第147話 戦後
気が付いたとき、私はベッドの上にいた。
ああ、目が覚めたのか。にしても酷い夢を見たものだ。長い夢だったような気がする。あれ、どうして枕元に千歌が座っているのか。どうして喜んだり泣いたりしているのか、全くわからなかった。そんな大きな声を出さないでくれ、頭に響く。私は頭が痛いのだ――頭が痛い?
そこで完全に目が覚めた。
私は病院のベッドの上にいた。たくさんの管が自分につながっている。
「お兄様、お目覚めですか、よかった、本当によかった……」
そして病室のドアが開く。入ってきたのは若い女性であった。見たことはあるものの、どこで会ったかははっきり思い出せなかった。
「旭さん、お兄様、目が覚めたのですわ」
千歌はその女性の方を振り返って言う。彼女もよかったと安堵した顔をした。
「よかった。和田先輩に報告しないと」
和田だって!
私は恐る恐る尋ねた。
「ええと、すいません、あなたは? そしてここは……」
すると女性はあっ、と声を上げて、申し訳なさそうに答えるのであった。
「すいません、名乗り忘れていました。私は内務省警備局特別公安課、旭美幌といいます。ここは大阪警察病院です」
結論から言おう。丹生谷は敗れた。
私がダムの爆破に巻き込まれ、気を失った直後であった。濁流が本田氏や自衛隊に襲い掛かったというのである。千歌は――なんと木に登って――難を逃れたらしいが、そこからはもはや丹生谷勢は戦うどころではなかった。瞬く間に制圧され、流されなかったものはその場で逮捕――あるいは銃を離さなかったものは射殺――された。坂本君は行動不能でいたところを捕縛されたらしいが、本田氏は悠久の大義に殉じた。千歌も「生きて虜囚の辱めを受けず」などと喚いていたが、武器も持っておらず非戦闘員とみなされ、とりあえず保護されたようである。私も同様に気を失っているところを確保された。
一方対岸に渡っていた部隊――すなわち小野塚さんたちであるが――その行方は杳として知れていない。我々の捕縛を終えたころには忽然と姿を消していたらしい。廃道を踏破し逃げ延びたか、それとも流されたか、それはわからなかった。
そしてみどりさんと主上、そして薫御前である。
3人は宝剣を抱えたまま流れの中に消えた。もちろん内務省も自衛隊も3人の姿と宝剣を必死になって探したらしいが、今に至るまで見つかってはいない。
みどりさんが見つからない、という知らせを聞いたとき、私は悲しむと同時に、かすかに希望を感じた。彼女のことである。まだ見つかっていないということは、生きている可能性があるということだ。もしかすると宝剣と主上を連れて落ち延びたのかもしれない。そうだ、そうに決まっているのだ。あれくらいで死ぬわけがない。
そう私は、自分自身に言い聞かせたのであった。
***
美嘉と再会したのは私が目を覚ました3日後だった。
彼女はその時まだ集中治療室に入っていた。人工呼吸器は外れたところだと言うが、まだ食事はとれず、鼻からチューブが入っていた。次会ったのはさらに1週間後であり、管もほとんど取れ、リハビリと取り調べを進めようとしていたところであった。
「しかしまあ、まさかぷちれもん先生が……」
私は美嘉のベッドサイドで椅子に座って呟いていた。
意識の戻った美嘉の口から話された事実について、聞くものは皆絶句していた。唯一胸をなでおろしていたのは自衛隊であり、あのダムの爆発が自衛隊の砲撃ではなく、革命を掲げる爆弾魔のしわざであったと判明したからであった。ダム決壊の結果、下流の鷲敷や相生から阿南市に至るまでの広い範囲が洪水に見舞われていた。これがもし自衛隊の責任であれば、組織の存続の可否に関わる大問題となるところであった。
なお、もともとダムにいた職員や、本田氏の弟――本田外記――は、ダムの倉庫に縛り上げられて閉じ込められていた。ダムが爆破される直前、ダムを占領するのに成功した第一空挺が彼らを解放していた。爆発に巻き込まれ2名が殉職したが、捕らえられていた民間人――そう政府ははじめ報じていた――は全員無事であった。本田外記は兄の運命を知って涙を流したという。
「うちもだめかと思うたわ」美嘉ははあとため息をついて腹のあたりを(布団の上からであるが)撫でた「まあでも、上野原先生が助けてくれたんや、ほんまに感謝せなあかんな」
そう言って窓の外を眺めた。
そのときドアをノックする音。返事より早く、ドアが開く。
入ってきたのは和田であった。
「もう面会時間は終わりですか?」
私は言った。彼は首を横に振った。そして
「お邪魔だったかな?」
と言った。見れば、二人の式神もついて入って来ていた。
「いえ、べつに」
私は答えた。和田は美嘉の方に話しかけた。
「法務省と話し合って話がまとまったよ。司法取引として受け入れると」
「それはよかった。少なくとも内乱罪の共同正犯にはせんいうことやな。死刑は御免や」
「起訴は免れないだろうが、執行猶予までつけれるかもしれない」
「戦時の捕虜いうことにしてくれたらもっとええんやけどね」
だが死刑回避だけでも大したものであった。
捕らえられた丹生谷の元首脳部の中で、最高位にいたのは美嘉であった。入道殿や元村長は黒瀧寺とともに消え、そして薫御前もみどりさんも行方をくらましていたからである。厳罰を科すべしと言って首脳部全員に内乱罪の共同正犯を適応しようという動きもあったらしいが、それはなんとか回避された。そして美嘉はクーデター未遂勢や上諏訪解放戦線についての情報提供――つまり司法取引――によってさらに減刑を得ようとしていた。
なお、これは松本さん、千曲さん、そして小泉さん姉弟も同じであった。情報提供を土産に、減刑を勝ち得ることが出来そうということである。
私はどうか。これが極めてアレなことであるが――なんと、丹生谷に捕らえられ、そして保護された一般人であるとされていたのである。これは千歌も同様であった。和田に聞くとにやりと笑うだけであったが、奴が書類を操作したに違いないと確信した。
なお今、元クーデター勢と書いたが、ご承知の通り、クーデター勢力は一網打尽にされたらしい。一部行方不明になった小隊が――丹生谷攻撃に参加していたらしいが――もあったったものの、幹部自衛官数名が14日のうちに捕縛され、すべては未遂に終わった。中には第一師団の幕僚団も含まれていたという。だが一部は取り逃がしたらしく、たとえばN議員などは警察が議員会館に踏み込んだ時、居室に「探さないでください」とかかれた手紙を残して忽然と姿を消していた。
「内閣は責任を取ると言って衆院解散、総辞職。周囲はてんやわんや。まったく、この責任をどう取ってくれるものやら」
和田が冗談めかして言う。そして私の方に視線を向けた。
「あなたもです。あの時、賀名生でいてくれていれば」
「それはできない話ですよ」私は言った「しかし、あなたも内務省の役人でしょう、そんな話、ここでしていいんですか」
「大丈夫、ここには結界を張ってあります」
はあ、抜かりないことで。
「水澤さん、現状で宝剣を有す資格はあなたにある。これは忘れないでほしいのです」
「しかし、みどりさんたちにもあったのでは? 彼女らは僕の祖先よりも古く……」
「いわゆる直系男子の家系ではないですよ」
私はきょとんとした。
「でも、安徳天皇の子孫でしょう?」
「安徳天皇の子孫、それには間違いない」美嘉が言った。「やけれども」
「やけれども?」「知っていたのか」
私と和田の声が重なる。彼と見つめ合った。
そして美嘉の方を見る。
彼女は慌てるように言った。
「いや、変な意味やない。やけれども、Y染色体が違うんや、たぶん」
彼女は私だけでなく主上やみどりさんの染色体も調べているらしかった。
「じゃあどこかで直系男子でなくなっているということか?」私が言った。
「いや、もっとあれや。その……」彼女は言いよどんだ。しかし続けた「安徳天皇に、Y染色体がなかった、いう可能性が高い、いうことや」
「どういうことだ」
「安徳天皇が女やったいうことや」
私は和田の方を見た。彼は頷いていた。
「これは平家物語にも記載があるんだよ。安徳天皇は女帝であった、そう言う可能性が高いんだ」
「ちょっと待て、まさか君も知っていたんだな」
視線を美嘉に向ける。彼女は頷いた。
「なんということだ。では万世一系ではない」
「落ち着いて聞くんや」美嘉は言った「やけれども、こうしたらすべてのつじつまが合うんや。ダムの決壊のことも」
「……川の流れは龍に例えらえる。まさか?」
「そうや」美嘉は言った「女の安徳天皇は成仏できへん。でも、生まれ変わって男になった。やけれども、安徳天皇の前世はなんや?」
――平家物語? だったかな、曰く、ヤマタノオロチ。
「ヤマタノオロチや!」美嘉は叫んだ「それが女帝、そして童子になって、そして濁流の中に消えた!」
ああ、言いたいことは理解した。伝説では安徳天皇は宝剣とともに壇ノ浦に沈む。これは、水の神である八岐大蛇が自らの剣を取り戻したことなのだ、と。
だが伝説は現在進行形。
「龍はまず女になり、そして童子になった」和田は言った「法華経の示す通りだよ」
――龍女成仏。女人は成仏できないと言われていた時分、龍王の娘が一心に祈ったところ、ナニが生え、男に化生し、龍女の身ながら成仏できたという。主上も、それとおなじというのであろうか。
「国宝を持ち出すまでか?」美嘉が言った。
国宝とは童子切安綱のことである。酒呑童子――伝説では八岐大蛇の子ともいう――を切り伏せた刀である。
「それほどまでだったということさ」
和田は言った。それをうけて美嘉ははははと笑った。
ふっ、を私は席を立った。
「どこか旅に出たいそうだね」和田は言った「海外渡航以外なら規制しないけど」
「海外逃亡なんてしないですよ」私は言った「ただ、祈って回りたい」
「祈って?」和田は言った。
「ええ。しばらくは四国にいます。千歌をよろしく」
そう言って、私は、美嘉の病室を後にした。