#02 ビール工場のお膝下@府中
下も向いて歩こう
オムライスのお礼をするとのことで、府中に招待された。
段取りの良いことに、千里はビール工場の見学を予約してくれた。「せっかく久しぶりに来るなら、目的があったほうがいいだろう?」とのこと。自分はすでに二十歳で、私は未成年だということはちゃんとわかっていたそうだ。性格が悪い。
ビール工場はソフトドリンクの試飲を楽しむとして、その後は夕食にも招いてくれるという。曰く、私と再会したことを母親に話したら、張り切ってしまったそうだ。「泊りも覚悟しておけ」と忠告された。至れり尽くせりではないか。
そしていまは、小さな水路を背にして緑道にいる。
「ひえ、痛そう」
私好みのその場所で、千里と並んでラグビーチームの練習を見物している。黄色いジャージを見に纏った巨漢たちが互いに体をぶつけながら駆け回っていた。選手たちのエネルギーに、素直に感心する。
「ミチは見たことないだろうなって。ついでに、自分も見てみたかった」
有名なチームが地元にあることは知っていた――小学校に出前授業が来たことがある――ものの、練習を間近で見たのは初めてだ。
「道理で、待ち合わせ場所が是政だったわけだ。変だと思ったよ」
市ヶ谷家――あるいは、一時期の田町家――の最寄り駅は、南武線または武蔵野線の府中本町駅である。西武多摩川線の是政駅は、練習場までのアクセスは同じくらいだが、市ヶ谷家までは遠回りだ。メリットがあるとすれば、この緑道を歩きやすいこと。
「悪くなかっただろ?」
「千里も媚びることがあるんだなって思ったよ」
いひひ、と子どもが照れたように笑う。この笑顔で、初乗り三回分の損失はチャラにしておこう。
コーチの怒号や、選手同士の掛け声が響く。人間の肉と肉、骨と骨がぶつかる音がこれほど大きいとは思わなかった。時折、南武線がすぐ近くの架線を駆け抜け、轟音に震え上がる。騒々しさが去ると、私と千里は互いの驚きようをくすりと笑った。
しばらくすると、千里がビニール袋を取り出した。
「おやつ、食うか?」
見ると、袋の中にはどら焼き――ではなく、その皮のみがぎっしりと詰まっている。
「工場直売のアウトレットだ」
「憶えているよ、うちでもたまに買ってたから」
身体を鍛え、汗を流す選手たちを前にして、カロリーの高い小麦粉と砂糖の塊を黙々とかじる。おいしい背徳感。かつて、おやつの時間、母が買ってきたこの皮にあんこや生クリームを挟んで食べたものだ。生地だけを食べるのも好きだった。
もっちりとしっとりとの中間を衝く食感。まったりと舌の上に広がるほのかな甘味。「過ぎたるは及ばざるが如し」を知る庶民的な美食である。
空が青々としたいい天気。ほんの一分が五分にも一〇分にも感じる怠惰な時間に気持ちが和む。こういうときに限って、バイトのシフトとか、レポートの提出期限だとかを思い出してしまう自分の性が憎い。
「さて、もう少し散歩しようか」
飽きてしまったのか、千里が跳ねるようにして立ち上がる。私も続いた。どら焼きの皮のカロリーを消費しないといけない。
「だんだん思い出してきた――ここ、通学路だよね」
バスやSLの展示を眺めつつ、体育館や釣り堀の脇を通り抜け、郷土の森公園――校外学習の定番スポット――を横目に歩いていくと、真っ直ぐ南北に伸びる道にぶつかる。住宅と畑とが入り混じるその場所は、いくらか区画整理されているのだろうが、それにしても違和感のあるほどの直線が横たわっている。
あまりにも真っ直ぐなその道は、一年やそこらではあったが、私の中学時代の通学路であった。
「千里の家って、このすぐ近くだったよね」
「よく憶えているじゃないか」
南北の直線と、斜めに二本の道路が三角形をつくるように交差する地点。この場所が中学時代の私たちの集合場所だった。小学校に行くときは通学路が重ならなかったが、高速道路をくぐった北側にある中学校に通うときは、毎朝一緒に通ったものだ。そういえば、千里とは小学校低学年のときと、中学一年のわずかなあいだしか同じクラスになったことがなかった。
遊び心が胸をくすぐる。
「おはよう、千里」
「おはよ、ミチ」
七年ぶりのあいさつ――目を合わせていられなかった。
千里は、目を逸らしたついでに身体をくるりと翻して、南北に伸びる緑道を南から北へ視線でなぞった。私もノスタルジーにやられて、中学校の方角へ目を細める。学校の姿は高速道路に隠れているのだが。
うん、この風景は意外と昔から変わっていない。身長もあのころから少ししか伸びていないので、いまから中学生になったつもりで歩いてみても、さほど違和感がないかもしれない。ベッドタウンなんて、ほんの五年や一〇年では代わり映えしないものだ。
ところが、千里に言わせると
「ここも様変わりしたんだよなぁ」
とのこと。
当然、小さな変化ならいくらでもあるだろう。畑が減って住宅ができたとか、日差しが当時と違って高く南から照る時間帯だとか。でも、そういうことでもないという。
「この緑道ってさ、昔電車が走っていたんだって」
「電車?」
「どういうことか教えてやるよ」
導かれて少し歩くと、千里は案内看板を見せてくれた。市内の緑道を示してくれている。見ると、市内には私の知らなかった緑道がたくさん走っていて、南北に直線的な緑道はその中でもよく目立っていた。ちょうど、市内の中央南部を貫いている。
名をば「下河原緑道」と言うらしい。
「しもがわら? ああ、京王線に中河原駅があるよね。その近く?」
千里はこくりと頷く。
「国分寺駅始発、下河原駅終着。その名も下河原線なる鉄道があったんだ」
頭の中に地図を思い浮かべる。それこそ下河原駅と中河原駅はすぐ近くだったろうし、府中本町駅もすぐ近くだ。悪いことに、中河原駅に停まる京王線は東西に、府中本町に停まる武蔵野線は南北に伸びているから、このあたりの交通アクセスは良いほうだ。方角が武蔵野線と被る下河原線を、自分ならどう利用しようか想像するのだが、あまり思いつかない。
「……本当に必要なの、その路線?」
「必要がないから廃線になったんだけどな」
千里も苦笑いである。
「でも、昔は必要だったらしい。なんでも、下河原駅は貨物駅だったそうだ」
「貨物? ビールでも運んでいたの?」
私の素直な発言を、千里はボケだと受け取ったらしい。愛想よく笑われて、ちょっと悔しい思いをする。
「運んでいたのは砂利さ」
「砂利?」
「高度経済成長期、多摩川から砂利を採取して建材にしていたんだってさ」
そう言って、案内看板の下河原緑道を左手の人差し指でなぞった。
緑道の北端は京王線府中駅の少し西あたり。もう少し北に伸ばせは武蔵野線の北府中駅にぶつかるので、中央線から下河原線が伸びていたと想像できる。反対に、南に進んでいくと、現在の郷土の森付近で釣り針状に大きく西へ逸れ、多摩川と平行になる。そのあたりに下河原駅があったのだろう。
なるほど、確かに砂利を取って積み込み、中央線に乗せるための路線に見える。
千里はさらに、指の先を東へスライドする。
するともう一本、下河原線と似たような鉄道――多摩川に向かって南北に伸びる路線――が見つかる。
「え、もしかして多摩川線も砂利を取っていたの?」
「そういうこと。下河原線も西武多摩川線も、もとは砂利を採取する砂利鉄道。旅客鉄道となって生き残ったのは、西武だけだったがな」
そう聞いてみると、少々疑っていた下河原線の存在に説得力を感じられる。「名残」を見つけてはじめて、失われた存在を信じたくなるものだ。
「砂利採取が禁止になってからも、東京競馬場に続く線路を整備して旅客鉄道として生き残ろうとしたが、結局は一九七六年に廃線になったそうだ。数年前にはオイルショックがあったから、高度成長が止まったころだな」
「高度成長の遺物ってわけだね」
「でも、一時でも通勤客を乗せた電車が走っていたわけだ。面白いよな、いろいろな偶然がちょっと違えば、あたしは家で電車の音を聞いて毎朝目覚めていたかもしれない」
「だとすれば、この通学路もなかったね」
「ああ」
千里の言わんとすることは、何となく察しがついた。
昔から勉強するくらいしか趣味がなくて、私以外の友達もろくにつくれない口下手な親友は、いつも知識を自慢したがっていた。きょうも、私が来ると決まってから地元のことを調べ直したのかもしれない。何でもないふうを装って、その実入念に準備したネタで私に対して胸を張る――いじらしいものだ。
でも、チャーミングな為人に気が付ける人物はそう多くなかった。偶然私は気がつけたからよかったもので、別のほうに転んでいたら、この天邪鬼は誰にも褒めてもらえなかっただろう。
「こういうのも、意外と楽しいね」
我が親友は無表情を装うが、口許では隠しきれていない。
「そろそろ時間だな」と、歌詞にも歌われるビール工場を仰ぎ見るのだった。
【おまけのチリばなし】
質問者:田町理さん(19歳、東大和市)
Q「ビール工場はなぜ街中にあるの?」
回答者:市ヶ谷千里さん(20歳、府中市)
A「都市、つまり市場に近いからだね。一般にビールは、原料より製品のほうが重い。原料は大麦、でも出荷するビールは水が加わるし缶に入るからな。重いぶん輸送コストを削減しようと、市場の近くに工場を造るってわけ。府中は中央自動車道もあるし、武蔵野線や南武線には貨物列車が走る。こういうアクセスの良さから、ビール以外にもいくつかの有名企業が生産拠点を構えている」
【#02 ビール工場のお膝下@府中】
主な訪問地:下河原緑道、ビール工場、ラグビーチームの練習グラウンド
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