(2)
それでなくても忙しいというのに、働き手が減ってしまうと困るのだ。
ミモザはそんなことを考えながら洗濯物を干していた。
「なぁ、メイド長」
背後から軽い声がかけられた。
普段は娘との事情しか頭になく、あえて若いメイドになんでも命じている王子様にしては、珍しい動きだ。
「なにか、ご用でしょうか。ジーク様」
「別にないんだけど……」
「はぁ、そうですか。
申し訳ございませんが、どこかの体たらくが予想以上に頑張ってくださるので、メイドの数が減りそうです。
そういう訳で、わたくしは大変、忙しい身です」
「ふーん。じゃあ、適当な娘を間引いてくればいいんだろ? 簡単な話だ」
ミモザは思った。それはおまえの仕事ですらないだろう、と。
この末息子はただ椅子にふんぞり返って命じるだけだし、せっかく育て上げた娘たちの未来まで潰してしまうのだから、呆れを通り越して言葉も出ない。
育て方を間違えたのではない。
兄君らのように大金をかけて立派な教育者をつけ、同じような教育を受けたはずだ。ただ、ミモザは上のお二人のように深い関わりを持ってはいない。
ジーク様の父親であるご主人様は、ミモザに末息子の相手をするように命じたが、いざそういうこととなった時、ジーク様は「ばばあでは立たない」とおっしゃった。
それは仕方のないこと。何者も衰えには勝てないのだから……。
「……わたくしは、忙しい身ですので」
「うーん。なんか、ひっかかるんだよぁ」
「謎解きはお部屋の方でどうぞ、若い娘でもお付けいたしましょうか?」
「ああ。なんか甘いものも、ついでに頼む」
冗談じゃない。そう思った。
もちろん若いメイドだって、甘味だって運ぶつもりはない。
ミモザが仕えているのは、お父上の方であってこのバカ息子ではないからだ。
たとえこの、末息子に逆らったところで、ミモザならば咎めは受けない。
「脳天気な王子様は家族からも諦められているから」ということもあるが、ジーク様自身が若くないメイドにまったくの興味を示していないのだ。
彼にとってミモザはどうでもいい対象なのだろう。
だが、しかし、今日は相手の方がしつこかった。
「メイド長はさぁ」
「何でしょう」
「高いところ、好き?」
「は?」
高いところ。
どちらかといえば嫌いだ。
お屋敷の最上部にのぼる度にミモザは思う。
三階の廊下、その先に大きな窓がある。そこを開くと、正面玄関の様子が窺える。
入り口である巨大な門が遠くに見え、足下は庭師が整えた植木の緑葉が美しい光を放っていた。
本館へと続く石畳は、毎日、ミモザたちメイドが丁寧に清掃をしている。
幼い頃いミモザの生活基盤だった、このお屋敷に対する愛着が深く感じられる。そこに立っているのが非常に心地良いと思えるほどに。
だが、嫌いなものは嫌いだ。
「どちらかといえば嫌いです」
「ふーん、いつも上から覗いてるくせに?」
「はい?」
「三階から、下を見てるじゃないか」
どうして知っているんだろう。そんなに目立っていただろうか。
今度から慎もう。ミモザは瞬間的にそう思った。
振り向いたら、ジーク様が今まで見たこともないような複雑な表情で、頭を掻いていた。
「なんか、思いだせそう」
「謎解きは、ぜひ、お部屋の方でどうぞ」
「ああ、思いだした! あそこだ。あそこ」
ひとり納得したような晴れやかな顔で、理解不能な言葉を残し、ジーク様は去っていった。
「ほんとうに意味不明。あれは、ダメだわ」
「ダメ」にはいろいろな気持ちがこもっていた。だいたいよろしくない意味合いで、だ。
*
若いメイドが、
また、ひとり減った。
そのせいでミモザが町へ買い出しへ、向かわねばならなくなってしまった――。
それはいい。自分の果たすべき仕事だからだ。
「なぁ、メイド長、腹減ったぁ、腹減った、無理、腹が減った」
ミモザの前を歩いていた華美な格好の青年。通称、王子様がつまらなさそうな表情で、何度か「腹が減った食わせろ」という本能を自制できない獣のような要求をしてくる。
「ジーク様が着いてこられるからでしょう?」
「カゴの鳥もたまには外へ出たいもんだ。いい機会だったんだよ。ちょうど、出かけることこだっただろ?」
「ジーク様、ご主人様からいくらかのお気持ちをいただきましたので。こちらのお金で好きなものをいただきてきてください」
「やった、ラッキー」
小銭入れを渡すと、彼は跡形も残さない勢いで去っていった。
ただの平民よりもよっほど裕福なはずなのに、他人の金に集ろうとは情けない。
ミモザは主人から気持ちなど受け取っていなかった。実際、そんな時間はなかったし、最近の旦那様は忙しい様子でお屋敷に姿を見せていない。考えればすぐ分かりそうなものだが……。
あれは少ない給金から貯めたミモザのへそくりである。
しかし、良い使い道も見つからなかったので、奇抜なハイエナを追い払う役に立って良かったと思う。
「さっさと帰ろう」
用事をすべてを終わらせた後、お屋敷への帰り道。ミモザはぼんやりと石畳を眺めていた。
のんびり、馬車が進行していく様を見ていた。
「(あのスピードではダメだわ)」
そう、あんなにのろのろしているものへ飛び込んでいったところで、受ける傷は少ない。
「(あれでは、ダメだわ)」
これは、難しい問題だった。
ミモザは常に、「上手く逝ける方法」を探している。
実を言えば、お屋敷の三階へ上がっているのもそのためだった。
「(地面、地面が恋しい)」
ひんやりとしたアスファルト、すこしごつごつとした石畳も、土臭い地面でもいい。
これはもはや、愛しい人を恋いこがれる乙女の思考に似ている。
あれが、欲しくてたまらない。
それしかない。これが運命だ。ああ、欲しい。欲しい。欲しい。欲しい……。
しかし、たいがいに、一方通行な思いは成就しないものである。
「馬、好きなの? メイド長」
ミモザは背後からかかった言葉に即答する。
「いいえ」
「今、見てたのに?」
振り向くと、たいそう退屈そうな顔をしたジーク様と目があった。
「そうですね」
「ふん」
彼は何を思ったのか、得意げに鼻を鳴らす。「そうか馬か、馬なぁ」と呟きながら屋敷の方へと消えていった。
「疲れた」
もはや、ミモザの人生が、という訳ではない。それは幼い日に置いてきた。
これは王子様限定。特有の疲労感だろう。
*
ミモザがまだ、小さな手で母親の指を必死で掴んでいた頃。民衆の生活はとても貧しかった。
しかし、父親のないミモザの家庭でも、ささやかに暮らしていけるような、そんな地域の暖かさがあった。
『そのパンをひとついだけだけますか?』
ミモザの母親が小振りのそれを指さすと、きまって店の奥から恰幅のいい男、パン屋の亭主が現れて、焦げたものや屑になったパンを袋にたくさんつめたものを手渡してくれた。
母親はきっと、それを分かっていて、散歩にかこつけて必ずパン屋に立ち寄るのだ。
『おいしいね、おいしいね』
大きな風が吹けば倒れてしまいそうな、ぼろ屋の中で母子は寄り添いながら、大切にパンをかじっていた。
ミモザはその頃、パン屋のおじさんが与えてくれるものは幸せの魔法だと信じていた。
――痛い!
叫んだ自分の声に、ミモザは自分で驚いて飛び起きた。
ここはお屋敷だ。与えられた小さな個室のベッド上で、死を覚悟するような荒い呼吸、心臓が痛いぐらいに鳴っていた。
「……夢か」
夢ではない。これは本当にあった記憶、現実だ。だからこそ、身震いをした。
「いたい」
実際には痛んでいない。腹部を押さえた。
*
ミモザには忘れられない記憶が二つある。
ひとつは前世の記憶だ。高校生の少女は、裕福な家庭で育ち、親の愛情を浴びるほど受け日本という贅沢すぎるほどの環境の中で、何不自由なく暮らしていた。
だが、ふとしたことが原因で、学校でいじめを受けるようになった。
当初はたしいた冷やかしではなく、所謂いじられキャラ、先生から見れば微笑ましい光景だったのかも知れない。
家に帰ればいつも作り笑顔で、「今日も学校楽しかったよ」と言う。娘の精一杯を両親が疑うことはなかった。
助け船は、とうとう来なかった。その結果が、ミモザである。
この世界でミモザがミモザであるということはお察しの通り。少女は、死んだのだ。
学校の屋上から飛び降りた。ミモザは彼女ではないのに、なぜかそのことをよく覚えている。
二つ目の記憶は、ミモザが幼い頃。母親が流行病で亡くなった後のこと。
例のパン屋の亭主が、とても良くしてくれたのだが、タダで物は買えないように、大きな代償を伴った。
周囲の大人は皆、知らなかっただろう。
少女がどれほどの苦痛を強いられていたか。むしろ、あの主人は自分の娘ですらない少女を引き取って大切に育てていると絶賛の声を浴びていたらしい。
今でも脳内にこべりついて、ミモザを離さないのは、気持ち悪い男の咆哮。大人になってからですら感じたくない痛み、絶対的なものに対する恐怖、やっとの思いで逃げ出したミモザを拾ったのがこのお屋敷の旦那様だった。
その頃には少女の体は、彼らに対する礼儀がなっていた。
ミモザのことを旦那様はいたく気に入られた。
「……地面が、恋しい」
とにかく、王子様(ジーク様)のカナリアが鳴いたら、すぐに三階へ上がろう。
まだ明けぬ夜の中で、ひたすらそう思っていた。
*
「メイド長、来い」
三階の窓から下をのぞき込んでいたミモザに軽い声がかかった。
王様のような絶対的な命令に従う他はない。
結局、ミモザは勝手気ままなジーク様の後を追うこととなった。
身勝手な背中に導かれ、たどり着いたのは屋敷裏である。
大木に繋がれていた美しい白毛の動物を見て、ミモザは気が遠くなるような思いがした。
「……馬」
「いいだろう。ここらで一番の駿馬だそうだ」
「まさか、お買いになられたのですか?」
「ふん、当然だ。俺は兄弟の中で抜群に馬術に秀でている。コンテストでも一番だったぞ」
「……はぁ?」
そんな話は聞いたことがなかった。実際、彼に対して詳しくないので、事実なのかも知れない。だかかといって、今更ジーク様の株が上がる気はしない。
「それで、ジーク様は、この馬をどうするおつもりなのですか?」
「メイド長。遠乗りしよう」
「はい?」
「俺はこの馬を試したい。つき合え」
「どうしてわたくしなのですか」
「手頃な相手が見つからなかった。マリナはちょうど腰元を痛めている。ソフィ、カレアも腰元を痛めていてな。馬上はきついだろう」
開いた口が塞がらないとはまさにこのことだ。だいたい、メイドたちが体を痛めた原因は、ここで大口を叩いている本人のせいだろう。
「お断りいたします」
「おまえに拒否権はない。すぐに行くぞ、準備しろ」
「……畏まりました」
ミモザは準備をするふりをして、後は放置するつもりだった。だが、屋敷で奉仕をしている以上、自分の行方が眩む訳もなく。
昼過ぎ、ミモザはあえなく白馬上である。
「ジーク様、速度を落としましょう。落馬してしまいます!」
「へいきへいきー、俺が乗っている限り、メイド長の落馬はない。はっはっはー」
「(……じ、自信過剰すぎる)」
激しく揺れる馬の上で、必死に相手へしがみつかまいとしていたが、限界だ。
このままでは確実に落ちる。
そのまま楽に逝けたらいいけど、ミモザは落馬した人間の末路を聞いたことがあった。
「ベッドでの上で一生、逝けない苦痛を味わうのは嫌だ」と、ジーク様の背へ必死にしがみついた。
馬の速度が落ちることはなく、俊足でたどり着いたのは、なんの変哲もない森の中だった。
身近な木へ馬を繋いだ彼の手に導かれて、森林を抜ける。
たどり着いたのは、まだ青い芝の丘。花畑というわけでもなく、何の変哲もない緑。しかも風が強く吹いており、若干、肌寒い。
「すごい風ですね」
ミモザは髪を頭上で束ねているので、風の影響はないが、ジーク様の繊細な赤毛は巻き上ってぐちゃぐちゃだ。
「ああ、しかし、ずいぶんと記憶違いだ。こんな場所だったか?」
「わたくしは、知りませんけれど」
「メイド長、こっちだ」
駆けていくジーク様の後を追って丘の山頂部へと向かう。
「……っ」
下々の光景に目を向けて、ミモザは思わず、息を呑んだ。
遠い町の姿。家々の小さい粒が群れ、だんだんと日が落ちて一軒、一軒の明かりが蛍みたいにキラキラと輝いていた。
「綺麗だろう。昔、兄上と遠乗りに来たときに見つけてな。この間、ふとして時に思い出した。ずっと、ひっかかていたんだ」
「ジーク様が解いていたのは、これだったのですね」
「そうだな。懐かしい。うーん、でもそれだけじゃない。まだ何か、ひっかかる」
「そうですか」
ミモザは、彼の言っていることは話半分だった。
ただ、荒くなる息を押さえるのが精一杯で、その他に意識を向けることができなかった。
美しい町並みや、まるで蛍のような目映い輝き、そんなものに高揚しているのではない。
ここだ。見つけた。この地面が良い。
ここしかない。
「ジーク様」
「うん?」
「わたくしは馬の様子が気になります。このあたりの治安が分かりかねますので。馬泥棒も潜んでいるやも知れませんから」
「メイド長は、まじめだな」
ミモザが「お願いします」と真剣な眼差しを向けると、彼は柔和に顔を歪めた。
「ほんとに、仕方がない奴だなぁ」
そうして飄々と去っていくジーク様を見つめた後、ミモザは崖の上へ立った。
ただ、ただ、美しい地面へと旅立つ喜びに支配されていた。
「これで、やっと楽になる」
ミモザが女子高生だった頃、少女は泣いていた。
でも、今のミモザは、すがすがしささえ感じていた。
そんな気持ちのまま、笑顔を湛えながら、闇の中へと身を投げだす。
ミモザの体はすぐに深い混沌に呑まれていった。