そしてもうひとりいた。小アジアはアナトリア半島のトルコである。

「僕はアナトリア半島に生まれて誇りに思う。自然が目の前に横たわるバン湖地方はとても魅力があり自慢をしたい」

トルコ東地区はバン湖近くのアニで生まれた。大自然の残るアララト山を眺めながら育てられてきた。生まれ故郷のアニ村はアルメニアの領地だった。

「アニやバン湖、さらにアララト山もアルメニアのものであった。それをオスマン=トルコが無理矢理に領地を奪い取ってしまう」

オスマントルコはこの領地剥奪の際に大量のアルメニア殺戮やクルド人迫害を繰り返していた。

「アルメニアの持ち物を自分たちの領地にしてしまう。なんて卑怯な民なんだ。トルコ族というやつは許したくはない。許してやる要素がないんだ」


おやっ。出身はトルコ。トルコ国籍なのに反トルキッシュなる思想だ。


トルコはバイエルンの留学学生の中唯一のピアノ科とバイオリン科の掛け持ちである。

「ピアノが一番好きだけど。お父さんがバイオリン弾きだからバイオリンはやめたくはないんだ。バイオリンの学校は両方やりたいを認めてくれた」

子供の今。あえてどちらかに決めてしまうこともないとバイオリン大は判断をした。


両方に適性が見い出せる天才であった。


バイエルンに留学するまではアニの裏寂れた古城や教会跡を眺めながらしみじみとバイオリンを弾くことがとてつもなく楽しみであった。

「生まれ故郷アニは僕の誇りなんだ。バイオリンでピアノであの街の良さをみんなに伝えてやりたい。いや全世界に伝えてやりたい。そのためにピアニストにバイオリニストにならんとしている。夢はアニのオーケストラを動員して僕の作曲した楽曲を奏でること。目指すは世界の音楽家さ」


トルコのアニ村は有史以来度々隣国アルメニアと衝突をしている。過熱さたらトルコ軍出動の場面さえある。

「軍人がお互いに武器で殺し合うなら文句もない」

罪のない庶民が戦争の巻き添えを喰うことは我慢のならないことであった。

「両国の衝突はトルコが悪いに決まっている。悪の国家なんだぞ。小さな命を奪うために爆薬を大量に使う。キチガイだ」

なにをしてもトルコが悪役にされていた。

「僕もポーランド分割時代のショパンのように音楽でピアノで弾丸を敵に撃ち込み戦いたい。ショパンは武器をピアノにして戦い抜いた。たぶんに尊敬したい」

ついつい両方の拳にギュッと力が入る。 


トルコの後ろ盾には様々な暗い歴史の過去が背中にあるようであった。疑問なのはトルコを悪く言うことである。自国であるはずのトルコを反感を買うように非難している。


生まれ故郷アニは元来アルメニア人の憩いの場所。狭い街アニにはかなりの数のアルメニア正教教会が建っている。イスラムのトルコには無縁なるアニ教会であった。


この街にはアルメニア人・イラン人・クルド人。そしてトルコ人が住んでいる。

「イスラムか。トルコはイスラムを信仰しているな。僕は信仰なんぞしない」

トルコは一瞥するとサッと駆けて教室を飛び出した。ピアノ音響防音室に向かって走る。

「気分が悪くなる時。気がムシャクシャする時は」

譜面もなにも考えずに鍵盤をやたら叩きまくることであった。ストレス解消である。


天気がよく晴れていたらバイオリンを持ちバイエルンの街に向かってガムシャラに弾きまくる。


この自己流のピアノにしろバイオリンにしろ演奏はバイエルンの音楽教官には頗る評判が悪く評価が低い。その演奏姿勢の悪さからマナーを度々注意されお説教を受けていた。

「姿勢が悪くても音色がちゃんとして出たらいいんだ。下らないことでガチャガチャ言わないでもらいたい。たいしたこともない教授や教官たちよ」

強烈に学校や教官を批判して反発をしていた。なぜか常に身近に敵を作っていかないと気が済まないようなませた子供であった。


西園寺の秋は深まりつつある。

「パパにピアノを見てもらえることが少しでもあれば頼みたいんだけど」

秋ぐらいは父親の教授に個人レッスンを頼みたいと幼心に思うが。


大学教授は秋から冬にかけ多忙を極めていく。大学の講義はそのままであったが秋はピアノコンクールが開催されて審査員を引き受けることが増えていく。


欧州で開催される国際的な規模のピアノコンクールは大抵お声がかかっていた。


西園寺教授がいなければコンクールは始まらない。

「息子のピアノを見てやりたいとそれは思う。父親であるし、かわいい息子の力量をしっかり把握をしておきたい。息子のクラスには天才ピアニストがいくらでもいる。息子には負けてもらいたくはない。しかし私は忙しくてバイエルンの宿舎にさえ帰れないところだ。ドイツのバイエルンを一旦離れたら英国-フランス-イタリアと回らなくてはならない。バイエルンの息子の秋のピアノコンクールの前に一度でも二度でも帰れたら帰りピアノを見てやりたい」

欧州を回る日々でも教授の元には息子から定期的に音楽メールが送信されていた。

「息子は毎日のレッスンの様子を小まめに私に教えてくれる。パパ悪いとこを直したい。どうしたらいいの。私は息子から送られる音楽メールを聞くことが唯一の楽しみになってしまった。パソコンからの音楽程度でピアノの正確な音色が聞き取れないが不満ではあるが息子からのは別である」

この時ばかりは父親の顔がちょっと覗く。


それで教授は一生懸命にモニターヘッドホンをかけて息子のピアノを聞き入る。日々成長をしている息子のピアノ。


「手取り足取りと息子を教えてやりたくてたまらない。今が伸び盛りだといえる」

楽しみな息子のピアノ。

モニターからの音色は教授をより愉快にさせるはずだった。


「うん、なんだろう」


音楽家として絶対音感を持つ男、教授。


ヘッドホンからは嫌いな音色が聞き取れた。言葉で言えばタラタラしたもの。

「ダレているじゃあないか。私にはどうしてかそう感じてしまう」

目を閉じ我慢をして聞いてみる。ザワメキか機械的ノイズか。はたまたパソコンだからの雑音か。


「私の息子はピアノに妙な癖をつけたな。厄介なことにならなければよいのだが」

長年培ってきた音楽教授の耳は間違いなく息子のピアノの欠点を捉えた。


耳障りな、不快なものとして伝わった。どうしても気になっていく。

「なんだろう。なぜこんな癖が息子についたのか」 


落ち葉のハラハラ舞い散る秋口。


西園寺たちは欧州Jr.ピアノコンクールに出場をする。欧州のピアノコンクールは各地で毎週開催をされており、クラスメイトたちは銘々、大学や担当教官から出場する大会を指定してもらっていた。


担当教官はクラスメイトを2人一組に振り分けて大会に出場させていた。


/アルメニアとルクセンブルク…トップクラス同士競わせた。


/ルーマニアとブルガリア…宿命のライバル


/トルコとベトナム…喧しい二人。トルコはバイオリンコンクールも同時開催を選ぶ。


/日本と韓国…日本列島と朝鮮半島。アジアのトップ争い。


もの悲しい秋から冬に季節が変わっていく。


欧州の冬は大西洋にメキシコ暖流が流れ込み比較的温暖な気候ではあった。


そのメキシコ暖流の加減かピアノコンクールは一層熱を帯びてくる。出場したバイエルンの豆ピアニストたちは大変に優秀な成績である。


出場したコンクールは優勝や準優勝を常に勝ち取っていた。


アルメニアとルクセンブルクなどは交互に優勝と準優勝をもぎ取る活躍ぶりをみせた。優秀なバイエルンの豆ピアニストたち。


西園寺を除いてはの話となっていた。


西園寺はどうしても欧州Jr.コンクールで勝ちあがれない。体調も悪くないので悩んでしまう。

「予選は楽に通過していける。がその後は残ったり落ちたりの繰り返しだ。優勝は愚か最後の4人にすら入れやしない」

西園寺は悔しいと思い夜泣き声をあげた。


ライバルの韓国はコンスタントに勝ちあがり優勝や準優勝を収めていた。このライバルの活躍から西園寺には劣等感がヒシヒシと生まれていく。

「あいつにあって僕にないもの。あいつが優勝して僕は落選をする理由」

ピアノに集中できない日々が冬と共にやって来てしまう。

「パパっ僕は悔しい。どうしてコンクールで優勝できないのだろうか。もう練習なんかやりたくない。やろうがやるまいが結果は同じ。予選落ちだ。もうピアノなんか嫌いになってしまう」

息子は泣きじゃくりながら父親にメールを送る。涙で前がよく見えないくらいであった。


楽聖だ天才ピアニストだと言われても小学4年である。悔しい気持ちは抑え切れず、さらには耐えきれなかった。


送るメールは父親はしばらく開封はしなかった。大学教授としての職務に忙殺されパソコンを私用に使う暇が全くなかったのだ。教授付きのドイツ秘書がいたが残念ながら日本語が理解出来ず。


息子は父親からのメールの返信を心待ちにしていた。だがなにもないまま次の欧州Jr.コンクールに出場をしていく。


「パパ助けて。お願い致します。僕を救い出してください。ああもう〜ピアノなんか大嫌いだあ」


Jr.コンクールの会場にあるピアノ。これを見るだけで嫌気が差してきた。

「適当に弾いてしまえ。熱心にしたって予選落ちするだけだ」

毎日の日課の練習もしない。投げやりな態度で舞台にあがってしまう。テクニックは以前よりも格段に劣っていることは明白であった。


耳の肥えた聴衆からはまばらな拍手しかもらえなくなる。全くの悪循環の繰り返し。ライバルの韓国も心配をしていた。

「おい日本どうしたんだ。全くやる気がないじゃあないか。バイエルンのクラスで優勝していないのは日本人ぐらいだぞ。バイエルンの名が泣くぜ。しっかりしてくれよ。予選通過なんて軽々クリアしなくてはならないのに」


気分の塞ぎ込む西園寺はこの言葉にカチンと来た。

「うるさいなあ。ほっといてくれ。これが僕の実力なんだ。あれこれとギャアギャア言うな。うるさいからあっちに行ってくれ。おまえなんか顔も見たくない」

韓国は優勝や準優勝をちゃんと飾り鼻高々。西園寺にはまったく持って面白くもなんともない。

「うるさいとはなんだ。せっかく心配をしてやっているのに。そんなことだから日本は浮かばれはしないのだ。しっかり毎日日課の練習をしないと予選落ちを繰り返してしまうぜ」

西園寺のあまりの不甲斐なさに忠告を与える。


これに西園寺が聞く耳を持ってば少しは改善されていくコンクールであったのだが。

「ああ喧しい喧しい。もうやってられない。僕はJr.コンクールから辞退をしたい。嫌だ嫌だ。日本に帰りたい。ピアノなんかつまらない。日本に帰ったら大好きな野球をやっていく。普通の小学生のやりような子供になりたい」

担当のバイエルン教官に思いのたけを話す。腹にあったモノをすべて吐き出すと西園寺はワァーと泣き声をあげてその場に崩れ落ちた。


僅か10歳の子供には耐えきれないピアノコンクールのプレッシャーに負けた一瞬であった。


西園寺のコンクール辞退の話はすぐ父親であるバイエルン大学教授に伝えられた。教授は学術会議でストックホルムやオスロで忙しくしていた。

「なに、息子が辞退したと。えっ。息子は泣いてピアノコンクールを嫌がり手に負えない。教官がどうしたものかと困っている。弱ったなあ学術会議がまだまだ続くんだ。抜けられやしない。うーん替わりの教授を手配してもらうか。いやダメだダメだ、私の研究発表をメインにしている。ならば会議を延期か。それも無理だ。ストックホルムとオスロが済み次第ニューヨークに飛ばなくてはならない。ニューヨークから戻りなんてできない。ああ抜けられない」

父親の西園寺教授も泣きたくなってしまう。

「プロフゥッサー西園寺。なんならば西園寺Jr.をストックホルムかオスロに行かせましょう」

バイエルンの教官は提案をした。

「これ以上欧州Jr.コンクールに出場をしても予選を通る見込みすらないのだから」

と。


息子が父親の元にくることは、

「それならよかろう。直にストックホルムに向かわせてくれ。息子のフライト便が決まりしだい飛行場に私の秘書を向かわせたい。現在我が息子はどの都市にいるのだ。えっ、スペインのマドリードか。わかったわかった。ストックホルムまで小一時間もフライトしたら到着するだろう。ただちにフライトさせてくれたまえ」

教授秘書は航空路線をインターネットで検索してみる。

「わかりましたボス。マドリード-ストックホルム便は3時便の一便だけでございます。搭乗手続きが確認されましたら迎えに参ります。ご安心をされますように」


教授はバイエルンのドイツ人女性秘書に息子の迎えを頼む。

「すまないねプライベートなこと。息子を頼んでしまって」

秘書はにっこりして、

「教授、喜んで引き受けますわ。可愛らしい息子さんでございますから」


女性の教授秘書は26歳の既婚女性。昨年の春先にひとり息子を交通事故で亡くしている。言わば失意のドン底であった。家庭に入りいつまでも沈んでいては埒が行かない。その悲しみを少しでも働くことで紛らわしたらどうかと大学助教授の夫に勧められた。紹介をされて大学に奉職をする。パートタイムならば気分転換にもなるであろう。


秘書は音楽大学の西園寺教授のお気に入りとなり、

「パートタイムだけとは言わず大学職員になってもらえないか。教授の私の右腕として働いてもらいたい」

すぐさま正式採用。フルタイムの秘書となった。


大学職員の身分となると西園寺教授の出張先にも同行する。当然に欧州諸国の出張も増えていく。

「教授。ストックホルムに息子さんが参りましたら後は私の裁量でよろしいのでございますね。正直に申し上げまして私は嬉しいです。それと言うのも」

ドイツ女性は教授をチラリと見ながら、少し顔を曇らせた。

「私の息子が生きていましたらと思い出してしまいます。教授の可愛らしい息子さんとお逢いできて光栄と思います」


教授は女性秘書に恐縮していた。息子というお荷物を押し付けるのだから。大学秘書業務と無関係な仕事を押し付ける負い目である。

「よろしく頼んだよ」

と短く答えた。頭をかきながら、

「ストックホルムは息子は初めてなんだ。たぶん喜んでくれるよ。では頼んでおくよ。さて会議だ。あっ済まない。発表の資料は整えられているかな。英語・ドイツ語と翻訳資料だった」

秘書はにっこり笑いデスクのファイルホルダーを探す。頼まれた翻訳資料をどうぞと教授に手渡した。資料は秘書が数時間で仕上げたものだった。


定刻になると女性秘書は身支度を整える。軽くお化粧を直して赤いスカーフを巻いた。

「スカーフは息子さんが私を見つける目印シンボルにしてあるの」


気分としては赤い薔薇を胸に一輪差して行きたいかなと。


ストックホルム・アーランダ国際空港にタクシーで向かった。西園寺教授の息子は初対面であるが、

「日本人の方からは西園寺教授と息子さんはそっくりだと聞いてます。親子ですからね。名前も国籍もわかってますから大丈夫です。すぐに探し当てますわ」


ストックホルム・アーランダ国際空港に秘書が到着するとスペインからの飛行機が今まさに着陸をしようかとしていた。

「いいタイミングですこと」


イミグレーションゲートの前で西園寺少年の出てくるのを待つ。

「欧州諸国の方でしたらパスポートコントロール(閲覧/イミグレーションスタンプ等)は免除になります。アジアの日本は非欧州ですからゲートが異なりましてね」

非欧州ゲートに構えていたらゾロゾロと日本人観光客が現れてしまう。さらには偶然にも中国人観光の団体も混ざり、

「あらっ困ってしまうわ。アジア人ばかり出て来るですわね。後は子供がひとりだけを手掛かりに 

して教授の息子さん西園寺くんを探すわ。分かりにくいわあ」

ゲルマンのドイツ人からしたらアジアは区別がつかない。日本・中国・韓国と似ている。中央アジアのアフガニスタンやキルギス。革ジャンを着てしまうといずれも競輪・競馬・競艇にいるオヤジばかりと言われる。その姿はまるで徳光さんがいるみたい。


「ストックホルム・アーランダ国際空港は非欧州諸国ゲートはここしかないから。まずは見逃さないはず。息子さんは簡単に発見ですわ」

秘書は鋭い視線でアジア人がゾロゾロ出てくるのを見た。出てくるのは中国人団体であり子供連れも混ざっていた。こうなるとお手上げである。日本人の西園寺少年は中国の子供たちと区別がつかない。

「確かに私ドイツ人にしたら中国か日本かはわからないわ。教授に似ている子供だけでは見つけるのは至難ね。諦めました。後は息子さんが私の赤いスカーフを発見してくれるか携帯を鳴らしてくれるかを待つだけね」

アジアの団体は長い列を作ってイミグレーションを出てきた。


ゲートのから出るアジアはほとんどなくなる当たりで秘書の携帯が鳴る。


西園寺少年からだった。

「こんにちは西園寺です。今ストックホルム・アーランダ国際空港に到着しました」

西園寺少年はゲート番号5番の椅子にいるとドイツ語で話してきた。

「まあっ、嬉しいわ。バイエルンに住んでドイツ語が堪能なのね。えっと5番ね。どちらになるのかな。私は何番のゲートに立っているのかしら」

キョロキョロ見回して見た。左ゲートは4番。右ゲートは6番。

「4番号と6番号。あちゃあ5番ゲートはここよ」

携帯を切って後ろを振り向いた。


西園寺少年が退屈そうにベンチにチョコンと座っていた。確かに西園寺教授にお顔がそっくりなお坊っちゃまであった。プッと膨れて秘書のお尻をずっと眺めていたようだった。

「後ろ姿からは目印の赤いスカーフは見えなかった」

ただひたすらデッかいお尻を見ていただけだと言いたかった。


秘書は少年を見てフゥと溜め息をつく。西園寺少年に握手を求めた。

「初めまして。私が西園寺教授の大学秘書でございます。どうぞよろしく」

ドイツ語を少年が理解できると知り嬉しかった。


「パパの秘書さんですね。赤いスカーフが目印だ。わざわざのお出迎えダンケ(ありがとう)」


秘書は時計をチラっと見て、

「さてストックホルムを案内したいわ。どちらから行きましょう。ストックホルム・アーランダ国際空港はストックホルム市から45キロも離れた場所。市内に戻りながら観光かな」


西園寺教授の女性秘書は、

「息子はピアノにばかり向かい気晴らしが必要だ。もし良ければ息子を連れてストックホルムを観光してやってくれないか」

空港からタクシーに乗りエステルマルム地区に向かう。

「西園寺くん。せっかくフィンランドに来たんだから王様にお逢いしたくはありませんか」


ストックホルム中央駅の近く旧市街ガムラスタンにある王宮を目指した。


ガムラスタンにある王宮は1754年に建築されたイタリアバロック、フランスロココ様式。代々王室のお城として使った。

「へぇこれがスェーデン王宮なんだね。おーいと呼ぶと国王さまは出ていらっしゃるかな。オーイ西園寺が来たぞ〜」

ドイツ語で叫んだ。秘書は大笑いをした。

「西園寺くんが来たんだからね。スェーデン国王はカール16世グスタフ(Carl 16 Gustav)さん。1973年9月に即位されたのよ。でもね1982年にドロットニングホルム宮殿にお引っ越しされてしまったの」

なんだ王様がいないのかつまらないなあと西園寺少年は下を向いた。

「あらあらっ、西園寺教授の息子さん。笑ったりすねたり可愛らしいわね」

秘書はすっかり少年の虜になる。少年を見ていたら秘書自身の死んだ息子が思い出されてしまう。生きていたらこんな年頃であろうかと。

「西園寺くん。ひとつ質問したいなあ。スェーデンのストックホルムはある世界的に有名なものがあるの。そのモノをもらえたら大変な名誉なのよ。わかるかしら」

西園寺の息子からは秘書のお姉さんと呼ばれていたが、ママンと呼んでもらいたい衝動に駆られた。


秘書は首を2〜3振り自分を否定して王宮の前でタクシーを拾った。

「世界的に有名なストックホルム。スェーデンはバイキングが有名だけど。世界的な活躍したかな」

タクシーの中では秘書が盛んにストックホルムやスェーデンを語りかける。

「西園寺くん。今からその世界的に有名なストックホルムに向かうわ。お食事も出来るのよ。そうね将来的には西園寺教授もお取りになられるかしら。えっと音楽部門賞があったかなあ」

えっ、なんだろうかと考えた。

「音楽部門の賞があるかどうかだって。パパは偉大だからピアノの世界的な賞は大抵受賞はしているんだけどね。ストックホルムで授与される。う〜ん、わかんないや」


タクシーはノーベル授与が執り行われるストックホルム市役所に到着する。

「西園寺くん。ここがストックホルム市役所なの。この建物二階が晩餐会のフロアになっているの。こちらを見学したらレストランでお食事にしましょう」


なんで市役所なんかに来たのかなと疑問であった。

「市役所にピアノがあるのか」


二階の様子を一瞥をしたら西園寺少年に全てわかった。

「ノーベル賞か。確かにパパはまだもらってないねアッハハ」


夕食は市役所の地下にあるスタッズヒューズ・シェラレン。

「こちらのレストランはね、ノーベル賞授与パーティで出された料理が食べられることで有名なの。西園寺くんは音楽部門賞を授与された気分でお食事致します」


ノーベルに音楽部門なんて賞ないよ。僕は貰うなら物理だとか化学が欲しいなあ。


二人で大笑いをした。


ノーベル賞を授与された西園寺少年は夕食後にエステルマルム近くの公園を散策をしてみる。秘書に取っては新しく出来た息子とお花畑を眺めていくようであった。

「さてそろそろ時間です。西園寺教授の学会が終わっている頃ですの。公園の角でタクシーを拾ったらホテルに向かいましょう」

女性秘書の母親代わりはここまでであった。タクシーに乗り込むと途端につまらなくなってくる。


ストックホルムホテルに到着すると秘書の携帯が鳴る。


教授からである。

「今学会が終わってね。すぐにホテルに戻るよ。息子は元気になったかい。そうかそうか。美人秘書に食事を共にしてもらってさぞかし西園寺くんもアッハハ。幸せだっただろう。ご苦労様でした」 

秘書と息子は仲良くロビーで教授の帰るのを待つ。秘書はボスの西園寺教授に息子を渡したら今日の任務はおしまいであった。

「もうお別れか。寂しいわ」

ホテルに教授が現れた。


ロビーの入り口に懐かしい父親の顔を見るやいなや小学生の息子はパッと顔をあげた。目が光輝いていた。


「あっ、パパが来た」


ロビーのソファーからスクッと立ち上がる。

「パパだあ」

父親のいる方に小さな一歩を、ニ歩をと進めたらなぜか涙が溢れてしまう。

「パパ…」

会いたくて会いたくてたまらなかった尊敬する父親の顔は涙が邪魔をして見えない。


父親が泣く息子を心配して、

「どうしたんだ。ストックホルム観光は楽しくはなかったかい」

よいしょと小柄な小学生の息子を軽々抱上げた。抱上げられた息子は父親の首にしがみつく。


もはや我慢をしていた心の悲しみがワアッーと吹き出してしまった。


ワンワンと泣きじゃくるだけの息子であった。父親は盛んにかわいい息子の髪の毛を撫でては、

「よしよし」

泣きやめ泣くなって。

「もうわかった。ナッわかったから」

泣きやみなさいとだけ言う。


ホテルのロビーの泊まり客は何事かといぶかしい視線を送った。泣きじゃくる日本人はなんであるのかとジロジロと眺めていた。


秘書は秘書で事情をよく知るものだからもらい泣きをしてしまう。

「だってあんな小さな子供が世界を相手にピアノを弾かされて。可哀想に辛かったでしょう。パパの胸でオモイッキリ泣いてくださいな」


10歳の豆ピアニストは父親の両腕の中で思う存分に泣き晴らす。バイエルンの学校の辛い練習。同じ同級のピアニストに差をつけられたこと。欧州ピアノコンクールの予選落ちの屈辱。太い父親の

「おおっ、もう泣きやん首をしっかり抱きしめながらワンワン泣けてしまう。

「アッハハ。ストックホルムの皆さんがなんであの子は泣いているんかと不思議に思うぞ。日本の男の子は泣かない。大きな赤ちゃんだなあ。もう泣かないアッハハ」

秘書はハンカチを教授にどうぞお使いくださいと手渡す。

「ありがとう助かる。さあ秘書のお姉さんがハンカチを貸してくれた。顔を拭け」

ハンカチを手渡されてやっと泣きやんだ。


教授は翌日朝早くにオスロに向かわなければならなかった。せっかく息子と久しぶりに対面をしたが売れっ子の大学教授は忙しくて忙しくて。


「弱ったなあ。おちおち息子と話もしていられない」

そこで秘書にまた息子を頼もうかと思う。秘書は喜びである。

「喜んで。私でしたら構いませんわ。お坊っちゃまの面倒を看させていただきます」


教授はちょっと小声で秘書によろしく頼むわと耳打ちをした。

「パパはな明日の朝オスロにどうしても行かなくちゃあならない。オスロの次にデンマークのコペンハーゲンなんだが」

秘書にはデンマークのホテルで明後日再会をしたい。それまで息子を頼むと甘えてしまう。


秘書が喜んでと返事をしたら、

「そうか済まない悪いな。パパは今から2本オスロの学会のための論文に目を通しておかなくてはならない。では秘書くん息子を頼む」

慌て部屋に向かって出てはこなかった。


デンマーク。

秘書と西園寺の息子はストックホルム港からフェリーでデンマークに向かった。女王マーグレーテ2世のデンマーク王国。せっかくの豪華フェリーでのデンマークへの旅であったが息子はつまらない顔をしていた。

「お父様はオスロの学会が終わりしだいデンマークに向かいますわ。それまで時間がありますから」

今度はデンマークを観光させるつもりである。

「デンマークはアンデルセンの童話の国ですわ。喜んでくれるといいですが」


コペンハーゲンに到着する。中央駅前には1843年開園のチボリ公園がある。

「この公園には絶叫マシーンや楽しいアトラクションがあるの。西園寺くんぐらいのお子さんは喜んでくれるだろうかな」 


チボリ公園に行くとさすがの豆ピアニストも子供である。俄に元気が出た。

「わあ乗り物がいっぱいある。どれから乗るかな。車や電車から乗って行きたいなあ僕」

目をキラキラさせていた。小学生でありまだまだ子供であった。秘書は一安心をする。

「よかったわあ。あんなにも楽しくしてくれて。あらっなにか私を呼んでいるわ。どうしたのかな」

こっちにおいでと手招きされたら、

「ヒェーそれは勘弁だわ」

絶叫マシーンに一緒に乗りたいと言われた。秘書は高いところが苦手。高く登りさらにまっ逆さまに落ちるなんて。

「嫌だあ。お金貰うなら乗るけど」

ドイツのバイエルンの女は只では転ばなかった。


チボリ公園から今度はDen Lille Havfrue(人魚姫の像)に行く。

「人魚の像ってアンデルセン童話だね。バイエルンのテレビでオペラで見たことがあるんだ僕」


※この人魚姫の像にはモデルがある。故・岡田真澄の叔母さんがモデルだった。エピソードとしてはその叔母さんはあまりに綺麗な足をしていたために人魚であるはずの人魚姫に足をつけてしまった。ついでにそのモデルと彫刻家は結婚をしてしまう。

「人魚姫は悲しい物語なんだけどね」


昭和天皇陛下は良子(ながこ)妃とご成婚されて一番最初に海外旅行されたのが欧州諸国。このデンマーク王国にも滞在をされている。良子妃は人魚姫の像が大変に気に入ったらしい。


大正の時代には珍しく晴れやかな可愛らしい娘のような写真が残っている。人魚姫に負けないくらいのキラキラした笑顔であった。当時は明治憲法であり大日本帝国であった。


チボリ公園と人魚姫を見てちょっと機嫌が直りつつある西園寺くんだった。


「アンデルセンってオーデンセ出身なんだね。デンマークのどこにあるんだろ」

この一言でフェン島にあるアンデルセン出身地オーデンセに向かう。

「アンデルセン博物館が見たいなあ」

オーデンセそのものがアンデルセン博物館の様であった。アンデルセン公園がありアンデルセンの所縁の建物が至るところで見つかる。あまり有名ではないがオーデンセ出身のテニスプレーヤーもいる。


オーデンセからコペンハーゲンに戻る頃にはすっかり西園寺くんは機嫌が直りニコニコしていた。

「アンデルセンはいいなあ。夢が感じられる。ピノキオも人魚姫も」

アンデルセンが苦労をして童話を書いていたことを知るとなんとなくピアノの上達やコンクールなんかで悩んでいたことがチッポケなこと。もうどうでもよいではないかと感じてしまった。

「ピアノの方が楽だな。僕が予選を落ちたコンクールの方が遥かに易しい。ずっと楽だよ」

突然何を言い出すのかしらと秘書はいぶかしがった。


翌日の昼に西園寺教授はコペンハーゲンに到着をする。このコペンハーゲンでも音楽学会が開催されている。


教授自らのメソッド学術研究論文を発表していく。この学会も教授が中心であった。

「研究課題は幼児期のピアノ教育。自分の息子にピアノが教えられない父親だけど論文だけは世界的に認められていく。やれやれ皮肉なもんだ」

明日の発表を前に呟いてしまう。


コペンハーゲンで会った息子はすっかり元気になって父親を迎えた。

「ちょっとの間だが息子は成長をしたのではないか。顔つきが変わって別人のようになってきた。ドイツ人秘書のお陰だな。もしまだまだメソメソしていたら女房をコペンハーゲンに呼ぶつもりだった」

ストックホルムでワンワン泣いたあの息子ではないなと教授は直感をする。

「パパ。僕さ、また欧州ピアノJr.コンクールに戻りたい。もう一度コンクールで自分のピアノを弾いてみたくなったんだ」


自然の厳しい北欧諸国の歴史や文化に触れたから思い直してもう一度ピアノがやりたいと言った。


「よしわかった。バイエルンの教官にはパパから連絡をしておこう。欧州Jr.コンクールに殴り込みだなアッハハ」

教授は息子がピアノに向かってくれると思うと嬉しかった。

「そうですわ。お坊っちゃまはピアノが一番お似合いでございます。天才ピアニストはピアノを常に意識をしていなければなりません」秘書も嬉しくなる。

「ところで今は欧州のJr.コンクールはどこの都市で開催なんだ。調べてくれるか」 

秘書は畏まりましたとノートパソコンを開き端末を叩く。

「まずバイエルンの教官に連絡メールを入れておきます。次に来週のコンクールでございます。えっと三ヵ所の都市で開催でございます。コペンハーゲンに最も近いのは」


翌週にバイエルン教官からコンクール復帰の意思の返信を貰う。

「よしやるぞ」


コペンハーゲンに西園寺教授は3日滞在予定であった。

「息子の欧州Jr.は来週開催だ。約一週の余裕があるな。コペンハーゲンにいる間出来る限り息子のピアノを私が見よう。そして」

秘書にデンマークのユトレヒト半島の古都コーリンに連絡をしてくれと頼む。

「コーリン音楽大学の神谷教授に連絡を取りたい」

コーリン音大の神谷教授は児童ピアノ教育の第一人者である。西園寺教授とは同じ音楽音楽大学で同級であった。

「コーリンの神谷に都合をつけてもらい息子を見て貰う。欧州Jr.の直前まで徹底的にだ」

Jr.コンクールまでの約一週は前半は西園寺教授。後半は神谷教授と豪華な先生がぴったりとつくことになる。

「西園寺教授。コーリン音楽大学から返信がございました。申し上げます。えっ、あっあのぅ」

返信メールは英語でヘッドラインは書いたが内容は日本語であった。

「あっ済まない。どれどれメールはと」


西園寺くんかあっ、懐かしいなあ。元気かっ。バイエルンにいるんだってな。学術雑誌ではよく見ていたが。その可愛らしい豆ピアニストの息子はユトレヒト半島に寄越せよ。ミッチリとスパルタで俺が見てやる。女房にも相談したからさアッハハ。(奥さんはデンマーク人でピアニスト)


持つべきものは友人である。

「ありがとう神谷くん。これで息子のブランクは埋め合わせられる。息子をJr.コンクール優勝の味を教えてやるぜ」

西園寺教授は高らかに指をポキポキ鳴らした。


コペンハーゲンではホテル近くの教会でピアノを借りた。


息子は久しぶりにピアノに対峙すると目がキラキラと光輝く。豆ピアニストは今からその実力を如何なく発揮しようと力み過ぎた。

「よし弾いてみるんだ。かなりブランクがあるから無理はするな。肩の力を抜くんだ」

無理はという意味は変な癖をつけるなという意味になる。


西園寺親子のレッスン。教授は嬉しくて嬉しくてたまらない。念願の息子のピアノ指導である。

「我が息子は才能があるんだ。私と違い天才ピアニストなんだ。だから出来るだけ息子の才能を伸ばしてやりたい」


息子は息子で尊敬する世界的有名な父親から指導を受け夢のような3日であった。

「僕はパパに褒めてもらえるピアニストになります。パパに一歩でも近くなれるように頑張っていく。欧州Jr.なんか軽々と優勝してやるんだ。みんな知ってるかい、僕は西園寺教授の息子なんだぞ。世界的に有名なピアニスト西園寺の息子だぞ」

父親の指導の中、バイエルンのライバルたちの顔がチラチラし始める。

「負けない、負けてたまるか」


こうしてコペンハーゲンの父親指導は3日が経過をする。

「パパありがとうございました。忙しい時間を僕のために割いてくれて。今からユトレヒト半島のコーリンに行きます。コーリン音楽大学の神谷教授にミッチリと指導を受けてきます」


よし頑張ってこい。西園寺教授は息子の両肩をガッチリつかみコーリンに送り出した。ドイツ女性秘書が当然付き添った。


コーリン音楽大学。

「こりゃあまた西園寺そっくりじゃあないかアッハハ。驚いたなあ」

神谷教授は気さくであった。豆ピアニストはコーリン音楽大学で指導を受けることになるが、

「西園寺くんよく聞けよ。欧州Jr.は高いレベルのテクニックを求められるコンクールだ。なまじ体力のない、また指の短いアジアの日本が頑張って弾いてもオーストラリアやフランスの奴等には勝てはしない。ならば勝負は見えしまうなあアッハハ」

神谷教授は一言だけ言った。

「大胆に個性的にピアノは叩け」


神谷教授の指導はユニークでとにかく楽しくピアノは弾きなさいであった。

「どんなテクニックがあろうともつまらないピアノ演奏では工事現場の雑音さ。ピアノ演奏に飢えている聴衆ならばそれでも喜んでいるかもしれない。だが私は不満だ。ピアノではないから」

幼児ピアノ教育の泰斗は神谷教授である。

「繊細にして大胆にピアノに対峙しろ。失敗を恐れるな」

欧州Jr.の直前まで指導を受けた。夜は夜でデンマーク人の奥さんから手料理を戴きデンマーク的なピアノも指導を受けた。

「アンデルセンのようにピアノを」


週末は予定通りに欧州Jr.コンクールに飛び入りの形で出場を果たす。

「よし行くぞ」

コンクールは静寂の中始まった。オウヨウに構えゆっくりと鍵盤に指を落としていく。

「なんか不思議な感じだ。指が勝手に動き始めたぞ」

木製のおもちゃのピノキオが人間になったような感じで運指されていくのだった。気がついたら。


決勝の舞台にあがっていた。


決勝のピアノを見た。鍵盤上にピノキオ・人魚姫・マッチ売り少女とアンデルセン童話がいた。

「僕らは子供に夢と勇気を与えている。西園寺も続け」

わかったと指を鳴らし鍵盤に向かった。静寂が破られた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ