「節度を保つなら良いよ」そう言われて付き合った結果 『佐伯凜華』視点
私は、いつも誰かの期待の中にいた。
学級委員になってから、特にそうだった。
教師は「佐伯なら大丈夫」と言い、クラスメイトは「凜華は真面目だから」と笑い、保護者は「あの子はちゃんとしてる」と満足げに頷く。
誰も、私が「ちゃんとしていない自分」を想像しない。やがてそれが当たり前となっていき、誰かが作った『佐伯凜華』を演じ続ける必要があった。完璧で秀才で、ハイスペックな私。ボロを出せば皆が首を傾げて、おかしいと言う。
本当の私は、素の『佐伯凜華』を誰も望んでなんかいない。みんなの中にいる私でないと……。
ダメな私を想像させないように、私自身がずっと気を張ってきた。
黒髪は乱れないように結ぶ。表情は穏やかに保つ。声のトーンは高くしすぎず、低くしすぎない。誰に対しても平等に接し、依怙贔屓していると思われないようにする。
それが、私が選んだ生き方だった。選んだというより、気づいたらそれしか残っていなかった。
誰もそんな私を見てくれはしない。そう思っていたのだけれど、一人だけ私は気になる人が出来た。
――曽山天斗。
私と比べてしまえば、普通の男の子。特にこれといって特徴のない男子生徒だった。
凜華ならもっとかっこいい人が、運動神経が良い人が、あの人が、この人が――。ウンザリしていた。私はみんなの着せ替え人形なんかじゃない。
だから天斗くんはとても魅力的に見えた。勉強も運動も容姿も、性格も何もかも私と反対だったから。何者にも縛られずに、自由に羽ばたく鳥のように。
私には出来ない、私にはないその自由さが輝いて見えた。人は自分には無い能力が魅力的に見えた時、恋に落ちるのだとその時に知った。
①
放課後の校舎裏。誰もいない場所で、彼は真っすぐ私を見て言った。好きだ、と。
私は一瞬、息が止まった。嬉しい、という感情が先に来て胸の奥が熱くなる。でもすぐに、別のものが私の恋心を隅へと追いやってしまった。
学級委員が、クラスの男子と付き合う。それだけで、視線が変わる。噂が立つ。「意外と普通の子なんだ」「やっぱり優遇されてるんじゃないか」。
脳裏を過ぎったのは中学時代のこと。私のように完璧な女子生徒がクラスを牽引していた中で、付き合っているという噂が立ち上った。
別にそれは普通のことだし、むしろ当然のこと。皆のリーダーで、お手本となる人も恋愛をするのだという安心感もあった。
だけど、その意識は徐々に覆されていく。
放課後のとある飲食店で、その子が彼氏とイチャイチャしていた場面を見た生徒がいた。
「学級委員なのに……」
「あの子がそんなこと……」
メキメキと音を立ててヒビが入っていった。
手を繋げば、一瞬にして校内に広まり、休日に会っていれば不健全だなと陰口を言う。
何故他人がそこまで口出しすのか私は酷く気味悪がった。それと同時に自分も同じことを言われてしまうのではないかと、身体全体に気だるさを感じた。一挙一投足が監視され、皆の想像通りでなくてはならない。
そんな現実に耐えかねた二人は別れ、彼女は学校を去った。次に学級委員として白羽の矢がたったのは私。
以降、彼女の二の舞になることはないよう私は皆が作る『佐伯凜華』であり続けようと生きていくことにした。
小さなヒビやがてヒビは割れ目となり、彼女がこれまで積み上げてきていた努力が一瞬にして崩れ去る。私だけではない。付き合うということは天斗くんにもそれは影響する――。
これまで積み上げてきた「皆の手本」という位置が、少しずつ削られていく予感がした。それでも、私は彼の告白を断れなかった。
四月から、彼のことは気になっていた。授業中にふと目が合うと、すぐに視線を逸らす癖。提出物を出すとき、私の机の前で少しだけ足を止める仕草。特別なことは何もしていないのに、なぜか目で追ってしまう自分がいた。
私一つの行動で、彼の今後も決まってしまう。ならば初めから誓約を設ければ良いのだ。彼を守るために、私は――、
「節度を保ってくれるなら、いいよ」
それは、自分を守るための言葉でもあると同時に彼を遠ざけるための言葉でもあった。近づきすぎなければ、傷つかない。私の立場も、壊れない。彼も、私の「完璧さ」に幻滅しないで済む。そう自分に言い聞かせた。
振られるかもしれない。ううん、振られる方がマシかもしれない。こんなルール、あってはいけない。
「それくらいお安い御用だよ」
拒否される、と思いきや彼は受け入れてくれた。その時の私は自分でも驚く程にポカーンとしていたかもしれない。
②
付き合い始めてからの日々は、私にとって小さな緊張の連続だった。
あだ名で呼ぼうとしたとき、私は即座に拒否した。教室で「凜華」と呼ばれた瞬間、周囲の視線が集まるのがわかったからだ。
先生の前で呼ばれたら、もっと困る。学級委員が、特定の男子と親密な呼び方をしている。それだけで「えこひいき」の噂が立つ。私はそれを、誰よりも恐れていた。
私のせいで、天斗くんも破滅してしまう……それだけは嫌だったから。
彼が少し寂しそうな顔をしたのを見て、胸がチクリと痛んだ。でも、言葉を飲み込むことしかできない。
飲食店での出来事は、今でもはっきり覚えている。
放課後、初めてのデート。
ボロが出てしまわないように、私はいつも以上に表情を固くしていた。いつも以上に早い鼓動がバレないか、私はそれだけで頭がいっぱいだった。
「凜華はどれにする?」
「うーん、決めかねるわね……」
「それじゃあこんなのはどう?」
彼がメニューを開きながら、大きなパフェを指差した。これはどうか、と少し照れた声で言う。ハート型のストローが刺さっていて、フルーツが山のように乗っている。半分こして食べるものだと、すぐにわかった。
天斗くんと、二人で分けて、食べる……。食べたい、その言葉が喉の奥まで出かかったところで私はグッと堪える。
二人で食べたい、その本心を見ていないことにして私は冷徹に、突き放すように言った。
「見るからに半分こして食べるものよね?」
「うん。どうかなって、俺たちカッ――」
「天斗くん。私言ったわよね。節度を保って欲しいって」
私の頭の中で、警報が鳴ったのだ。
誰かが見ているかもしれない。クラスメイトが、偶然この店に入ってくるかもしれない。「清楚な学級委員が、彼氏とパフェを半分こしてる」。クスクスと嘲笑うような生徒達の顔が、その光景が、頭の中で何度も再生されて、ギュッと拳を握りしめた。
私のこれまでの努力、それから彼の今後が危ぶまれてしまう。
「見るからに半分こして食べるものよね?」
だから続けるしか無かった。突き放すしか無かった。冷たい声で、自分でも驚くほど最低なトーンで、恋人に向けるモノでないそれで、彼の表情が強ばるのがわかった。
「食べ物を分け合うのはマナーが悪いし、破廉恥だわ」
言ってしまってから、後悔した。
本当は彼と分け合いたい。ストローを共有して、少し照れながら「美味しいね」と言って、照れくさそうに微笑みたかった。
でも、口から出た言葉は、いつもの『節度』。彼が頭を下げて謝る姿を見て、目頭がほんのり熱くなった気がした。
ごめんなさい、と心の中で何度も繰り返した。でも、声には出せず、気まずい雰囲気のまま、笑いすら溢れない時間を流れ作業のように処理していった。
食事を終えて外に出たとき、彼がそっと手を伸ばす。指先が、私の手の甲に触れると温かかった。一瞬で、全身が高温に変化。
触れたい。もっと触れたい。でも、ここは学校の帰り道で、校門からもそう遠くない。視界の端には同じ制服の学生が見られる。
同時に恐怖が込み上げた。もしあの人達が見ていたら。噂が立ったら……。
「天斗くん」
名前を呼んで、彼の手を払いのけた。力の入れ方が強すぎて、自分でもびっくりした。
「手を繋ぐこともだめなのか?」
「ダメよ」
私はそれしか言えなかった。だけれど少し勇気を振り絞って任期が終わるまで、と付け加えた。あと二週間。それまで耐えれば、普通の恋人のようになれる。
そう自分に言い聞かせるおまじないとして、彼を納得させる理由として。
彼は「わかった」と頷いてくれたけれど、内心穏やかでないことは理解していた。好きな人ともっと近づきたい、触れ合いたい、近くに寄り添いたい。
でもそれが私達にとっての毒となり、刃となる。全ては私のせい。今まで皆の中にいる『佐伯凜華』を演じ続けてきたせいで、本来の自分を出せずにいたせいで……こんなところでツケが回ってきてしまった。
早く終わりたい。学級委員なんてしなければ良かった。もう嫌、早く終わって欲しい。
天斗くんともっと恋人らしいことを、したい……。
夜、私は一人ベッドで悶えていた。
積極的に近づいてくれる彼を思い出していること。それからそれを断った自分への恨み。
スマホの画面をつけ、彼の連絡先を押す。まだぎこちない雰囲気が溢れるそのやり取りに、口元を綻ばせながら私は待つ。
数秒後、スマホがバイブし彼の名前と共に着信が届く。私はすぐさま画面をスワイプし、電話に出る。
「もしもし?」
『もしもーし? 聞こえてる?』
「ええ、大丈夫」
今日は天斗くんが勉強を教えて欲しいと昼休み言っていた。本当であれば放課後、そうするつもりだったのだが予定が代わり、飲食店に行くことになった。
店を出た時には少し空は暗がり始めていたため、解散。
暇な時にということを一時間ほど前にやり取りしていた。
音声でのやり取りは分かりづらいため、天斗くんがビデオを付ける。ポッと画面越しに彼の顔が出現すると私は思わずはにかんで微笑んでしまう。
『わ、笑った?』
「ご、ごめんなさい! 少し面白くて」
他意は無いと私は身振り手振り伝える。
というよりも画面に映る私、大丈夫かな。化粧もしてないし、パジャマも可愛くないし、髪は下ろしてるし……まだお風呂に入らない方が良かったかも。
『凜華が笑ってるところもっとみたいなー』
「……っ」
咄嗟に節度を、と言いかけたが別に何の違反にもなっていない。日常生活で私は無愛想だと言われることが多い。それはもちろん、皆の中にいる私を演じているせいだが……。
彼の前なら笑顔くらい……手を繋げないし、食べ物を分け合えない。それくらいなら良いのかもしれない。
やっぱり天斗くんは素敵。
他の人と違って私の心を動かしてくれる。そんな所も……
「好き……」
「……ん? ごめん聞こえなかった、もう一回良い?」
「あ、いや! 違うくて! 何でもない!」
外に出ているとは思っていなかった私は咄嗟に口を覆う。ダメ、やっぱりもっと自分に厳格にならないといけない。
自分でルールを決めたのなら、自分が一番にしないと。
結局それ以降、私は笑顔を無理やり抑え、淡々と数学を教える機械になってしまった。
もどかしい、好きって言いたい。
③
誕生日の日は、本当に余裕がなかった。
委員会の仕事が立て込んでいて、頭の中は次の予定でいっぱいだった。提出書類の期限が迫り、先生からの連絡も複数来ており、精神的に追い詰められていたと思う。
彼が廊下で私を呼び止めたとき、私はほとんど意識がそこに無く、頭の中にあった。この頃からより一層、委員会の仕事に嫌気が指し、誰かが向けてくる私への羨望を振り払いたくなりつつあった。
「凜華!」
誰かがまた私を呼んでる。いい加減にして欲しい。
肩に触れた瞬間、反射的に振り払った。ボロが出てしまった、そう考える以上に私は「もういい」という諦念感が私を蝕んでいた。
鈍い音がして、手首が赤くなる。
振り返って、彼だと気づいた瞬間、血の気がサーっと引いた。
「凜華……?」
「ご、ごめんなさい……! 少し、考え事をしていて」
謝りながらも、視線が定まらなかった。
何故もっと注意しなかったのだろうと自分を心の中で叱責し続けた。
まだ痛むであろう手首を気にすることなく彼が紙袋を差し出す。誕生日プレゼントだと、すぐにわかった。嬉しかった。本当に嬉しかった。
「あれ、凜華さんじゃない……?」
「ホントだ。名前を呼んでたてことはあれ彼氏?! 何か渡してるよ」
「廊下の真ん中で……? 凜華さんらしくないねー」
「確かにね。廊下の真ん中で、イチャイチャするなら誰も見てないところの方がいいかもね」
「でもイチャイチャしてるところなんて想像出来なくない? あの凜華さんだよ?」
天斗くんの後ろで二人の女子生徒がコソコソと話をしているのが聞こえた。彼には届いていないのか、受け取らない私に「うん?」と首を傾げている。
こんな時にもあの人たちは……。グッと唇を噛み締めると皮が破れ、鉄錆の味が舌に伝った。
受け取ったら、もっと近づきたくなる。近づきたくなったら、自分の立場が危うくなる。委員会の仕事も、周囲の目も、全部が頭の中で渦巻いていた。
「ありがとう。だけれど、プレゼントは別にいいわ」
あぁ、私……最低だ。
彼の表情が、明らかに傷ついた。今までにないほど凍りつき、彼は視線が何度もブレ、硬直したままだった。
違う、そうじゃないの。伝えようとした瞬間、スマホがブルブルと振動した。恐らく委員会の仕事だ。催促をされていた案件だろう。
ごめんなさい、それすら言えなかった私は階段へ。 何度も振り返りたかった。でも、振り向かなかった。振り向いたら、全部が壊れてしまいそうだったから。
その日の晩、私は何度も泣いた。人生でこれほど泣いたことなんて無いだろうと思うほどに、情けない自分と、素直になれない自分を深く、深く恨んだ。
④
映画館でのデートは、私にとって特別な日になるはずだった。
任期があと一週間。休日に彼と過ごせるのが、嬉しくってハーフアップにして、少しだけ肩の出る服を選んだ。
彼の前で、少しでも可愛く見えたくて張り切った。 先に待っていてくれていたようで、私を見た瞬間に目を見開いたのがわかった。
嬉しい。
胸が温かくなった。
上映中、私は暗闇に紛れて何度も彼の方へと視線を動かしてしまった。いっその事寝たフリでもしようか、彼の肩に凭れて温もりを感じたい。
でもそれとは引き換えに、私はデートで寝る最低な女というレッテルを貼られてしまう。結局私は目だけを動かして、手を繋ぐ機会すら易々と逃したのだ。
「ご飯行かない?」
時刻は五時四十分。
優しく微笑む表情にドキンっと胸に雷を走らせながら私は提案に乗る――ことは出来なかった。
『六時以降はなるべく遊ばないようにしてちょうだい』
『どうして?』
『健全な時間でないもの。凜華は大丈夫だろうけれど』
家を出る前、母に約束を強要されたこと。健全、私なら大丈夫。親でさえも私のことを分かってくれていない。振っても、振っても振っても天斗くんは私を誘ってくれる。
私の言葉を守らないといけないと分かっているのに、彼は手を伸ばしてくれる。私を好きでいてくれる。甘えたい。寄りかかりたい。好きだって言いたい。手を繋ぎたい。一緒にご飯を食べたい。
それでも私は親の言葉には逆らえない。
母一人の力で私をここまで育ててくれたから、裏切ることなんて出来ない。
でも……ここで断れば、もう天斗くんとは一緒に微笑むことが出来ない。彼も私を遠い目で見てしまう。そんな嫌な予感がへばりついて、離れなかった。
じゃあ母を裏切る? たった一人で働き詰めの母を、追い詰めても良いのだろうか。ううん、嫌だ。それだけは嫌。
私のことを理解していなかったとしても、世界でたった一人の私のお母さん。
私が、選ぶのは――――。
「いいえ。そろそろ六時になりそうだから帰ることにするわ」
「門限?」
デートなのに、門限などという言葉を言いたくなかった。もしかしたらそれは思春期特有の親事情を知られたくないという羞恥心から来たものかもしれない。
咄嗟に出たのは最低な、彼を信用していないと突き放すような言葉だった。
「六時以降は少し、ね」
本当は、触れたくて仕方なかった。彼の手を握って、もう少し傍にいたかった。でも、自分を抑えきれなくなるのが怖かった。信じていないわけじゃない。 自分を、信じられなかった。
彼が「あと一週間だもんな」と納得した顔をしたとき、私は安堵と同時に、強い寂しさを感じた。振り返らずに歩いた。振り返ったら、走って戻りそうだったから。
やっぱりと、何度も足を止めそうになった。いいや、止められなかった。振り返ればきっと、忘れられなくなる。好きだと叫びたくなる。今すぐにでも愛してると言いたくなる。
全てを捨てて天斗くんだけを選べば良かった。学級委員も、完璧な私も、母も、何もかも置き去りにして、彼一人を選択すれば……。
まだ引き返せたかもしれないのに。
家に帰ると珍しい人が私を出迎えた。長年海外で在宅勤務をしている九つ上の親戚だ。 商業高校を卒業した後、県内有数の企業に就職したらしい。なんでも六時以前の帰宅を約束させたのはお客が来るためと母は今になって言った。
親戚の兄は昔から私を溺愛してくれる人で、私の事情をよく理解してくれている。
「今日はデートって聞いたんだけど、もしかして悪いことしたかな……?」
ええ、とてもね。貴方が来ることさえなかったら、私は天斗くんとご飯に行って、美味しいねと言って、肩を並べて、歩いて、手を繋いで、それから――。
「別に、大丈夫よ」
冷たくあしらって靴を脱ごうとしたところで、カレンダーが目に入った。次の日には小さな花丸の印があることに気がついた。
明日は天斗くんの誕生日。
ハッとなって気がついた時には、すぐさま逆を向いていた。
「おい凜華、どこに行くんだ」
「友達の誕生日プレゼントを買いに」
「もう真っ暗になる。俺も行くよ」
そんなの必要ない、と思ったが男子にプレゼントなんて何を渡せば良いのか私には分からない。そういう関係の人なんて今までいなかったし、出来るとも思ってなかったから。
「分かった。ついでにアドバイスを貰えると嬉しい」
ポンと自身の胸を叩いて「任せろ」と笑う。正直居ないよりマシだろう。私なんかより当てになるはず……そう思ったのだが、この人は結局何の頼りにもならなかった。
第一、この人はプレゼントを送ったことも貰ったこともないらしくどれにすれば良いか分からないと開口一番言った。
それから彼は贈り物はこれでいいんじゃないかと持ってきたが、どれもこれも的外れだった。
男子と言ってるのにヘアピンを持ってきたり、かわいいぬいぐるみを持ってきたり、化粧品を持ってきたり、アニメキャラのタオルを持ってきたり、フィギュアを持ってきたりと私が嫌われることを望んでいるのかと思うほどだった。
結局私はハンカチと冬に向けてのマフラーを選んだ。
帰り道、大きくため息をつきながら私は隣を見る。体格はまあまあある。筋肉もある。顔つきもややイケメン、にも関わらず頼りにならない。人は見かけによらず、とはこの事だろう。
「つか凜華、そんな格好で寒くないか?」
「別に大丈夫。まだ冬じゃないんだし」
「手は? 末端冷え性だろ」
この人は昔から世話焼きで、「寒いだろ」と自然に手を掴んでくる。私はその手をパシッと弾く。天斗くんにも握られたことがないのに、この人に触れさせるわけにはいかない。
「そんなに拒絶しなくても良いだろ。彼氏じゃないんだし」
「彼氏じゃないなら尚更。節度を保ってほしいわ」
「節度って……凜華もそういう年になったのかー」
すると彼は腕を組んできた。再び私はそれを振り払おうとしたけれど、彼はこんなことを言った。
「フランスだと『友情』で腕を組むことがあるんだ。別にそういうことじゃない。それに凜華、やっぱしお前震えてるな」
「別に、震えてないわよ」
「まだ冬じゃないが、夜はもう寒くなる。明日は大事な日なんだろ。風邪引くと台無しだぞ」
唇を尖らせながら私は返事をする。確かに彼の言うことは的を得ている。明日風邪引くと誕生日プレゼントは渡せない。私が受け取らなかった彼からの贈り物。それを互いに交換しようと私は考えていた。
彼に見られていたとは知らずに……。
後から聞いたとき、頭が真っ白になった。「節度を保て」と言い続けた自分が、彼氏がいるのに他の男と腕を組んでいる。言い訳はいくらでもできた。でも、彼の目には、どう映っただろう。最低な女、と思われたはず。当然だ。
⑤
任期終了の日、私は真っ先に彼の元へと駆け寄った。ニマニマが溢れて仕方ない。だって、ようやく彼と近づくことができる。周囲の視線が合ってももう大丈夫だから。
だけれど、彼はその日体調が悪いのか少し目元が暗く見えた。ドンヨリとした曇りのような天気が顔に張り付いていた。その帰り道、私は思い切って口を開く。
「天斗くん」
「なに?」
「今日さ、私の家に来ない?」
彼は特に何も言うことなく少し珍しげな視線を向けた後、再びやや闇を帯びた瞳へと戻った。
「昨日はその、勝手に帰ってごめんなさい。今日は渡したいものがあって。良いかな」
「構わないよ」
フーッと大きく息を吐く。バッグの中へと手を入れて私は緊張を吐き出す勢いで、叫ぶくらいに、大きな声で言う。
「ありがとう。天斗誕生日おめ――」
「俺たち別れよ?」
フーッとそよ風が私たちの間を吹き抜けた。まず自分の耳を疑った。聞き間違いではないかと。次に彼を見た。間違いだったら挙動が変わるから。でも、そこにいたのは明鏡止水状態の天斗くん。
足が震えて、倦怠感が私を支配した。
別れを切り出された瞬間、私は彼の肩を掴んでしまった。
「どう、して」
声にならない声で私は精一杯絞り出して問う。
「冗談、だよね……?」
「本気だよ。別れよう凜華」
「どういうこと? ちゃんと説明して!」
瞬間、ギロッとした鋭い視線が私を捉えた。
「凜華の体裁を守るための彼氏として上手くやれてた?」
違う、違うの。私がその規約を作ったのは私のためだけじゃなくて、天斗くんのためにも……!
「何それ、私が『節度を保って欲しい』そう言ったのはそんな事のためじゃなくて!」
「いいやそうでしょ。凜華の体裁を保つために相応しい彼氏を無理やり演じさせられてる気がした」
「……っ」
その言葉が、胸に深く刺さった。泣きそうになるのを必死に堪えて、言葉を並べた。「考えたよ」「これからは」と。でも、どれも届かなかった。彼が「節度を保って欲しいんだけど」と、私の言葉をそのまま返してきたとき、初めて自分が何をしてきたのかを理解した。
私は、彼を守ろうとしていたんじゃない。本当は自分を守ろうとしていただけだったのかもしれないと、初めて考えた。
学級委員という立場と、周囲の「佐伯凜華はこうあるべき」という固定観念を、必死に守ろうとして、彼を遠ざける道具にしていた。心の中ではそれらを振り払おうとしていたにも関わらず、結局それらを払拭することは出来ず、彼彼女達の『佐伯凜華』をまた演じていたのだ。
誕生日にプレゼントを突き返したことも、手を払いのけたことも、六時以降を避けたことも、全部。
違う、でも違う。私はそれらを第一にしていた訳ではない。彼を守ることも大事だった。でもそれ以上に私は天斗くんと触れ合いたかった。完璧というイメージを崩してでも、彼の胸に抱かれたかった。
「私も、私だって我慢してたんだよ……? 天斗くんに触れたい恋人として、好きな人にしか出来ないことをしたかったの、でも」
「でも、なに? 節度を保って、という約束は君自身が初めに言ったことだよね? 言い出しっぺの君がそれを盾にするのは卑怯だろ。もういいや、君と居ても時間の無駄だわ」
「待って、待って天斗行かないでっ!」
その時、私は初めて周囲の目を気にせず彼に抱きついた。初めて彼に触れた温もり、それは全くと言っていいほど無かった。代わりに氷のような冷たさと、私への憤慨。
離したくない。行かないで欲しい。嫌いにならないで欲しい。別れたくない。いや、いや!!
「佐伯さん、破廉恥なんだけど辞めてくれるかな。別の男にもそうやって迫ってたの俺知ってるから」
「何のこと……?」
まさか――そんな予感が迸る。胸から込み上げる絶望感がやがて上へ上へと上がり、瞳へとそれは現れた。
「昨日の夜中、随分と仲良さげに腕を組んで歩いてたよね。彼氏がいるのに」
見られて、た……? ズドンっと私は深い谷底に落とされる音を聞いた。私を餞別するような眼差しを向ける天斗くんを私はギュッと力の限り抱きしめる。
「違う、違うの! あれは親戚で――」
「親戚? 親戚の異性なら節度を保たずに破廉恥なことするんだ。佐伯さんって意外とねじ曲がった変態なんだね」
佐伯さん、と名前ではなく苗字で呼ばれた事実と彼から向けられた目を背けたくなるような言葉に私はその場に崩れ落ちる。
全身から体温が抜けていき、目の前が歪み出した。そのまま彼は言葉を掛けること無く歩き出す。
「いや……いや! 別れたくない天斗! 行かないでぇっ!」
「あのさ、最低限距離は取ってくれるかな。彼氏でもない男の腕を掴んでる所見られたら困るでしょ?」
「いやぁ、いやぁぁ!! 天斗っ!」
私はもう泣いて叫んで、お願いすることしか出来なかった。あの日泣いたことなんてこの時に比べれば雀の涙に等しい。
固定観念に囚われていたせいだ。誰かが求める『佐伯凜華』を実行し続けたせいで私は最愛の人に嫌われて、フラれる。
「あれは! 天斗のため! 今日誕生日、じゃない……? プレゼントを買うために、会っただけ……!!」
今日はこんなことのために私は彼を誘ったのではない。プレゼントを渡して、それから私の家で彼と幸せな一時を過ごす。互いに微笑んでやっとしがらみから解放されたと思い思いに彼の傍にいる。
それでも、彼は、時は待ってくれなかった。
震える手で、唯一の希望を送り出す。彼はそれを見ると一瞬で何かを悟ったような瞳になり――パシッと、『あの時』の私であるかのように振り払った。
受け入れられない現実。夢であるかのような錯覚。だがそうではないと、払われた手首からジリジリとした痛みが走る。
「たか、と……?」
「節度を保って欲しいんだけど。彼女でもない女子からプレゼントを受け取ってる場面を見られたら困るんだよね。何度言えば分かるの? こっちのこと考えてくれる?」
「ぁ……ぁぁ……!」
それはまるで、今までの私であるかのようだった。もっと言えば、彼から見た私。振り払われ続けた『曽山天斗』が『佐伯凜華』を演じていた。
彼が背中を向ける。大きくて逞しいその背面はどこかスッキリした、という表情が見えた。もう、私に出来ることは泣き叫ぶことだけだった。
「待って、嫌いにならないで! お願いぃ! 謝るから! 今までのこと全部、全部謝るからぁ!」
「親戚の男に何とかしてもらえばいいんじゃない? 腕組んで破廉恥なことしてなよ」
今までの全てが返ってきた。それも一番言って欲しくない人に、私が言い続けて来た言葉が。
もう彼は二度と振り返ることは無かった。手を差し伸べることも、声を掛けることも無かった。
これが結末……。
私が敷いた誓約によって、自らを破滅に招いた。好きだと言えば、手を繋げば、腕を組めば、食べ物を共有していたら……もしもの世界線は、私と彼が存続する分岐点はいくつもあった。
彼はその度に私を分岐点へと立たせ、より良い方向へと誘った。だが私はその提案を尽く跳ね除け、彼を遠ざける結果へと追いやった。
二時間もの間、私は彼が立ち去った方向を見続け立ち上がることができなかった。
⑥
それから私は全てを破棄した。
今までの完璧な自分を投げ捨て、新しい『佐伯凜華』を……違う。本来の私を表へと出した。
もちろん変わり者だと言われた。らしくないとも言われた。だけれど、その度に私はこれが本来の私だと、言い続けた。
天斗くんへ話しかけても彼はこちらを振り向くことはしなかったし、最近は見知らぬ女子生徒と共にいることが多い。
「……天斗くんそれは、違うよね」
私は放課後の図書館へと毎日足を運び、彼とその女が良い雰囲気になっているのを見続けた。
昨日彼へと接触を測った折、最悪なものを見せつけられた。名前を呼ぶことをお願いしたら、あの女が天斗くんへと唇を伸ばしたのだ。決して天斗くんからではない、あの女からだ。
「許さない、そこは私の席。私が座るべき座席だから……」
憎い、あの女が。
疎ましい、あの女が。
嬲りたい、あの女を。
遠ざけたい、あの女を。
「フフ、フフフフ」
私がこうして、二人を見ているのは自分への戒め。もう二度とあのような失敗はしない。あんなことになってはダメだと自分に傷をつけている。
そうすることで痛みを覚え、あの女への復讐心と天斗くんへの愛情を芽生えさせる。
彼を手に入れるために、私は全てを棄てることができる自信がある。
彼はきっと、彼女が自分以外の異性と接触しているのは好まない。トラウマ的なものがあるはず。
何故か。
私のせいだからだよ。
だから、あの女も同じやり方で別れさせる。
異性へと接触させ、別れさせる。傷ついた天斗くんの元へ私が駆け寄り、慰める。既成事実を作り、二度と別れる事がないようにする。
親戚の『あの人』も協力してくれると言ってくれた。面倒見の良い、私のことを溺愛してくれている人。
別れる原因を作ったのは許してない。
今日、私はこの計画を実行する。
親戚をあの女に接触させ、クラスメイトへと写真を流布させる。浮気をしていると煙を立たせ、二人を別れさせる。
失意の底にいるところを私が助ける。
天斗くん、愛してる。
「――――」
あ、ほら今こっちを見た。その視線は間違いなく私を向いている。悍ましいものを見るような視線が痛くて、どこか良い。明日からはその視線全てが私のものだから。
でもあの目つきは恐らく警戒。隣にいる女には手を出させない、何があっても守ってみせるという強い意志が見られる。あ、違うかな。ううん、優しくて逞しい天斗くんだからそうだよね。でもね天斗くんその女の子これから大変なことになるんだよ。浮気するんだよ。天斗くんはきっと勘づいてるだろうけど、私がやったていう事実がないから証明は出来ない。もうすぐで別れる。これから彼の隣に座ってその温もりを独り占めするのは私だから。
「愛してる」
大好き。
「愛してる」
永遠に。
「愛してる」
今日も、明日も、その先も。
「愛してる」
愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。
もう二度と手放なさないから。
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