シュレディンガーの橋
1.証拠の倫理、生存の論理
「だめだ。データが足りない」
クリフォードは、ひび割れたヘルメットのバイザー越しに、手元の端末を睨みつけて言った。
彼の声は震えていたが、それは寒さのせいだけではないだろう。
「重力係数が乱高下している。この霧の成分も不明だ。今の装備でこの谷を越えるのは、自殺行為に等しい」
私、ジェイムズは、隣で舌打ちをした。
不時着した惑星「ケプラー42b」。
ここは、宇宙地図で《認識干渉エリア》として指定されている危険地帯だ。
大気中に充満する特殊な量子ガスが、観測者の脳波に反応し、物理法則を局所的に歪める。
簡単に言えば、「見ているものが、現実になる」――そんな夢のような場所ではない。
「疑えば、世界が牙を剥く」場所だ。
「クリフォード、後ろを見てみろ。酸素残量はあと三時間だ。ここで立ち止まっていても、確実に死ぬだけだぞ」
私が指差した先、墜落した探査船の残骸からは黒煙が上がっている。
救難信号を送れる通信ブースターは、この深い谷の向こう側、霧に煙る岩山の頂上にある。
私たちの目の前には、一本の「橋」がかかっていた。
いや、それを橋と呼んでいいのかどうか。
それは古代の遺跡のようにも見えるし、ホログラムのようにも見える。霧の中でゆらゆらと輪郭を変え、時折、ブツリと映像が途切れるように消失する。
「あれを渡るのか?」
クリフォードは嘲笑した。
「見ろ、ジェイムズ。あれは『シュレディンガーの橋』だ。存在する確率と、存在しない確率が重なり合っている。足を乗せた瞬間、波動関数が収束して崩落する可能性が50%以上ある」
彼は端末を操作し、空間スキャンを繰り返す。
「科学者として言わせてもらうが、十分な証拠なしに何かを信じたり、行動したりすることは『罪』だ。それは知性への冒涜だ」
彼の言い分は正しい。
地球の研究室であれば、私も彼に拍手を送っただろう。W.K.クリフォード教授の有名な言葉、「不十分な証拠に基づいて何かを信じることは、いついかなる場合でも、誰にとっても悪徳である」。それは科学の厳密さを守るための聖なる戒律だ。
だが、ここは研究室ではない。
サバイバルの現場だ。
「あんたの言う『真理』ってのは、なんだ?」
私はブーツの紐を締め直しながら尋ねた。
「客観的に正しいデータの集合体のことか?」
「当然だ。誰が観測しても変わらない、不動の事実だ」
「違うな」
私は立ち上がり、不安定に揺らぐ橋を見据えた。
「真理ってのは、『キャッシュ・バリュー(現金価値)』だ」
「は?」
「それを持っていることで、俺たちが利益を得られるかどうか。生き延びるのに役立つなら、それは『真理』なんだよ。逆に、どれだけ正しくても、俺たちをここで座して死なせるなら、そんなデータは無価値だ」
私は橋のたもとに立った。
足元は深い谷底だ。落ちれば底なしの霧に飲み込まれ、二度と戻れないだろう。
恐怖で足がすくむ。本能が「行くな」と警鐘を鳴らす。
「待て! 何をする気だ!」
クリフォードが叫ぶ。
「計算が終わっていない! 強度が保証されていないんだぞ!」
「計算なんて待っていたら、日が暮れて気温が下がり、凍死するだけだ」
私は自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「いいか、クリフォード。この世界は観測者に反応する。なら、俺が『この橋は頑丈だ』と信じ込めば、物理法則がそっちに傾くかもしれない」
「馬鹿げている! それはただの自己暗示だ! 物理学への冒涜だ!」
「ああ、そうだ。だが、役に立つ嘘は、役に立たない真実よりも尊い」
私は深呼吸をした。
脳裏に浮かぶ「橋が崩れるイメージ」を必死で打ち消す。
想像しろ。
これは鋼鉄の橋だ。
象が乗っても壊れない、絶対的な道だ。
疑うな。疑えば、その疑念が霧に伝わり、橋を脆くする。
信じるのだ。
証拠があるから信じるのではない。
信じたいから信じるのでもない。
「信じる」という行為そのものが、未来の事実を製造するのだ。
「ジェイムズ、やめろ!」
制止する声を背に、私は霧の中へ踏み出した。
一歩目。
足裏に、硬い感触があった。
2.霧の彼方の「真実」(終)
一歩踏み出した足の裏には、確かに硬い感触があった。
まるで擦りガラスの上を歩いているようだった。視覚的には半透明で頼りないが、私の体重を支えるだけの反発力がある。
「戻れ、ジェイムズ! 数値が異常だ!」
背後でクリフォードが叫んでいる。
「センサーには何も映っていない! 君は今、虚空に浮いているんだぞ! 確率論的なエラーで一時的に足場ができているだけだ。次の瞬間には崩壊する!」
彼の言葉は呪いのように響く。
その瞬間、私の足元の橋が「ジュッ」と音を立てて透け始めた。
恐怖。
クリフォードの言葉(客観的な疑念)が私の脳に入り込み、私の「信じる意志」を揺らがせたのだ。このエリアでは、疑いは即座に物理的な崩壊を引き起こす。
(くそっ、あいつの声を聞くな)
私は奥歯を噛み締めた。
下を見てはいけない。谷底の闇を見れば、「落ちる」というイメージが現実化してしまう。
前だけを見ろ。
向こう岸にある通信ブースター。あれに触れて、救助信号を送る自分。その成功した未来(結果)だけを強烈にイメージするんだ。
「俺は渡れる。なぜなら、渡らなければならないからだ」
私は呪文のように呟き、足を速めた。
走る。
私の速度に合わせて、霧の中から次々と足場が生成されていく。
私が「ここに道があるはずだ」と足を下ろしたそのコンマ一秒前に、世界が慌てて原子を組み上げ、コンクリートの床を作り出しているような感覚。
これが、ジェームズ教授の言っていたことか。
『信仰が事実を作り出す』。
世界は最初から完成された「客観的な書き割」ではない。私たちの意志が働きかけることで、初めて形を成す粘土のようなものなんだ。
しかし、橋の中ほどに差し掛かった時、最大の試練が訪れた。
橋が、途切れていたのだ。
三メートルほどの亀裂。その先は濃い霧に覆われている。
「言った通りだ!」
遠くからクリフォードの勝ち誇ったような、しかし絶望に満ちた声が聞こえた。
「そこが行き止まりだ! 引き返せ、今ならまだ間に合う!」
私は亀裂の縁で立ち止まった。
常識的に考えれば、飛べる距離ではない。装備の重さもある。
クリフォードの言う通り、引き返すのが「合理的」な判断だ。ここまではまぐれだったのだと認めて、安全なスタート地点に戻るべきだ。
だが、ここで引き返せばどうなる?
酸素がなくなり、二人とも凍死する。
それが「合理的」な結末か?
(違う。そんな真理はクソ食らえだ)
私は目を閉じた。
アルプスの登山者の例え話を思い出す。
跳べば助かるかもしれないし、落ちるかもしれない。
しかし、「跳べる」と信じなければ、身体能力は発揮されず、確実に落ちる。
「疑い」は、身体を硬直させ、失敗を招く。
「確信」だけが、筋肉のバネを極限まで引き絞り、不可能を可能にする。
「橋は、ある!」
私は叫んだ。
それは確認ではなく、宣言だった。私が跳んだ先に、着地地点は「ある」のだ。
私は霧に向かって、思い切り跳躍した。
浮遊感。
永遠にも思える滞空時間。
私の脳裏に「届かないかも」という疑念がよぎりかけたその時、私はそれを意志の力でねじ伏せた。
俺は助かる。俺は生きる。
ダンッ!
衝撃が膝に走った。
転がり込むように着地する。
そこは、霧の向こう側――岩山の頂上だった。
私は息を切らしながら立ち上がり、通信ブースターのスイッチを叩いた。
『救難信号、送信完了。救助船、至急向かいます』
「はは……やったぞ、クリフォード!」
私は橋の向こう側へ振り返った。
「聞こえるか! 道は繋がったんだ! こっちへ来い!」
しかし、返事はなかった。
霧が晴れていく。
谷の全貌が明らかになる。
そこには、何もなかった。
私が今しがた渡ってきたはずの橋は、跡形もなく消滅していた。
ただの深い谷底が、黒い口を開けているだけだ。
「……クリフォード?」
私は双眼鏡を取り出し、谷の向こう側、スタート地点の岩場を見た。
そこに、クリフォードはいた。
彼はまだ、あの場所から一歩も動いていなかった。
彼は端末を握りしめたまま、うずくまっていた。
その身体はすでに白く凍りつき、ピクリとも動かない。
彼は最後まで「科学的に正しい態度」を貫いたのだ。
「橋が存在する」という確実な証拠が出るまで、彼は一歩も動かなかった。
そして、証拠が出ないまま、時間切れ(酸素切れ)を迎えた。
彼にとって、橋は「最初から存在しなかった」のだ。
私にとっては「存在した」のに。
一つの谷に、二つの真実があった。
渡れると信じて事実を作った者の世界と、疑って何もしなかった者の世界。
私は通信機を握りしめ、空を見上げた。
救助船の降下音が聞こえる。
それは、私が強引に手繰り寄せた、私だけの「真実」の音だった。
(了)
プラグマティズムは、端的に言えば、物事をその有用性で判断する思想でした。
そのため、「役に立つなら悪も善になるのでは?」という問いにおいて、プラグマティズムは度々攻撃されてきました。
まず、前提として、プラグマティズムは19世紀のアメリカで生まれました。
当時のアメリカは、「開拓者精神」の時代から、急速に産業化が進む時代でした。この時代、二つの大きな考え方が対立していました。
古い理想主義(宗教・道徳)
「神様は絶対だ」「正義は不変だ」という考え。安心感はあるが、ダーウィンの進化論などの科学と矛盾してしまう。
新しい科学主義(唯物論)
「世界はただの物質だ」「神などいない」という考え。事実は説明できるが、人生の希望や意味がなくなってしまう。
この時、「どっちも極端すぎて生きづらい!」
という感情から生まれたのがプラグマティズムです。
「神がいるかいないか」という終わらない論争はやめて、「どっちを信じた方が、これからの人生を良くするのに役立つか?」という「実用(Pragma)」を基準にしよう、というアメリカらしい合理的でドライな解決策でした。
代表的な3人の思想家
プラグマティズムはこの3人のバトンリレーで発展しました。
① パース(Charles Sanders Peirce):「創始者」
特徴: 科学者・論理学者。
思想:「概念の意味は、それがもたらす『実際の結果』に他ならない」。
例:「硬い」という意味は、「ひっかいても傷がつかない」という結果のことだ。
彼はあくまで「科学的な言葉の意味」をはっきりさせるためにこの考えを作りました。
② ジェームズ(William James):「広めた人」
特徴: 心理学者。前回の小説のモデル。
思想: パースの理論を「人生」や「宗教」に応用しました。
主張:「真理とは、それを信じることが人生にプラスになるもののこと(現金価値)」。
彼が一番有名になり、同時に「ご都合主義だ」と批判も浴びました。
③ デューイ(John Dewey):「社会に応用した人」
特徴:教育学者・哲学者。
思想:道具主義。知性とは、環境に適応して問題を解決するための「道具」である。
学校教育や民主主義の改革に力を入れました。「学ぶことは、生きることそのものだ」という体験学習を重視。
「実存主義は、信じる者は救われる的だけど、だったら宗教も肯定したのか?」
という疑問を、倫理の先生に問いかけました。
ジェームズは肯定しました。
ただし「神がそこにいるから」ではありません。
ここは実存主義と非常に似ていますが、アプローチが少し違います。
昔の宗教:「神は客観的に存在する。だから信じなさい」
実存主義:「理屈じゃありえない。でも私の情熱のために、命がけで信じる」
プラグマティズム(ジェームズ):「神がいると信じた方が、逆境に耐えられたり、道徳的に生きられたりして『効果』があるなら、その信仰は『真理』として扱っていい」
ジェームズは「信じる権利」を主張しました。
「証拠がないから信じるな」と言って絶望するより、信じて救われるなら、それは「有益な仮説」として採用していい、というスタンスです。
つまり、「本当に神がいるか」は棚上げにして、「信じることの効用」を肯定したのです。
もう一つ「判断材料が『役に立つか』だと、悪いことでも役に立つなら善(真理)になりそうでは?」と言う質問もしました。
なかなかクリティカルな質問だったようで、質問してくれたことに倫理の先生が喜んでいたのを覚えています。
それこそが、ジェームズが最も批判された点でてあり、例えば、「サンタクロースがいると信じた方が子供は喜ぶ(役に立つ)」なら、サンタは真理なのか?あるいは、「あいつを騙して金を奪った方が、俺は金持ちになれる(役に立つ)」なら、詐欺は善なのか?
これらの質問に対して、ジェームズや後のプラグマティストたちは、こう反論しています。
「『役に立つ』というのは、今この瞬間の自分だけが得をする、という意味ではない」
新しい真理は、既存の事実や他の真理とケンカしてはいけません。
「詐欺」は一時的に儲かっても、社会的な信用を失ったり、逮捕されたりして、長期的には「役に立たない(人生を損なう)」ことになります。
真理とは、長い時間をかけて多くの経験の中で検証され、生き残ったものです。
「嘘」や「悪」は、結局どこかで破綻するので、プラグマティズム的にも「偽(役に立たない)」とみなされます。
「自分勝手になんでもあり」ではなく、「長い目で見て、自分の人生全体や社会との関係を含めて、トータルでプラスに機能するか?」というのが、彼らの言う「役に立つ(真理)」の定義です。
個人的にはあたりまえじゃん。という感想でした。
しかしそれだけに、他の様々哲学者と比較すると、より実生活に関わりの深い思想のようにも感じます。
そんな意味でも、実用主義は実用的な哲学思考なのかなと感じます。




