(4)
「まだ幼いな。親はどうした」
薄汚れた布を纏い、顔や体は痣だらけ。十代にも満たない少女は首を横に振った。
たいそう悲壮感のある瞳で、上質そうな毛皮を纏う男を見上げた。どこか支配欲のある大人は、この瞳に弱いものだ。
「一緒に来なさい。暖かい食事と寝床を与えてあげよう」
「かんしゃいたします、だんなさま」
まだ幼いと思われた少女の口から出た言葉に、旦那様は酷く驚いたような顔をした。
*
ミモザの人生でひとりだけ信頼できる大人をあげるとすれば、旦那様以外にはない。
少女趣味といえば、変態的だがそれも妻様に度々裏切られ、大人相手に愛想を尽かし、純粋な心を求めた結果と考えれば、納得がいかないこともない。
だが、その思考そのものが狂っている。大人が子供を貶めてどうするというのだ。
日本で女子高生をしていた頃ならばきっと、自分はそう宣っただろう。
「(そんな正義は、ここでは通用しないのよ)」
それはどちらに送った言葉なのか……。ベッドの上で、仰向けに寝転がった少女、ミモザは思った。
隣で静かな寝息をたてているのは次男坊。彼も一人前の大人のような振る舞いができる年齢となり、このように異性の関係を求めるようになった。
「(次はジーク様が、生まれてくるのね)」
教育は、またニンジンをむりやり口に放り込むところから始まる。
そう考えると、気が遠くなりそうだが、ミモザはいつものように深くは関わらないことにしたい。
いくらループを繰り返そうと、「ばばあ」呼ばわりされるのは心外だからだ。
今回はいくら旦那様のご命令でも、ジーク様のお部屋になんていってやるものか。ミモザは、そんな将来を憂いながら両目を閉じた。
*
「なぁ!」
まだ幼げな声だった。声変わりなどまだ遠いといわんばかりのものである。
洗濯物を干していた若いメイド、ミモザは手を止めて、声の主の高さへ目線を合わせた。
「なにかご用でしょうか、ジーク様」
「なぁ、これ!」
にこにことした幼い少年が何かを握った両手を差し出していた。
子供というものは無邪気で可愛い。こんな子があんな大人に育つのだから、この世は全く持って恐ろしいものだ。
「わたくしめにいただけるのですね。なんでしょうか」
ミモザがわくわくとしていると、少年が手を開いた。
そこには、ゲコリと鳴いた雨蛙が一匹。
「へへーん、どうだっ」
可愛らしい少年の顔がいやらしい笑みへと変貌した瞬間だった。
ああ、やっぱりジーク様はジーク様だわと、ミモザは内心で冷めた。
「あら、可愛らしいカエルですね」
「えっ、驚かないの?」
「ええ、好きなのですよ。カエル」
「ちぇっ、つまんない。つまんないのー」
「残念でございましたね」
ジーク様は、出会うごとに躾と称して、ごたごた文句を言うミモザの方へ自発的には寄って来ない。
しかし、長いこと同じ人生を繰り返していれば、こういうレアケースもあるらしい。
「じゃあ、なになら怖い?」
「うーん、そうですねぇ……」
ミモザは考えた。目一杯時間をかけてから、大人げない発言をした。
「地面ですね」
「え?」
「怖いですよ。とても」
「えー、意味がわからない」
「では。よーく、お考えくださいね」
洗濯物を干し終えたミモザは、悩ましげな少年を放置したまま、屋敷の中へ戻った。
*
「えい!」
泥団子が飛んできたのは午後のこと。それは見事に給仕服の裾を汚した。
もちろん、投げつけてきたのはジーク様だ。
「なにをなさるんですか」
「地面だぞ。こわいか!?」
「いいえ、これは泥団子です。地面ではありません」
「ちがう、地面だ!」
「もっと、よく考えてくださいませ」
冷ややかな視線を送ったら、ジーク様はプルプルと体を振るわせた。
怒っているのだろうかと、少しだけ不安になる。
この頃は旦那様も兄君方も、ジーク坊ちゃまをたいそう可愛がっておられる。さすがにやりすぎるとどうなるか分からない。
「うっ、うっ」
「ジーク様?」
「うわあああん、考えたけど、わからないよ、わからないよおおお」
「(ちょっと。そこで、泣いちゃうの?)」
ぎゃんぎゃんという鳴き声に屋敷中の給仕人が集まってくる。
ついには二番目の兄君が登場し、優しげな態度で弟を抱き上げていったのだった。
ジーク様は終始、「あいつがあいつが」とミモザを指さしながら叫んでいたので、もしかしたら明日にでも首が飛ぶかも知れない。
「(……今回は、ここで終了しそう)」
これは、本当に予想外の展開だ。
*
結論から言えば、首は飛ばなかった。だが、現在、とても残念な有様だ。
ジーク様のお部屋で、ミモザは我が儘な子供の相手をせねばならぬのだから……。
「おい、メイド」
「わたくしはミモザでございます。それで、なにかご用でしょうか、ジーク様」
「おまえ、甘いものをもってこい」
皆、騙されている。可愛い容姿にはぐらかされている。「中身は所詮あの体たらくのジーク様なのに」だ。
しかし、この段階で将来の姿を話したところで誰も信じまい。
「もうすぐ夕餉でございますので、それまでお待ちいただけますか?」
「いやだ! 夕餉は甘くないものがでるだろう。甘いものがいい、甘いものっ」
バタバタとベッドの上で暴れ回るジーク様。正直に言って、勘弁して欲しいとミモザは思った。
丁度、同じようなタイミングで扉を叩く音がする。
そのとたんにジーク様はぴたっとおとなしくなり、ベッドの上にあった子供向けの書籍を掴んだ。
入ってきたのは普段、ジーク様の世話係をしているメイドである。
「ジークお坊ちゃま、失礼いたします。夕餉の準備が整いました」
「わかった。すぐいくよ」
いたく真面目な表情で本から視線を上げた少年を見て、ミモザは目眩がした。
「ジーク様、それはいささか……」
「うるさい! 甘いものもってこいっ!!」
ぎゃんぎゃんと叫びながら強い視線を寄越した少年に、「どうしてこんなことになったのだろう」とミモザは心底、うんざりするのだった。
「おい、メイド」
「ジーク様、わたくしはミモザでございます」
「うるさい。そんなことどうでもいいんだっ」
「いいえ、大切なことでございますよ。人を、人として扱うのが立派な人間の礼儀、ひいては大人としてのあり方です」
「そんなこと、しらない」
果たして、この少年をどう教育すれば良いだろうか。ミモザは考えていた。
大人になったジーク様とすら、まともに付き合ってこなかったのだから、ミモザは『ジーク様の初心者』といっても過言ではない。
「将来、ジーク様はたいそうご立派な人物におなりでしょう」
そう言った瞬間、少年の眉毛がわざとらしいほどに跳ねた。
「ご立派な人物といえば。ジーク様のお父様、当主様でもありますね。旦那様は、たとえ奴隷の身分の者にでも手を伸ばしてくださる。人として扱ってくださるのですよ」
「うそだ」
まさか己の父親を疑うとは。こいつは手強い。
だが、きっと分かって貰える時が来る。相手はまだ子供。このまま大人になってしまえば、それはもう手遅れでなのである。
「どうしてそう思われるのですか?」
「……」
「ジーク様は、どうしてそう思われたのか。どんなことでも良いので、気持ちをお聞かせくださいませんか」
「……って」
「はい」
「だって、とうさまは、おまえを『だく』だろ!」
「は?」
「おれは知ってる。ベッドではだかになるんだ。かあさまじゃないぞ、おまえだった!」
「……」
見られていたのか。いつだ。どうして見られていたのだ。どこまで知っているのだろう。ミモザは混乱して、水から飛び出た魚のように、口をパクパクとしてしまった。
変態的な父親の姿を見て尚、尊敬しろと言う方が無理な話。それを強いるミモザの言葉を信じろという方が間違っている。
「にいさまもだったっ!」
その事実はあまりにもショッキングすぎた。彼の凄惨な叫びなんて、もう聞きたくない。ミモザはこのまま耳を塞いでしまいたかった。
でも、ジーク様の表情があまりに真剣で、顔を逸らすことはできなかった。
大人に真実を問いただすなんて、きっと勇気がいったことだろう。
彼と本気でぶつかり合うなら、正直な話をするべきだ。ミモザは直感的に確信めいたものを得た。
「そうですね。その通りです」
「……」
「ジーク様は見ていらしたのですね。今まで。そうか、ずっと……そんなこと、気がつかなかった」
もしかしたら、ミモザにキツい態度を取っていた原因はこれかも知れない。直感的にそう感じた。
ずっと、ジーク様は体たらくだと思っていたけれど、考えてみればこの屋敷の男は、異性関係に置いてそんなにも変わりがない。
それなのに、皆、ジーク様だけを責めた。まるで傷から出た膿のような扱いをしていた。そんなの、おかしな話だ。
「ジーク様。すみ……、ごめんなさい」
「いいよ」
「許していただけるのですか?」
ジーク様は「うん」と頷いた。素直だ。
まだ子供だからだろうか。それとも、ジーク様は元々、こういう性格だろうか。ミモザには分からない。
結局のところ、彼に関してほとんどのことを知らないままだ。
だけど今度は。
今度は、この子と真面目に向き合うべきだと感じた。
「ジーク様、もしも気になることがおありでしたら、なんでもおしゃってください。つつみ隠さずお教えします」
「ほんとう!?」
ジーク様は子供らしくキラキラと瞳を輝かせた。
それはまるで小さな可能性なのに、彼の大きな未来を暗示しているかのようで……。
ミモザは初めて心が躍ったのだ。