4章 私とベンガルトラの間に子供ができた件
最終章です。
カレー事件を境に、私とベンガルトラはより仲を深めていた。あの時、熱がっていたようにも見えたが、彼の皮膚にとって煮えたぎったカレーをかけられることなど、小雨に濡れた程度の些細な事でしかないのだろう。
今日も私の目の前で美味しそうに酒を飲む彼の顔を見ながら、そんなことを考えていた。
「なあ、ぴよ。俺、自分の店を開きてえ!」
酔いが少し回ってきたのか唐突に彼はそう言い、自分の夢を語り出した。幼い頃、ミャンマーに捨てられ、そこから弱肉強食の世界を拳ひとつで生き抜いてきたその波瀾万丈な生い立ちや、お店に対する並々ならぬ決意を聞いているうちに、私の目から自然と涙が零れ落ちていた。
同情したのではない。自分が情けなく恥ずかしかったのだ。私には誰かに語れるほど大層な夢がない。夢を語る彼は私にとって、とても眩しく見えた。
彼は、目を擦る私の肩を抱き言った。
「なあ、店にさー皆が入りたくなるような看板のデザイン、作ってくれねえか?良かったらよー俺の夢、一緒に背負ってくれねえか?」
私はその場で泣き崩れた。暴力の世界で孤独に生きてきた彼の人生。人ではなく、ベンガルトラとして生きることを決めた彼が、私に手を差し出したのだ。きっとその手は多くの返り血と罵声を浴び続けてきたのだろう。いつしか人というものを憎み、信じられなくなっていた彼がこうして私を頼っている。人に頼ることは怖かったに違いない。そしてそれだけでなく、夢の無い私に夢の一部を分け与えてくれた。その事実がどうしようもなく私の胸を打った。
「カズさん・・・任せてください!!」
私は嗚咽にも近い不細工な声で返事をし、彼の手を握った。
「店の名前は決めてあんだ。店に来た皆が楽しく過ごしてよ、帰った後も頭の中で繰り返し思い返しちまうような、そんな店にしてえんだ!」
やはり眩しい男だ。
彼の言葉には、余計な飾りも迷いもない。ただ真っ直ぐで、力強く、何より人を惹きつける何かがある。私の中で燻っていた何かが、清らかな外気に触れて燃え上がったかのように、彼の夢に巻き込まれていくのを感じた。
ただの言葉なのに、彼の夢は彼自身を超えて、周囲の人間をも動かす力を持っている。それを語る者が本気だからだ。
この店が形になったとき、そこには何が生まれるのだろう。
どんな人が集まり、どんな物語が紡がれるのか。
私のデザインが、この夢を形にするのだ。
適当なものではダメだ。ただのデザインではない。これは彼の魂を映すものになるべきだ。 迷いはない。全力でやる。
これが、今の私にできることなのだから。
「いいですね。私も何だかいいロゴが作れそうです!」
「おー!そりゃ良かった!俺たちで立派な店に育てていこうな!」
「それって何か、店が私達の子供みたいな言い回しですね」
「気持ちわるっ!」
「「はははは」」
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コロナ禍で沈みかけていた高街に、一件のBARが灯をともした。その店から響く賑やかな笑い声は、夜の静寂を塗り替え、やがて街全体を目覚めさせるように広がっていった。
"一矢"はもう孤独なベンガルトラではなかった。
彼は夢を語ることで仲間を得た。人々は一也に惹かれるように自然と集まり、そこにはささやかな夢が混ざり合い、幾つもの物語が生まれた。
夢はひとりで見るものではなく、背負う者が増えるたびに確かな形を持つ――そのことを彼自身が証明していたからだ。
「今日もありがとうございましたー!気をつけてお帰りください!」
一矢が丸太のような腕で勢いよくドアを閉める。蝶番が勘弁してくれと言わんばかりに悲鳴をあげた。
ドアの横には、シンプルなデザインながら、一矢の夢と魂を確かに具現化した看板があった。
それが表すのは ただの店の名前ではない。
誰もが思い返し、繰り返し訪れたくなる場所。
その店の名は 「REFRAIN」。
子供は比喩です。
ここまで読んでいただきありがとうございました。