前編
描きました。
なにを?
当然、絵を――私は絵描きでございますから。
ただの絵描きではありません。旅する絵描きです。これまで何度も旅行し、行く先々で絵を描いて参りました。気ままな暮らしなもので、けっこう気に入っております。先々の異なる景色は私の創作意欲をかき立て、さらなる創造の高みへと押し上げてくれるのです。そうして一度描いてしまったからには、それを超えるものを次々に描きたくなるので、描いたものは日銭に換えるというわけです。絵を描くために旅をし、旅費のために絵の一部は売る。良いものですよ。
今日も、ここと決めた道端へ陣取ると、今までに描いた画を並べました。翻訳ツールを使って、画用紙いっぱいにこういう意味の言葉を記すだけ――「似顔絵 描きます」。これでどこだっていつだって通じます。現地での通貨を手に入れるのに、この方法は私どものあいだで鉄板の方法です。絵描きは旅人向きの職業と言えましょう。
そうして一組の親子連れに似顔絵を描き、学者風の男に中世フランス王の鎧姿をお買い上げいただいた後、しばらく客足が途絶えました。一人の年老いた婦人がやってきたのはそんな時です。片手に杖をつきながらも、足取りはしっかりしておりました。しわだらけの顔の中では瞳が輝いており、不思議な若々しさを感じました。良い年の重ね方をしたと感じさせる貴婦人でした。
彼女は私が今朝に描き終えたばかりの絵をまじまじと見つめました。つぶらな瞳が猫のように見開かれました。
「とても聡明そうな子。特に瞳が綺麗で――いい絵ね」
「ありがとうございます」
「いえ。似ていたの。私たちには子供がいなかったので、引き取ったの。本当の娘同然に愛していたのだけど……早くに失くしてしまったわ」
「それは、なんと」
「ごめんなさいね。暗い話で。
もらってもいいかしら。ここで会えたのもなにかの縁よ」
「承知いたしました。ご用意いたしましょう」
「それと、この子にもモデルはいたのよね」
「はい。私の描くものは風景画であれ人物画であれ、私がこの碧眼で見たものだけデス」
おどけるように片目を瞑ってみせると、彼女の頬がふっと綻びました。
「この子にまつわる話を聞きたいわ」
「しかし、いいのですか。もちろん彼女が曰く付き、というわけではありませんが、まったく違った印象をもった方かもしれませんよ?」
「いいのよ。それもまた縁だわ」
「いいでしょう。ちょうど興味深い話があるのですよ」
私はその絵にまつわる話を始めたのです。
私がこの絵のモデル――当時5歳の彼女に出会ったのは、東方の国を旅していた時のことです。こうやって道ばたで絵を広げていたましたが、その日は一向に足を止めてくれる方もいません。今日はついていない。そう思って帰ろうとした時、一つの影が道ばたを横切るのを見たのです。
危ない!
今にも車にひかれそうにっていた猫を、私は助けたのでした。幸い、私がズボンのお尻を汚すだけで済みました。
「大丈夫かしら!?」
鈴のような音が、座とへたり込んだ私の頭上に降り注がれました。年端もいかない、かわいらしい少女でした。三毛猫はとたた、と少女のもとへかけより、スカートから覗く細いくるぶしに首をこすりつけ甘え始めたのでした。少女は彼女の主人であり、良きパートナーであるようでした。三毛猫はよくよく見れば手入れされた美しい毛並みでした。
「ありがとう、助けてくれて。けがはない」
「ええ。その身のこなしをみれば明らかですとも。すぐに君のもとへ駆け寄った」
「違うわ。あなたのことよ」
「ああ、ピンピンしていますよ。運動不足の画家も捨てたものじゃないでしょう」
「おじさん絵描きなの? すごい!」
少女は、遅れて駆け寄ってきた女中を振り返って言いました。
「そうだわ。この方を案内しましょうよ。きっとお父様も了承してくださるわ」
「画家」
女中は意味ありげに口の中で呟きました。
「もしかすると、ですね。旦那様はあなた様のようなお方を探しておいでなのです」
こうして私は屋敷へ連れて行かれることになりました家の主は絵の収集が趣味で、もったいなくも私の絵を気に入ってくれたのでした。しばらく逗留させてくれると、身に余る申し出までいただけたのです。
「唐突な話で申し訳ないのだが」
晩餐が終わり、片付けが済んだところで、主人は女中を下がらせ、切り出しました。私はなにか言いだしたそうな雰囲気を感じていたので、ついに来たかと思いました。しかしなんとも見当はつきませんでした。
彼が自ら持ち出したたのは、一枚の水彩画でした。既視感のある屋敷でした。この屋敷を描いたものでしょう。庭もそっくりそのままでした。人物は写っていません。夏の午後を描写したものでしょう。
年月を経ているのが分かるような、しかしよく保存されているものでした。これを描いた同業者は、かなりの腕前でしょう。
「昭和の初期から我が家に伝わる代物だ。しかし裏面を見て欲しい」
私は驚きました。そこには漢字二文字が記されていたのです。
『令和』
そこには、つい最近変わったばかりの元号が記されていたのです。
「私はこの文字列がどういう意味を持つものか、ついその時まで知らなかった。テレビの放送を見て青ざめたよ。謎が氷解し、新たな謎が生まれた」
なんということでしょう。我々は時空のねじれとも言うべき現象を見つけたのです。昭和年代に描かれたはずの絵に、2つも先の年号が記されていたというのです。未来予知など不可能なはずなのに!
「画家の君に聞きたいのだが、君たちの間ではこういう雅号を持つ人間はいるのだろうか?」
「聞き及んだことはありませんね。それにサインならば、表に描かれるはずです」
「そうだね。私としたことが、おかしなことを聞いた」
主人の顔は苦渋に濡れていた。ずっとこの疑問を解消しようとしてきたのでしょう。素性の知れない絵描きを家に招いてまで。
「こういうのはどうだろう。年号をいっぱい用意した絵を描いたんだ。途方もないことだが、不可能だと言い切ることは難しいんじゃないか。例えば版画の技術を用いれば」
「この絵にはそういう模造品のような感じはありません。大量生産のものとは違い、手間をかけて作られたものです。年号が後から付け足された様子もありませんね」
「……その通りだ。実はレントゲン検査までしたのだよ。インクが後になって付け加えら得たような形跡はなかった。奇妙なことに、戦前から『令和』の二文字は刻まれていたのだよ」