移り香
帰り道で偶然、学生時代の友人と出会った。
旧交を温めようとついつい遊び惚けてしまい家に着いたのは真夜中だった。
「遅いお帰りで心配しました」
妻の咲菜は起きていた。いや、それは驚くには当たらない。一家の主が帰ってくるまで寝ずに待つ。佐菜は今はやりのモガとかいう新進気鋭の女とは違い古い女なのだ。
「お酒を召しあがられてますか?」
「あ、ああ。帰りに昔の友人とばったり出会って、そのまま旧交を暖めていた」
「あらまあ。ならお夕食は……?」
「いらない」
上着を預けながら答える。咲菜は少し眉を顰めると上着に顔をつけるとすんすんと鼻を鳴らした。
「ああ、喉が渇いたので茶でも出してもらえないか」
そう言うと私は居間の方へ急いて引っ込んだ。
着物に着替え、ようやく人心地をつけると。テーブルの上に湯呑が置かれた。
見ると背筋を伸ばして正座する咲菜。じっとこっちを見て、いや睨んでいるようだった。
なんとなく気まずいなぁ、と思っていると、高瀬さんですが?、と問うてきた。内心その名前に心臓が痙攣した。動揺を気取られないようにこっそり深呼吸をする。
「な、んで。高瀬だと?」
「はあ、学生時代、高瀬というものと良く遊んだとか、おっしゃられていましたから。昔の武勇伝も良く聞かされました」
「いや、そんな話をしたっけ? そういえば……高瀬とはずいぶんあっていないな」
きゅぅっと咲菜の目が引き絞られると滑るように顔が近づいてきた。白い能面のような無表情な顔が横切ると耳元で止まった。
「ほ ん と う で す か …… ?」
耳元で囁く咲菜の声に私の背筋はぞくりと震えた。そして突如、封印していた記憶を思い出したのだ。
学生時代、私には高瀬と丸山と言う悪友がいた。その3人で良く遊んだものだ。その頃はなんと言うか継がねばならぬ家の事などが重圧になって少し生活も荒れていて、学業もそっちのけで放蕩を尽くした。その夜もカフェで飲んだ帰り道のことだ。丸山の奴が急に呆けたように立ち止まったまま動かなくなった。
「どうした?」と聞くと、「あれ」と指差す。
見ると闇に項垂れ立つ女の幽霊のような柳の木の先に一軒の茶屋が見えた。丸山が言うには引き込み茶屋とのことだ。一度使ったとも。凄いご面相の婆さんが出てきてびっくりさせられるが中の女はすこぶる美人であったと言う。
何の昔ばなしだと思っていると「ちょっと行ってみよう」とふらふらと茶屋に入って行った。私と高瀬の二人は戸惑い顔を見合わせる。丸山がいつその茶屋を利用したかは知らないが、今はどう見てもあばら屋だったからだ。
後から思うに、あの時点で丸山はどうかしていたのだろう。
放っても置かれず茶屋に入ってみた。空気が淀んで黴臭かった。家というのは人が住まなくなるととたんに傷みが激しくなる。なんていうのか家にあるあらゆる物の芯が抜けて脆くなるというのだろうか。その茶屋もそんな感じでおおよそ人が住んでいるようには思えなかった。
こんな陰気臭いところには半刻も居たくないと思うのだが、丸山は躊躇う様子もなく2階へとずんずんと上がって行ってしまった。置き去りにされた私達は土間のところで帰ってくるのを待った。どう考えてもこんなあばら屋に女がいる筈がないからだ。なのに、丸山はいつまで待っても帰ってこない。声もかけてみたが一向に下りてくる気配がない。ついに痺れを切らして、二人で2階に迎えに行くことにした。
2階は細い廊下の左右に小部屋がある、典型的な引き込み茶屋の造りだった。廊下の一番奥の左側の部屋からぼんやりと光が漏れている。耳を澄ますとぼそぼそと人の声が聞こえる。なにを話しているのかは聞き取れなかったが一つは丸山でもう一つは女の声だと知れた。
こんなところに女がいるなど驚きより怖さが先に立つ。それでも私達はその部屋まで行って、破れた障子の穴から中の様子を伺った。ぼんやりとした行灯の光の中に男女が向かい合って座っていた。背中を向けていている男は服装から丸山本人なのは間違いない。女の方は着物を着ていた。服装からその筋の商売女であるとすぐに分かった。暗い行灯の光であったが美人だった。これはますます面妖なこと、と思った。風が吹けば倒れてしまいそうなあばら家にこんな美人が一人でいるのなどどう考えても異常だ。とはいえどうしたものかと悩んでいると、女がふっとこちら見た。
「なんね?」
気づくと女の顔が目の前にあった。おかしな話だ。丸山の背中が部屋のずっと奥にあり、女の体もそこにある。なのに、真っ白い能面のような女の顔が目の間にあって、そう言ったのだ。
「邪魔するなら喰うてしまうぞ」
女は赤く長い舌をチロチロと覗かせながら凄むとぶわっと息を吐いた。
その息の臭い事、臭い事。いや、臭いのはまだ良い。臭いの質が悪い。
死臭。それは死んだ人の臭いだった。
私達は文字通り転がるように階段を下りるとそのまま逃げ出した。自分の命があっての物種だ。その時は丸山の事なぞすっかり頭の中から吹き飛んでいた。
「それで? その丸山さんはどうなったのですか?」
咲菜は湯呑みを口に運びながら冷ややかに言った。
「丸山、丸山な。
次の日、ちゃんと大学に出てきた。
講義の合間に昨夜の事を聞いたら、蕩けるような表情で惚気だしたよ」
丸山は昨夜の事を嬉々として話して聞かせてくれた。結局あの夜は朝まであそこで過ごしたと言っていた。薄気味の悪い話だったが、なにより気味が悪かったのはその話をする丸山の目がどこか虚ろだった事だ。
そして、次の日から講義に姿を見せなくなった。
丸山が大学に来なくなって1週間ほど経った頃、さすがに心配になって下宿に様子を見に行った。
夕暮れ刻だったが蒸し暑かったのを思い出す。
丸山の下宿は2階の角部屋だった。
八畳位の、当時の私達の感覚で言えば結構広い部屋の真ん中に大きな蚊帳を吊って、その中に奴は胡座を組んで座っていた。
「小蝿が多くて五月蝿くてかなわない。まあ、蚊帳の中に入ってくれ」と奴は笑いながら言った。
確かに部屋の中には蝿、小蝿と言うには黒く丸々と太った蝿どもがブンブンと飛び回っていた。
「やけに蝿が多いな。天井裏に鼠の死骸でもあるんじゃないか?」
軽口を叩きながら蚊帳の中に入った私は丸山を見て驚いた。げっそりと痩せ細っていたからだ。まるで別人、いや死人のようだった。だが、当の本人はキョトンとした顔で「なにが?」、と至って平然としていた。色々話を聞いてみたが、どこも痛くもないし苦しくもないとの事だ。医者でもないのでそれ以上の事は言えず黙っていた。それより気になったのは部屋にこもる微かな異臭だった。その事について聞くと丸山の奴は少し自分の臭いを嗅ぐとにたぁと笑って言った。
「移り香だ」
毎晩、例の女が訪ねてきて、まとわりついてくる。だから臭いは女の移り香だろう、と嬉しそうに言うのだ。
「夜中になるとその窓から入ってくる」
部屋の片隅の窓を見ながら丸山は恍惚とした表情をしていた。それを見て私は心底恐ろしいと思った。今にもその2階の窓から女が能面のような顔を覗かせるのではないか、と。そして、その異常を異常と思わない丸山も堪らなく恐ろしくなった。私は適当な事を話して早々にその場を辞す事にした。言ってしまえば逃げ出したのだ。逃げ帰った後、知人の伝を頼って医者に丸山を診てもらったが、何日もしない内に丸山は死んだ。内臓がどろどろに腐っていて手のほどこしようがない状態だったそうだ。そう言われて思い当たったのだが、あの嫌な臭いはあいつが話す時に強くなっていた。
「だから、あの臭いは移り香なんかではなく奴の内臓が腐った……いや、言うのはよそう」
茶を啜りながら片目で咲菜の様子をこっそり伺う。咲菜は白い顔で硬直している。怖がっているのだろうか。ならば良いがと思っていると咲菜は持っていた湯呑みを机に置いた。
コン! と小気味良い音がした。
そして、暫しの静寂の後、「でっ?」と言った。
「でっ? その丸山はんと違うて白粉の臭いをぷんぷんさせることぐらいどうでもええやろう。あんたは果報者やと、おっしゃりたいんどすか?」
咲那は怒ると訛りが出る癖があるのだが、思いっきり国の言葉になっていた。怒っている。私がどこで何をしていたかすっかりばれている。
「遊ぶのも良おすがせやったらそうで堂々としとぉくれやす。
それ怖い話で誤魔化そうやらせこいことするのんは止めとぉくれやす。どうせ、悪いとやらが思てられへんのやろう?」
「い、いや、悪くないとは思ってはいないぞ」
「なら……、」
咲那の口の端が弓のように引き上がる。微かに開いた唇の奥に真っ赤な舌がチロリと蠢くの見えた。
「明日、おヨシはんと銀座の三越行きとおすけどええどすか?」
ええどすな、と念を押されて頷くしかなかった。
げに恐ろしくは、帰り道の女の移り香なり
私はそんな思いをお茶と一緒に飲み下した。
2023/08/20 初稿
女の怪異がなんだったのかは読まれた方の想像にお任せいたします
蛇とか蝦蟇とか狐とか、あるいは苦界で死んだ女の死霊でもお好きなものでお楽しみください
個人的には蜘蛛がよいですね。こう消化液を注入されてずるずると内臓を啜られるとか