第37話 回心
「わたくしの、処遇ですか?」千歌は言った。「お言葉ですがお兄様、お兄様こそご自身の立場をお分かりではない。お兄様は逆賊に与しているのですよ。朝敵なのですよ」
「千歌、さっきも言ったように、まずは話を聞きなさい。これには道理がある」
「道理?」
「そう、彼らには、反逆するだけの道理があるんだ」
「陛下に逆らうことに正当性がどこにありますか。『非理法権天』といいましょう、そんな道理は通りません!」
「道理いうんはうちらの決めることやない」美嘉は言った「お天道様が決めはる。うちらはそれに従うとるだけや」
「なんですか、貴女は」千歌は美嘉を睨みつけた。「またそうやってお兄様を誑かそうとする。今度も貴女ですか、お兄様をこんなことに引き込んだのは」
「水澤はんが自分で加わると言わはった。うちはなにも勧めとらん」
千歌はそれを聞いて固まった。手が震えていた。驚愕の視線をこちらに向けながら、震える声で話す。
「お兄様……? いったいそれは……?」
「順を追って話すから、まずはおちついて……」
「お兄様の莫迦!」私が言い終わらないうちに、千歌はその場を飛び出していた。幸いなのか、不幸なのか、周囲には静止するための衛士はいない。熊野別当の護送に付き添っていたからだ。私も追いかけようとしたが彼女の方が足が速い。彼女はすぐに神社の階段を駆け下りた……駆け下りようとした。
さきほど気を失っていたのが響いたのか、朝からの強行軍が響いていたのかはわからない。彼女は階段の中ほどで足を踏み外し、そのまま階段を転げ落ちた。
「千歌!」私は駆け寄る。
千歌は階段下の国道脇に倒れていたが、すぐに起き上がった。「いたたたた」と言いながら腕をさすっている。頭や頸は大丈夫らしい。
その時気づいた。国道脇のスペースは神社の駐車場も兼ねていた。私が先ほどここに来るために使った車の隣に、もう一台駐車しているのが見えた。黒塗りの高級車である。
そしてその車の脇に、一人の少女が立っている。白いワンピースを着ている。よく見知ったお方だ。
少女は、千歌に歩み寄ると、声をかけた。
「大丈夫ですか?」
千歌はきょとんとしているようだった。自分の目の前にいる少女の正体を計りかねているようだった。ただ彼女はそのたたずまい、目つき、そしてオーラから、その少女がただものではないことを直感的に悟っていた。
「は、はい」千歌は年下に気圧されつつ、そう答えた。
「ならよかったです」少女は言った。
そして少女に続くようにして、車から降りてきた2人の護衛がやってくる。少女は、私たちのいる方、すなわち神社の方を見上げた。
もちろんここでぼーっとしているわけにはいかない。私と美嘉は階段を駆け下りると、そこで少女に頭を下げる。美嘉は最敬礼をとっていた。はたから見るとどういう光景だろうか。我々二人が、大人の従者2名を引き連れた10歳ばかりの少女に平身低頭しているのである。
「お出迎え、ありがとうございます」彼女は言った。「顔を上げてください」
「神社に、御用でしょうか」美嘉が尋ねた。
「ええ。太政官府である、朝議に出席するためにやってきました。それに先立って、高祖にご挨拶しなくてはなりませんから」
たしかにである。ここに祀られている十二権現は天照大神やイザナギ、イザナミも含めた神格である。また安徳帝も祀られている。
「それではわたくしめがご案内しましょう」美嘉は言った。こういうときだけは東京官話を話すのである。確かに美嘉の京都弁では厭味ったらしく聞こえるから、東京官話の方がまだましである。
「よろしくおねがいします、神祇伯殿」少女は言った。そして二人と、護衛は階段を登っていく。
あとには、私と千歌が残された。
「お兄様」目を丸くしたままの千歌が尋ねた。「あのお方は、どなたですか。あんなに愛らしく、上品で、それでいて大人びた物言いのお方に、私はいまだお会いしたことがございません」
「あのお方が主上だ」私は言った「我々の新しい天皇陛下だ」
彼女は絶句した。さらに目を見開き、私を見上げた。
「あ、あの子が、この丹生谷の反逆者の、首魁、ということですか」
わたしは首を縦に振った。正確には首魁というか、検非違使別当や右大臣入道に利用されているだけかもしれないが、それはこの際置いておく。政府首班は主上なのである。
「なるほど、あれだけの愛くるしさ、上品さ、大人びた物言い、それがあればたしかに人は付き従うでしょうし、天皇にも担ぎやすい」
千歌は言う。先ほどとはうってかわって冷静である。やはりどこか頭でもぶつけたのだろうか。
「ですが、それらの要素は後天的にも獲得できます。『マナーが人を作る』と英国の諺にも言います。ですが……」彼女はそこで一瞬だけ言いよどんだ「ですが、あのオーラ、それだけは捏造はできません」
そして彼女は立ち上がった。そして
「お兄様、わたくしは、あの子を天皇だなんて認めたくありません。ですが、あのオーラだけは、本当に生きた人間から感じたことはありません。あれは、まさしく、現人神です」
そして千歌は今度は視線を階段の上にやった。主上の姿は見えない。美嘉が祝詞を奏上する声が聞こえてくる。
「『などてすめろぎは人間となりたまひし』、この疑問がわたくしをずっと苦しめていました。我々は天皇陛下のために生き、働き、戦い、そして死ななくてはなりません。ですが、神であることをやめた天皇陛下のために、本当に我々は命をかけられるのか? 自身は神ではないと言っている天皇陛下を勝手に神だと崇めることは、失礼なのではないか? これが本当に疑問でありました」
そして彼女は私の方に振り返る。
「その疑問がいま氷解したのです。やはり天皇陛下は神であられなければならない!」
そういうと、彼女は両手を掲げた。
「もはや、歓呼をもって応えるほかはないでしょう。あの方こそ、玉座にふさわしいと」
「千歌……」
私は喜びの涙をこらえていた。彼女の回心が嬉しいのもあるが、それよりめんどくさい説得を省けて幸せであるし、検非違使別当らからの折檻を受けずに済む。
「お兄様、お兄様と一緒に、あのお方にお仕えしとうございます」
「え、ああ、そうか」私は彼女の申し出に頷いた。「ポストがはやく決まるよう、相談するよ」
「ありがとうございます。あれほど愛らしく、それでいて神々しい方にお仕えできるのは、なんという喜びでありましょう」
「ははは」私は半笑いで相槌を打った。ともあれ、最悪の事態は回避できた。いや、別の極端な形になっただけかもしれないが。少なくともこれで我々兄妹の当面の安全は保障される。
だが彼女はまだ主上についての秘密を知らなかった。先にも説明したが、主上は付いているのである。この事実を彼女が知るのはもう少し先のことであった。




