お転婆令嬢が下町の食堂でこっそり看板娘をやっていたらいつの間にか婚約者の王子が常連になっていました
「オーク肉の厚切りステーキお待たせしました!」
「いらっしゃいませ!二名様ですね、あちらのお席へどうぞ!」
「オーダー入りました!キラーラビットのスープセット一つと三種のキノコの香草焼き一つ!」
王都の一角。
そこは今にも崩れそうな古い建物が立ち並んでいるが、決してスラムというわけではない。
街を行きかう人々は活気に溢れ、広場では商売人が、住宅街では職人達が、そして詰所では兵士達が威勢良く声をあげている。
ここは王都が誕生した時からあると言われている庶民の住処、下町。
その下町にある小さな食堂はお昼時を迎え喧騒に包まれていた。
「ハルちゃん注文お願い!」
「は~い!ただいま!」
「ハルちゃんお勘定ここに置いとくよ!」
「は~い!ありがとうございました!」
「ハルちゃん俺と付き合って!」
「だめで~す!」
混雑する店内を縦横無尽に動き回り多くの注文を軽やかに処理する看板娘。
愛称ハル。
まだそばかすの残るあどけない少女は屈強な大人達に囲まれても決して臆することなく昼の戦場を切り盛りしていた。
「ふぅ、これで一段落かな」
「ハルちゃんお疲れ」
ピークを越えて空席が目立つようになり、ハルはようやく一息ついた。
そのタイミングを見計らっていたのか、一人の若い男性が話しかけて来た。
「ガイルさん、まだいるんですか?」
「ぐはっ、容赦ないなぁ」
辛辣な対応をするのも当然の事。
この男性はてんやわんやしていた時にハルに告白した愚か者だからだ。
「忙しい時に邪魔する人なんて知りません。あまりに酷いと出禁にしますよ」
「出禁は困る!」
「それなら自重してください。あまりにしつこいと出禁どころじゃない程に酷い目にあいますよ」
「酷い目かぁ。ハルちゃんに怒られるくらいなら平気だよ」
「(怒られる程度では済みませんけどね)」
恐らくは消されるだろう。
何故ならばハルは本来であれば一般人が話をすることなどありえない存在。
公爵令嬢なのだから。
ハルの姿は仮の姿。
その正体はルード公爵家の長女ハルシオーネ。
本来のハルはきめ細かい肌と艶やかな髪が見る者を虜にする絶世の美少女。
貴族からは芋臭いと評されそうなそばかす少女とは正反対の風貌をしている。
ハルシオーネは公爵家が得意とする変身魔法を使ってハルとして身なりを偽っていた。
何故公爵令嬢ともあろうものが変装して下町の食堂でウェイトレスの真似事などやっているのか。
一般市民として生活することで王国民の本音を知るためだろうか。
敵対派閥に狙われていて公爵家に紛れた間者から身を隠すためだろうか。
この店で犯罪組織の秘密の取引が行われるという情報を仕入れて潜入しているのだろうか。
「(はぁ~今日も楽しい!)」
否、単なる趣味である。
もちろん公爵家にバレたら大騒ぎになるので、これまた魔法を駆使して家にはドッペルゲンガーを置いてごまかしている。
今ごろドッペルは令嬢達と茶会で談笑しているはずだ。
「ガイルの馬鹿は来てる!?」
「ゲッ!」
「ケイトさん、丁度良かった」
「ま~たあんたは仕事さぼってハルちゃんに迷惑かけてるの」
「迷惑なんてかけてないよ!」
お店に入って来たのはケイトと呼ばれた若い女性だ。
ガイルの知り合いのようだ。
「迷惑でしたのでお引き取りお願いします」
「あいよ」
「そんなぁ」
「あ、ケイトさん食べていきます?」
「う~ん、そうしたいところだけど今日は忙しくってさ。また今度お邪魔するよ」
「はい、分かりました」
「それじゃね」
「ハルちゃあああん」
ガイルはケイトに首根っこ掴まれて店を出て行った。
すると今度はガイル達と入れ替わりで二人の男性がやってきた。
「スペルクさんとクラウドさん、いらっしゃいませ!」
下町らしくない身なりの良い二人の若い男性だ。
その片方、スペルクと呼ばれた男性がハルに返答する。
「こんにちは、ハルさん。空いているかな」
「はい、よろしければあちらの席へどうぞ」
「うん、お邪魔させてもらうよ」
一方でクラウドはハルに目線を合わせず無言でスペルクの後をついて店内に入った。
「(はぁ、今日も来ましたか)」
この二人はこの食堂の常連である。
その常連さんに対してハルの内心は歓迎ムードでは無かった。
その理由は彼らが問題を起こす客だからというわけではない。
むしろ礼儀正しく問題など一切起こさない上に高い料理を頼んでくれる上客だ。
そんな彼らをハルが苦手とする理由。
「(何故殿下達がこのような下町の食堂に毎日毎日通っているのかしら)」
二人はこの国の王子であり、扱いに困るからだ。
スペルクはこの国の第一王子で本名はスペンサー。
クラウドは第二王子で本名はクラウス。
認識改変の魔法を使って王子だとバレないように身なりを誤魔化しているが、高い魔法適性をもつルード公爵家の一人娘であれば見破るのはたやすい事だった。
「俺はラヌーの香草パスタ。クラウドはどうする?」
「ハル……さんのオススメで」
「かしこまりましたー!」
ハルは決して鈍感という訳ではない。
令嬢として社交界で本音の探り合いを日常的にこなし、ウェイトレスとして一般人からの純粋な好意を毎日のように浴び、その結果、他人の感情の機微に聡くなっていた。
だからこそ気付いている。
訪れる度に毎回『ハルのオススメ』を注文し、目を合わせようにもすぐに逸らしてしまうクラウドがハルの事を少なからず想っていることに。
そしてそれはハルの正体が公爵家の令嬢であるということ以上の大きな問題を孕んでいた。
「(婚約者の前で他の女性に色目を使うのはいかがなものかと思いますけどね)」
ハルシオーネとクラウスは婚約している。
それも形だけのものではなくお互いが結婚を望んでおり、特にクラウスの方がハルシオーネに好意を寄せている。
本人達はすぐにでも結婚して良いと思っているのだがまだ結婚はしていない。
その理由は第一王子であるスペンサーの結婚が遅れているからであり、それ以外に特に大きな障害があるわけでもなかった。
そのクラウスがどこの誰とも知れない下町のウェイトレスに好意を寄せている。
ハルシオーネとしてはクラウスが王族として側室を置くことは普通の事なので特に反対ではない。
反対では無いが、結婚秒読みの男性側が他の女性に色目を使っていると知って気分が良い訳が無い。
ハルの雰囲気にハルシオーネを感じ取ったからであり、間接的にハルを愛しているのだとでも思わなければ『婚約破棄させて頂きます』とでも言い出してしまいそうな気分だった。
「(わたくしがハルシオーネだと知ったら殿下はどのような反応をなさるでしょうか)」
突然ネタバラシをして困らせたい気もするが、それをやると楽しいウェイトレス生活が終わりを迎えてしまう。
いたずら心を鋼の意思で抑え、ハルシオーネは仕事へと戻った。
更に時刻が進み、昼食を食べに来た客の殆どが退店した頃、招かれざる客がやってきた。
「この店で一番美味い飯を出せ!」
ハルやクラウド達と同年代くらいの若い男性が四人。
いずれも身なりが一般人のそれではない。
特に中央にいる目つきの悪い男は、誰が見ても明らかに貴族だと分かるような豪華絢爛な衣装を身に纏っている。
「いらっしゃいませ、四名様ですか?あちらの席へどうぞ」
貴族とは言え客は客。
中身が公爵令嬢であるハルは相手が貴族であっても特に気にせずに普通に案内しようとした。
「ふざけるな!」
「こんな小汚いところでザンデ様がお食事をするなどあり得ん!」
「(それなら何をしに来たのですか)」
と口から出かかったが、相手が貴族なので面倒を起こして店に迷惑をかけないようにと自重した。
「飯を持ってこい。後、料理人を呼べ。ついて来て貰うぞ」
「え?」
「なんだ、スラムの人間は言葉も理解出来ないのか。せっかく下民どもに合わせた言葉を使ってやったというのに」
「(スラムですって!?)」
ハルシオーネはこの下町を気に入っていた。
この町の住人は皆、生きる気力に満ち、感情豊かで、裏表の少ない素直な人達。
本心を隠し相手を陥れることばかりに注力している貴族界には決して存在しない。
下町の人々との交流は貴族とのやりとりで澱んでしまったハルの心を浄化してくれる。
その心の清涼剤とも言える大好きな下町をスラム扱いされ、ハルは激怒した。
「申し訳ございませんが当店はまだ営業中ですので、料理人に用がある場合は営業終了後にまたお越しくださいませ」
そんなルールは無いのだが、ハルは彼らの要望をきっぱりと拒否した。
「なんだと!女、ザンデ様にたてつく気か!」
「ブラウニー伯爵家を敵に回すとどうなるか分かっているんだろうな!」
「お客様がどなたであろうと関係ありません。当店に正当な用が無い方は他のお客様のご迷惑にもなりますのでお引き取りください」
普通なら伯爵家の名前が出れば下町の人間は誰もが怯えるだろう。
だがハルは公爵家の娘だ。
いざとなったら公爵家の力で食堂を守れば良いので強硬な態度を崩さなかった。
それが取り巻き達には気に入らなかったのだろう。
顔を真っ赤にして激昂している。
今にもハルに殴りかかりそうな雰囲気だ。
「(やれるものならやってみなさい)」
襲い掛かってきたら魔法で吹き飛ばすか、あるいは全力で逃げるか、それとも正体を明かしてビビらせるか。
いずれにしろ自分の正体がバレそうな展開なので、それならそれで全力でやらかしてやろうとハルは気合を入れた。
一触即発の雰囲気にストップをかけたのは、ザンデと呼ばれた男だった。
「まぁまて」
「ザンデ様」
その男は気持ち悪い笑みを浮かべてハルの全身を舐めるような目つきで見つめていた。
「くっくっくっ。下民共に食べさせるなど勿体ないくらいに旨い料理があると聞いたから暇つぶしに来てみたが、まさかこんな面白いものが見つかるとはな」
ハルは婚約者がいるので男女関係で問題が起きないようにスレンダーな体型でそばかすの残る野暮ったい感じの男受けしないであろう女性に変身していた。
ガイルやクラウスのような例外がいるにはいるが、ほとんどの人がハルに向ける愛情は兄妹や両親がくれるソレに近いものだ。
ゆえに今のハルが女として狙われることはまずあり得ないと思っていた。
「女、来い。たっぷり可愛がってやる」
「え?」
だからザンデの言葉の意味がすぐに理解出来なかった。
「あの、私、こんなですよ?どうみても貴族様にはふさわしくないと思うのですが……?」
「くっくっくっ。上品な料理ばかり食べていると、たまにはチープなものを食べてみたくなるのさ。それに俺は気の強い女を屈服させるのが大好きなんだ。俺様に逆らったことを後悔してもらうぞ」
取り巻き達もまたザンデの言葉に合わせてハルを蔑むような目つきで見て嗤っている。
彼らにとっては日常的な光景なのかもしれない。
「さいってー」
「女!ザンデ様に向かってその口のききようは何だ!」
「不敬なやつめ!」
「下民如きが!」
「くっくっくっ、いいねぇ。そそるねぇ。その強気な顔が助けを求めてぐちゃぐちゃになるのが楽しみだぜ。おい!」
取り巻き達はハルを連れ去るべく腕を取ろうと手を伸ばした。
「(そろそろ潮時かしらね)」
ハルは変身を解いて正体を明かすことを決意した。
捕まってからでも変身を解いて正体を明かして逃げることは可能だろう。
だが公爵令嬢としてこのような卑劣な男に一時でも捕縛されるなどプライドが許さなかった。
「待ちたまえ」
その決意は無駄になる。
何故ならまだ店内にはクラウド達がいるからだ。
「(忘れてた……)」
ザンデは愚かにも王子の目の前で国民を攫おうとしていたのだ。
しかもクラウドが気になっているお相手であるハルをだ。
クラウドは冷静さを装ってはいるが、内心では煮えたぎる程の怒りが渦巻いているだろう。
もしも今、ハルシオーネから存在を忘れられていたと知ったらどのような顔をするだろうか。
「なんだ貴様!」
「下民ごときが口を出すな!」
「下民は黙ってろ!」
「口を開けば下民下民と煩いやつらだ。貴族だからと言って国民を見下して良い理由にはならないぞ」
そう言いながらクラウドはさりげなく体をハルと男達の間に滑り込ませた。
「クラウドさん止めて下さい!」
ハルはあくまでも一般人を装っている。
すでにザンデは詰んでいることが分かっているが、そしらぬ顔で演技をしなければならないため、ひとまずクラウドを案じてみた。
「ご安心ください、ハル……さん。このような腐れ貴族など僕にとっては恐れるに足りません」
「(でしょうね!)」
腐ってない普通の貴族だって手を出せないだろうとハルは突っ込みたかったが、ここは心配し続けなければ変だ。
ひとまずおろおろしてみるが、経験したことのないパターンだったので上手く演技出来ているか分からず不安だった。
そんな二人の様子はさておき、腐れ貴族などと言われたザンデ達の雰囲気は一変。
途端に殺意を篭めた目つきに変わりクラウドを睨みつけた。
「殺せ」
ザンデの言葉を合図に取り巻き達が腰に下げた剣をクラウドに向けた。
「やれやれ、街中での抜刀は貴族と言えども禁止されているだろうが」
「ふん、目撃者がいなければ何も起こっていないのと同じだ」
「そんなに目立つ馬車で来ていて誤魔化せるとでも……いや、なるほど、君の御父上はやはり噂通りの人物だったというわけか」
「貴様、何者だ」
「僕はただの『下民』だよ」
クラウドは腰から小さなナイフを取り出した。
その程度であれば法には抵触しない。
「ふっ、ザンデ様に逆らったことを死んで後悔するんだな」
取り巻きは装備の差で既に勝った気でいるようだ。
それもそのはず、彼らにはクラウドの姿がちょっと身なりが良いだけの平民にしか見えていない。
豪腕、王国最強、稀代の英傑などと評されているクラウスであるなどとは微塵も思っていないのだから。
クラウドはナイフを仕舞った。
「なんだ諦めたのか?」
「惨めに命乞いでもしろよ」
「そんなことしても許さねーけどな!」
取り巻き達がクラウドを口々に侮辱するが、クラウドは全く意に返さない。
何故ならばもう戦いは終わっていたからだ。
「獲物が無ければ威張れないクズどもめ。さっさと消えろ」
「あぁ?何を言って……!?」
カランと地面に何かが落ちる音がした。
「ば、ばば、馬鹿な!」
「俺の剣が!」
剣が根元から斬られて刃の部分が床に落ちた音だった。
武器を失った取り巻き達は思わず後ずさってしまう。
「ま、まさか貴様の仕業なのか!?」
「何者だ!」
「ザンデ様、お下がりください!」
取り巻き達は慌てているが、ザンデはそうではなかった。
「ふん、多少は腕に覚えがあるようだがそれがどうした。貴族に刃向かって無事で済むと思うなよ」
ザンデは伯爵家の権力を信じているからこそ余裕を崩さない。
だからクラウドはその自信を打ち砕いた。
「愚かな。貴様が真に貴族であればそのような妄言など決して吐けはしないものを」
「なんだと?」
「貴様ぐらいの年齢であれば王立学院に通っているはずだ。一体そこで何を学んでいる。貴族の真似事しかしてこなかったのか?」
「下民風情が俺様を侮辱するか!」
「最初に学ぶべき基礎中の基礎すら疎かにするやつが貴族を名乗るな」
「殺す、絶対に殺す!おい、パパに連絡して……………………ん?」
クラウドの挑発を真に受けて激昂したザンデだが、王立学院の基礎という言葉を聞いて反射的にある部分を確認してしまった。
「そ、そ、そ、それは!?」
真っ赤になっていた顔から一気に血の気が引いて真っ青に変わった。
ザンデが見つけたのはクラウドの胸につけられた小さなバッジ。
それは王族であることを意味するものであった。
王立学院では王族のみが許された紋章について最初に習うのだ。
「に、にに、偽物だ!不敬罪で処刑だ!」
「君は本当に馬鹿だな。偽物と思うのなら見てみるが良い。君が本当に貴族なら視えるはずだ」
「…………ひいいいい!」
王子は認識改変魔法の強さを弱め、魔力のある貴族でさえあれば簡単に見破れる程度のものにした。
ゆえにザンデはクラウドの正体が視えてしまった。
「ザンデ様!?」
「どうなさましたか!?」
「お気を確かに!」
突然泡を吹いてその場にへたり込んでしまったザンデに取り巻き達が心配そうに声をかける。
「そのクズを連れてさっさと帰れ。そして家の者に伝えろ。ブラウニー伯爵家は終わりだ、とな」
「「「ひいいい!」」」
クラウドの眼光にビビった取り巻き達はザンデを連れて大慌てで店から去っていった。
「あの、クラウドさんありがとうございました」
先程までのやりとりでクラウドの正体について具体的に言及はされていなかったので、ハルは何も気付いていない体でお礼を伝えた。
「あんちゃんやるじゃねーか」
「貴族にあんな啖呵きれるやつはそうはいねーぜ」
「でもマジで大丈夫か?流石にやべーんじゃ」
「あ、いえ、その……」
先程までの威勢の良い態度はどこに行ったのか。
客達に褒め称えられてクラウドは戸惑っていた。
「(これがハルではなくてハルシオーネを守るためだったら素敵でしたのに)」
婚約者に守られて嬉しい気持ちと、守りたい気持ちがハルシオーネ本人に向けられていない悲しみが入り混じり、ハルは複雑な心境であった。
嬉しい気持ちの方がギリギリで勝ったのか、ハルは客に囲まれてあたふたしているクラウドを助け出すことにした。
「ほらほら、クラウドさんが困ってますよ」
腕を取り集団の中から引っ張り出してあげる。
「わわ、引っ張らないでくださいハルシオーネ嬢」
「え?」
「あ」
動揺していたからか、クラウドは口を滑らしてしまった。
ハルのことをハルシオーネと呼んでしまったのだ。
幸いにも客達は気にしていなかった。
ハルの本名を誰も知らないから、ハルシオーネというのが本名だとでも思ったのかもしれない。
「(まさかクラウス様、気付いてらしたのですか?)」
いやそうとは限らない。
小さい頃からお転婆だったハルは今のようにクラウスの腕をとってあちこちに引っ張りまわしていたのだ。
その時のことを思い出して反射的にハルシオーネと口に出てしまっただけかもしれない。
もちろんそんなわけが無かった。
クラウドはハルの耳元に顔を寄せて囁いた。
「驚かせて申し訳ございません。ハルシオーネ嬢」
クラウドが正直に告白したのだった。
「ど、どうして……」
いくつもの疑問がハルの脳内を渦巻いた。
いつから気が付いていたのか。
何故気が付いたのか。
そもそもこの食堂で働いていることをどうして知ったのか。
だがそれらを一般人のいるこの食堂で具体的に質問するわけにはいかず、漠然とした疑問だけが口をついてしまった。
「ハルシオーネ嬢が心配で」
その答えにあらゆる疑問が吹き飛んだ。
クラウスはハルシオーネを見守るためにこの食堂に毎日足しげく通っていたのだ。
そして実際に先ほど身を挺してハルシオーネを男らしく守ってくれた。
自分がクラウスから愛されていることをこれでもかと突き付けられた形になり、ハルシオーネは嬉しさでその他の事がどうでも良くなってしまったのだ。
「あ、あの、あ、あり、ありがとうございました」
「ど、どど、どういたしまして」
傍から見たら初々しすぎる一組の男女。
まったく貴族らしからぬ恋をする彼らの姿をスペンサーは奥の席で見守っていた。
「はぁ……俺も早く結婚しないとなぁ」
頑張れスペンサー。
日が沈み、食堂が酒場へと変わり、酔っ払いたちを全て叩き出した深夜のこと。
クラウスは再び城を抜け出して閉店後の食堂へと足を運んでいた。
「こんな遅くにいかが致しましたかな。殿下」
迎え入れたのはこの食堂を経営する店長兼料理長の男だ。
クラウスのことを殿下と呼んでいるということは、正体を知っているのだろう。
「昼の件、事前に気付くことが出来ず大変申し訳ございませんでした」
「殿下、王族がそう簡単に頭を下げてはなりませぬ」
「ですがハルシオーネ嬢に不快な気持ちを抱かせてしまいました。婚約者として情けない限りです」
「それでしたらその気持ちは私ではなく娘に向けてあげて下さい」
「もちろんです」
そう。
実は店長の正体はハルシオーネの父親。
ルード公その人であった。
ハルシオーネと同じく変身魔法とドッペルゲンガーを活用してこっそり下町で食堂を運営していたのだ。
もちろんハルシオーネは気付いていない。
「それに娘も愛する男に守られて本望ですよ。あいつは王妃様の逸話に憧れておりましたから」
「その……私は父のようになれたでしょうか」
「それは殿下が直接聞いてあげて下さい」
「そう……ですね」
そもそも何故ハルシオーネが下町の食堂で働くなどということを思いついたのか。
それは幼い頃に王妃様から聞いた話が原因だった。
王妃様もまた若い頃にこっそりと下町の食堂でウェイトレスをして働いていた。
そして暴漢に絡まれたところを何故かその場に居合わせた王子に救われて恋に落ちた。
お転婆娘のハルシオーネはこの話が大好きで、成長したらいつか同じことをやろうと思っていたのだった。
それは父親のルード公にはお見通しであり、ハルシオーネが気に入りそうな食堂を事前に買収して働きに来るように罠を張ったのだった。
「殿下、改めて娘をよろしくお願い致します」
「は、はい!」
なお、ルード公もクラウス殿下も気付いていないことがある。
とあるどこぞの王族夫妻が身分を隠してこっそりとこの食堂に通っていることを。
その名はガイルとケイトという。
よろしければ評価をして下さると嬉しいです。