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(5)


「なぁ、ミモザ」


 背後から生き生きとした、発音の低声がした。

 暖かな日溜まりの中、いつものように洗濯物を干していたメイド長、ミモザは、その手を止めた。


「はい、また何か発見をされましたか?」


「ああ。書庫で珍しい書物を見つけた。古い文献だ。まだすべてを解読できないが、興味深いもので……」


 古書を片手にふんふんと語り続ける青年。短く切りそろえられた赤髪、服装は少々、小汚い。


「ジーク様、昼餉の前に服装を整えていただけますか」


「ああ、分かってる」


 本当に分かっているのだろうか。いいや、たぶん彼は小汚い格好のまま昼餉にやってくる。


 賭けてもいい。

 ――昨日もそうだった。


 研究熱心な少年は、

 様々な疑問を投げかけた。

 ミモザは諦めることなく、真摯にすべて答えて見せた。


 その結果が、これだ。


 不思議なもので、

 ミモザの運命はほとんど変わっていないのに、ジーク様はとても堅実な人物に育った。


 その風貌からも立派な紳士とは言い難いが、それでも、体たらくな生活からはすっかり遠ざかっている。

 娘たちといたずらに戯れるわけでもなく、地下室にこもって熱心に勉学に励む姿には、敬意を払わざるを得ない。


「俺は絶対にこれを解読してみせるぞ」


「ええ、楽しみにしております」


「ああ、待っていろ。世界の謎は我が手中にあるのだからな!」


 フンと鼻息を荒くさせた彼の姿に、

 ミモザは「これはこれで不安が残る」としみじみ思うのだった。





 人間を育てるというものは、時間も手間もかかるもので、ミモザはすっかり重要なことを忘れていた。


「……地面が」


 そう。地面が恋しいのだ。


「もう、そんな頃合いなのね」


 階段を導かれるように駆け上がった。


 三階の大きな窓を開ける。

 下方は変わらぬ気配だ。吸い込まれるように気分がいい……。



「ミモザ」


 わざわざ振り向くことはない。そんなことをしなくとも声の主は分かる。


「はい、ジーク様。どうかなさいましたか?」


「ああ、すごい発見をした。これは歴史を覆す大発見だ。だが、まずはおまえに話がしたくてな。……何かが、ひっかかる」


「そうですか、申し訳ないですが、今は忙しいので、後にしていただけますか」


「あ、ああ。分かった。出直してこよう」


 相手が去っていく足音がする。ああ、気分がいいと、ミモザは窓枠に足をかけた。


 そのまま空へ飛び上がる。今なら、何にでもなれそうな気さえした。


「――ミモザ!」


 空から声が降ってきた。

 「ああ、ジーク様、いってきます」と窓枠から下をのぞき込んでいた彼へ笑顔を向ける。


 その姿はどんどん、遠ざかって表情までは読みとれなかった。


 だが、相手が何かを叫んでいることは分かる。


「おまえは、またお――」


 それ以上の言葉は、きっと脳が理解できなかったに違いない。





 ミモザは思った。――やめて欲しい。


 ミモザは願った。――もう嫌だ。


 違う。逆だった。

 やめて欲しいと懇願したし、もう嫌だと感じて止まなかったのだ。


 思考がおかしい。不安定だ。暗闇の中でそう思った。


 どこからか、誰か分からないような歪んだ声がする。


「まっ、――っと、――せか……る」


 もう、これ以上は何も聞きたくない。ミモザは耳を塞いだ。


 ――だって。

 目を覚ましたら、また同じような現実が待っている。



「――いやだ! やめて!」


 母親に殴りかかろうとしているのは、恰幅のいい男。

 パン屋の亭主だった。ミモザは小さな腕を振り上げて、男の暴挙を全身全霊で防いでいた。

 その体はすでに傷つけられてボロボロになっている。


「もうやめてよぉっ!」


 瀕死の母親を目にするのは二度目だ。


 ミモザはこの幸運とも、いえなくともない現実を今度こそ、例えここで息絶えたとしても守らなくてはならなかった。


 ミモザの願い通りか男は標的を変えた。

 すぐさま押し倒されて、汚らしい手が体を這う。


 何度繰り返しても、この瞬間が一番、恐ろしい。


「……いやだ」


 やがてその呟きは、闇に消える。闇は絶望だ。ミモザを支配して、やがて地に返るようにし向ける。


「(……もういい、疲れた)」


 後は男のなすがまま。少女が抵抗を諦めた刹那だった。


「ギャア!」


 男の短い悲鳴。闇の中で、ミモザの頬に暖かい水滴が落ちてきた。


 パン屋の亭主がドスンと真横に転がる。


「きたぞ」


 小さなミモザの体は何者かに寄って抱き寄せられた。


 対象が放つ暖かい吐息が、頬にかかる。目のはしに長髪が見える。


 赤みがかったそれは、胸に抱きしめられたことで一瞬で視界から消えた。


「じー……」


 ミモザはその可能性を確かめようとしたが、この体勢ではまったく顔が窺えない。


「くそっ、だめか。……これでは不安定すぎる」


 耳元で囁くような声がする。どこか安心できるような心地よい響きだ。


「いいか、ミモザ。よく聞け。俺はもう終わるだろう。だが、もう少し待っていろ。じきにまた逢える」


 何者かはそう言い残して、文字通り、塵となって消えた。


 しばらく、ミモザは呆然としていたが、大嫌いだったパン屋の男がぴくりとも動かない様に心の底から安堵した。


 もぞもぞと母親が動きを見せる。ミモザは痛む体を引きずりながら彼女の傍へと向かったのだ。


 これは、幼い少女にとって希望の光だった。


 たとえこの後、どんなことがが起ころうとも、何者かによって救われたこの事実は、永遠に変わらないだろう。


 ――そう。

 ミモザの現実は、この瞬間から変わるのだ。


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