逃亡の幼馴染
失敗した! 失敗した! 失敗した!
まだ明るいから大丈夫だと油断した。
人もたくさんいた。車通りの多い道を選んだ。
いつの間にか陽が傾いていた。
追手を避けるように道を選んでいるうちにいつの間にか路地に迷い込んだ。
失敗した! 失敗した! 失敗した!
後悔はあとだ。とにかく、逃げなくちゃ!
ハァ、ハァ、と息が乱れる。
由樹の手を引き、必死に足を動かす。
「洋ちゃん。私、もう…」
「あきらめるな由樹!」
倒れそうな幼馴染の手をぐっと引き、勢いをつけさせる。
知恩寺に行くか吉田神社に行くか一瞬悩み、吉田神社を目指す。
「吉田神社に行くぞ! 境内まで入れば何とかなるはずだ! がんばれ!」
泣きそうな顔でうなずく由樹。
つないだ手を互いにぐっと握る。
知恩寺に行くにはここからだと大きい道路を渡らなければならない。
横断歩道で信号待ちをしている間に追いつかれる可能性がある。
吉田神社の本殿や社務所は山の中程になるが、山の入り口に鳥居がある。神域に入る。
神域に入りさえすれば、助かる!
連なる屋根の隙間からかすかに見える黒山が吉田山だ。
方向はわかる!
とにかく今は、逃げ切ることを考えろ!
世界が夕焼けで朱く染まる中、背後からうぞうぞとしたモノが迫ってくるのを感じる。
恐怖を振り払うように必死に足を動かした。
最初気付いたときは一匹だった。
気付いていることを気づかれないように早足で歩いた。
歩いているうちに一匹、また一匹と増えていった。
駆け足で逃げた。逃げる間に更に増えていった。
なんでだ!? なんでこんなことに!?
今までにこんなことはなかった。
やはりなにかがおきている。
それがなにかがわからない。
俺のせいなのか。由樹のせいなのか。
わからない。わからないが、アレに捕まるともうおしまいだということだけはわかっている。
手をつないで必死に走る。走る。走る!
夕方の住宅街は人ひとりいない。
誰もが家の中でしあわせな時間を過ごしているのだろう。
チャイムを鳴らして助けを求めることはできない。
見知らぬ誰かを巻き込むことはできない。
そもそも俺達が追われていることを信じてもらえるかわからない。
とにかく神域へ!
神域に入りさえすれば助かる!
アレらは神域に入れない。
神域に入って、社務所で電話を借りて、由樹の親に迎えにきてもらえばいい。
俺はいい。男だから、社務所の隅にでも転がせてもらえばいい。
でも、由樹は。由樹だけは。
安心できる家で、温かい布団で眠らせてやりたい。
由樹だけは助けたい。
由樹だけでも助けたい!
必死で走り、角を曲がった。
「―――!」
「行き、止まり…!」
京都には往々にしてこういう道がある。
抜けられると思ったら突き当りになる『どんつき』。
あわてて引き返そうと振り向いた。
そこには、有象無象の黒山ができていた。
物心ついたときから『ヒトならざるモノ』が視えた。
幼い頃はソレがナニかわからず、親にたずねた。
何もない虚無に向かって指差す俺を、両親は気味悪がった。
そして、そんな俺の異常行動を互いのせいにした。
冷めきった夫婦関係の中、放置された子供。
それが俺だ。
幼稚園でも同じように虚無を視た。
誰も俺の話を信じない中で、ただひとり、由樹だけは違った。
「よーちゃんもみえるの? わたしもみえるよ」
「ゆきちゃんもみえるの?」
同じモノが視えているのか確認し合った結果、間違いなく同じモノが視えていた。
そうして、入園してすぐに俺と由樹は仲良くなった。
あるとき、黒いモヤモヤが由樹に近寄ってきた。
とっさに由樹の前に立ちはだかり、モヤモヤを殴りつけた。
モヤモヤは消えた。
「よーちゃん、すごい!」
頼りにされたことがうれしかった。
由樹を守れたことが誇らしかった。
その日から俺は、勝手に由樹の護衛になった。
幼稚園、小学校と大きな変化はなく過ごした。
俺達は相変わらず他の人が視えないモノが視えた。
時折寄ってくるモノもいたが、俺が追い払ったり殴りつけたらいなくなった。
俺の両親も相変わらず俺に関わらないようにしていたし、俺もかまってほしいとは思わなかった。
最低限のことはしてくれているから、それで十分だった。
変化がおきたのは、小学六年生の春だった。
あるときから由樹の周りに黒いモヤモヤが増えた。
まるで惹きつけられるように。
それらは今までにウロウロしていたモノとは違った。
明らかに邪悪な気配がする。
由樹に近づけたらヤバい気がする。
なるべく由樹の側にいた。
しっしっ、と払うだけで逃げるモノもいたが、次第に払えなくなってきた。
ある日あまりにもヤバいヤツが迫ってきた!
とっさに殴りつけた。
たまたまそこに、同級生がいた。
俺は「理由もなく暴力をふるう問題児」になった。
そこからは転がるように悪くなっていった。
両親は離婚した。
俺を押し付けあい、母親がいやいや引き取った。
邪魔なのがわかっているから家に帰らないようにした。
「素行の悪いヤツ」と言われるようになった。
そんな男に娘が近づくのを由樹の両親は嫌がった。
由樹は何度も何度も訴えてくれた。
「洋ちゃんは悪くない!」
「洋ちゃんは私を守ってくれてるだけなの!」
でも、その声は誰にも届かない。
誰も俺達の事情を理解してくれない。
由樹に迷惑かけたくなくて、なるべく由樹に近寄らないようにしていた。
それでも黒いモヤモヤをみかけたら「しっしっ」と払う。
その様子が周囲から見たら、俺が由樹をいじめているようにみえるらしい。
ますます由樹に近づけなくなった。
それでも由樹を守りたかった。
だからいつも少し離れたところにいた。
中学校に進学しても、その関係は変わらなかった。
今日もいつもどおりに帰宅する由樹の少し後ろを歩いていた。
今のところ黒いモヤモヤはいない。今日は無事に帰宅できそうだ。
そう思っていたら、不意に由樹が立ち止まった。
「――洋ちゃん」
前を見たまま、背後の俺に声をかける由樹。
何かあったかと側に寄ると、由樹は思いつめたような顔でうつむいていた。
泣きそうな、苦しそうな顔。
口を開いて何か言おうとしては、声にならずに閉じる。
何度もそれを繰り返す由樹。
あまりにも由樹が苦しそうで、だから、つい、さそってしまった。
「――ちょっと、だべっていくか?」
二人ならんでベンチに腰掛けて、ただぼーっと川を眺めた。
「このあたり、幼稚園のときに来たよな」
「川の生き物探ししたよね」
お互いに本当に言いたいことがあるのはわかっている。
わかっているけれど、言えない。
由樹は中学に入ってから綺麗になった。
幼稚園の頃からかわいかったけど、背が伸びてからだつきに丸みがでてきて、俺とは違う生き物になった。
魅力的な女の子に、なった。
由樹のことを「いい」と言っているヤツがいるのを知っている。
そんな声を聞くと無性に腹が立つ。
ムカムカして、それこそ殴り飛ばしたくなる。
「由樹は俺の――」
頭の中に言葉が浮かんでくるが、そこで止まってしまう。
由樹は、俺の何なんだろう。
幼馴染? 守るべき存在?
誰からも必要とされていない俺を必要としてくれる唯一の存在?
それも間違いない。
でも、それだけじゃない。
日ごとに胸に広がっていく気持ちがある。
でも、その気持ちに名前をつけちゃいけない。
そんなことしたら、由樹に迷惑がかかる。
そんなことしたら、由樹の側にいられなくなる。
俺は、由樹の自称護衛。
それで十分だ。
誰もわかってくれなくても、世界中で由樹だけがわかってくれていたらそれだけでいい。
俺は、由樹を守ることさえできればいい。
この気持ちに名前はいらない。
幼稚園の頃、写生大会だと近くの神社に行った。
いつものように虚無を見つめていた俺達に、その神社の人が声をかけてくれた。
「『視える』だけ? 追いかけられたり、こわい気持ちになったりは? ない? じゃあまだ大丈夫なほうかな?」
そう言って、俺達にひとつづつ御守をくれた。
「身の危険――。こわい気持ちになったり、危ないと思ったら、どこでもいいから神社やお寺に行きなさい。
神社で言ったら、鳥居の中は神域だから。
こわいのは入ってこれないからね」
そう、教えてくれた。
あれはどこの神社だったっけ。
あの人の言葉どおり、神社や寺の中にはあのモヤモヤはついてこなかった。
だから、神社まで行けば大丈夫。
あと少しのはずだ!
そのはずだったのに。
路地の入口で数十もの黒いモノがニタニタと嗤っている。
俺達を追い詰めたと余裕ぶっこいている。
ムカつくけど、何も言えない。何もできない。
こわくてこわくて足がガクガクと震える。
せめて少しでも由樹を守ろうと背にかばう。
手を広げて俺達に迫ろうとしている黒いナニカをにらみつける。
夕焼けの世界の中で、その黒さはまるで染みのように異物感をともなっていた。
ヒトのカタチをしているモノ。目らしきものがたくさんあるモノ。手だか足だかがたくさん生えているモノ。
数十はいると思われる黒いナニカ。
ドロリとした気配を辺りにまき散らしながら、路地の向こうでひとかたまりになって俺達を狙っている。
ガタガタと震えながらも黒い連中をにらみつける。
由樹は渡さない!
そう、意思を込めるけれど、足元から這い上がる恐怖は次第に強くなっていく。
こわい。こわい! こわい!!
でも、少しでも由樹を守りたい!
そんな俺をあざ笑うかのように、数十の黒いナニカは我先にと路地を入ってこようとする。
数が多すぎてつかえているのだった。
やがて、一匹がぽんと群れから抜け出した。
震える俺達の前に立つ一匹の黒いナニカ。
ヒトのカタチをしているが、モヤモヤして輪郭ははっきりとしない。
ソレが、ニタリと、嗤った。
ゾワゾワゾワーッ!!
あまりの恐怖に叫びも声にならない。
歯を食いしばっているつもりなのにガチガチと歯の根が合わない。
いつの間にか涙と鼻水を垂れ流していた。
由樹を背にかばっていてよかった。
こんなカッコ悪い情けない顔を見られなくてすむ。
恐怖でパニックになった頭の隅で、のん気にもそんなことを思った。
ああ、俺達、ここまでだ。
アレにおそわれたら多分死んでしまう。
理屈でなく、感覚でわかる。
悔しい。せめて由樹を守りたかった。
情けない。由樹を守れなかった。
「ゴメンな。由樹。俺が道を間違えたばっかりに…」
「洋ちゃんは悪くないよ。元々は私がさっさと帰らなかったから…」
お互い声が震えている。
死んでしまうなら。
どうせ死ぬのなら。
今まで言えなかったことを伝えよう。
ずっと名前をつけなかったこの気持ちに名前をつけよう。
もう、最後なのだから。
「由樹」
黒いナニカはゆっくりと俺達に向かってくる。
獲物をもてあそぶケモノのようだった。
ケモノ。化物。
突然言葉遊びのような単語が浮かんで、自分でもこんなときなのにとおかしくなった。
知らず口の端が上がる。
その勢いで、今まで形にできなかった気持ちを声に出した。
「俺、由樹が好きだった」
俺のうしろで由樹が息を飲んだのがわかった。
死ぬ間際にこんなこと言われても困るよな。ゴメンな。
でも、言わせて。
もう最後だから。
ずっと言いたかった、ずっと胸にあった、この気持ちを。
「由樹だけが俺のことを必要としてくれた。
由樹だけが俺のことを信じてくれた。
俺は、由樹がいなかったらもうとっくにのたれ死んでた。
由樹が、由樹だけが俺の支えだった」
一匹がじわりとこちらに近づくうしろで、一匹、また一匹と群れから抜け出して俺達に迫る。
近づいてくるとよりわかる。
今まで俺が殴りつけて散らしていたモノとは明らかに違う。
こいつらは俺では散らせない。
もう、喰われるしかない――!
こわい! こわいこわいこわいこわい!!
涙がボロボロ落ちるのは恐怖か。
由樹を守れなかったくやしさか。
俺は涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔で、それでも黒いナニカをにらみつけたまま、何とか声をしぼり出した。
「好きだよ。由樹。守れなくて、ゴメン」
「洋ちゃん――!」
ドン、と背中に衝撃がきた。
驚いて肩越しに後ろを見ると、由樹が俺の背中に抱きついていた。
「私も、私も洋ちゃんが好き!
ずっとずっと好きだったの!
幼稚園で初めて会ったときからずっと!」
由樹が俺の背中で叫ぶ。
その言葉がじんわりと俺の身体に染み込んでいく。
由樹が、俺を好きだって。
ああ、もう死ぬのにしあわせだ。
「私のせいで洋ちゃんが悪く言われるのが辛かった。苦しかった。
私が側にいたら洋ちゃんに迷惑がかかる。
だから洋ちゃんから離れようって思ったの!
ずっと言わなきゃって思ってた。
今日こそ言おうって思った。
でも、言えなかった。
洋ちゃんと離れたくなかったから。
洋ちゃんが好きだから!」
「由樹……!」
うれしくてしあわせで、黒いモノから目を離して身体を由樹に向けようとねじった。
由樹もそれがわかったのだろう。腕をゆるめて俺の背中から少し離れた。
お互いに正面から向き合った。
由樹の顔は涙でぐしょぐしょだった。
それでもかわいくて愛しくて、ぎゅっと抱きしめた。
俺の腕の中におさまった由樹は背中に手をまわしてぎゅっと抱きしめてくれた。
「洋ちゃん。大好き。巻き込んで、ゴメン」
「由樹が巻き込んだんじゃないよ。俺が由樹を守れなかっただけだ。
守れなくて、ゴメン。由樹」
抱き合っていた身体を少し離し、もう一度真っすぐに由樹の顔を見つめる。
ずっと大好きだった。
ずっと側にいたかった。
俺が守りたかった。
大好きな、俺の由樹。
もうこれが最後になるから、しっかりとその顔を焼き付けておこう。
死ぬその瞬間まで、まぶたの裏にあるように。
気持ちがぽろりと口からこぼれた。
「大好きだよ」
「洋ちゃん――!」
ぎゅっと抱き合い、固く目を閉じて最後の瞬間を待った。
だが、いつまで経っても痛みも何も感じない。
何やってんだとおそるおそる目を開けて通りに顔を向けると――。
「あ。気にしないで。続けて続けて」
学生服のお兄さんが立っていた。