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自由とはつまり不自由である

作者: 夕焼けの蜩


あまり世に自分の書いた作品は出さないのだが(出した所で見る人などほぼいないが)、いつも原稿用紙だろうがスマホだろうが、創作をしようとすると毎回思うことがある。


人とは、俺とは何と不自由なのだろう。


初めて小説を書いた中学の頃は、世界一自由な創作と感じていた。


俺は空を飛べない。当然だ。しかし、原稿用紙の中で踊る俺は雲の上を滑空している。



俺を見向きもしないあの子も、一度鉛筆を持てば俺の手を握る。


現実には到底不可能なことを、こうもあっさりと小説という物は叶えてくれる。こんなに自由なものがこの世にあるだろうかと本気で思っていた。


しかし、それは全くの見当違いであった。


よく、「想像力は自由だ」とかいう言葉を聞くことがある。


俺はそうは思わない。


何故なら想像力とは例えるなら一本の植物であるからだ。


そしてそれを育てる土とは知識と経験と才能だからだ。


想像力の植物は土壌によって育つ限界が決まっている。


俺の知らない知識や分野など山ほどある。例えば俺はファッションにとことん疎い。そんな奴がファッションについて人を唸らせることのできる程のことを言えるだろうか?書けるだろうか?勿論できやしない。


だからと言って古今東西の知識を習得することは不可能だ。そもそもそれら全てを注ぎ込んだとして、出来上がるのは得体の知れない文章のキメラだ。そんな物を作ろうだなんてするのはいないだろう。これも、自由ではない。


さらにもう一つ、その植物は一定の型にはめられている。


常識という名の型に。


文章には起承転結といった風に作ることを小学校から教えられる。それは勿論文として読みやすくするためであるが、人はそれが成されていない文章に違和感を覚える。まあ、俺の文などは『起承転倒死亡転生』くらいぐっちゃぐちゃなので読む人は気持ち悪いことこの上ないだろう。


創作とは得てして自由なものと仮定すると、才能あるそれらはしばしば常識の範疇を越える。しかし、人に受け入れられることは少ない。なので、作り手も植物を剪定し、常識の枠の中のサイズにする。


結果、量産型の密林が出来るという訳だ。


しかし、しかしだ。希に、その常識の枠をぶち壊し拡張する天才が現れる。これはあまりいいことではない。後続の人にとっては。


そうするとその後の創作家達は広くなった常識の中で必死にオリジナリティを探す。ようやく見つけたと思ったら既に先人がいたなんてことは珍しくもない。


今の本屋なんてのは、同じ種類の木を「別物だ」と言って並べているに過ぎない。まあ、同じ形大きさをしたものなんてないからある意味正しいのだが、所詮元をただせば同じ木だ。


これが果たして自由だろうか?


創作の海はまるで過密の都心部だ。自分の領域を主張しようと思っても誰かと被る。


俺の書く物語もその向こうに誰かしらの背中がちらついている。


まあ、だが、俺らの常識が思う以上にこの海は広いだろう。きっと、まだ誰も知らない場所があるかも知れない。


それとも、ラ・マルセイエーズの歌詞の様に自由の為に先人を撃ち殺していく必要もあるのかも知れない。いや、銃は俺の後ろ、後世の創作家達を向いている。


何故なら俺の自由の為の創作は後世の創作の妨げと同義であるからだ。











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