第74話 船旅
目が覚めたとき、すでに太陽は高く昇っていた。
深夜の強行軍で山を超えてきたのである。とにかく疲労が溜まっていて、私は船に乗るなり倒れるように眠ったのだ。
みどりさんが私を揺り動かす。
「目を覚ましてください。港につきました」
私は起き上がると、伸びをした。固い床の上で寝ていたので筋肉が凝り固まっている。首をポキポキと鳴らした。
「東京に着いたんですか?」
「いいえ、まだです」みどりさんは言った。「今は和歌山の串本にいます。熊野水軍の管理する港、だと聞きました」
なるほど、たしかにこの全長10メートル程度、おそらく5トンにも満たない小さな漁船で東京まで向かうのは心もとない。ここで船を乗り換えるのだろうかと思った。
しかし老人のいうことには「船はこのまま」ということである。
不思議に思いながら甲板に出た。
串本は紀伊半島の最南端の町である。一度熊野三山を巡ったときに訪れたが、太平洋の波が押し寄せるその荒々しい景観に感動したものである。侵食や土地の隆起で、様々な奇岩や磯が現れる。
そんな入り江の一つに船は停泊していた。小さな港があったが、周りに家などは見当たらない。おそらく地上からは死角になっているようなところなのだ。
そんなときであった。遠くからエンジン音が聞こえてきた。それはすぐに大きくなる。
やがて島影から一隻の船が姿を表した。この漁船の2倍以上の大きさがある船だった。これも漁船のように見える。
「やっと着たわい」
老人はそう言うと、船のエンジンをかけた。私は転ばないようにしゃがんで、そばのロープを掴んだ。
我々のボートは船の方に向かっていく。
その時であった。先程現れた中型の――大きさはおそらく30メートル弱であろう――漁船は旋回した。そしてその船尾が左右に開いたのである。
私があまりの光景に唖然としていると、ボートは中型船の船尾に向かっていく。またたく間に船は観音開きとなった中型船の中に入り、そして後ろの扉が閉められた。
中は格納庫のようだった。我々は降りるように促され、そして居住区画へと案内された。想像のとおりであったが、狭かった。
「話は聞いています。ようこそ、熊野丸へ」船長と名乗った中年の男は言った「いまからこの船で関東へ向かいます」
「協力、感謝します。しかしこの船は……」私は驚くように言った「すごいですね、外見は漁船にしか見えない」
「先例にあやかったのです」彼は言った「こう見えてこの船は早いのです。エンジンも4基積んでいて、30ノット以上での航行が可能です。明日午前中には関東の土を踏めるでしょう」
そう言って船長は操舵室の方へと戻っていった。
直後エンジン音が大きくなり、船が揺れ始めた。船が浦を出て、太平洋を東へ向かい始めたのが分かった。
「こんなにうまく行って、逆に心配ですね」私はみどりさんに言った。
「何を言っているんですか。ここからです。関東に入ったあと、どうやって剣の在り処をつかむか、そしてそれをどうやって回収するか、そしてどうやって帰還するか。全部無理難題ばかりなんです」
たしかにそのとおりであるのだ。計画案には妥当そうな案を書いて出している。東京中枢部を撹乱するのが目的であって、交通手段も熊野水軍のくの字も出てこず、なんとか公共交通機関で上京することを楽観的に想定したシナリオなのだ。
しかし現実は異なっている。あんなシナリオは丹生谷を脱出して関東へ向かう方便に過ぎない。味方に嘘をついている罪悪感もあるが、しかし剣がなくなったとバレるほうがはるかによろしくない。とくにあの検非違使別当が何を言うか分かったものではない。
だから、ほとんど五里霧中の遠征なのである。熊野別当は手伝ってくれたがそれもほんとうの意味での片道切符をくれただけだった。この遠征は、高度の柔軟性を維持しつつ臨機応変に対応していくことが求められているのである。
そして熊野水軍も協力してくれてはいるものの、彼らは熊野別当の臣下であり、そして南朝末裔の私がいるからこうやってタクシーをしてくれているわけである。きわめて微妙な協力体制であり、これ以上機密を彼らに教えて、そして協力を請うこともあまり得策とは言えない。
つまり、自分らでなんとかするしか無いのである。
みどりさんは地図を眺めながらどうしようかと悩んでいる。私はいくら考えても埒が明かないと思い、ごろんと横になった。気がつけばうとうととしてきて、眠りに落ちていた。
気がついたのは夜だった。船はやはりスピードを出して進んでいる。海は凪いでいるようで、あまり揺れは感じない。ふと横を見ると、みどりさんが姿を消していた。
どこだろうか、と思ったがこんな小さい船で行くべき場所は一つしか無い。私は甲板に出た。
果たしてみどりさんが甲板に座っていた。月明かりが彼女を映し出す。
「みどりさん」私は言った。
「ああ、起きたんですね」彼女は言った。
「星を見ていたんですか」
空は晴れ渡っているようで、満天の星空が頭上には広がっていた。
「そうですね」彼女は言った「これを見ていれば考えがまとまるかと思いましたが、難しいようです」
「そうそううまくはいきませんよ」私は言った「横、いいですか」
彼女は答えなかったが、私は横に腰を下ろした。彼女がびくっとした。
「みどりさん」私は言った「一つ考え方を変えてもいいかもしれません。いままで数日間、せわしなく働いてきた。いつぶりでしょう、こうやって星を眺めたりしてゆったりできるのは。これから忙しくなるんです、いまは休みましょう」
「そう言ってもいられません。向こうについてからのことを思えば。いまはこうやってかりそめの同盟で平穏に事が運んでいます。しかし彼らの信頼は、あなたが南朝の末裔という一点のみにかかっています。対して私はさっきまで敵だった。なにかあれば命なんてすぐに拭き消えてしまいます」
そういって彼女は頭上を見上げた。
今にも降ってきそうな星々だった。
「こういう星に比べると、ほんとうに、私一人なんてちっぽけです」彼女は顔を私の方に今度は向けた「私は怖いんです。私は体よく追い出された。あなたもついてきてくれましたが、しかしあなたも……」
「みどりさん」私は言った「私はあなたの味方です。私は南朝の末裔だとしても、天皇になる気なんてありません」
「それなんです」彼女は言った「天皇になる気のないことが彼らに知られたら、本当に熊野水軍はあなた、そして私達の味方をしてくれるんでしょうか。最終的に、熊野は、協力してくれるんでしょうか。だってそうでしょう。南朝の復興を目指すからこそ、末裔のあなたに協力する。あなたにその意志がないのなら、協力なんて無意味でしょう。協力を得続けようと思えば、あなたは天皇を目指すしか無い」
私は、ごくりとつばを飲み込んだ。彼女は下を向いた。
「でも知っています。あなたは私と一緒に戦ってくれている。今回も率先してついてきてくれた。それなのにあなたを信頼しきれていない、そんな気持ちがあって、それが嫌でたまらない」
彼女は顔を上げた。月明かりに彼女の潤んだ目が輝く。
「ねえ、どうすればいいんでしょうか」
彼女は言った。声はわずかに震えていた。
「みどりさん」私はなだめるように言った。「手はあります、きっと。僕がなんとかします」
私は彼女の肩を掴んだ。頭に血が登ってきているのがわかった。鼓動が早くなる。
彼女も、薄明かりの中であるが、顔を赤らめているように思えた。いや、泣いているせいかもしれないが。
彼女はその瞳で私を見つめた。そして目を見開いた。
「そうです。肇さん、そうです」彼女は言った「その手にどうして、気づかなかったのだろう」
「なにかいい手があるんですか」私は尋ねた。
「もし、南朝と、丹生谷の皇統があわさることがあれば、私も、あなたも、丹生谷も、南朝方の協力を得ることができるのではないでしょうか」
「ええと、それはすなわち、もしかしてですけれど」
「あ、いえ、それは」彼女ははっとしたように視線をそらした。「わ、忘れてください」
「みどりさん、それは冗談で言ったんですか」
「いえ、それは、思いつきで」
「そういうのは、いけませんよ」
私はそう言って顔を彼女に近づける。
彼女は顔をそらさなかった。逃げることもしなかった。
次第に顔と顔が近づく。彼女が目を閉じた。そしてもう少しで……
その瞬間、いきなり船が揺れた。
「おっとっと!」縁に寄りかかっていたせいで海に投げ出されそうになり、すんでのところでこらえた。みどりさんも同様に縁にしがみついている。
船は旋回しつつ、減速していた。
「何事ですか!」操舵室に駆け込んで、私は叫んだ。
「近くに護衛艦がいるんです」船長が言った。レーダーを見ると、数隻からなる艦隊が西に向かっているようだ。これと距離を取るために転舵したわけである。そしてこんなスピードで突っ走る漁船も怪しく、速力を落としたのだ。
無線が入る。熊野丸は漁船に偽装して、応答をしていた。相手の船は横須賀を出港した護衛艦隊だと分かった。空母いずもを含む6隻が西へと向かっているようである。
南の洋上に、明かりが見えた。
「こんなときに自衛隊とは」みどりさんは言った「やりあうことにはなりませんか」
「大丈夫です」船長は言った「向こうはこちらをただの漁船だと思っています。まあ、やり合うことはできません。こんな船、一瞬で沈められますから」
やがてレーダー上でも艦隊は離れていった。我々はほっと胸をなでおろすと、休憩を取るため船室に戻った。
その後、互いに目を合わせ辛かったことは、言うまでもないことだった。
日付が変わり少したった頃、船は伊豆半島の南、下田の付近で停泊した。
熊野丸は遠くから見れば漁船であるが、しかし近くで見ればその背後の格納庫などの姿が見て取れる。これで入港することはできれば避けたい。
そのためここで船を再び菊水丸に乗り換えるのである。
我々を載せた漁船は夜の相模湾をひた走った。月はすでに傾いていた。
やがてあたりが徐々に明るくなる。
西を見ると、朝日を受けて富士の峰が輝いている。その左手に伊豆半島、そしてその上にそびえる天城山が陽光を受けている。
日が昇ってきた頃、船は浦賀水道に入っていた。
「見てください」みどりさんが東を指指して言った。私もその方を見る。
息を呑んだ。
朝霞の中、山があった。
決して高くはないが、しかし、荒々しい、切り立った岩肌を見せる房州の山が目の前に現れた。
船はその方向を指して進んでいく。船は港へと入っていく。
こうして我々は関東・安房の地を踏んだのである。興徳元年、8月9日早朝のことであった。




