第八話 すずらん
「久遠!! どうしてお母さんの言う事が聞けないの!?」
僕の前には物凄い怒りの表情をしてこちらを睨みつけてくる母さんの姿があった。
僕はこの母さんの怒っている顔が心底嫌だった。
心臓を貫く様に鋭く、魂を凍てつかす程に冷たい視線……。
僕が自分の指示、いや命令に応じないと必ずこの鬼神の如き表情をする。
「ぼ……僕にだって自分のやりたいことはあるよ!! どうしていつもちゃんと聞いてくれないの!?」
長年抑えつけられ蓄積されていたものが一気に弾け、僕も感情が溢れ出す、いつもは母さんが怖くて逆らえなかったがもう限界だった。
「そんなくだらない事に時間を消費して!! 世間体ってものもあるでしょう!? お母さんが職場で嫌な思いをしてもいいって言うの!?」
始まった、反論すると母さんの感情は怒りのエスカレートしていく、大声を張り上げ挙動も荒々しくなっていく、以前は腕を振り回しテーブルの上の物を床に叩きつけた事だってあった。
しかしこちらも一度ぶちまけてしまった感情は引っ込みがつかず更に反論を重ねるしかなくなっていた。
「何だよ!! 母さんはそんなに世間体の方が大事なの!? 僕は一生足りたい事をやる事が出来な言うの!?」
「あんたが〇〇を辞めればいいだけの事でしょう!? まさか〇〇を一生続けるって言うんじゃないでしょうね!? 気持ち悪い……!! あんたが私から生まれて来たなんて思ったら情けなくなってくるわ!!」
「なっ……」
この一言は僕を怒りよりの更に上の感情、覚悟を決めるのに十分過ぎる程の衝撃があった、すぅっと頭から血の気が引いていくのが分かる、なのに心臓の音だけはこれ以上ない程大きく鼓動を刻みまるで耳元にでもあるのではないかと錯覚さえした、視界も揺らぎフラフラする。
「母さんなんて大っ嫌いだーーー!!」
その言葉を発するのが精一杯だった、直感的に危険だと自分でも感じる、このままでは母さんに対して最悪の行動を起こしかねないと分かるのだ。
そのまま僕は勢いよく家を飛び出す、行く所なんて無いのに……。
だけどああまで言われてはこれ以上自分を抑えつけていられる自信が無い。
もうどうなってもいい、走りながらそう思っていた。
「……はあっ!!」
ガバっと状態を起こす、目の前には見慣れない部屋の装いが見える。
昨日越して来たシェハウスの部屋……どうやら僕は夢を見ていた様だ。
「はあ……はあ……はあ……」
部屋が暑い訳でもないのに全身汗だくだ、それはそうか、あんな二度と思い出したくない出来事の悪夢を見たんだから。
でも何故か部分部分母さんの言った事が虫食いの様に抜けていたな、あれは何だったのだろう? いやそう言えば僕のやりたい事って何だ? 思い出せない……。
「うん……?」
何だ? ベッドの布団、僕のすぐ左横に妙な膨らみがある……。
恐る恐る掛け布団をはぐる……。
「なっ!? ゆりさん!?」
何と布団の中にはゆりさんがすぅすぅと寝息を立てているではないか、しかも僕の左腕に自らの腕を巻きつけ抱きしめている、このせいか妙に暑いと感じたのは。
「ゆりさん!! ゆりさん!! 起きて下さい!!」
「う~~~~ん……あと五分……」
「テンプレなこと言ってないで起きて下さい!!」
「ふえっ……?」
眠そうな目を擦ってゆりさんが上体を起こす。
「あれ~~~? どうしてくおんが私の布団に居るの~~~?」
「寝ぼけないでください!! あなたが僕の布団に潜り込んでるんですよ!!」
「そっか~~~ごめ~~~ん……」
両腕を上に向けて伸ばし大きな欠伸をするゆりさん。
「びっくりするじゃないですか、昨日ちゃんとあなたのベッドに寝かせたはずなのに……」
「そっか~~~くおんが居間からここまで運んでくれたんだねありがと~~~」
「いえ、どういたしまして……」
屈託ない笑顔で礼を言うゆりさん、本当に調子が狂うな。
しかし目のやり場に困るな、ゆりさんはベビードール? って言うんだよねこれ、スケスケでフリフリのワンピースの様な物だけを身に着けていた。
いくらゆりさんが男だと分かっていてもこれは刺激が強すぎる。
「って、そんな事よりどうして僕のベッドに居るんですか!?」
「んん~~~? 夜中に目が覚めちゃって着替えて寝直そうと思ったんだけどね、くおんがうなされていたから添い寝をしてたんだ~~~どうやらそのまま私も寝ちゃったみたいだね~~~」
舌をちろっと出しウインクしながら自分の頭をこつんと叩くゆりさん、その仕草に不覚にもドキッとしてしまった。
「あれ? くおん顔が赤いよ? 熱があるんじゃないの?」
「違います違います!! 何ともないですから!!」
顔を近づけおでこを当てて来ようとしたゆりさんを両腕を突っぱねて引き離す。
何でこの人は距離感がおかしいんだ、僕とゆりさんは昨日の晩にあったばかりでしょうが。
「そう、でも無理しちゃダメだよ、さてと……私も起きますか」
ゆりさんは僕のベッドを降り自分のスペースの方へと移動する。
「このままの恰好でうろつくとさ、あやめがうるさいんだよね~~~」
そう言うとこちらに背を向け徐にベビードールを脱ぎ始めた、何と彼はパンツ以外何も身に着けていないではないか!!
慌てて僕は目を逸らす、ゆりさんはあんな裸同然の恰好で僕と添い寝していたって言うのか? これでは身がもたない、いや男同士だろうしっかりしろ僕、いや男同士でも大問題だろう。
衣擦れの音が止む、ゆりさんは半そで半ズボンのラフな部屋着に着替え終わっていた。
「顔洗うんだったら早くした方がいいよ、洗面台が二つしかないからいつも渋滞するんだ~~~」
「はい、分かりました……」
タオルを首に掛け僕に向かって手を振るとゆりさんは部屋を出て行った。
僕は暫く動悸が収まるまで布団の上に居る事にした。
程なくして洗面の準備を終え僕も部屋を出る。
すると廊下であざみさんとばったり出会った、彼は彼で真っ黒なネグリジェを着ていた。
そして半月の様な口の形でにやりと不気味に微笑むとと開口一番こう言った。
「お、おはようございます……き、昨日はお楽しみでしたね……」
「はぁ!?」
折角収めたドキドキがまたぶり返してしまった、今の僕はトマト並みに顔が真っ赤だろう。
「なっ……何てこと言うんですか!! 僕らは何も……」
「し、知っています……ゆ、ゆりさんはよく……た、他人の布団に潜り込むので……き、気を付けて下さい……」
知ってるってどっちの意味~~~!?
「で、では……こ、これを……」
僕が持っているタオルの上にあざみさんが何かを置いた。
これは……すずらん、の造花?
「あの、これって……」
何なのか聞こうと思って顔を上げるとあざみさんは既に廊下には居なかった。
この時はこのすずらんが何を意味しているのか分からなかったんだけど数日後に明らかになる、どうやら女装者同士の恋愛関係を表すスラングにすずらんという言葉が使われているのだそうな。
あざみさんは何か誤解をしている、僕とゆりさんはそんな関係じゃない、少なくとも今は……今は!? いやいやそうなっちゃダメでしょうが!!