第47話 契機
誤植を今更発見しました。改稿しました。(R1/6/6)
さて、これから昨日の宿に戻るのかと思っていたが、今晩は宿が異なることがみどりさんより告げられた。昨日は謹慎のため診療所の宿舎に泊まったが、今晩からは政府要人用に政庁近くに準備した宿舎に泊まるわけである。宿舎と言っても、アパートメントや寮ではなく、近所の旅館、民宿を接収したものである。
私は一部屋が与えられた。千歌は別室であった。
遅い夕食、といっても一番近いコンビニは30キロ遠方であるのでコンビニ弁当すら手に入らない。旅館もこんな時間に食事は準備してくれない。先に政庁に買いだめされてあったカップ麺から一つ拝借して頂いた。そして旅館の風呂に入り、布団に潜り込んだ。
さて、疲れたのですぐ眠れるかと思ったが、これが意外に寝付けない。そういえばこんばんは酒を飲んでいないのである。これは困った。私は3合程度飲まないと眠れない体質なのだ。にもかかわらず、今晩はだれも酒を持ってきてくれていないのである!
これは困った。近所にコンビニがないわけだから、酒を買いに行くこともできない。
仕方ないので布団の中でひたすらに目を閉じる。もちろんそれで眠れるわけではない。体の向きを変えたりしながらなんとか眠ろうとするが、かえって目が冴えてくる。これは詰んだ。
そのとき部屋のドアをノックする音がした。
一体こんな夜中に誰だ、と思いながらドアを開けると、そこにいたのは美嘉だった。
私が不機嫌そうな顔をしているのを見て、
「起こしてしもうたか?」と美嘉は言った。
「いや、寝付けずにいた」ぶっきらぼうに答える。
「やっぱりな」美嘉は言った。そして、右手に持っているものを掲げた「これが欲しかったんちゃうんか?」
美嘉が持って来ていたのは酒瓶であった。よく見ると、左手にもなにか下げている。
「そう、それ!」私は言った「酒がないと眠れない」
「入ってええか?」
「どうぞどうぞ」
美嘉はスリッパを脱いで私の部屋に上がった。巫女服から着替えて、浴衣を着ている。風呂に入ってきたらしい、まだ髪の毛が若干湿っている。ほのかに石鹸の香りがした。
美嘉は腰を下ろすと、酒瓶をおいて、こんどは左手に下げてきた大きな袋からカセットコンロと小さい鍋を取り出した。鍋に水を張り、コンロで火にかける。
「これは熱燗のほうがええからな」美嘉はいった。
私は冷で飲むのが好きであるが、まあ仕方ない。彼女が持ってきてくれた酒であるから、彼女の飲み方に合わせよう。
湯が沸騰してくると、火を一旦止め、今度は袋から瓶子を取り出した。瓶子は古代の酒器であり徳利に似るが、中世以降はもっぱら御神酒にのみ使用されて食器としては使用されていない。私が徳利ではないのか、と聞けば
「徳利がなかったんや。ほんまなら祭祀用やけど、まあサイズもちょうどええし、ええやろ」
と言う。神職としてそれでいいのだろうか。というかそもそも、
「明日は即位式だろ、斎戒しなくていいのか」
「酒は神聖な飲み物や。神にも捧げるからな。なんで慎まんとあかんのや?」
まあ飲みたい口実でしかないのだろうが、まあいいだろう。
美嘉は瓶子に酒を注ぐと、それを湯煎する。数分で温まったのか、取り出して盃に注ぐ。私の方に一杯寄越してくれたので、それを早速飲んだ。
体の奥の方から暖かくなる。ああ、こうではなくては。
美嘉も早速一杯目を飲み干して次を注いでいる。私の盃も空であるのを見ると、注いでくれた。注がれながら私は言った。
「にしても久しぶりだな、こうやって飲んだのは」
「ほんまやな」美嘉は言った「今でもよう飲まはるな。失敗するのも昔通りや」
「お前もだいぶ変わったな、眼鏡もやめたし、それに髪もだいぶ伸ばした」
「伸びたゆうても十数センチや。髪型変えたほうが大きいかもしれんな。束ねるのやめたし」
「そうか」私は言った「まあしかし、その下手くそな似非京都弁を今でも続けているとは思わなかった。まったく上達していない」
「大きなお世話や」
「にしてもだ、なんでお前がこの丹生谷に参加してるんだ。平家とは縁もゆかりもないわけだろう」
「徳島には縁があるで」
「ああ、そうだったか」私は言った「確か安房忌部の子孫だとかなんとか言っていたな」
忌部とは古代の祭祀氏族である。ここ、阿波忌部の祖神こと阿波国一宮大麻比古神社であり、またその一部は南房総へと移住して安房国をたてた。これを安房忌部氏という。のちに忌部氏は中臣氏によって祭祀氏族の座を取って変わられ、歴史の表舞台から姿を消す。
「忌部氏の再興、ね」私は言った「まあ南朝の連中に打診もしていたわけだし、お前に声がかかってもおかしくない。だがそれだけではないだろう」
「そうや」美嘉は言った。「機会があったんや。見聞きしたことを、薫はんに伝えたんが、おおきゅうおわしましたかいな」
「見聞きしたこと……?」
「あんさんにも、一度ゆうたと思うけど」
「一度聞いた……?」そこまで聞いて私ははっとした。1年以上前、彼女が熱でうなされながらつぶやいていたうわ言を今思い出したのだ。「まさか、九州旅行の後に熱を出した……」
「そうや、そのときや」
その時、私と美嘉は九州へと旅行に行っていた。太宰府やらを訪れ、最後に宇佐八幡宮を参拝した後帰路についたが、帰路のフェリーの中で彼女は突然40度の熱を出した。3日後には熱は下がったが、彼女は寝込んでいる間、「徳島」という地名と、「降臨」「正統」といった言葉をつぶやいていた。その時はてっきり徳島に降臨し、仏陀の正統な後継者を名乗った某宗教家のことを言っているのだと思っており記憶の彼方に忘れ去っていた。なにせイタコのものまねをしたり、また別の某新宗教の歌を大声で歌うような奴だったからだ。だが違ったのだ。
「八幡神の神託か」私は言った「ろくなもんじゃない。そんなものを伝えたのか」
「信じるか信じないかは、彼ら次第や。問題があるんやったら、それを信じた彼らの責任や。彼らは、『徳島に正統な皇胤が降臨する』といった八幡神の言葉をそのまま信じはった。そしてこの反乱を起こすことを決めたんや」
「結局お前が焚き付けたのか」
「ちょっとちゃうな」美嘉は言った「丹生谷の連中は反乱を起こすつもりやった。それに判断材料を一つ加えただけや」
「それにしてもだが、なんでこの方法を取ったんだ。忌部氏を再興するなら、他にも方法はあるはずなのに。帝すらすげ替えようとする。成功したとしても、日本中がグチャグチャになるぞ」
「それがもう一つの目的や」
「なんだって?」
「ええか、この国はいま逼迫しとる。経済の停滞、人口の減少、移民問題。いずれも神国にあるまじき様を呈しとる」
「たしかに」
「建国から2700年、国産みよりは更にそれ以上の年月がたったこの国土いうもんは、もう熟みを通り越して、腐っとる。伊勢でも20年に一度遷宮を行っとる。建国以来変わらん、そして腐る一方のこの国に、神はまだおるんやろうか?」
私は答えなかった。言う通りかもしれなかった。
「うちは、一度この国を壊して、そして作り直す他道はないと思うとる。そのチャンスは、これしかなかったんや」
美嘉は言い終わると立ち上がった。
「まあ話はこれくらいにしとこか。丁度酒もなくなったことやし、つぎの持ってくるわ」
そう言って歩き出した。しかし彼女も話しながらいくらか飲んでいたため、酔っていた。ふらつき、畳の縁に躓いた。
とっさに私も倒れる彼女を支えようとしたが、彼女が転ぶのに巻き込まれ、重なりながら床に倒れた。まるで、彼女が私を押し倒しているような格好となっていた。
「いてて……」私は言った「大丈夫か?」
「大げさやな、なんともないわ」美嘉は私の上に乗っかった上体を起こしながら答えた。倒れたときの衝撃で、浴衣がわずかながらはだけており、胸元から中が見えた。
正式には浴衣を含めて和服を着るときは下着はつけない。下はわからないが、美嘉もそれに倣ってかブラジャーを付けてはいなかった。股間が熱くなるのがわかった。
それだけならよかった。だが倒れたときに我々は密着していた。丁度私の股間のあたりも、彼女の脇腹あたりにあたっていたのである。
すぐに彼女も気づいた。浴衣がはだけているのと、あたっているものに気づいた彼女は、一瞬顔を赤らめたが、すぐにニヤリと笑った。
「なんや、なに考えてはるんや?」いたずらっぽく言う。
「ええとですね、これはですね……」私はしどろもどろになりながら言う「まあ、あれですよ……ハハハ」
「どうしたいんや?」
そう言いながら彼女は手を私の股間の方へと伸ばそうとした。
あれ、これはもしかしてそういう流れなのだろうか。万が一彼女が怒っており、それを薫御前あたりに報告するとなれば大問題、セクハラ再犯として極刑となる可能性もある。だが彼女の行動はそんな心配とは裏腹で、予期しがたいものだった。
「ちょ、ちょっと!」私は言う。
「嫌か?」
「いや、嫌じゃないけど、でも」
そういったとき、彼女の手が止まった。急に彼女の顔が険しくなる。
あれ、何か間違ったこと言ったか、そう思った次の瞬間、彼女は人差し指を口に当て、「しゃべるな」というジェスチャーをした。そして私の耳元に顔を近づけた。
「誰かが見張っとる」美嘉は小声で囁いた「おそらく天井裏や。人か、式神かはわからんけど、気配がある」
「えっ」私が驚いて声を出そうとするのを、再び彼女は制止した。そして立ち上がると、いきなり九字を切り始めた。横に5回、縦に4回、中指と人差し指を立てた刀印で虚空を切る。そしてすかさず、印を結んで不動明王の真言を唱えた。
「ノウマクサンマンダ・バザラダセンダ・マカラシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン」
そして続けざまに印と真言を繰り出す。ややあって、天井裏から物音がする。彼女の顔は確信に変わっていた。そして最後に、両手を合わせて指を絡めた外縛印を結ぶと、再び不動明王の真言を唱えた。それで全てが終わった。
彼女は床にへたりこんだ。呼吸が荒かった。汗でびっしょりだった。
「多分これで大丈夫や」彼女はいった。「手応えから言うたら、それなりの力を持った式神や」
「密教系の呪術も仕えるんだな。いまのは不動金縛りの術だろ」
「そうや。まあ慣れとらんもんやから、余計に体力を使うけれど……」
そして呼吸を整えて立ち上がると、布団を収容するための押入れを開けた。だいたい押入れなんかに天井裏を覗くための作業穴がある。彼女は天井裏に入ると、ややあって紙切れをつまんで出てきた。
それは2つにちぎれた人形であった。
「誰のものかわかるか?」私は聞いた。
「見たことない文様が書いとるようや。わからんわ」
それを彼女は持ってきた袋にしまった。そして着崩れた襟元を直す。
「ともかく、今日はもう終いや。この宿の周りにも結界を張らなあかん。ウチはそれやってから眠るわ」
「そ、そうだな」私は言った。
「それと、使った盃とかやけど、洗っといてくれへんか。明日返してもらったらええ。片付けまでやっとったら、なかなか眠られへんし」
「片付けはやっとくから、結界をよろしく」
「おおきに」
彼女はそう言うと部屋を後にした。
彼女がいなくなってから、わたしは拳で床を叩いた。
憎むべきはあの式神である。いいところで邪魔をしやがって。さっきのことを思い出しているうちに再び股間が熱くなる。見れば、片付けるようにいわれた盃が転がっている。一方は彼女が口をつけて飲んでいたものだ。
私は背徳だと思いながらも、でも彼女はここに戻っては来ないという確信のもと、その飲み口を舐めた。余計に興奮し、右手が動く。気づいたときにはすべてが終わっていた。
あとに残ったのは、罪悪感と疲労感であった。しばらくそこに座りん混んでいた。
もちろん、ずっとそうしているわけにもいかない。よっこらせと立ち上がると、酒器の片付けを始めた。見れば、我々がころんだときの衝撃か、瓶子が倒れていた。
中に何も入ってなくてよかったなと思いながらそれを拾い上げた。そしてそれと盃を水道で洗いでいるとき、ふと気づいた。気づきは不安と恐れに、そして確信に近づいた。
これは、不吉な前兆ではないのだろうか。




