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丹生谷王朝興亡記  作者: 淡嶺雲
第5日 8月7日
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第73話 旅立

 みどりさんの東征作戦はすぐに立案され、作戦案は小野塚さんのもとにFAXされた。もちろん送られた作戦案の大半はフェイクであり、関東遠征の目的などは書き換えられていた。宝剣が奪われたなど知られれば困るわけである。

 作戦はすぐ認可された。というよりも、自分の作戦に影響ない限り、征夷大将軍の動向には我関せずというふうであった。

 本来なら隠密的には徒歩で向かうのがよい。しかし海部までは50キロの山道であり、これを夜間に踏破するのは非現実的である。よって途中までは自動車を使うことになった。しかもこれに当てられるのは私の車である。乗り捨ててもべつに鹵獲品だから良いというのであろうか。ひどい話である。

 また、生意気な式神二体は、紙に封じてみどりさんは懐にしまっていた。なにかあったときだけ使役しようという魂胆であるが、しかしこいつらが言うことを聞いてくれるかどうか心もとない。だからできれば呼び出したくはない。以前殺されかけたわけだし。

 日はすでに沈んでいた。準備を整えた私とみどりさんは政庁を発った。四国の山道を抜けるなら一番怪しくなかろうと遍路姿をしたのであるが、これがかえって死装束のように見えたらしい。那賀川にかかる橋のたもとで我々を見送ってくれた数少ない人々は、皆目に涙を浮かべているように見えた。


「風蕭蕭として易水寒し 壮士一たび去りて復た還らず」


 誰かが小さい声でつぶやくのが聞こえた。それ以上の言葉はなかったが、表情がすべてを物語っていた。見送りに来ていた千歌は、涙が溢れ出るのをぐっとこらえているようであった。

 我々は車に乗り込むと丹生谷を発った。後ろを振り返ることはなかった。


 車は霧の濃い夜の山道を駆けていく。海部に伸びる国道193号線だけは我々が掌握しており、これで物資の運び入れを行えたのは先述のとおりである。そして初日に私が抜けようとしたがきりに飲まれた道。その道を今走っていた。

 いくつか集落を抜けたところでバリケードに突き当たる。そこから先は霧も濃く、ライトも奥を映し出すことはない。

「ここで車を降りましょう」

 みどりさんはそう言うと車から降りた。

 登山用のザックを背負い、ヘッドランプをつけて山道を歩いていく。もちろん休憩する余裕はない。

 舗装されていると言っても傾斜がありいくつも峠を超えるわけである。港までは30キロ近くあるという。

「こ、こんなに歩くんですか」私は地図を見て言った。

「これくらい余裕です。遍路道に比べれば歩きやすい。時速4キロで歩き続ければ、6時間と少しです」

「山道でそんなスピード出ません!」

「仕方ないですね」みどりさんは言った「では1時間毎に10分休憩を取りながら進みましょう」

 なお読者諸氏の中には東京から横浜まで徒歩帰宅したり、京都から徒歩で能勢妙見を参拝したなどという奇特な方もいるかも知れないが、それらの道は基本的に平地の舗装路である。我々はときに舗装路、そして自衛隊や警察を避けるためときには(おそらく送電線管理用と思われる)踏み分けを通って南下していく。そしてそれは山道なのである。疲労の度合いは桁が違う。

 しかも夜と言っても8月、暑い。汗をダラダラかきながら頻回に水分補給しながらの進軍である。このままではすぐに水が尽きそうだ。

 私が新しい水を開けようとしたときだった。

「いまあけるともったいないですよ? もうすぐ行けば使える水道か、自販機があったはずです」

 そう言ってみどりさんは飲みかけのペットボトルをさしだしてきた。

「これをわけてあげましょう」

 すでにへとへとになっていた私はとりあえず何も考えずその水をもらって飲んだ。そして例を言いながらペットボトルをみどりさんに返した。

「そうです、水を大切にしないと。私も飲んでおきましょう」

 そう言って彼女もペットボトルに口をつけた。2、3口飲んだところで、はたと何かに気づいたらしい。歩みが止まった。

「い、いま飲んだとき、口をつけていましたか……?」

「えっ、あっ、そういえば」私は失礼なことをしてしまったかと思った「ご、ごめんなさい、口をつけてしまいました」

 彼女の顔がみるみる赤くなっていく。

「と、ということは、いま……」

「ごめんなさい、汚くしてしまったのなら、僕の新しいペットボトルをあげますよ」

「そういう意味ではありません!」彼女は叫んだ「こ、これは間接き……」

「そういうこと気にしている状況ではないと思いますけれど。それに今更間接とかいわれても、そもそも昨日の晩……」

「昨日の晩?」彼女が詰め寄る「昨日の晩、私が何をしたんですか、いえ、私に何をしたんですか?!」

 私は、しまった、と思った。さすがに口が滑ったか。

「い、いや、覚えていないのならいいんですけれど……」

「記憶がないのをいいことに、何かをしたんですね」彼女は背中に挿している細長い包に手を伸ばし始めた。やばい、それは刀だ!

「いや、本当になにもないんです」

「本当に?」彼女は睨む。

「本当の本当に」

「ま、まあ今回だけはそれで納得しましょう」彼女は手を引っ込めた。「しかし、なにかあったのなら、容赦はしません」

 そう言って彼女は残りの水を飲んだ。

「け、結局そのペットボトルはどうするんですか」

「これは私のです。水澤さんは自分の水を飲んでください」

 彼女はそう言ってペットボトルをしまった。水を飲んだ際に飲み口に舌を這わせていたようにも見えたがきっと暗いせいで見間違えたのだろう。そういうことにしておこう。

 さて、歩いていくうちにしだいに道も2車線道路となった。民家もいくつか見える。空も薄っすらと明るくなり始めていた。

 我々が海部――自治体では海陽町であるがーーの街に入ったのは午前5時にならないぐらいであった。朝まだき、街には人通りはまだ見えない。牟岐線の高架下をくぐったあと、我々は港を目指す。

 港に船は少なかった。ちょうど漁に出ているところであろうか。

 見ると、波止場で釣り糸を垂らしている老人を見かけた。

 明らかに怪しい、と思っていると、みどりさんがづかづかと近づいていく。

「おじいさん、釣れますか」

 みどりさんは聞いた。老人は顔を上げずに答えた。

「いいや、お嬢さん、ここでは釣れないね」

「ではなんでここで」

「待っていたんだよ」老人は言った。そして釣り竿をあげる。釣り糸の先には針がついていなかった。「さあ、ついてきなさい」

 老人は波止場を歩いていく。みどりさんはそれについて行った。しかたなく私もついていく。

老人は、一隻の小型漁船の前で止まった。

「お乗りなさい」

 みどりさんは乗りこもうとした。流石に私もこれには声を発した。

「ちょっと待って、怪しくないですか、こんなの流石に」

「人を疑っていてははじまりません」彼女は言った「さあ、おじいさん、この船を出してください」

「ええもちろん。しかし、わたしはあなたからの下知がほしい」老人は私の方を向いていった。

「僕から?」わたしはきょとんとして言った。

「そう、この菊水丸を動かせという、下知が」

「菊水丸!」私は言った。「すると、あなたは」

「楠、というものです」老人は言う。

「そうか、そうですか」私は言った。この老人を信用するしか無いと思われた「では、船を出してください」

「針路は」

「もちろん東京です」

 老人は頷いた。

 船は朝日を浴びて、ゆっくりと動き出す。朝のオレンジ色に染まった海の上を船は走っていく。

 途中遠くに船団が見えた。おそらく漁を終えて港に帰る船だろうか。左手に遠く島影を見たあとは、もはや遮るもののない大海原に思えた。

 こうして我々を載せた船は、暁の女神の祝福を受けるように輝く水面の上を、紀伊水道を南東へと向かったのである。


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