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丹生谷王朝興亡記  作者: 淡嶺雲
第1日 8月3日
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第2話 山道

 四国路はすべて山道である。いや、本当に。

 駐車場を出てすぐの一車線のトンネルを抜けると、すぐに急カーブに差し掛かる。道は山や谷に沿って蛇行し、西へと向かっている。左手には山肌が迫り、右手は断崖である。峠よりの長い下り坂である。シフトレバーを二速に入れ、右へ左へとうねりながら峠を下ってゆく。次第に雨足が強くなる。

「ああ、ここは本当に国道なんですね」助手席に座った彼女はつぶやいた。菅傘と荷物は後部座席に乗せ、白衣も脱いでいる。貴重品を入れた山谷袋はかかえている。汗でぬれた半袖のTシャツが、体のラインに張り付いていた。彼女は細い腕を伸ばしていたが、日に焼けている。そしてその伸ばした手は青い逆三角形の標識を指さしている。「おにぎり」と呼ばれるそれ以外に、この険路が国道であることを示すものは何もなかった。「来た道もひどい道でしたが、こちらの道もなかなか」

「どこから登ってきたんですか? まさか歩きでは?」私はハンドルを切りながら尋ねた。

「まさか。阿波池田からバスです。ちょうど善通寺で報せを受けて、そのまま土讃線に乗りました」

「報せ、ですか」

「そうです。荷物を剣山の神社で受け取り、それを丹生谷に運ぶように言われました」

 なるほど、あの荷物は剣山山頂の神社で受け取ったのか。では、中身は何だろう? 詮索すべきか、せざるべきか。そう悩む間にも、彼女は続きを話す。

「わたししか動ける人がいないとのことで役目を仰せつかったのです。ですが時利あらず、西からくる雨雲に峠越えを阻まれることとなりました。 騅の逝かざる奈何すべき、といったときにあなたに出会ったわけです」

 そうして彼女は私の方を見つめた。

「本当に感謝しています。ありがとうございます。ええと……すいません、恩人の名前をお伺いしていませんでした」

「僕の名前ですか? 」

「ええ」

水澤肇(みずさわはじめ)、といいます」

「水澤さん、本当にありがとうございました」彼女は頭を下げた。上半身もやや前屈したため、シートベルトが胸の谷間に食い込んでいた。そして彼女は山谷袋から、小さな赤いお札を取り出した。

「私は、浅葱(あさぎ)みどりと申します」

 札にはその名前が書かれていたようだが、それがどんな字を書くのか確認したのは後のことだった。雨の中対向車が来ないことを祈りつつ、山道でハンドルを握っていた私にそれを確認する余裕はなかった。

 ともかく一瞥しただけであるだけでわかったのは、彼女が渡したのが赤い納札であることだった。納札とは遍路の霊場で、巡礼の挨拶代わりに納める紙のお札である。四国では巡礼回数によりランクがあり、赤は八回以上二十四回以下の巡礼者であることをあらわしている。

 つまり彼女、浅葱みどりさんは、少なくとも四国を八周しているのである。

 これは純粋に驚きである。この若さで四国を八周しているとは。いや、もちろん不可能ではないのだが。

 本当ならうやうやしく受け取り大事にしまうところであるが、なにしろ運転で余裕がない。それを察したのか彼女は「こちらに入れておきますね」と言うとそっと札をグローブボックスにしまった。

「あ、すみません……四国は、何周されたんですか?」

「十三周です」彼女は言った「今度は十四周目を、逆打ちではじめたところでした」

「まさかと思いますが……」

「すべてが徒歩ではありません、もちろん」彼女は言った「小学生の頃、祖父と何周か。その時は車でした。その後一人で歩くようになりました。一年前からは大学を休学して、西国を巡った後、十三周目を終えました」

 二十歳ほどであろう、という私の読みはどうやら当たっていたようだ。

 いや、そんなことよりも、若い女性が一人でこのような巡礼に出かけているのか。何が彼女をそうさせたのか。決して安全とはいいがたい巡礼を、なぜ続けるのか。それらを問うたところで、彼女は答えてくれるのか。そんなことを考えていたとき、彼女は思いがけない言葉を口にした。

「水澤さんも遍路をされているのですよね」

「どうしてそれを?」わたしはきょとんとした。一度も、自分が遍路を回った話などしていなかったからだ。

「車に、鶴林寺のシールが貼ってありました。あれ、駐車場代を払えば貰えるやつですよね」

 確かにその通りであった。無謀な計画で剣山越えを試みる天然かと思ったが、思いのほかこの人の洞察力は鋭いのではないだろうか

「そうですね、ええ」私ははにかみながら答えた「車で一周だけ、ですが」

「回数や手段を謙遜することはないですよ。祈りしだいです」彼女は笑って答えた。

そのような話をしながら走っているうちに、やがて山道は開け、川沿いの二車線の快走路にさしかかった。雨足はなおも強いままではあるが、ずっと走りやすい。アクセルを踏み込んで、車のスピードを上げた。

 だが、もちろん四国の国道である。そのような道は長くは続かない。再び細い山道へとさしかかる。二車線道も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。

「……諸行無常」彼女はつぶやいた。

 そのあとの会話がどのような内容であったか、子細には思い出せない。もし思い出し、書き留めたとしても、今回の事件の記録にとって、あまり意味のあるものにはならないと思う。

 ともかく、このあと我々はいくつかの集落を抜け、いくつかの峠を越えた。途中、対向車と困難な離合を経験しながら、旧丹生谷村へと向かっていった。素掘りのトンネルを抜け、峠を下ると、上から地名が書き直された道路標識が目に入った。市町村合併で新しく誕生した町の名前が書かれており、おそらくもとは丹生谷村の入り口を示していたものだったのだろう。

 なおも細い険路を下っていくと、温泉があることを告げる看板があった。

「次の分かれ道を右です」彼女は言った「そこが、私が今晩泊まる予定の宿です。空室もあればいいのですが」

「予約はしてるんですよね?」

「もちろん。水澤さんの部屋のことですよ」

「ああ、僕のことは気になさらず」私は答えた「どこか探しますよ」

「周辺にほかに旅館はないと聞きます」

「それでは残念ですが、あなたを送り届けたら、阿南へと向かいましょうかね」

 丹生谷地域の観光も楽しみにしていたが、宿がなければ仕方がない。それにこの大雨である。滝も、濁流を流しているだけで、見応えが劣るかもしれないと思った。

「それは申し訳ないですよ。なにか御礼ができればと思っているのに」

 彼女は申し訳なさそうに言った。

 だが、実際問題、御礼が欲しいという気持ちはほとんどなかった。助手席に若い(といっても同年代であるが)の女性を乗せてドライブできただけでも、満足である。

 そういううちに、分かれ道についた。左折すれば広い国道に出るが、右折で狭い県道へ入っていく。谷川に沿った道を数分も走らぬうちに、再び温泉宿を示す看板が見えた。看板で左折すると、道は川岸へと下っていく。細い道を抜けた先に駐車場があった。雨雲の下、あたりはすでに薄暗く、建物の明かりが明るく感じられた。雨が水面を打つ川べりに、その温泉宿は立っていた。


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