第95話 帰営
さて、この日の官軍側の動きはどうであったのだろうか?
意外というよりもむしろ予想通りであるが、全く何も具体的な動きはなかった。未明、日付が変われば出されるはずだった、政府からの軍事行動の許可が、遅れたのである。
この日、もともとは再び朝霧を突いて侵攻するつもりであった。前回は火器に狼狽えたため作戦は失敗した――よって普通科を伴って侵攻すればよい。それが抜刀隊および第14旅団の出した結論である。
だが理由はわからぬが戦闘停止命令が解除されたのは、日がすでに昇った後であった。ここから作戦を無理に変えて突入するのは危険であろうと判断されたのである。
これに加えて、抜刀隊内部からもいくらか報告があった――不吉な星が、夜半、北から南に向けて、丹生谷へと落ちたという証言があったのだ。それは明らかな妖気を放っていたとも言われた。それがなんであるか、卜部りんの報告を聞いていた抜刀隊幹部は十分に理解していた。
さらに自衛隊の上層部でも意見が対立していたことが、作戦が遅れることとなった要因である。
第14旅団の属する中部方面隊は、岡山の第13旅団や伊丹の第3旅団の出動も検討していた。機甲部隊は使えぬ地形であるから、普通科を増員して数で押そうという計画である。
しかしこれにも難点はある。かつて指摘されたように、丹生谷では大軍を展開できる地形が少ない。東では、那賀川の河川敷に沿って侵攻可能だが、ここはダムが放流を始めれば水の底に沈む。そのようなところを侵攻させるのは危険極まりない――もちろん一度放水すれば貯まるまで時間はかかるため、第一波の人員を囮とするというなら話は別だが。
また特科の火力による面制圧からの侵攻も議題に上ったようだが、これは論外とされた。霧の向こうで着弾観測が出来ず、地図だよりに撃つより他はない。しかも結界が弾道にどう影響するのかわからず、民間人の殺傷や、ダムへの直撃もあり得た。ダムの決壊に備えて下流域の人員を避難させるとなれば、その意図を丹生谷側に感づかれること必定だ。
また特殊部隊の使用や、空挺効果も議題に上り、それを市ヶ谷に奏上していたが、しかし返答は芳しくなかった。
市ヶ谷としてはあまり部隊を徳島に拘束させたくはなかった。東シナ海や日本海では国籍不明船の出没が相次いでおり、海自が空母を送り込んでいるものの、何かあった際にすぐ動ける部隊が少なくなるというのは避けたかったのである。
そんなため、現時点で有効な戦力は数は変わらず、また結界を突破できない以上特殊部隊も空挺も数による力押しも机上の空論でしかなかったのである。
もちろんそうなってくれば、士気に影響する。
自衛隊は極めて訓練の施された集団であり、士気は高い。しかし抜刀隊は違う。文民を含めた有象無象からの引き抜きであり、中には明らかなアウトサイダーも含まれていたのである。
戦闘があると言って血気だっていたのに、しかし、戦いがないとなると、その士気が瞬く間に落ちていくのは必定であった。
日も西に傾いたころ、誰かが酒瓶を取り出した。戦いがなくてイライラしている連中である、その後、酒盛りが始まるまで時間はかからなかったのだ。
「ちょっとこれは本当にどういうことですか!」
安西や金城さんとともに書類決済や作戦の立案を終えて、日も沈むころ、汗だくで幹部用会議室テントから出た旭美幌は、公然と酒盛りが行われている事態に憤慨した。
「今は戦争中なんですよ! 自衛隊の人たちも見ています、前も言いましたが、飲酒は……」
「いやー、こんなの飲まないとやってられないよ。暇すぎるよ、暇」
そう言ってカラカラと笑いながら現れたのは卜部りんである。手には焼酎のボトルを抱えている。顔も紅潮して見えた。
「あ、あなた確か年齢は……」
「んー、そんな細かいこと言っていたらダメだよ、さあ、隊長も飲んで」
そう言ってコップを握らされる。それに酒が注がれようとしたが、彼女は抵抗した。
「こんなもの、絶対受け取りません。ねえ、金城さん」
そう言って横を向くと、そこでは金城さんがコップに何か透明な液体を注がれていた。
「隊長、泡盛があるそうです。私の好きな蔵だといいのですが」
彼女がこともなげにそう言うのを聞いて、目を回して卒倒しそうになる。
ああ、そういえばこの人は、あの日も飲んでいたな、いや、もしかして飲まない私が異端なのだろうか、いや、そんなはずは……
そう思った時だった。薄明りの中を、向こうから歩いてくる影が目に留まった。
それが着ているのは抜刀隊の制服ではなかった。どうやら作業服のように見えた。
いったい誰だろうか、と思っていると、陣地内に設置されたライトが彼の顔を照らし出す。
それを見て、旭さんは、手に持ったコップを落とした。瞳孔が見開く。
「和田……先輩?」
彼女はそう呟いた。そして同時に駆け出していた。
そして彼の胸に飛び込むと、涙を流しながら叫ぶのである。
「どこで何をしていたんですか、私がどれだけ大変だったか、この馬鹿!」
「いや、本当に迷惑かけたね」和田は言った「本当に申し訳なかった……ねえ、離れてもらえるかな、服が鼻水で汚れるから」
「ずびばぜん」と言いながら鼻水が糸を引きながら彼女は顔を離した。
「隊長、戻られたんですね」金城さんが前に出て言った「逃げ出してきたんですか?」
「そうだね、でも、詳しい話はまたあとで。のどが渇いて仕方ない、水をもらえるかな」
はいよ、と横からコップが出る。和田はそれを躊躇なく口に含んだ。
直後に噴き出した。しぶきはすべて目の前にいた旭さんにかかる。
「ぎゃー、目が、目が、眼鏡の隙間から、うぎゃー、目に染みる!」
「げほっ、げほっ!」
旭さんは眼鏡の上から顔を抑えてのたうち回る。和田は咳き込んでいた。
「なんだこれは! 水じゃないぞ」
和田は言った。しかし、それを渡した例の風水師は、悪びれる様子もなく答えた。
「それ、白酒アルネ。ここ、水ない。酒だけネ」
それを見ていた金城さんは顔色も変えず朗々と詠じた。
『聞こゑ國直り 入りて水乞ゑば水無きやん
眞神酒出ぢやす眞國 又鳴響む國直り』
(噂に名高い国直に行って 『水が欲しい』と言えば『水はない』と答える
かわりに眞神酒が出た 国直はすばらしいゆたかな国だ)
それを聞いて大笑いしていたのは卜部りんである。酒瓶を抱えて笑い転げている。
「ちょっと笑っている場合じゃないでしょ!」
旭さんはキレぎみに言った。
「これは洗礼を受けましたね、どうでしょう、思ったより荒くれ物の集団でしょう」
そう言って今度は水の入ったコップを差し出したのは安西であった。和田はその水を受け取ると飲み干した。
「……迷惑かけたね」彼は呟いた。
「いえいえ。そちらこそ、ご苦労様でした」
「さてさて、ええと、まずは……」
「私に謝ってください、先輩!」旭さんはタオルで顔と眼鏡をぬぐいながら詰め寄った「出迎えたのにこんなに汚されて、どういうつもりですか!」
「ああ、ごめんごめん、あとでちゃんとクリーニング代は出すよ」
そう言ってまたあたりを見回す。そこで気づいたのが一つの視線だった。
それは卜部りんの視線だった。すでに大笑いを終えて、一息ついていた彼女は、和田に視線を送っていたのだ。
「ああ、そういうことか、そういえばそうだったね」彼は言った「お仲間に助けられた、ということかな?」
「そういうことにしておこうか」卜部りんは言った「さて、ということは当然知っているんだよね、すでに宝剣が持ち出されたことも」
「もちろん」
「そして」りんはにやりと笑った「それを追いかけて行った人がいることも」
「えっ?」旭さんはそれを聞いて声を上げた「じゃあ、宝剣を取り返すために、東京に向かっている人たちがいる?」
「おやおや、そんなこと、ばらしてもいいのかな?」
「隊長が知っていれば、すぐこの人たちには伝わるんじゃない?」卜部りんは言った「さあ、詳しい話をしようよ。つかんだ情報を整理したい。なにせ、いま宝剣を握っているのは、ボクらなんだから」
そう言って彼女は会議室のあるテントの方へと歩き始めた。和田や安西、そして金城さんはそれを追いかけて行く。旭さんは狼狽えながらも、それを追いかけるしかなかった。
そして、今ここで、隊長としての自分が名実ともにお役御免となったことを悟るのであった。




