第二章:亀裂の文法
世界が崩壊していく音がした。それは言葉では表現できない、私の内部構造が軋む音だった。
譲二はどこに消えたのか。警察に捜索願を出したが、彼らは単なる家出として真剣に取り合ってくれなかった。三十二歳の成人男性の失踪など珍しくないというのが彼らの見解だった。
一方で私の脳の中の腫瘍は、ゆっくりと、しかし確実に私の言葉の聖域を蝕んでいく。腫瘍の位置が言語野に近いため、医師は近い将来失語症の症状が現れる可能性があると警告した。失語症――言葉を失うこと。それは私にとって死にも等しい恐怖だった。
しかし私は諦めなかった。譲二が残した取材ノートの断片と、私が見つけた研究所の不正の証拠。それらを繋ぎ合わせ、私は一つの恐ろしい仮説に辿り着いた。譲二はアスクレピオス製薬の実験の核心に近づきすぎたため、逆に被験者として拉致され、どこかの施設に幽閉されているのではないか。
私は行動を起こした。父の遺した人脈――元防衛省や公安関係者――を使い、アスクレピオス製薬の内部情報を探った。そしてついに突き止めた。彼らが運営する隔離された精神医療施設が郊外の森の中に存在することを。
しかしどうやって彼を救い出すのか。その時、私の頭に狂気としか思えないアイデアが閃いた。私の脳腫瘍――それを逆用するのだ。
私は父の古い友人で、今は東京医科大学で脳神経外科の権威となっている白石教授を訪ねた。白石教授は父と同じく防衛省出身で、軍事医学から民間医療に転身した異色の医師だった。
私は全てを打ち明け、ありえない手術を依頼した。
「先生、私のこの腫瘍を利用して脳に特殊なインプラントを埋め込んでください。脳波を増幅し外部の生体電位と量子レベルで共鳴させるためのアンテナを」
白石教授は絶句した。
「君は何を言っているんだ!そんなことは倫理的にも技術的にも不可能だ!」
「可能にするんです」私は彼の目をまっすぐに見つめた。「愛する人を救うためです。それに理論的には可能なはずです。脳の神経細胞は微弱な電流で情報を伝達している。その電流を人工的に増幅し、特定の周波数で共振させれば、他者の脳波をキャッチできるかもしれません」
私の狂気にも似た気迫に押され、そして亡き父への恩義から、白石教授は最終的にその禁断の手術を引き受けてくれた。量子物理学者である彼の息子と共同で、世界初の「量子脳波アンテナ」を開発することになった。
手術は表向きは腫瘍の摘出手術として行われた。しかし実際には、私の脳は今や世界で唯一の特殊な「量子アンテナ」となった。譲二の脳が発する微弱な信号を捉え、彼の意識に直接ダイブするための。
だがその代償はあまりにも大きかった。手術後、麻酔から覚めた私の世界は微妙に、しかし決定的に歪んでしまっていた。言葉がうまく出てこない。語順がめちゃくちゃになる。
「私が見つけた、データの中に隠されている秘密を、暴かなければ……いや、違う。秘密が隠されているデータを私が見つけたから暴くのか? なぜ語順が……これは手術の副作用か、それとも何か別の……」
言葉への絶対的な信頼が初めて揺らぐ恐怖。私の思考は言葉で構成されている。言葉が乱れるということは私自身が乱れるということなのか?
しかしその混乱の中で私は奇妙な発見もした。語順の乱れは、まるで文法の硬い檻から思考が解放されたかのような不思議な感覚をもたらした。これまで見えなかった言語の背後にある純粋な概念の構造が垣間見えるような。
父の記憶が蘇る。『言葉に騙されるな薫。構造を見ろ』
これは退化ではない。何らかの進化の始まりなのかもしれない。