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大東京西域記  作者: 大和麻也
本編1 大東京西域記
8/15

#05 秘湯はアルカリ性@日の出

命の洗濯は湯でするものだ

 大学は早めの春の連休に突入した。

 というのも、ゴールデンウィークのあいだに生じてしまう授業日数のズレを調整するための休みらしい。要するに、連休前の何でもない平日を多めに休みにしてしまい、前期を金曜日でちょうどよく終わらせようとしているのだ。

 労働法規とか契約とか、大学の事務室にはいろいろな御託があるのだと思うが、いち学生にはどうでもいい。ただ休みが増えるのなら喜ばしいことだ。そうと決まれば遊びに行く以外に選択肢はない。行くならやはり温泉だ。箱根か草津か、はたまた鬼怒川か――そんな相談は四月の頭から千里と交わしてきた。

 ところが。

『どうして春休みに帰ってこなかったの? もう正月以来なんだから、おじいちゃんとおばあちゃんに顔を見せなさい』

 計画も温まってきたころ、福岡の母から電話がかかってきた。父の実家で父の両親と暮らして六年ほどになるが、未だに私がいないと心細いのだと思われる。春休みは千里と遊び惚けていた手前、母の物言いに圧されて承諾してしまった。

 そういう経緯で千里に謝意を伝えたところ、千里も千里で家族旅行の予定が入りそうだとのこと。スケジュールを見直したところ、一日だけ、奇跡的に遊べる日があった。それでも双方出発の前日で、多忙が予想された。当然、できるだけ「安近短」で日帰り温泉を探せないか、という話になる。

 その場では決まらず、申し訳なさが滲んだ私は口走った。

「今回は私が悪かったから、私が計画するよ!」



 私たちが「安近短」で遊ぶなら、都内で遊ぶのが一番だ。多摩地域で日帰り温泉など楽しめるだろうか、と調べてみることになる。もちろん天然温泉を探すし、できるなら市街地から離れて非日常でくつろげることも条件とする。

 東京では難しいのかな、と思いつつ調べてみれば、これが案外見つかるものだ。

 探した甲斐あって、肌が「つるつる」になると評判の秘境の温泉は、千里のお眼鏡にかなったらしい。

「付き合いも長いけど、裸の付き合いは初めてかもな」

 本日の女湯になっている浴場は、なんと「美人の湯」という。美人かどうかは知らないが、少なくとも他の利用者よりぐっと下の世代、大学生ふたりが並んで湯に浸かる。そんな状況のせいか、千里の発言もどこか奔放だ。

「やめてよ、変に意識しちゃうじゃん。それに、そういう物言いはオッサン臭いよ」

 私に窘められて、にやりと笑う。このリアクションもまた若々しさとはかけ離れたものだが、いちいち全部に反応してやるのでは気が疲れる。それに、千里に元来そういうきらいがあるだけでなく、温泉という空間に特有の雰囲気が悪いのだ。

 私とて、年齢相応とは違う根っこの持ち主だと自己分析している。

 熱すぎない湯に身を委ね、肩まで温もりに沈める。その名に恥じず、肌を滑らかにする効果はなかなかのようで、湯の中で腕や脚に触れても滑りが良い。両腕で自身を抱くように包むと、全身に纏う熱がぐっと身体の芯に馴染んできて、思わず「はあ」と呼吸が零れていく。

「なんだよ、ミチこそオッサン臭いじゃないか」

「わかっていますとも」

 身体が湯に溶けていくかのような解放感に、声を出さずにいられるほうがおかしい。これほどまで精神が浄化され、そのうえ肌にまで好影響があるなんて、たまには贅沢をしてみるものだ。きのうまでこれを知らない都民だったとは。

 そんな温泉の効能に、ふと思う。

「温泉っていろいろな効能があるけれど、ここはどうして肌がつるつるになるんだろうねぇ」

 思ったままに零れた一言だったが、例の如く、千里にとっては待ち構えたきっかけだった。

「肌が溶けているからな、当然さ」

「なんと」

 身体が湯に溶けるような感覚――あながち間違いではなかったのか。

「何、驚くことはない。アルカリ性というだけのこと」

「アルカリ性って、あれ? 水酸化ナトリウムとかの」

 中学校の理科の授業を精いっぱい思い出したのだが、千里には鼻で笑われた。

「そんな強烈な液体に浸かったら死んでしまうよ。身近なところでいえば石鹸水はアルカリ性だ」

「おお、肌がつるつるになる」

「そういうこと。要するにアルカリ性の物質はタンパク質を溶かす。古い表皮もタンパク質なんだから、肌から余計なものが流れ落ちやすくなるのさ」

 千里から聞かされると、中学生のときにもっと勉強しておけばよかったと思う。酸とアルカリといえば、舐めたときに酸っぱいか、苦いかという区別で記憶していた程度だ。授業で「危険だから」と素手で触れないよう指示されたことも憶えている。だが、肌が綺麗になるとは聞いた気がしない。真面目に授業を受けていれば違ったのだろうか。

 でも、今回の授業者は千里である。記憶の中に押し込められた先生とは違い、問えば問うほど答えてくれる。となれば、この教師の知識量を試してみない手はない。

「じゃあさ、なんでここの温泉はアルカリ性なの?」

「このあたりの地下は石灰岩の地層なんだよ。いわゆる石灰水は、アルカリ性の性質なんだよ」

 私が行こうと誘った温泉なのに、私が誘われたようにさえ感じられる。すでに知っていたのか、誘われてから調べたのか。もしかすると先に一度訪れていたとしても驚かない。いずれにせよ、千里は常に私の前で得意でいたいのだ。

 ただ、まったく鼻を明かせないのではつまらない。実をいうと、千里の話の中には、私の知識の網に引っかかるものもあった。

「その石灰岩ってさ、セメントの原料にもなるんだよね?」

 千里は「おう」と短く肯定の返事をする。前を向いたままこちらを振り返らないのは、意表を突かれた顔を見せまいとしているのだろうか。

「ほら、ここに来るまでに乗ったバスが汽車の形をしていたでしょ? あのバス、昔このあたりを走っていた五日市(いつかいち)線の岩井(いわい)支線が基になっているらしいのね。なんでも、セメント工場と五日市線、中央線を繋いでいたとか」

 機関車を模した青色の牽引車とつながったトレーラーバス。かわいらしい乗り物に一目惚れしたのも、この温泉に来ようと思った理由のひとつだ。

 もちろん、ただかわいいからと乗りに行くのでは、千里に言わせればもったいない時間の使い方である。その所以を調べてみれば、廃線が五日市と日の出を走っていたというではないか。府中で下河原線跡を見てから廃線の存在には多少アンテナが立っていたとはいえ、初めて自力で見つけられて素直に嬉しかった。

 千里が知識を自慢したくなるのも、わからなくはない。

「バスのルートも一部は岩井支線と重なっているらしいね。いまでもセメント工場は操業しているらしくて、バスからの景色ではあまりわからなかったけれど、上空写真で見たら禿山になっているところもあったよ」

「……そいつは知らなかった」

 千里にしては珍しく、素直にそう認めた。とはいえ、すぐに負け惜しみが続くのだが。

「石灰岩があるということは、セメントの工場があるとは想像するが、東京にもあるとは思わなかった」

 その「東京にもあるとは」を見つけることが面白いのだと、私たちは知っている。私だって岩井支線を知ったその時は驚いた。「安近短」と思っている場所なので見逃しがちだが、たくさんの見所や、あまり知られていない由緒がある。忘れられかけた何かを発掘する瞬間、はっとさせられるのだ。

 そういうささやかな刺激こそ、知識欲の源泉に違いない。

 身体が火照ってきたようで、千里が湯から上がった。縁に座って膝から下だけを温めながら、

「風呂に入りながら頭を使っていたら、のぼせちまうよ」

 と、大きく嘆息する。

 いつもの調子でいられないくらいリラックスしているのか、それとも、知恵比べに負けて虫の居所が悪いのか。カマをかけて、確かめてみることにする。

「じゃあ、続きは大広間でお昼を食べながらだね」

「……大広間、昼寝できるかな」

 千里の反応に、意地悪をいうものではないな、と反省するのであった。



【おまけのチリばなし】


質問者:田町理さん(19歳、東大和市)

Q「アルカリ性の温泉はどうしてアルカリ性になるの?」


回答者:市ヶ谷千里さん(20歳、府中市)

A「温泉が湧出する場所の岩石に注目すると良い。中学、高校で習った化学反応式を思い出してみよう。石灰岩すなわち炭酸カルシウムはわずかに水に溶け、炭酸水素カルシウムになる。こいつがアルカリ性というわけだ。ちなみに、鍾乳洞も石灰岩が水に溶けてできた空洞で、奥多摩地域でも見ることができる。石灰岩は珊瑚などの死骸が堆積してできる岩石だから、奥多摩の地盤はかつて海底にあったんだな」


挿絵(By みてみん)


【#05 秘湯はアルカリ性@日の出】

主な訪問地:肌がつるつるになると評判の秘境の温泉

https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1aPG9oenp_H67Lh5ny-hpxRryjRStlzCO&usp=sharing

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