第40話 式神
旭美幌は嘆いていた。
上司は消えた、職務は増えた。さらに自衛隊の青年将校からよくわからない話をされた。自衛隊の連隊長の前でプレゼンをした。胃がひっくり返りそうで、安中散を飲んでいた。それでも足りなかった。自衛隊の宿営地のトイレで嘔吐しながら、彼女は思った。
連隊長の前でプレゼンの直後、内務省抜刀隊の面々と退治した。どの人もカタギでない雰囲気がした。この小娘め、とメンチを切られた気がした。それでも内務大臣からの命令では仕方ないと、無い胸を張って訓示をしたが、結局恐怖を克服することはできなかった。いや、彼らが騒いでいたわけではないのだが。
トイレから出て、ふらつきながら自身に充てがわれた天幕へと戻る。すると水と胃薬が盆に乗って簡易ベッド脇の机の上に置かれている。例の少女二人が、天幕の中で待っていた。青いゴスロリ服を着た少女がタオルを渡してくれた。ありがとうと言って口元を拭ってから、その水をとりあえず飲んだ。また口元を拭った。ベッドに腰掛ける。少女たちは心配そうに見ている。
そういえば先程連隊長の前に立ったときも、抜刀隊に訓示をしたときも、この二人はついてきていた。だが周りは何も言わなかった。まるでそこには何もいないように、あたかも見えないかのように無視していたのである。
「それはそうだよ」青い少女は言った。「見えてないんだもん」
「そうだよ」赤い少女が重ねて言った。
見えてないのか。じゃあいま私はよそから見ればどう見えるのか。虚空と会話をしているのだろうか。そもそもこいつらは一体何者なのか。どういうわけで見えないのか。
尋ねようと思ったとき、ふと気づいた。そもそもこの子たちの名前も知らない。自分は名乗ったのに。
「真名を名乗るわけにはいかないんだ。それを知ってるのはご主人様だけ。名前を知られると使役されちゃうんだよ」名を聞かれた赤い少女が言った。「だから、真名がばれないように、普段はご主人様は私達を別の名前で呼ぶんだ。私は珊瑚。それでこっちが」
「瑠璃だよ」青い少女が言った。
「オーケー、珊瑚ちゃん、瑠璃ちゃん。あなた達は一体何者なの?」
「護法童子だよ」珊瑚が言った。「式神、って言ったほうがわかりやすい?」
なるほど、式神であるから姿は見えないというわけか。これで納得、となるわけがない。
「一体どういうことなのかまったく理解できません」
「ご主人様から聞いていないんだっけ」今度は瑠璃が言った。
「聞くも何も有無を言わせず先輩に連れてこられ、そしてあの山であなた達を呼び出した」そう、呼び出したのだ――信じがたいことではあるが。「そしてあの自衛隊の人に今度は無理やり連れてこられてこういう事になっている。聞く暇も考える暇もないわよ」
そう。今日は出来事が多すぎる。この子たちのことも、ほとんどさっきまで考えてはいなかった。横にはいたものの、その違和感を感じるような余裕もなかった。ましてや、この子たちの正体なんて、考える暇なんてあるわけないのだ。
だがやっと一段落ついた。胃薬のおかげか、少し胃痛もやわらいできた気がする。ここで相対して、やっと彼女たちのことを考えることができる。疑問を浮かべることができる。
「そう、それは聞きたいことはたくさんある。和田先輩がなんで式神を作り出して使うのか、そもそもそんなことをできる和田先輩はなにものなのか。なんで私が先輩の後任で特別公安部の部隊の取りまとめをする必要があるのか」
「作り出したんじゃないよ、私達は拾われたんだよ」第一の疑問に訂正を加えながら珊瑚は答えた。
「そう、拾われた」瑠璃がリフレインする。
「拾われた?」
「そう。私達はもともとは紀伊山地に住む精霊だった。その私達を見つけて、この姿を与えて、使役するようにしたのがご主人様」
「そう。ご主人様は私達の真名を知っていた。だから私達を見つけて、捕まえて、主従関係を結ぶことができたんだ」
我は汝の名を呼ぶ、汝は我が物なり。
和田先輩はこの子たちの名前を知って、そして使役している。紀伊山地の中でこの子らを見つけた。これが意味するところは明白だ。
「ご主人様は、山伏だったんだよ」珊瑚が言う。「その力も折り紙つきのね」
「そう。数多くの霊能者があつまる紀伊山地でも、ばつぐんにすごかった」瑠璃が言う。「そしてその力がお国のために役に立つって考えた人がいた。それでご主人様を陰陽寮にスカウトしたんだ。ご主人様は熊野別当の称号をもらった」
そう。政府は霊能者を支配体制に再び組み込もうとした。そして紀伊山地の修験者をその影響下におさめるため、和田に熊野別当の称号を与え、山伏たちを統括させようとした。
中世に歴史の彼方へと消えた熊野別当の称号。それが再び世に姿を表したとき、称号を有していたのは衰退した別当家の末裔などではなく、まったく別の人物が有していた。和田である。
なぜ和田であったのか? これは未だ正確な答えのない質問の一つであるが、ここに一つ有力な答えがある。和田は熊野国造の家系の姓であり、和田博行自身も熊野国造の子孫を名乗っていた。神武東征に先立ちヤマトに降り立った天神ニギハヤヒ、その末裔が熊野国造・和田氏なのである。
珊瑚が続けて話す。
「そんなとき今度は内務省が超常現象に対する部隊を作るっていいだした。そして白羽の矢が立ったのがご主人様。陰陽寮にいた陰陽師や道士、修験者のなかでも、術に優れて、剣の腕もたつご主人様はぴったりだった」
「そう。そして真っ先に四国に送られた。内務省は不穏分子の存在を疑っていたんだ」瑠璃が付け加えた。
「そして、3つ目の疑問!」珊瑚が右手を伸ばして指を三本立てて言う。「どうしてお姉さんが選ばれたかというと」
「というと?」
「そればっかりは私達にもわかんないよ。ご主人様もなんにも言ってなかったし。ねー」
「ねー」二人は顔を合わせて言った。
「わかんないって……」旭さんは困惑する。
「まあでも、力が少しはあるわけじゃない」「そうだね、力はあるよね」
「そこなのよ」旭さんは言う「わたしは修行したこともないし、霊感があるって思ったことなんて一度もない。それがどうしてあなた達を呼び出して、見ることができるのか、見当もつかないのよ」
はぁ、と旭さんはため息を付いた。どっと疲れが押し寄せてくる気がした。
「お姉さん、溜息ついたら幸せが逃げていっちゃうよ」「そうだよ、魂が抜けちゃうんだよ」
「ため息ごときで逃げていく幸せなんて無いのと同じよ」そもそも現在不幸のどん底であるわけだから、ちょっとやそっとの幸せなど役には立たない。「魂は抜けているかもしれないわね」
「まあお姉さんも落ち着こうよ。明日も早いんだから、早く寝たほうがいいかもしれないよ」
そのとおりかもしれない。厄介事は解決しないが、とにかく今は死ぬほど疲れている。汗でブラウスがベトベトであるが、そんなことはもはやどうでも良かった。ベッドに倒れ込むとすぐに目を閉じた。
ああ、なんでこんなことになったんだろう。国家一種合格、内務省入省を果たしたのに、気がついたらこんなことに。消費者庁への配属はまあ省内人事として受け入れるとしても、これだけは受け入れられない。なんでこんな面倒事に巻き込まれるんだろう。そうだ、彼らがこんなタイミングで反乱を起こしたからだ。直ぐ側の内務省の支庁にいたばっかりに……。
ふと彼女の頭に疑問が生じた。不穏分子の存在を知って、神山に支庁をつくり、特公を送り込んで、そこまでしておいてなお、どうして丹生谷の反乱を防ぐことができなかったのか。どうして政府は、相手の主力が霊能者であることをあらかじめ知っていたかのように、この反乱を見据えたような超常現象対策をしてきていたのか。そもそも政府はなんで機動隊などではなく初手で自衛隊を投入したのか。どうして内務省や陰陽寮の霊能者をはじめから使わなかったのか。
ええい、そんなこと今考えても仕方がない。明日にしよう。
頭に浮かんだばかりの数々の疑問は睡魔と疲労のために泡沫のように消え去った。代わって彼女をヒュプノスが支配した。すぐに彼女は寝息を立てて眠り始めた。
二人の少女はそんな旭さんに毛布をかけた。そしてしばらく彼女を見つめていたが、やがて天幕から出ていったのであった。




