第94話 怨霊
午後4時を過ぎたころである。
ふもとの政庁での仕事をいったん終えた美嘉は、今度は神祇官としての仕事を行うため黒瀧山を登っていた。
安徳天皇の魂を呼び出すためである。
行ったり来たりでとにかく大変である。魂を下ろしたりつなぎとめるのならいざなぎ流の使い手である坂本太夫もできないことはないが、しかしやってきてくれた人間に何もかも頼むのは気が引けるという判断であった。よって美嘉が対応せざるを得ないのである。
とにかくどうしようもないな、と彼女は思いながら黒瀧山の行宮にたどり着くと、にわかにあたりが騒がしい。
丁度、僧房の方から小野寺さんが出てくるのが見えたので、声をかけた。
「主上が見当たらないんですよ」彼女は言った「いつもの部屋にいらっしゃらない」
美嘉は驚いた。上野原医師からは、主上はその中に二つの魂をとどめておくため体力を大変消耗しており、動き回ったりはあまりできないだろうと聞かされていたからである。
「とにかく見つけないと、もし検非違使別当の耳に入ったら」
「私の耳に入ったら、どういうことになるんだ?」
後ろで声がした。振り向くと立っていたのは薫御前その人である。
彼女も、夜の御前会議のためやってきていたのである。
薫御前は吠えるように言った。
「いったいどういう体たらくだ、主上がおいでにならないとは!」
「いや、しかし、昼過ぎにはいらっしゃったんですよ」小野寺さんが弁明する「先ほど、起こしに伺ったら、いらっしゃらなくて」
「見張りは!」
「誰に聞いても、主上を見てはいないということです」
「まさかあの和田何某が、主上を連れ去ったということはないだろうな」
「それはないと思うけど」
声の主は坂本太夫であった。彼もまた、山上での結界護持の祈祷のため、呼ばれていたという。
「自分が取り逃がしたから言い訳しているのではないだろうな」
「まさか」坂本太夫は言った「主上みたいな霊的にいろいろあるお方を連れて行ったなら、その跡も残っているはず。そんな痕跡、全然なかったぜ。そんなことより……」
彼はそう言うと、美嘉の方を見た。
「ここ、何か変な感じしないか?」
「あんたも気づいとったんか」美嘉は答えた「確かにな、なんか普段とは違う、気色悪い感じがここからはする」
「気色悪い? 私は何も感じませんが……」小野寺さんが言った。
「霊感のない人ならわからないかも」坂本太夫が言う。「特にあっちの方、権現堂がたっている方が怪しいよ」
そう言って彼は観音堂の裏手を指さす。
「ちょっと見に行った方がええかもしれんな、なんか関わりあるかもしれんし」
「さっき見てきましたが、なにも」
「権現堂の中までは見はったんか?」
「いえ、鍵がかかっているようでしたし、見ていないです」
小野寺さんの答えを聞くと同時に、美嘉は歩み始めていた。
「ちょっと勝手な」
そう言いながら薫御前も追いかけてくる。だが構わず美嘉は観音堂の裏の斜面を登って、権現堂の方へ向かう。
権現堂の目の前で、彼女らは立ち止った。
「ここだよ」坂本太夫が言った「妙な感じがする」
「ほんまに、妙な感じやな」美嘉は言った。瞳孔が開く感じがした。背中を汗が伝う。「でも、なんやろ、どっかで感じたことあるわ」
「本当に? 俺、こんなの初めてだよ」
「二人は何を話しているんだ?」後ろに立っていた薫御前は小野寺さんに尋ねた。
「いや、わからないですね、私に荷は何も感じられませんから」
確かに霊感が弱い者ならわからないかもしれない。しかし呪術にたけた美嘉と坂本竜樹の二人は感じ取っていたのである。権現堂の中から漂う、ただならぬ妖気を。
そしてこの妖気は、昔一度、感じたことあるものなのである。
どこでだったか、思い出せ――そう思っている時に浮かんできたのは水澤肇の顔であった。そうだ、あのとき彼といた。そうだ、香川県だ。自分も彼の四国遍路に同伴していたのだ。そして、讃岐の五色台にある寺を詣でた後、隣の御陵に参拝した。そこでただならぬ妖気を感じて、調子が悪くなったのだ。
彼女は震える手で扉を引いた。もちろん、木でできた扉はびくともしない。
美嘉は意を決して詠じた。
「松山の浪のけしきはかはらじを かたなく君はなりまさりけり」
しばらく静寂があった。違うか、と美嘉は一瞬思ったが、しかし、内よりやや低い声が響いてくるのを聞いて、自分の予想があっていたことを確信した。
それは返歌であった。
「松山の浪にながれてこし船の やがてむなしくなりにけるかな」
その声と同時に、扉がギギギ、と音を立ててひとりでに開いた。
日の光が差し込まない、その中に美嘉と、坂本太夫は足を踏み入れる。
二人は息をのんだ。
権現堂の中は狭い。奥に蔵王権現の像がある。
そしてその前に子供ほどの背丈の人影。その足元には、主上があおむけに横たわっていた。
「主上!」
美嘉はそう言うと飛び込んで、主上を抱き起す。そしてすぐあとずさりした。
奥の人影は微動だにしない。その顔はどのような表情かわからなかった。天狗の面をつけていたからだ。
「おのれ何者か、主上を手にかけるとは!」
薫御前が銃を抜く。その人影に銃を向ける。引き金に指をかけている。安全装置も外されているようだ。
「別当、いけません!」
そう言って小野寺さんが制止しようと腕にとびかかる。だがすでに引き金は引かれていた。
パーンという乾いた発砲音。弾はお面の真ん中に命中したらしい、天狗の面はパカリと真ん中で割れて床に落ち、カランカランと音を鳴らす。
その下から顔が現れる。
美嘉は想像していたこととはいえ唖然とした。その顔は少女とも少年ともつかない、幼顔であった。そして、そこには傷一つついていない。
その童子はにやりと笑って言った。
「余に弓を引くとは、おぬしら、いい度胸じゃ」
とっさに何かを感じたらしい。坂本太夫が九字を切り始める。美嘉もすぐ主上を自身の後ろに隠すと、調伏のための祝詞を唱え始めた。
「効くと思うたか、そんな児戯が」童子は言った。
同時に、何かに突き飛ばされたように、坂本太夫が後ろに吹き飛ばされた。
美嘉も強い圧を感じていたが、しかし、ここで踏みとどまらなければいけない。
「別当殿!」美嘉は言った「主上をはやくここから離すんや、ここにいては危ない!」
「言われなくてもだ!」
そう言うと薫御前は主上を抱きかかえると駆けだす。童子はそれを追いかけるかと思われたが、しかし、その場でやや床から浮遊してとどまったままである。
「人とは哀れじゃ。少ない希望にすがって、望みをかなえようとする。そしてかなえられなければ絶望し世を恨む。そう、かつての余と同じように」
「あんさん、なんでこんなところにおるんや」美嘉はなんとか声を絞り出した「白峰の御陵に眠っとるんとちゃうんか?」
「何者かが余を起こしたのじゃ」童子は言った「おぬしらをかき乱せと令呪を加えてな」
「それでは」
「そうじゃ、あの幼子を連れ去ったら面白い思うてな」
童子は、かかか、と笑った。
「しかし朝廷の命令通り動くいうんも癪じゃ。いくら相手が余を讃岐に送った平氏の末裔としてもじゃ。余を見捨てた朝廷の命令に、どうして従う必要があるんかのう?」
美嘉は相手の空気が少し変化したのを見て取った。
「あの幼子も哀れじゃ。道具にされて、いくら平家の血が入っていると言っても、同情の念がわいてくる。そのうちに潜む、もう一つの怨念に満ちた魂も、余の涙を誘うのじゃ」
「それやったら、ウチらに手を出す理由はないんちゃうんか?」
しかし童子はそれには答えなかった。
「今日はここまでじゃ。またいずれ戻ってくるからのう、楽しみにしているのじゃぞ」
そう言って童子の体は透明となり、瞬く間に煙のように掻き消えた。
その妖気が消え去るのを確認すると、美嘉は、膝から崩れ落ちた。そして胃液をはかっと吐いた。あえぐような呼吸をする。
あんな圧に満ちた妖気ははじめてだ。とどめておくのが精いっぱい、調伏などできるわけがない。
彼女は寄りかかるようにして体を起こすと、そのままおぼつかない足取りで権現堂を後にする。
外には坂本太夫が倒れていたが、幸いにして呼吸はしているようだった。
さすがに今は他人の心配までしている余裕はなかった。美嘉は、たぶん彼はもうすぐすれば目を覚ますだろうと思い、後の処理は他人に託そうと、ふらふらと、行宮の方へと向かうのであった。




