茨の鳥籠
あたりは夕焼けに包まれオレンジ色に染まり、グラウンドから部活中であろう運動部のかけ声が響いてくる。そんな中、誰もいない廊下を一人歩く。
「さすがにこんな時間に教室に残っている人なんかいないかぁ」
歩きながらぽつりとそうつぶやく。グラウンドとは正反対に校内は静寂に包まれ、自分一人だけ世界から取り残されたかのように感じる。そんな感覚が新鮮で、もう少し味わっていようと歩くスピードをゆっくりにする。
「もしかしたらあの子も帰っちゃったかな。そうだったらどうしよう」
まだ帰っていないことを祈りつつ、目的の場所まで足を運ぶ。
「あ、いた。よかった、まだ帰っていなかったみたいね」
そこには、誰もいない教室で一人、顔をうつむかせて座っている少女がいた。私はその少女に近づき、そっと話しかけた。
「こんな時間に一人で教室に残ってどうしたの」
*
「こんな時間に一人で教室に残ってどうしたの」
前から聞き覚えのある声でそう声をかけられた。私は急いで目をこすると、笑顔を浮かべて目の前に立つ親友に返事を返す。
「別になんでもないよ。気にしないで」
「嘘。百花、泣いてたでしょ」
残念ながら親友の目はごまかせなかったようだ。あっさりばれてしまった。
「やっぱり、美央に隠し事は出来ないか」
「当然でしょ。何年、あなたの親友やってると思っているのよ」
美央とは幼稚園からの長い付き合いだ。これだけ長く一緒にいると、互いに隠し事をしようとしてもそのことがなんとなく分かってしまう。
「それで、どうして泣いていたの」
あまり聞かれたくないことを聞かれてしまった。嘘をつこうかと考えたが、親友を騙すのは気が引けるのでやめておいた。それに、どうせ嘘をついたってすぐにばれてしまう。それだけ私も美央も、互いのことを理解しているのだ。
「彼氏から別れようって言われた……」
また泣きそうになるのをこらえながらそう言う。
「ごめん、あまり聞かれたくないことだったわね。気がつけなくてごめんね」
美央が申し訳なさそうに言ってくる。
「ううん、大丈夫。美央が謝る必要はないよ。なんかね、私の他に好きな人が出来たんだって。だから別れるてくれって……わっ」
美央を安心させようと無理矢理笑顔を作りながら話していると、急に美央に抱きしめられた。
「大丈夫、無理しなくてもいいから。泣きたいときは泣いていいのよ」
そう言われながら優しく頭をなでられると、もう我慢が出来なかった。そのまま美央の胸で泣いてしまう。
「何がダメだったのかなぁ。あの人に好きになってもらうためにいろいろ頑張って、ようやく彼女になれたと思ったのに。どうして……」
泣きながら、思わず心の中にため込んでいたものを美央にぶつけてしまった。しかし、美央はそんなことは気にせずに、
「大丈夫。百花の頑張りは私が知っている。百花の良さも、全部」
と、優しく慰めてくれた。
「やっぱり、美央は優しいね」
「そんなことないわよ」
やっぱり美央は優しい。私が気にしないように、そう言ってくれるのだから。これから言う言葉は、そんな美央の優しさにつけ込むものだ。なぜなら、彼女が否定することがないとわかっているから。だからこそ言ってしまう。彼女を縛り付ける言葉を。
「美央はずっと一緒にいてくれる?」
そんなずるい私の質問に、美央はやっぱり予想通りの答えを返してくれて。
「当たり前じゃない。百花は大切な人だからね」
美央の言葉が心に染み渡る。さっきまで荒立っていた心の中が嘘みたいに収まっていった。このまま美央の優しさに溺れていたくなる心を必死に振り払い、体を離す。今までの作り笑いとは違う、自然な笑顔で彼女に話しかける。
「ありがとう。もう大丈夫だよ、涙も収まった」
美央はじっと私を見る。たとえ私が嘘をついていても見抜けるように。
「本当に大丈夫そうね。よかった」
美央はそう言うとほっと一息ついて、表情を崩した。本当に心配させていたみたいで、とても申し訳なくなってくる。
「変に心配させちゃってごめんね」
「別にいいわよ。百花が泣き虫なのは今に始まったことではないでしょう」
「ふふ、それもそうだね。ありがとう。それじゃあ時間も時間だし、帰ろっか」
美央にそう言うと、私は置いてあった鞄を拾いあげる。そのまま、軽い足取りで歩き始めた。
*
教室を出ていく百花を見ながら笑みを浮かべる。
「ちゃんと百花とは別れてくれたようね」
百花の彼氏だった男は、百花以外の女を好きになってなどいない。あの男は百花一筋だった。彼はちゃんと百花のことだけを見ていた。
しかし、私はそれが気に入らなかった。百花のとなりに私以外の人がいることが我慢ならなかった。だから、彼にちょっとお願いした。百花と別れてくれませんかって。なかなか頷いてくれなかったせいでちょっと強引な手を取らざるを得なかったけど、最後にはちゃんと頷いてくれた。もちろんこの事は百花は知らない。ちゃんと口止めもしておいたから。
百花は私のことを優しいと言ってくれたが、正反対だ。私は優しくなどない。気に入らないことがあれば、どんな手を使ってでもぐちゃぐちゃにしようとする。そんな汚い人間だ。だから、私には百花はまぶしすぎる。人を疑うことを知らない純粋な彼女を前にすると、どうしても自分の汚い部分が強調されるようで嫌になる。そんな彼女が昔から羨ましくて、嫌いだった。それと同時に、そんなマイナスの感情を上回ってしまうほど彼女のことが大好きだった。
しかし、そんな純粋な好きという感情も時間が経つにつれ、大きく変わっていった。彼女を誰にも渡したくない。私だけを見ていて欲しい。そんな歪んだ独占欲へと。
「どうしたのー。帰らないのー」
なかなか私が来ないからか、百花が廊下から顔を覗かせつつ声をかけてくる。百花にこんな醜い私を見せるわけにはいかない。私はいつも通りの優しい笑顔を作り、返事をする。
「ごめん、すぐ行く」
今回の件は私にとって本当に都合がよかった。百花はあの男のことを心の底から好きだった。だからこそ、彼に振られたことが心に大きな絶望を生んだはずだ。そして、心のよりどころを求めた。それが分かっていたからこそ、私は彼女の元へと向かった。きっと彼女は誰でもよかったのだろう。たまたまそこに私がいただけで、たとえ私ではなくてもよかったはずだ。
「絶対に離さないから」
彼女に聞こえないくらいの大きさでつぶやく。今日のことで、彼女の中で私の立ち位置が少し変わったはずだ。親友から、絶対に自分のことを裏切らない大切な人へと。そして、少しずつではあるが私に依存し始めているだろう。先ほどの質問が、それを物語っている。
今はそれでいい。まだ私の元へ墜ちてこないことは、最初から分かっていた。今日はただきっかけを作っただけ。しかし、手応えはちゃんとあった。後は、待っているだけでいい。きっと、彼女自身から私の元へと墜ちてきてくれるはず。大丈夫、時間はまだたっぷりとあるのだから。のんびりと待っていよう。彼女の望む私を演じながら。
「大好きだよ、百花」
最後にそうつぶやいた。