第一章:言葉によって築かれた砦
私の存在は言葉によって構築されている。
私の名前は栗澤薫。三十五歳。政府系研究機関「暗号情報解析センター」で暗号解読を専門とする言語学者。幼い頃から私にとって世界とは言葉の集合体だった。混沌とした事象に輪郭を与え、意味を授ける完璧な道具――それが言葉だった。そして私の思考は、その言葉という精緻な骨格によって支えられている。言葉がある限り私は私でいられる。少なくとも、あの事件が起こるまでは、そう固く信じていた。
この言葉への執着は亡き父からの影響に違いない。父・栗澤一郎は元防衛省情報本部の暗号兵だった。戦後生まれでありながら、彼の専門は第二次大戦期のドイツ軍が使用したエニグマ暗号機の解読技術を現代に応用することだった。父は多くを語らなかったが、その書斎には世界中の言語学書籍と、いくつものエニグマ・レプリカが静かに並んでいた。
エニグマは一日に百五十八京通りもの組み合わせを生成する。当時としては解読不可能とされていたが、父はよく私にこう言った。
「薫、どんな複雑な暗号にも必ずパターンがある。言葉の裏には必ずもう一つの言葉が隠されている。真実は常に暗号化されているものだ」
隠された意味を見つけ出すこと。それが父から私へと受け継がれた宿命のようなものだった。しかし私は父に対して尊敬と同時に拭いがたい複雑な感情を抱いていた。彼のその才能が戦争という人類最悪の行為に加担していたという事実。その罪悪感が私をより純粋で論理的な言語構造そのものへの探求へと駆り立てたのかもしれない。
私の日常は静かで規則正しかった。朝五時に起床し、ヨガで身体を整え、研究所へ向かう。仕事は常に完璧を目指した。私が解読を担当するのは主に国際テロ組織の通信文書だったが、二十年のキャリアで解読に失敗したことは一度もない。
だが最近、私のその完璧な世界に小さなノイズが混じり始めていた。一つは私の身体の異変。時折襲ってくる激しい頭痛と、視界の片隅にちらつく光の点滅。もう一つは恋人である高橋譲二との関係だった。
譲二はフリージャーナリストで、調査報道を専門としている。正義感が強く情熱的で、そして少し無鉄砲な男。私は彼のそういう危うさに惹かれていた。論理と言葉の世界に生きる私には、彼の感情的で直感的な生き方が新鮮だった。
しかし最近、彼は何か大きなテーマに取り憑かれているようだった。巨大製薬会社「アスクレピオス製薬」が極秘に進めているという脳機能拡張の臨床試験。その非人道的な実態を暴こうと一人危険な調査にのめり込んでいた。
「薫、もう少しだから。これが終わったらちゃんと君との時間を作るから」
そう言って笑う彼の顔は痩せこけ、その瞳には焦りの色が浮かんでいた。私は彼の身を案じていたが、同時に彼の正義感を誇らしくも思っていた。
そしてその日。私は研究所の機密データの中に信じられないものを見つけてしまった。同僚たちが進めている極秘プロジェクトの予算報告書。その資金の流れの先に「アスクレピオス製薬」の名前があったのだ。私の所属するこの公的な研究機関が、譲二が追っている闇に深く関わっている。
知的興奋と同時に背筋が凍るような深い不安。この発見が私の人生を根底から変えてしまうかもしれない。その予感は最悪の形で的中することになる。
その数日後、譲二が忽然と姿を消した。そして同じ日に私は病院で医師から冷たい事実を告げられた。私の脳の言語野、正確にはブローカ野とウェルニッケ野の境界領域に、小さな、しかし手術不可能な腫瘍があると。