第24話 開戦
黒瀧寺の行宮を発ち、私たちは上那賀地区へと向かった。
上那賀地区は旧丹生谷村を南北に貫く国道193号線と東西に貫く195号線が交わるところである。みどりさんは私に運転するように指示した。提示された地図に従い車を走らせ、山を下る。茅野さんは山上に残ったままだ。主上からの叙任がまだであったし、主上の近辺を守護する人物も欲しかったのだ。
車は193号線に出ると、昨日の旧村役場前や神社のそばを通過すると、川に沿って南下する。みどりさんは携帯電話で戦況報告を受け、指示を出している。それによるとヘリコプターが何機か霧を突破して侵入に成功した様子である。昨日の偵察機に引き続き防空体制はどうなっているのか。みどりさんは勝手に戦端を開かないように厳命すると電話を切った。そして車をとばすように言った。急かされるようにアクセルを踏み込むが、直線の道ではない。その速度も限度があるものだ。
やがて193号線は195号線と交わる。谷川は川幅と水かさを増し、右手にはそれにかかる真新しい柚子色の下路アーチ橋が見えた。その隣には黄色いトラス橋がかかっていたが、通行止めになっている。おそらく旧道だろう。
そして、離合困難なトンネルを抜けると、目の前に大きく広がる水面が現れた。県内一の貯水量を誇る上那賀ダムである。その湖岸を走り抜け、再びトンネルを抜けると上那賀地区であった。
みどりさんは前線基地である旧上那賀中学校に車を停めるように命じた。そのとおりに、わたしは谷川の斜面に張り付くように立っている学校へと車を進めた。
グラウンドの端に車を停め、みどりさんが車から降りた時である。車のエンジンキーを抜こうとした私の耳に、遠くの方から爆発音が響いてきた。急いで車外に出ると、みどりさんは唖然としている。轟音は山間に響き渡る。砲弾の音ではない。もっと大きな、何かが爆発し、崩壊した音だ。
こんな状況聞いていない、みどりさんはそう苦虫を潰したように言った。
その時校舎の方から一人の女性が歩み寄ってきた。巫女服に身を包んだその姿は見紛うことはない。神祇伯、斎部美嘉その人である。
みどりさんは美嘉を睨めつける。
「神祇伯殿、いまの爆音は何でしょうか。私は戦端を開くなと言ったはずです」
「これは失礼しました」慇懃無礼に頭を下げながら返事をする。アクセントは京言葉である。「みなさんの到着が遅いから、先に対策を始めさせてもらいました」
「対策?」
「検非違使別当はんからの命令どす。いやこの場合は近衛大将いうたほうがええですな。195号の、鷲敷側のトンネルを爆破したんどす。これで自衛隊は、行軍を阻まれます」
「よくそんな時間があったな」私は言った「自衛隊が攻め寄せてまだ半刻も経たないぞ」
「昨日仕掛けたんよ。あんさんが寝てる間に」
私はバツの悪そうな顔をせざるを得なかった。
「私は聞いておりませんが」みどりさんが言う。
「宮様が北へと別れはったあと知らせがあったんよ。結局相手を見つけられんかったんは同じことやけど、うちらの方が少なくとも仕事はしたわけやな」
頭にくる口ぶりだ。こいつが何を知っているというのか、何を偉そうに言うのか。昨日の戦いを知らぬ者の言葉などなにが意味をなすのか。みどりさんは噛み付いた。
「だがなんですか、侵入したのはヘリコプターといいます。道を爆破したところで、肝心の結界が守られぬようでは」
「そうどす。結界を作るんは法力がないとでけへんけど、維持だけなら普通の坊さんや禰宜かてできる。そう思とったんやけど、ちと荷が勝ちすぎたようどすな。お大師はんの修行した土地や言うことやから、期待しとったんやけど」
「いい加減にしなさい!」みどりさんは美嘉の襟元に掴みかかった「それ以上の侮辱は許しません。僧侶が頼りないと思うのなら、どうしてあなたが陣頭に立ち結界を守護しないのですか。それに防衛は軍の専権事項、あなたが口を挟む場ではありません」
「そうですか」美嘉は言う。迫られているというのに顔色ひとつ変えない。これが以前から気色悪いのである「まあ、ええでしょう。でも、うちに命令しとるんは近衛大将はんや。そっちにも文句言ってほしいですわ」
「まってまって」見るに見かねた私が割って入る。そのような権限も立場もなく、さらに痴情のもつれも相まって事態をややこしくしかねない気もするが、ここは介入せざるを得ない。
「落ち着いてふたりとも、今はそういうときですか。現にほら、聞こえませんか」
私はそう言って、東の山の方を指さした。みどりさんは美嘉から手を離す。プロペラの音が聞こえたからだ。
次第に大きくなるエンジン音。そして山のかげから一機のヘリコプターが出現した。
呆然とする我々を下に見て、私たちのいる集落――当然学校は集落の中にある――の上空をヘリコプターは旋回した。ヘリコプターは降りては来ない。
次の瞬間、ヘリコプターの扉が空いた。そしてそこから、何かが撒き散らされた。
化学兵器? 生物兵器? 一瞬思ったがどちらも違った。それは多数のビラであった。
撒き散らされたビラははらはらと我々の上に振ってくる。任務を終えたヘリコプターは、踵を返して、東の方へと飛び去った。
降ってきたビラの一枚を拾う。それには次のような言葉が書かれていた。
丹生谷住民ヘ告グ
一、今カラデモ遅クナイカラ日本国ヘ帰レ
二、抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ逮捕スル
三、オ前達ノ親類ハ国賊トナルノデ皆泣イテオルゾ
八月五日 防衛大臣
なんとも悪趣味な文面である。いったい考案したのは誰であるか。
こちらを動揺させようという算段であろうがそうもいくまい。このような伝単でなびく人間がここにいるとは思えない。
それよりも問題は実際にヘリが侵入してきたことである。自衛隊は結界を突破し、我が陣地の中まで兵を輸送できる能力を持っているということである。
ヘリを見送りながらみどりさんは言った「連絡では四機の軍用ヘリコプターが侵入したと聞きました。あと三機はどうしているのでしょうか」
「ああ、それも手は打っとります」美嘉は言った。また勝手な真似を。
「今度はなにをされたのでしょうか、神祇伯殿」もはや呆れ返るようにみどりさんは言う。
「敵のヘリコプターはやや下流の川辺に着陸しとります。三十人ばかりの兵が降りてきたと」
「…つ!」
みどりさんが狼狽した。完全武装の正規軍三十人が侵入している。そもそも丹生谷はまともな軍隊を持たない。わずか人口四千人ばかりの過疎地の村にどれだけの徴兵人口がいるというのか。動員数はどれだけ多く見積もっても数百。自衛隊に圧されればひとたまりもなく、侵入させないことが戦略ではなかったか。
だがそこにすでに三十人が侵入した。これは蟻の一穴だ。
みどりさんは倒れそうになったが、ぐっとそれをこらえた。大樹ひとたび倒れなば、皇室の運はたいかに。
「それで、戦況は?」みどりさんは覇気のない声で言った。
「我が軍が圧倒しとります」
みどりさんが顔を上げた「いま、なんて」
「我が軍の優勢、と申し上げたんどす」
「しかし」みどりさんはうろたえるように言う「まともな武器がありません。いまはまだいくつかの猟銃があるくらいの軍隊です、兵の訓練も終わってはいません。それに、前線の人々には私は戦端を開かぬよう厳命しております」
「ええ、そうですな」美嘉は言う「でも、人は戦っとりません。人ならざる以上、命令無視はこらえてくらはりますか?」
「どういう意味ですか?」
「成仏しきれんひというのはおるんですよ、ことに無念な人らは」美嘉は言った「平氏の霊いうんは、ことに無念なんやろな、いまだにそのあたりにいてはる。ときに声も聞こえる」
新鬼は煩冤し旧鬼は哭し、天陰雨湿のとき声は啾啾たり。
なるほど、無念の戦死を遂げた平家の武者の霊を使っているとでもいうのか。これまで幾多の怪奇を引っ張り出してきているといえども、これはお伽噺も真っ青だ。
美嘉は続けて言う。
「もちろんいわゆる地縛霊だけではおまへん。今は八月、お盆も近い。黄泉の門も緩む頃合いや。はじめはまだこの辺におるんだけを使う予定だったんが、つられて降りてきはった方々もいてはりましてな、いまや数百の軍勢や。黄泉比良坂への道は、すでに開いたと見てよろしい。明日の儀式も安泰や!」
美嘉は両手を空に掲げて笑い声を上げた。
私とみどりさんは唖然としていた。亡霊を使うだって、しかも明日の儀式とは?
「斎部殿、本当にするつもりなんですか、明日の儀式を」はっとして真顔に戻ったみどりさんが尋ねる。
「当たり前や、そうでないと天子とはなれへん」
「しかし、非人道的ではなかと思うのです。他者の霊を自身の体に入れるなど」
「なにを言うてはりますか。大嘗祭かて、歴代天皇の魂を降ろして取り込む儀式いいます。うちらがするのも同じこと。やり方が違うだけや」
うつむくみどりさんを尻目に、美嘉は続けた。
「それより行かんでええんですか、前線を指揮しに来はったんちゃうんですか」そして東の山を指さした。「あの向こうの川辺に降りてます、ちょうど変電所のあたり」
そうである。我々の任務は前線の指揮である。急がねばならない。
わたしはみどりさんの手を引くと、車に乗り込んだ。そして車を東へと走らせる。
車を出すとき、美嘉に「もう終わっとるかもしれんけど」と言われたが、知ったことではない。指揮官はともかく行かなくてはならない。
道すがら、みどりさんは尋ねた。昨日のことなど忘れているあのようだった。
「さっきは無様なところを見せてしまいました。しかし、あの物言いは我慢ならないでしょう。そうは思いうませんか?」
「ええ」私は答えた「しかし昔からああなのです。もはやどうしようもない。奴を雇った薫御前の考えがわからない」
「昔からですか」彼女は訝しげに言った「前も気になりましたが、一体斎部どのとはどういう関係なのですか」
「大した関係ではないですよ、いずれ話します」私は話をはぐらかした「ええ、もう着きますよ」
目の前の道路は山に沿って走り、右手には川、左手には山肌が迫る。川の向こう側もやはり山。そしてその向こうには霧がかかっている。
その霧の手前の河原に、三機、ヘリコプターが着陸しているのが見えた。すでにエンジンは切られているのか、プロペラは回っているようには見えない。
おかしなことだと思った。通常、エンジンは切らずに、すぐ飛び立てるようにしておくのではないかと思った。それに兵士の姿も見えない。
そのときみどりさんの携帯が鳴った。みどりさんが出ると、相手はすぐ目の前の前線を守る守備隊であるようだ。みどりさんの顔が驚愕で歪む。
相手が伝えてきたのは、驚くべき内容だった。私も開いた口が塞がらなかった。
一体信じられるだろうか? 十数人からなる素人の守備隊が、陸上自衛隊の一個小隊三十名を撃破し捕虜とし、そしてヘリコプター三機を戦利品として得たというのである。




