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丹生谷王朝興亡記  作者: 淡嶺雲
第4日 8月6日
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第59話 神降

 河原に篝火が灯される。

 日は山に落ちて久しく、辺りは薄暮から星空へと変わっていた。チラチラと燃える火は川面に反射して揺れ動く。

 その松明が足元を照らす中、主上は歩みを進める。主上は裸足である。だが、その足は地についているわけではない。主上の進む前に筵が敷かれ、その前を歩まれるのである。

 時は戌の刻。場所は那賀川の河原である。

 河原には簡易的に大嘗宮に似せた神殿が建てられている。本来大嘗宮ではまず廻立殿で斎戒を行った後、それぞれ伊勢の内宮と外宮にあたる悠紀殿(ゆきでん)と主基殿でそれっぞれ神に神饌を供し、神と褥を共にするという。

 だがこれは大嘗祭ではない。そもそも真夏に行われる大嘗祭などない。

 形式は重要であり、儀式の本質とはその形式を守ることである。しかしいまここでは形式を一度捨て去り、脱構築しなくてはならない。

 天皇は様々な儀式を半年以上の時間をかけて行い、その締めくくりとして大嘗祭を行う。すでにその時天皇の神格化は完成しており、天皇は自ずと高天原の神々と同一化するのである。

 しかし我々は異なる。神を、降ろさなくてはならない。

 この不遜とも思える行いの一切を取り仕切っていたのは、皮肉にも、もっとも神道に明るいと思われる美嘉であった。彼女の祝詞こそが、神を降ろす力となるらしい。

 そしてもうひとりの主役――というかこちらこそ主役なのだが――である主上は真っ白の斎服に身を包んでいる。本来の禊の場である廻立殿は那賀川の川辺にプレハブ小屋として建っている。那賀川で禊をして斎服へとお召し替えをしたのだ。

その頭上に菅笠を供奉しているのが千歌である。主上を先導するのが摂政である左大臣入道、その脇を近衛大将の薫御前や内親王であるみどりさん、そして神祇伯・斎部美嘉が固める。その後ろを守るように私は歩いている。皆、同じように斎戒していた。

 河原はそれほど広くはない。すぐに主上は神殿へとたどり着く。

 神殿は木の板でできた斎垣に囲まれた神明造りの社であった。大嘗祭ならこれが二つ並ぶ――内宮、つまり天照大神と外宮・豊受大神である。

 しかしここで降ろすべき神はそれではない。いずれは大嘗祭を本当に執り行うときには祈りを捧げるべき神であるが、しかしいまこれらの神を降ろすことなど、とても出来るわけはない。

 降ろすべき神は先祖である。天皇の霊である。安徳天皇の霊を、降ろすのである。

 そうであるから社は一つでよかった。即位に伴って行うので大嘗祭の真似事をせざるを得ないが、しかし本質はやや異なる。

 入り口に当たる鳥居をくぐって斎垣の中に入っていったのは主上一人であった。

 主上は神殿の階段を登ると、入り口にかかるすだれを上げて、中に姿を消す。我々は鳥居の前で社を拝することとなる。

 そこへ大宮麗子がやってくる。宮司の娘の幼女である。彼女もまた斎戒し、采女を務める。

 彼女は神に捧げる食事を神殿の中へと運び入れる。これらは主上が降ろした神に捧げるのだという。

 やがて大宮幼女も退室すると、本格的に儀式が始まる。

 これこそ「秘すべきことが甚だ多い」といわれた大嘗祭の、ある意味ではまことに冒涜的な、焼き直しの始まりであった。


 

掛介麻久母畏伎(かけまくもかしこき) 伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)……」

鳥居の前に進み出た美嘉は祝詞を捧げ始める。途絶えることもなく朗々と詠唱する。

 神殿の中ではなにが執り行われているか知る由もない。主上は神を接待する準備を中でしているのだろうか、同なのか、それは全く不明だ。

 川辺であるが、しかし8月の夜となると暑い。思えばほとんど風も吹いておらず、ややじめじめしている。汗で白い斎服が肌にべったりと着く。

 見れば、篝火に照らされた美嘉の顔も汗を吹き出していた。今顔をもし拭えば化粧が着いてしまうのではないかと心配になるほどだった。

 しかし美嘉は顔色ひとつ変えず、祝詞を詠み続けた。

 そのとき空気が変わった。風が吹いた。

 見れば、にわかに空がかき曇っている。先ほどまで雲ひとつない満天の星空であったはずである。天気予報も晴れであった。

 そしてポツリ、ポツリと雨が降り始める。雨足は瞬く間に強くなる。

 これは大変だと思ったが、美嘉は違うようだ。にやりと笑って、祝詞の奏上を続けていた。

 逆にみどりさんは不安を顔ににじませていた。

 次の瞬間だった。

 目の前が突然ピカリと光り、耳をつんざくような轟音が鳴り響いたのである。

 ひっくり返らないのが不思議であった。なにが怒ったのか一瞬理解できなかった。

「雷だ」誰かが叫んだ。「神殿に落ちた」

 顔をあげると、目の前に炎があった。

 青い炎である。

 神殿が、青い炎に包まれていた。

 全員が事態が飲み込めずあっけにとられている。みどりさんも完全に放心し、瞳孔が開いてしまっているようだ。なにせ弟が入っていった神殿が燃えているのだから。

 そんな中でも美嘉だけは正気を保っていた。いや、もともと狂気だったのかもしれない。彼女は祝詞を奏上し続けるのである。

 やがて正気に戻ってきた私は、あることに気づいた。

 これだけ近くにいながら、炎の熱さを感じないのである。これには他の人々も気づいたらしい。どうやら神殿は、燃えているように見えるだけなのかもしれない、と。

 それがどれだけの時間であったのかはわからない。美嘉が祝詞を終えた瞬間、青い炎は影のように消え去った。

 見上げると、空には雲もなく、星空が戻っている。雨に打たれたはずの服も、全く濡れてはいなかった。

 我々は幻覚をみていたのだろうか。

 その時、神殿のすだれが上がった。中から主上が出てきた。

「拝!」

 美嘉が号令をかけた。全員が、その場で主上に礼拝した。

 主上は、鳥居の外にに居並ぶ群臣らを見渡した後、階段を下ってくる。そして筵の上に足をおろした。

 主上は、鳥居をくぐって外に出た。

「主上、神とは会われましたか」真っ先に話しかけたのは薫御前であった。

「汝が朕の大臣か?」主上は言った。

 我々はぎょっとした。その姿は、声色はまさしく主上のそれであったが、その話しぶりは全くの別人であったのである。

薫御前は一瞬声を失い目を丸くした。しかしその後うやうやしく頭を下げた。

「そうです、陛下。わたくしめは陛下の臣です」

 横で嗚咽が漏れた。

 見ればみどりさんが俯いていた。必死に泣き崩れるのを堪えていた。

 私は声をかけようと近づいた。

「みどりさ……」

「話しかけないで」彼女は震える声でいった「お願い、今は、話しかけないで……」

 そして再び嗚咽を漏らし始めた。

 鳥居の前では、薫御前が主上に状況を説明していた。美嘉は、ひと仕事やり遂げたぞという顔をしていたが、私の睨むような視線に気づいたのか、すぐに顔をそむけた。

 みどりさんには両親がいなかった。東京の祖父というのも、これまでの話しぶりからすればもう世を去っているのかもしれなかった。

 彼女は今、一人となったのだ。


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