第3話 エルフなんて初めて見た
「……」
「……」
気まずい沈黙が、森を歩く一組の男女の周りを包む。時々聞こえる鳥の鳴き声と、風が木の葉を揺らす音だけが二人の耳に入るものだった。
(……どうしよう)
前を行く男性の半歩後ろを歩く女性――ナオトの妻であるゆりは、悩んでいた。この気まずい空気を、どうにかする方法はないものかと。
そもそも空気が気まずくなってしまった原因は、二人の出会い方にあった。家で寝ていた筈のゆりが何故かこの森にいて、それを男性が保護したというのが事の成り行きなのだが。
――問題は、その時のゆりが素っ裸だったという事だ。
と言うのも、昨夜ゆりは夫のナオトと激しく愛し合っており。そのまま服を着ず、訪れた眠気に身を任せた結果――現在に至る。
幸いにもその前に着ていた寝着はすぐ近くに落ちていたが、どうせなら服を着ている状態で発見されたかったとゆりは思う。お陰で恥ずかしくて、未だに男性の顔を真っ直ぐ見る事が出来ない。
「……疲れてないか?」
そんな事をゆりが考えていると、男性が振り返りそう声をかけてきた。ゆりは必死に笑顔を作り、首を横に振る。
「いいえ、大丈夫です」
「そうか、疲れたならすぐに言ってくれ。休憩を取る」
男性はゆりを安心させようとしているのだろう、小さく笑ってからまた前を向いた。その紳士的な態度は、今はここにいない狼の青年を思わせる。
正直に言ってしまえば、昨夜の行為の影響で腰が怠くはあった。しかし素性も何も解らない自分を何も聞かずに保護してくれた男性に迷惑はかけたくないと、ゆりは己を奮い立たせて歩いてきたのだった。
(……それにしても)
ゆりはふと、男性の後ろ姿に目を向ける。いや――彼の、耳に。
位置は、人と同じ位置。けれどその先端は、長く尖っている。
(あの人、もしかしてエルフ……なのかな)
ゆりはナオトの妻だが、ナオトと同じ世界の者ではない。別の世界から迷い込んできてしまった、ナオトの世界では『召し人』と呼ばれる存在である。
その元いた世界で、ゆりはよく本を読んだ。いわゆるファンタジーと呼ばれるジャンルの本も、幾つか目にしている。
その中に登場した架空の種族、エルフに、男性は良く似ていた。物語の彼らが操るのは弓で、男性の持っているのは変わった形の剣だったが、それ以外の外見的特徴は一致していると言っていい。
ナオトの世界に、エルフと呼ばれる種族はいなかった。ならばこれは一体、どういう事なのか。
エルフが自分と同じように、召し人となったのか。それとも――。
(……!)
そこまで考えて、ゆりは恐ろしくなった。もしも――もしも自分の方が、エルフのいる世界へと迷い込んでしまったのだとしたら。
ナオトはどうしたのだろう。目が覚めて自分がいなければ、ナオトは必死に自分を探すだろう。
その途中で、何か危ない目に遭ってはいないか。いや、もし別の世界に行ってしまったのが自分だけだったら、その時ナオトは――。
(ナオト……ナオト、会いたい)
ナオトに会いたい。会って、優しく抱き締めてあげたい。大丈夫だと、そう頭を撫でてあげたい。
そんな感情が、ゆりの心を支配した。溢れ出した不安は早鐘のように、心臓をうるさく鳴らした。
「――大丈夫か?」
その声にゆりがハッと顔を上げると、男性がいつの間にか、ゆりの顔を覗き込んでいた。男性は心配そうに顔を歪め、落ち着いた声色で言う。
「顔色が悪いな。やっぱり少し休もう」
「だ、大丈夫です……だってサークさんは……」
――探してる人が、いるんでしょう?
それが、ゆりが無理を押す理由だった。このサークと名乗る男性は、森に倒れていたゆりを助け起こし、服を着るのを待ってからこう尋ねてきたのだ。
「君と同じ黒髪の、黒いローブを着た少女を見なかったか?」と――。
本当は、自分に構っている暇などない筈なのだ。それなのに自分を保護し、まめに気にかけてくれている。
その事が、ゆりには申し訳無かった。だから出来る限り、迷惑をかけるまいと思っていたのだが……。
「気にするな。それより君が無理をして倒れてしまったら、どうしようもない」
「でも……」
「俺は少しこの周囲を見て回ってくる。君はここで休んでいるといい」
だが男性――サークは、そう言ってゆりに背を向けると早足で歩き去ってしまった。あっという間に見失ってしまった背中に、仕方無くゆりはその場に座り込む。
「……私はどうしたらいいの? ……ナオト……」
呟いた言葉は、風の音に掻き消され溶けた。