第60話 作戦
儀式を終えた我々は、三々五々と帰っていく。
主上は薫御前や左大臣入道殿に連れられ、姿を消した。大宮麗子嬢も主上に従って宮居へと戻っていく。
主上に神は憑依した。主上は神となった。
だが、もといた主上はどこへ?
みどりさんは皆が立ち去った後も川面を見つめていた。立場があるので大きな声は出せないが、声を抑えてむせび泣いていた。
主上とみどりさんをこんなふうな目に遭わせた張本人である斎部美嘉を問い詰めてやろうと思って見回したところ、彼女はそそくさと退散した後であった。あのアマ、次あったらぶん殴るか犯すかしてやる。
そう思いながら、さてみどりさんを一人にしておくべきか、どうなのか思い悩んでいると、後ろから私の袖をくいくいっと引っ張る者があった。
振り返ると、それは典侍であり、主上に近侍すべきである、我が妹・千歌がいた。
「千歌、どうしたんだ」
「お兄様、あれはいったいどういうことなのですか」千歌は震える声でいった「天子様は、どうなってしまわれたのですか」
「大丈夫、何も心配いらないよ」私は言った「天子様は天子様のままだ。なにも変わってはいない」
「でも、あの話し方は、違う人でした。いったいどういう……」
「大丈夫。きっと演技だよ。千歌は、変わらずお仕えすればいい」
「お兄様、あなたは」千歌は目を潤ませて言った「あなたは嘘をついていらっしゃいます。わかります。わたくしが、何もわからないと思わないでください」
「大丈夫、本当に大丈夫なんだから」
私は震える千歌を抱きしめることしかできなかった。なだめるのに、適切な言葉を持たなかった。
ましてや、みどりさんにかける言葉など、持ち合わせてはいなかったのだ。
その後とぼとぼと官舎(というか借り上げた民宿だが)に戻った我々は風呂に入ると、各々の部屋に戻った。
今日は戦闘はなかった。しかし明日はどうだろう? 昨日は自衛隊は先遣隊だけであったが、もう本隊も阿南あたりに展開していることだろう。紀伊水道も抑えられているかもしれない。
我々は神を呼び降ろした。しかし本当に呼ぶべきであろう軍神はどこにいるのか。
私は自問自答した。
しかし答えなど出るはずもない。
まあ仕方ない。明日のことは明日考えよう。そう思って布団を被ろうとした。
その時だった。
ドアをノックする音がする。一体こんな時間に誰だろうか?
ドアを開けてみると、そこにいたのは小野塚優花里であった。彼女も風呂に入って着替えた後であろうか、背中中ほどまである黒髪はほんのり湿っていて、ジャージを着ていた。モノクルはそのままだ。この変な格好すらなければ美人だろうにと思う。
意外な人物の来訪にしばし言葉を失っていると、彼女が言った「よろしいかしら?」
「え、ええ、どうぞ」私は言った「しかし、こんな夜更けに何用でしょうか」
「即位式、神事とお疲れの処申し訳ございませんが、明日の戦闘についてお話があり、こうして参りましたわ」
「ああ、そういうことですか」仕事が理由であったとわかってホッとした。一昨日や昨日の夜と違い、何か言われても言い訳はできる。
彼女は持ってきた鞄から地図を取り出すと、床に広げた。
「西を物部村に託した我々ですが、その他のいずれからも攻撃を受ける可能性は残っております。わざわざ大軍を動かしにくい山の中を通ってくることは考えづらいですから、順当に東から攻めてくると考えるべきです」
彼女はそう言って那賀川に沿って走る国道195号線を指さした。
「ここは爆破で通行止めにしたはずでは?」
「トンネルは潰しておりますが、旧道は残っておりますわ」彼女は言った「ここは那賀川にそった峡谷です。狭い道を巡る争いになるのは明らかです。となれば、わたくしたちにも勝機は出ます」
「なるほど、そうですね」そう言ったところで地図を見てふと気づいた「ちょっと、ここ何だけれども……」
地図を指差しながら続きを言おうとしたときであった。
ドーン、ドーンと響くような爆発音がいくつも聞こえてきた。
「砲撃でも受けたか!?」
自衛隊が特科を投入したのだろうか、そんなもので蹂躙されればひとたまりもない。結界は人間は騙せても意思を持たない鉄の塊ならどうだろうか。川の水は結界でとどまることなく流れるように、無機物であれば結界を通過する可能性が充分あるのだ。
「ご心配には及びませんわ」彼女は言った「これは発破です。残った道を潰していますの」
「やはりですね」私がさっき気づいたことは正しかったようだ。「テルモピュライですか」
「そう、よくご存知ですね。歴史には学ぶものです」
ペルシア戦争でのテルモピュライの戦い。世界最強と名高いスパルタ軍300人は隘路に陣を敷いてペルシア軍数万を食い止めた。しかし内通者によって山中の迂回路がペルシア軍の知るところとなり、スパルタ軍は挟撃を受け全軍玉砕を遂げた。
そしてここ丹生谷でも山と谷川に挟まれた隘路に陣を敷くことになる。そしてもちろん山の中には林道などが張り巡らされている。
これらを使用されることがないように、発破をかけて道を潰しているのである。こうすることで、敵の進撃路は一つしかなくなる。我々は、隘路で敵を食い止めるだけでよいのだ。
「流石です」私は頭を下げた。「しかし、なんで私に話すんですか? もちろ自分は近衛中将ですが、軍の司令官ではありません。総指揮を取るのは、近衛大将か、もしくは兵部卿では」
「そのとおりですわ。近衛大将に総司令官をしていただきます。あの人の戦闘力では、前線に出すわけにはいきませんから。そして戦闘力から言いますと、前線の司令官は兵部卿宮をおいて他におりません。幸い、律令制の官位相当からすれば、兵部卿は近衛大将よりも位が低いのです」
「昨日、兵部卿は軍令に関わるなと言っていましたが……」
「問題はそこなのです」彼女はモノクルを直すような仕草をした「あなたは、兵部卿宮と親しいと聞いております。ですから、あなたがしっかりとサポートすることで、近衛大将の命令に従わせていただけないかしら」
即ち、兵部卿宮であるみどりさんを見張り説き伏せ、近衛大将である薫御前に従わせろという意味である。
今までも薫御前の作戦を我々は実行してきた。しかしそれ以上にみどりさんは自分自身の判断で動くこともあった。軍隊の一部が独断専行で動けば良いことにならないのは、先の大戦でよく知っている。
それであるから、昨日も聞いたような軍政改革を小野塚さんはしようとしてるわけだ。軍隊の命令は薫御前から出る。しかも薫御前は内政もほとんど取り仕切っている。まったく幕府を開いたようである。いや、近衛大将の唐名が幕府であるから間違いではないのだが。
「指揮系統が混乱しては勝てるものも勝てませんね」私は頷いた「わかりました。しっかりとサポートしましょう……しかし」
「しかし?」
「今更言うのもなんですが、兵部卿宮は明日本当に戦えるのでしょうか」
「どういう意味かしら?」小野塚さんは怪訝な顔をした。
「主上がああいうことになったのをたいへん嘆いているのです」
「主上が……?」小野塚さんは首をひねった「いえ、わたくしは儀式の間ずっと参謀本部で警戒任務の指揮を取りながら作戦を練っておりましたので、儀式で何があったか知らなのです。詳しく聞かせていただけますかしら」
そういえばそうであった。私は事の顛末を彼女に話した。
「なるほど、そういう事があったのですね……」
「なにかアドバイスかカウンセリングだかをしてあげられませんかね。なんでも小野塚さんはアメリカで心理学を研究されていたとか」
「わたくしは宮様からは嫌われているので難しいです。それに、わたくしが研究していたのは心理学ではありませんわ。心理歴史学です。ミスカトニック大学で学位をとっていましてよ」
「いや、それは失礼しました」
「分かれば宜しいのです」そう言ったあと小野塚さんはため息をついた「少なくとも、今は、耐え忍ぶ他ありませんわ。宮様も、我々も。苦しい時間が始まります」
「といいますと」
「明日を食い止めた後は、持久戦に入ります。世論が味方につき、同志らが蜂起するまで、耐えるのです」
戦い続けるためには犠牲を覚悟しなくてはならない。大事なものを失っても、勝利を得ることができればその犠牲は無駄にはならない。
そう自分自身に思い込ませることでしかおそらく乗り切ることはできない。みどりさんは強い人である。きっと耐えてくれるだろうと信じている。
いや、信じるだけではだめだ。私がサポートして、そういうふうにしなくてはならない。悲しみを分かち合うことができれば、きっと彼女の心も落ち着くかもしれない。
小野塚さんは、続けて言った。
「幸い、食料と電力は自給自足が可能です。薬品も、上野原先生が自ら赴いて、結界の外の同志から受け取って運び入れてくれました。先程護衛と一緒に無事戻られています」
そういえばそのような話も出ていた。領域内に多くの老人を抱え、また今後怪我人が予想される我々にとって薬品があるというのはありがたいことであった。
「希望はある、ということですね」
「そうです。そして、それを成し遂げるための作戦を立てるのが、わたくしの職務ですから」
「しかし」私は腕を組みながら言った。「よく作戦を思いつきますね。今日にせよ、明日にせよ。軍事教育を受けたこともおありなんですか。敵を思うように翻弄している」
「いいえ。しかし、集団の動きをコントロールするなど簡単です。人間集団の動きを方程式化して予測する。これが心理歴史学の真髄です。そして一部の事柄については、母数を減らしていっても成立するのではないかという予測がありまして、これを証明するというのがわたくしがミスカトニック大学で行った研究です。いわゆる『ケッペルの法則』というものの証明ですわ。不完全ながらそれを応用することで、首相に今日の攻撃を中止させたのです」
なるほど。よくわからないが、なにかすごいのだろう。
「それを使って協力してほしいと、久保さんから連絡があったのです。彼女は私が渡米前に通っていた大学で同じゼミにいました。これはわたくしの理論を実地で試す良い機会と思い、舞い戻ってきたのです」
やはりすごい。要約すればマッドサイエンティストの社会科学版みたいなものか。仲間におても敵にいても色んな意味で一癖二癖ある厄介な存在かもしれない。
「まあ、仕事のお話はこれくらいにしましょう」彼女はそう言って地図をたたみ始めた。もう帰ってしまうのだろうか、と思っていると鞄の中からビンとコップを持ち出してきた。
「少し親睦を深めようと思うのですが、いかがですか」
「いやあ、お酒は怖いですから……」
昨晩のことがあるのだ。お酒早めておいたほうがいいかもしれない。怖い怖いはお酒が怖い……
「あら、残念ですわ」
「いや、飲まないとも言ってない」
「では……」
そう言ってコップにその透明な液体を注ぎ始めた時であった。
ドアが突然開かれた。
私と小野塚さんは驚いてドアの方を見る。
立っていたのは、目を真っ赤にした、みどりさんであった。
服は白い斎服のままだった。おそらく戻って着替えもせず泣き続けていたのであろう。
「みどりさん……」
「肇さん……」そう言って私の方を見た彼女は、次いで目を見開いた。私の隣に座っている小野塚さんの姿を認めたからだ。
「あなた、こんなところで一体何を!」
そう言って、なんと手に持っていた刀を抜き放ったのである。
「ひぃ」
そう言って後じさりする小野塚さん。私は言った。
「ちょっと! そんなもの持ち出していったい……」
すると彼女は、鬼の形相で、刀の切っ先を私の方に向けたのである。
「なんでこの女があなたの部屋にいるんですか!」
「いや、これはね、作戦会議を……」私は何とかなだめようと言う。
「白々しい嘘をつかないでください!」みどりさんは叫んだ「私なんかよりその女のほうがいいんですか、その女の方のいうことを聞くんですか!」
「あなたがた、そんな関係でしたの……?」小野塚さんがやや引き気味につぶやく。
「いや、それはね!」謎の誤解を与えているかもしれないが、そんなのは後回しだ。とにかく目の前の彼女をなだめなければ。
そう思ってなんとか言葉を考えていると、彼女の刀がプルプル震えているのがわかった。
いや、刀だけではない。彼女自身が震えていた。みどりさんはうつむき加減で言った。
「どうしてあなたも私から離れていこうとするんですか……私を一人にしようとするんですか……」
そして堰を切ったように、大粒の涙を両目から流し始めた。
「お願いだから、見捨てないで……」
そう言うとみどりさんは刀を落とした。ドスン、と音がして刃がカラカラ鳴る。
次いで彼女も膝から崩れ落ちた。そして泣き始めた。
とりあえずは命の危機が去ったとホッとした私は、彼女の側にいざり寄った。
「みどりさん……」私はすすり泣く彼女の背中を撫でる。
「みんないなくなってしまいました……」彼女はむせびながら言った「私もいなくなりたかった。でもそんな事はできなかった……」
それで刀を持っていたのか。早まったことをされなくて本当によかった。
小野塚さんも我々の方に歩み寄ってきた。
「宮様」彼女は透明な液体の入ったコップを差し出した「これでも飲んで、落ち着いてくださいまし」
「……ありがとうございます」
みどりさんはコップを受け取り口に運ぶ……って、その液体ってもしかして。
もしかしてであった。
彼女はそれを口に含んだ次の瞬間、ブーッと吹いたのである。そして次いでむせた。
「ゲホゲホゲホッ!」
「ちょっと、小野塚さん!」私は彼女の背中をなでながら言う「一体何飲ませたの!」
「白酒ですわ。50度くらいだったと思います」
「白酒?」
私はどんなものかと思って口に含む。
私もむせた。まるで有機溶媒のような味がした。いや、アルコールの味なのだろうが。
「……こんなもんをどこで」
「知り合いの香港人の風水師から貰ったのです。デモに参加して香港に居られなくなったので、何年か前にアメリカに逃げてきたとか何とか言っておりましたけれど。お口にあわないかしら?」
「いや、まあ、それは、ね……」
そう答えて、コップを脇に置こうとしたところ、なんとみどりさんが手を伸ばしてそのコップを掴んだのである。
「みどりさん……?」
「酒、ですか……」みどりさんは真っ赤な目でコップを見つめる。「いっそ、酔ってしまったほうが楽かもしれません」
そう言うと彼女は、コップにまだ半分ほど入っていた残りの白酒を飲み干したのである。
「大丈夫?」
「まだ足りません」彼女はそれを何とか飲み込むと言った「もっとよこしなさい」
「さすが宮様、この美味しさがおわかりですか?」小野塚さんが尋ねる。
「いいえ。あなたのものならなおさら」みどりさんは突っぱねるように言った「でも、酔えることには変わりありません」
そう言うとみどりさんはまた白酒をコップ半分ほど一気に煽った。
50度はある酒である。そんなものを疲労困憊・脱水状態で飲んでいる。するとどうなるか想像に難くない。
彼女は目だけではなく、顔も真っ赤になっていた。
「みどりさん、本当に大丈夫?」
「よわにゃいとやっへられまへんよ(酔わないとやってらせません)」
彼女はそう言ってもう一杯煽る。そして立ち上がろうとしたが、しかしすでに千鳥足、すぐにふらついて転びそうになる。
すぐに私は立ち上がって彼女を支えた。私が彼女を抱きかかえる形となった。
「みどりさん、お水を飲んで寝ましょう、ね」
私がそういったのにみどりさんは答えなかった。彼女は私の顔の両側に手を回した。
彼女は私の顔を挟むように掴んだ。そして……
彼女はその唇を、私の唇に、押し付けていた。
それはあっという間の出来事だった。私はもちろん声も出なかった。頭が混乱していた。なんと表現すればいいのかわからに感情が、全身を駆け巡った。
おそらく実際は数秒であろうが、私の中では永遠にも思えた。彼女は唇をゆっくり離した。
「はじめさぁん……」彼女は真っ赤な目を潤ませて私を見つめた。「お願いだから裏切らないで……」
そう言うと全身の力が抜けるようにしてへたりこんだ。
そこでやっと私自身も金縛りが解けた。
「ちょ、ちょっとみどりさん!」
私がそう呼びかけたときにはすでに彼女は寝息を立て始めていた。私の部屋の床で、彼女は寝ていた。
そうなって初めて、恥ずかしさがこみ上げてきた。
みどりさんがキスをしてきた! 私に!
横を見れば小野塚さんが目をまん丸にしてこちらを見ている。彼女もまだ飲んでないはずなのに頬が赤くなっている。他人のキスシーンなんて見せられたらそりゃあ恥ずかしいだろう。
そして私自身も全身が火照っているのがわかった。
「びっくりしましたわ……」小野塚さんは言った「宮様はいろいろ思い切りがよく、大胆と聞きますが、しかし、まさか……」
「そ、それはこっちのセリフです!」私は言った。まさかこんな形で唇を奪われることになるとは思ってもいなかった。
「あの、これは内密に……」
「それぐらいのプライバシーは守ります。でも……」
「でも?」
「なにかあったときは、『弱みを握られている』と思っていただいたほうが宜しいかもしれませんわね」
そう言って彼女はニヤリと笑った。
「さて、闖入者もいたことですから、今夜はお開きとしましょう」そう言うと小野塚さんは瓶をかばんに入れた。そして立ち上がる。
「くれぐれも宮様の件、お願いしますわよ」
そう言って彼女は私の部屋を立ち去った。
後には私と酔いつぶれて寝息を立てるみどりさんが残された。
彼女は起こしても起きそうには思えなかった。仕方がないので彼女に毛布をかけると、私もその横で寝ることにした。彼女が持ってきた刀は、鞘にしまって、押し入れの奥に隠しておいた。
なぜかって?
それはもちろん、彼女が起きたとき、酒を飲んだ形跡があって、私が横に寝ていて、そして刀があるとなれば、それは私が永遠に目が覚めないことを意味するからなのである。




