イリーナのラッパと戦闘機
見上げれば青い空、白い雲。
遥か空高く飛ぶ鳥が太陽に照らされて影になって黒く見える。
とても平和な光景だ。
だけど、イリーナはこの平和がすぐに崩れ去ってしまうものだと知っている。
イリーナは逃げてきたのだ。戦争という魔物から。
イリーナが最後に見た故郷の空は赤かった。建物を焼きつくさんと火が生き物のようにうねっていた。火の粉が頭上を舞っていた。さらにその上を爆撃機が耳をつんざくようなプロペラ音を立てて飛んでいた。
爆撃機がやってきたとき、イリーナは自宅でラッパの練習をしていた。中学校では吹奏楽部に入っていたのだ。警報が町に鳴り響くと、すぐにお父さんが部屋にやってきて、イリーナに言う。
「イリーナ、お父さんはまだやることがある。お前はお母さんとお姉さんと一緒に先に逃げるんだ」
お父さんは軍隊でパイロットをやっていて、イリーナと一緒に行くことができなかった。
イリーナはお父さんと離れ離れになるのが嫌だったが、静かにうなずく。
それからイリーナはお母さんとお姉さんと一緒に、出来るだけ遠くへ逃げた。遠くの町へ来た。
イリーナは戦禍の及ばない町で、お父さんを待ち続けた。しかし、お父さんは戦争が終わってもついに現れなかった。
今、イリーナは草の上に横になっている。
爽やかな春の風がイリーナの髪の毛を揺らしていた。
そのまま空を見上げていたら、戦場があった方から味方の戦闘機が飛んできた。
戦闘機は何かを伝えようとするかのように機体を揺らしている。
イリーナはそれを見て、立ち上がった。
あれは、お父さんだ! お父さんに違いない。
根拠は何もなかった。ただお父さんだと思ったのだ。
イリーナは、荷物からラッパを取り出すと、遠く、頭上遥か遠くを飛んでいる戦闘機に届くように、ラッパを鳴らした。学校で習った曲をひたすら演奏した。戦闘機はイリーナの曲に合わせるかのように、旋回していたが、やがて、元来た方へ飛び去って行った。
それから数年が経ち、イリーナは復興が進む故郷へ帰った。だが、まだお父さんの消息はわからない。軍の説明によると、行方不明なのだそうだ。
ただ、あの時の、青空に舞う戦闘機の記憶は鮮明に覚えている。きっとお父さんは戦闘機に乗ってイリーナに無事を知らせにきたのだ。イリーナは今でもそう思っている。