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丹生谷王朝興亡記  作者: 淡嶺雲
第3日 8月5日
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第43話 礼服


「さて、皆さん」みどりさんは言った「さきほどの話しに戻りましょう。明日の段取りを説明したいと思います」

「それならば私はこれで失礼します」上野原先生はつぶやくように言った「捕虜の健康状態を確認するよう下知がありましたから。明日の儀式に私は関係ないでしょう」

「先生、ご苦労さまです」みどりさんは頭を下げた。上野原先生もお辞儀をすると、部屋を立ち去った。

 みどりさんは抱えてきていたプラスチック製のキャリングケースから紙の束を取り出した。それを現場にいる我々に配っていく。

「明日の即位式は我々が正統な王朝であることを内外に宣言するものです。場所は行宮の黒瀧寺本堂。Youtubeを通じでの中継のディレクターは少納言殿にお願いします。本田外記はそのサポートです。空撮用のドローンも用意していますから、利用してください」

「わかりました」

「さて一枚目が参加者の一覧です。皆さんには古式に習った格好をしていただきます」

「古式とは束帯のことですか」私は尋ねた。束帯は平安貴族の正装である。袍や大口袴を着用し、冠を被り、笏を持つ。今上が即位式で束帯を着用されたのは記憶に新しい。

「違います」みどりさんは言った。一枚めくるように私達に言った。「古式とは、江戸時代以前のことです。たしかに一部の方は束帯ですが、主上を始めとする儀式の中核たる方々は大陸風の装束です。これが主上のお召し物です」

 次のページの図には天皇の即位式の装束という表題で、衣装が描かれていた。赤い大袖を着て、同じく赤の裳を履き、頭に冕冠を被っている。この上衣と下衣をあわせて袞衣といい、さらに冠を加え袞冕という。大袖とはガウン状の上衣であり、左右の型にそれぞれ日月、両袖に龍、上背部に北斗七星、そして体の前後に山、華虫(雉)、宗彝(祭器に描かれた虎と猿)、火といった模様が刺繍されている。また裳とは下半身をぐるりと覆った下衣であり、ロングのプリッツスカートといった趣である。これにもまた藻、粉米、黼(斧の形)、黻(「亜」字形)といった模様が刺繍されている。これら12のめでたいシンボルを袞冕十二章という。また冕冠とは皇帝の冠であり、頭に直接のせる冠の上に四角い天板が付き、そこから簾ように連なった玉が垂れている。またその前部からは八咫烏の掘られた日章の飾りが上へ付きだしている。まあ、おそらく言葉で説明してもわかりにくく実物を見ていただいた方が早い。Googleなどで「聖武天皇」と検索すれば袞冕を身にまとった聖武天皇の画像を見ることができる。日本画家、小泉淳作氏による御影であり、東大寺蔵である。また、先帝退位の直前に京都で展示された即位図にも天皇の唐風装束が描かれており、それを見た読者の方もいるかも知れない。

 みどりさんは続けて言う。

「奈良時代以来、近世以前では、即位式は大陸風の装束が使用されています。変化したのは明治天皇以降です。私達は正しい天皇の即位というものを見せつけなければなりません」

 日本第二の勅撰史書「続日本紀」には『天平四年正月乙巳朔、大極殿に御して朝を受く。天皇始めて冕服を服す』とある。天平4年は西暦732年であり、聖武天皇の治世であった。聖武天皇が初めて唐風の儀礼を取り入れ、天子自身も唐風の衣装を身にまとったのである。そしてそれは孝明天皇まで、すなわち「神武創業にもとづく」をスローガンとした維新政府が唐風習俗を廃止するに至るまで継続した。明治帝の即位に際し新政府は和風の儀礼を創作し、それが今日に至るまで続いているのである。

「我々も装束を整えなくてはなりません。それ以後のページが公卿や文官武官の装束です。残念ながら予算の都合上、全員に唐風装束を用意はできませんでした。先のページの印のついている方々が唐風装束、残りが和装です」

 幸か不幸か、私の名前の前には印がついていた。取りあえずは唐風装束を着ることができるのである。闕腋袍という脇を縫わない上衣を着て、掛甲を着用し、弓や剣をつけている。みれば武官の中では最高位であるらしい。というのは、近衛大将である権中納言・薫御前は外弁であり、宣命使の役を務めることになっていた。また、兵部卿宮は、これはまた親王代表として高御座の側に控えることとなっていたのである。

そしてその次には配置図。気になったのは入道殿のポディション。右大臣だと聞いていたが、表の中では左大臣とある。聞けば即位に伴い摂政となることにあわせ、左大臣となったのだという。彼は高御座のすぐ隣にいることになる。権大納言正三位の元村長は据え置きで、内弁筆頭として、儀式の統括に当たる。彼は本殿西の仮設テントに席がある。なお、空席となった右大臣であるが、ここにはある元国会議員が丹生谷への帰順を申し入れてきたため、従二位とともにその位階を与えた。まだ関東におり、太政官メンバーの他にはその名前は極秘だという。

 配置図では我が妹と先の大宮麗子は、剣璽を奉じて天皇の御下に侍ることになっている。その他数人の名前が女官としてあがっていた。妹をはじめとした女官は和装であり、いわゆる十二単である。

 さらにこれに加えて、各種幟が立っている。

 配置を確認してみよう。紫宸殿代わりの本堂が紫宸殿または太極殿となり、そこに昇殿するのは主上以外には摂政とサポートの女官(内侍らである)、そして内親王であるみどりさんである。

 南庭には臣下が控える。南庭には左右に武官が控え、その筆頭が私だという。向かって左の方(西の方)にはテントがあり、儀式の進行を監督する内弁・権大納言(元村長)が控える。 

 さらに南庭を彩るのが幟である。萬歳と書かれた登りが左右一対、その他にも八咫烏などの描かれた色とりどりの幟が並ぶ。

さらにやや南に控えるのが外弁、すなわち太政官でもやや下級の貴族であり、薫御前が担当する。天皇の詔書を代読する宣命使が即位を告げ、全世界は皇徳にひれ伏すのだという。

「しっかりと確認しておいてください。残念ながら予算と場所の都合で古式をそのまま再現することは叶いませんでしたが、東京政府にひけをとらない即位式をするつもりです」

「はい!」妹は敬礼していた。「しっかりお勤めを、させていただきますわ!」

「頼もしいです」みどりさんは言った。「では個別の打ち合わせを進めましょう。中将殿、少納言殿は残ってください。あとの方々は別室で段取りを説明したあと、今日は終了とします」

 大宮幼女が妹の手を引く。一緒に本田外記も退室した。あとに残されたのは、私と、宮様と、ぷちれもん先生であった。


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